6、密かな暗転
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二人は昔よりも少しだけ息切れを感じながら日が沈んだ頃に丘を登った。目の前に広がったのは、昔と同じ景色だった。
「何も変わっていないのね……」
「俺たちも、な」
「いいえ。私たちは変わりました。だって…………」
ウォルファは二つの指輪が紐で一つにまとめられているカラクチを撫でながら、ヒジェに微笑みかけた。
「…………そうだな。そなたはもう、届かぬ人では無くなった。」
彼は目を細め、あの日の言葉を思い出した。
───俺の夢は、この都を見渡すことができる王様の次にこの国で偉い男になることだ。だがそなたに出会って、そなたに恋をしたから、もうそれも必要ないと思っていた。けれど、俺はあらゆる奴に不釣り合いだと蔑まれ、結果的に気づいてしまった。そなたが傍でずっと笑っていてくれる未来を掴むためには、その手を離さずに済む方法でしか実現できないと。
「あのときの俺は間違ってはいなかった。むしろ、正解だった。」
彼はウォルファの指に自分の指を絡めると、その唇にそっと口づけをした。あのときは愛らしいその小指に口づけしたことを思い出すと、彼は本当に夢のような日々を送っていることに改めて気づかされた。
「……………愛している。ずっと。」
「私も、ずっとお慕いしています。ずっと、お側にいたい。」
二人は見つめあうと、もう一度口づけを交わした。そんな二人の幸福はまたあのときと同じように、月のウサギとウォルファとヒジェだけが知っているのだった。
ウォルファとヒジェは手を繋ぐと、町の大通りを人目も気にせず歩いた。
「もう、誰にも気を遣うことはない。そなたと俺は、夫婦なのだから」
「………はい。」
二人は夜遅くに帰宅すると、夜食の用意を頼むのを忘れていたことに気づいた。
「あ……………」
「まぁ、食べずとも良いか…………」
そうヒジェが言った瞬間、彼の腹が盛大に鳴った。
「………………参ったな」
二人は顔を見合わせて大笑いした。ウォルファはヒジェに部屋へ行っておくようにと伝えると、久しぶりに雑炊を作り始めた。
「ええと…………材料は…………」
さすがチャン家の厨房なだけはあって、食材は豊富だった。使っても文句を言われなさそうなものをざるに乗っけると、彼女はさっそく調理に取り掛かった。
出来上がった雑炊は、ヒジェがよく夜勤のときに食べていたものと同じ味がしていた。彼は義州の時のように、一口でウォルファが作ったものと言い当てた。食べ終わった彼は、腹をさすりながら上機嫌に言った。
「うん………旨い。そなたはやはり俺の妻だ」
「そうでしょうか?旦那様には勿体無いのでは?」
「何だと?こいつ、すぐ調子に乗りおって………」
彼は笑いながらウォルファの頬をつねると、空いた方の手で服を脱ぎ始めた。
「ちょっ…………な、何をしているのですか!?」
「ふん。お仕置きだ。こっちへ来い。」
ヒジェは彼女の手を引っ張ると、そのまま座布団に押し倒した。
「あ…………あの…………せめてお布団を…………」
「知らん。…………好きだ。」
ヒジェの細いようで意外としっかりしている鎖骨が、下着のはだけた部分から見え隠れする。彼はうっすら微笑むと、ウォルファを片手で押さえつけたまま、明かりを吹き消した。部屋が一気に暗くなり、月明かりだけが部屋を照らす。月光を背に受けたヒジェの端正な顔立ちが、ウォルファの胸を高鳴らせる。
「……………これでも今から布団へ行くと言うのか?」
「……………言いません。」
「では、良いな。」
そう言ったヒジェは、彼女のチマに指を絡めて帯を解いた。
朝目が覚めたヒジェは、ほぼ全裸で座布団の上に大の字で寝転がっていた。彼はまだ寝ぼけているのか、ウォルファを手で探りながら探している。だが、どこにもいない。彼は慌てて飛び起きると、パジだけを穿いてから大急ぎで部屋を飛び出した。
「ウォルファ!」
「あら、あなた。今起こしに行こうと思っていたのに………」
「目が覚めてそなたが居ないゆえ、驚いたぞ。」
ウォルファは彼に部屋へ戻るように促すと、朝食の膳を持ってこさせた。
「それより、私はあなたがいつ起きるか心配でした。」
「何故だ?」
「今日は会合でしょう?しかも、うちの家でしょう?なのに旦那様が寝坊してしまったら、私は禧嬪様にお顔向けできません。」
彼は一気に眠気が覚め、むしろ青ざめた。
「かっ、会合…………い、今は何刻だ!」
「大丈夫です。早起きしておきましたので、準備の方は順調ですよ。お召し物のお着替えも、きちんと間に合うように算段済みです。」
慌てるヒジェを落ち着かせたウォルファは、まずは食べるように促した。
「ほら、食べてください。まずは準備を一つずつ終わらせていきましょう」
「………そなたはもう食べたのか?」
彼は少しだけ恨めしそうな声で尋ねた。するとウォルファは微笑みを浮かべながらチェリョンを呼んだ。すぐに彼女は膳を持ってやって来ると、ウォルファの前に置いて去っていった。
「旦那様を差し置いて、私が食べるとでも?」
「そ、そなた……………一体いつから起きていた?」
「さぁ………早朝ですね」
「それを今まで食べておらんとは…………!身体を気遣え!俺の子を産むやもしれぬ身というのに…………」
心配してくれる夫に少しだけ喜んだウォルファだが、敢えて澄まし顔で答えた。
「私、まだ懐妊していませんから。」
「これだけ四六時中交わっておれば、そのうち出来る」
「やだ、もう…………使用人たちに聞こえたらどうするんですか………!」
いろいろなことを思い出したのか、ウォルファの冷静な顔がとたんに真っ赤に染まる。するとチェリョンとイェジンが外から大声で返事をした。
「聞こえていますよー」
「ほら…!!もう!!旦那様の馬鹿!」
「お、おい。怒るなよ…………分かった分かった………」
彼女はヒジェの肩を何度も手のひらで叩いた。一見平凡でありふれた普通の夫婦喧嘩のように見えるが、これが二人の夢だった。
「うふふ。夫婦喧嘩しちゃった。」
「そうだな、ウォルファ。夫婦喧嘩は夫婦でなければ出来ぬからな」
ヒジェは笑いながら膳の最後の一口を口に入れると、着替えの支度をするように命じた。すると、ウォルファはチェリョンが持ってきた服を彼に着せ始めた。
「………じっとしていください」
「ふっ………………お、おう……………」
赤と黒を重ねた服は、赤い官服に腹黒い心で自分の本心を塗り固めている彼の姿にも見える。ウォルファは襟元などを整えると、少し離れたところからヒジェを眺めて満足げに何度も首を縦に振った。
「うんうん、すごくいいわ。」
「では、支度に取りかかるとするか」
「はい。」
そう言うヒジェに、彼女は笑顔で元気よく返事をするのだった。
「さて………………」
ウォルファはすっかり準備が出来上がった様子を見て満足そうに微笑んだ。ヒジェも隣で眠そうな顔をしながら立っている。
最初に来たのはやはりユンだった。
「お前、早すぎるだろう………」
「叔父上から、党首は最後に来ると聞いていたが、私は先に行かないとな。能力のない党首だと侮られるよりましだ」
「ユン……………」
彼はヒジェから視線を離し、ウォルファの方を見た。
「お久しぶりです、ユン様。」
「ああ、久しぶりだ。…………また、きれいになったな」
「え?」
二人を気遣って小さな声で呟くように言った彼の言葉は、ウォルファには届いていない。もちろん、ヒジェにも聞こえてはないなかった。ユンは適当にはぐらかすと、苦笑いをしながら腕を横に振った。
「………いや、気にするな。それより、もてなしの方を頑張るのだぞ」
「ええ。頑張りますね」
彼女は会釈をすると、さっそくやって来た奥様方の接待を始めた。その姿がとても遠く感じられ、ヒジェは目を細めた。
「……………妻になったことが今も不思議でならぬ」
「そうだな。私も信じられん」
「何だ。それはどういう意味だ。おい、こら!ユン!」
ユンは不可解な笑みを浮かべると、そのままさっさと歩きだした。慌てて後ろから追いかけるヒジェは、何が何やらさっぱり理解できていなかった。
会合が終了すると、ウォルファは奥様方からもらった手土産の帳簿を確認しながら確かめていた。すると、一つの箱が空っぽの状態で出てきた。
「あら?これ……………兵曹判相様のところの蟹……よね?」
彼女が帳簿と空の箱を交互に見ていると、チェリョンが向こうの方ですっとんきょうな声をあげた。
「ひぇぇ!!」
「ど、どうしたの!?」
「お、奥様………蟹が脱走しました………」
「えっ?あの蟹、生きてたの!?」
「はい。受け取ったときに中で動いていたので………」
二人は顔を見合わせて目を丸くした。
「…………じゃあ、今あの蟹はどこに………?」
「さぁ……………」
一方、ヒジェはユンと飲んでいる途中に水を飲みに行こうと部屋を出たところだった。すると、彼は見覚えのないものが廊下を歩いているのを目にして足を止めた。
「……………何故こいつがここに……?」
それは、蟹だった。悠長に廊下を歩いているそれを見たヒジェは、自分が酔っているのではと思い、そのまま台所へ向かった。
「おい、チェリョン。水をくれ…………って、ウォルファ。こんなところで何をしている?」
「ああ、ヒジェ様。大変なの。頂き物の蟹が逃げたの」
その話を聞いて、ヒジェは自分が幻覚を見たのではなく、本当に蟹が廊下を闊歩していたことに気づいた。
「お、おい。その蟹なら俺の部屋の前を横切っていったぞ!!」
「えっ?嘘!捕まえないと!あなたも手伝って」
「え?お、俺も!?」
編みかごを引っ付かんだウォルファは、目撃証言のあった場所に急行した。その騒がしさにユンも気づいて部屋の外に出てきた。
「なんだ。なんの騒ぎ……………か、蟹!?」
彼は目の前を物凄い速さで走っていく蟹を見ながら、次にウォルファが編みかごを手に持ってそれを追いかける構図に、何が起きているのか把握しかねた。
「…………蟹…だよな?あれ。」
「そうだ。貰い物の蟹が脱走した。ウォルファは夕食を追いかけ回しているというところだな」
ヒジェが涼しげに説明をしていると、目の前に蟹が再び逃げてきた。ウォルファは彼を見つけるや否や、かごを投げて叫んだ。
「あなた!捕まえて!」
「えっ?俺!?」
ヒジェは一瞬蟹と同じがに股になると、目を見開いてウォルファを見た。
「早くして下さい。」
「は、はい………………」
彼は渋々蟹に恐る恐る近づくと、子供の頃のことを思いだし、かごを使わず素手で掴んだ。
「ほれ、捕まえた。」
だが油断した瞬間、蟹はヒジェの腕を太い爪で挟んだ。
「んんーーーーーっ!!?」
もはや声にならない叫びが家中に響く。見かねたユンはとっさに爪の左右を開いて蟹をかごに放り入れた。
「いったたたた…………あぁ…………アザが…………」
腕を抑えてうずくまるヒジェに近寄ったウォルファは、しゃがみこんで微笑んだ。
「ありがとう、あなた。」
「礼を言うならユンに言え………あいつが居なかったらあと一歩のところで、俺は確実に奴を柱で粉砕していた」
彼は立ち上がると、ユンの方を指し示して苦笑いした。
「…………夕食が無くなってしまうところだったのね」
「俺より夕食を心配するとは………」
呆れ返った様子のヒジェを見て、彼女は大笑いした。ユンも失笑している。
「このアホ嫁が。蟹とでも結婚しとけ。」
「酷いわ。あなただってバカ旦那の癖に」
二人がにらみあっていると、また蟹が隙をついて篭からにげだそうとしている。慌ててウォルファとヒジェは篭の上に二人で手をかざすと、底を支えながらゆっくり台所まで運んでいった。
「…全く。これほどまで元気な蟹だ。絶対旨いな」
彼はチェリョンによって茹でられている蟹を見ながら、舌なめずりをして笑った。
「これで身が詰まっていなかったら本当に旦那様に殺されそう………」
「そのとき蟹は死んでいる故、そなたが償え」
「ええっ!?嫌です!」
ウォルファはすねると、彼が先程蟹に掴まれた場所をつねった。
「いたたたたたた!!!そなた、痛いぞ!!」
「いつも寝不足にさせられているお返しです。」
そう言われて腹が立つ──ではなく、燃えるのがヒジェが普通の男と違う所である。もちろんそんなことに気づいていないウォルファは、勝ち誇ったように笑っている。彼はユンが居ないことを確認すると、裏口に回るや否や素早く唇を奪った。驚いた彼女は、息を止めてヒジェを凝視した。
「────ぷはっ……!なっ、なっ…………何するんですか!!」
「………好きだ。」
彼がもう一度口づけをしようとしたときだった。運悪くイェジンが空の膳を持って通りかかる。彼女は流石に驚いて食器を取り落としそうになった。
「わっ…………しっ、失礼しました………」
「だ、大丈夫………?」
「お、お二人をユン様がお待ちです。では、失礼します」
慌てて去っていくイェジンの後ろ姿を見て、ウォルファはヒジェの肩を肘で小突いた。
「使用人たちに変な印象が付いてしまうじゃない」
「もう遅いだろう………都では色々と有名だぞ」
「えっ?嘘でしょう?」
彼女は呆然とヒジェの真剣な顔を見つめた。だが彼が否定する兆候はない。ウォルファはため息をつくと、彼とは少しだけ距離を置いてユンの元に向かった。
ウォルファが部屋へ着くと、ヒジェはユンの表情を察して彼女に席を外すように命じた。部屋を出た彼女は首をかしげた。
「……変ね。何かしら」
だが立ち聞きするのも悪いと思い、彼女はそのまま自室へ戻っていった。
このとき聞いておけば。彼女はそのことを後々まで後悔することになる。
部屋ではヒジェが深刻な顔をしてユンの差し出した紙を見ていた。
「───内医院の外から薬を頻繁に調達しているようだな」
「……お前が何故それを知っている」
「勝手に済まないが、動向を調べた。近頃のそなたと禧嬪様はどこかおかしい。そこで色々調査させたところ、そなたと禧嬪様は世子様の主治医ではなく、ナム医官を用いているとか。……………私が気づいたのだ。他の者も怪しんでいるやも知れん」
ヒジェは肩を震わせ、目を充血させながらユンを見上げた。そこには普段の威厳ある危険な政治家、チャン・ヒジェは居なかった。そこにいたのは、ただの男であり、良妻の夫であるチャン・ヒジェだった。彼は声と唇を震わせながら動転した声で言った。
「たっ………頼む…………い、言わないでくれ。それは黙っておいてくれ………頼む…………」
「当然だ。公開するつもりはない。だが、隠す前に教えてほしい。一体何がある。これはそなたが万が一守りきれぬ場合に備えて、私がそなたとその妻を守るためでもある。」
「ユン……………」
彼は少しだけ考えると、言葉を詰まらせながら淡々と答え始めた。
「────世子様は、ご病気だ。」
「何?」
「しかも、治る見込みはもうない。」
「どこが悪い。別に病気持ちの東宮は珍しくないだろう」
そんなことかと流そうとするユンに、ヒジェは思わず声を荒げた。目からは大粒の涙が溢れている。
「違う!その病は……………その病は………世子様の世継ぎを残す機能に支障を来すものなのだ」
その告白に、ユンは絶句した。
「何……………?世継ぎを……望めぬ御身なのか?」
「そうだ…………どうすれば良い?これがばれれば、世子様と禧嬪様、そして南人はおしまいだ。」
「────淑嬪と西人の時代が………来るというのか………」
「ユン、俺はどうすれば良い?ウォルファを守ることが出来るのだろうか?あの恐ろしい王様を欺いた罪だ。一家揃って死刑になるのは目に見えている!」
両目から涙を流すヒジェに両肩を揺さぶられたユンは、呆然としながら床を眺めた。
「………………チャン・ムヨルにだけは絶対に知られるな。そしてこのことは妻にも話してはならん。これを知っているのは?」
「俺と禧嬪様と…………ナム医官と…………あとは奴の医女だ」
ユンは少し考えると、落ち着いた頃を見計らってヒジェの目を見て冷静に告げた。
「まずは本来なら、二人とも口封じすべきなのだが………仕損じて下手に追い詰めれば、こちらの不利になりかねない。ここは何もせず、黙っておれ。王になれば、適当に親戚の王族の息子を世子に据えれば良い。良いな、ヒジェ。絶対に、そなたは動くな。私に必ず相談しろ。必要とあらば何でもしよう。」
「ユン……………済まない…………済まない…………」
泣き崩れるヒジェを見て、ユンは思った。
───この男は、とんでもない苦しみを一人で抱え込んでいたのか…………
心のどこかでまだ傷む恋心が、彼を嫉妬に駆り立てている側面もあった。だが今のヒジェの姿を見て、彼は心の底から同情した。そして初めて誰かに芽生えた友情と、同じ人を慕う恋心が傷むからこそ、何としてでも彼に協力せねばと決意するのだった。
何も知らないウォルファは、裁縫をしながら鼻唄を歌っている。すると、普段は気にも留めない部分で針を指に刺してしまった。
「いたっ………」
血がゆっくりと散る花びらのように溢れる。手拭いで止血をしながら肩をすくめた彼女には、これが不吉な運命の前触れであることなど知る由も無いのだった。
「何も変わっていないのね……」
「俺たちも、な」
「いいえ。私たちは変わりました。だって…………」
ウォルファは二つの指輪が紐で一つにまとめられているカラクチを撫でながら、ヒジェに微笑みかけた。
「…………そうだな。そなたはもう、届かぬ人では無くなった。」
彼は目を細め、あの日の言葉を思い出した。
───俺の夢は、この都を見渡すことができる王様の次にこの国で偉い男になることだ。だがそなたに出会って、そなたに恋をしたから、もうそれも必要ないと思っていた。けれど、俺はあらゆる奴に不釣り合いだと蔑まれ、結果的に気づいてしまった。そなたが傍でずっと笑っていてくれる未来を掴むためには、その手を離さずに済む方法でしか実現できないと。
「あのときの俺は間違ってはいなかった。むしろ、正解だった。」
彼はウォルファの指に自分の指を絡めると、その唇にそっと口づけをした。あのときは愛らしいその小指に口づけしたことを思い出すと、彼は本当に夢のような日々を送っていることに改めて気づかされた。
「……………愛している。ずっと。」
「私も、ずっとお慕いしています。ずっと、お側にいたい。」
二人は見つめあうと、もう一度口づけを交わした。そんな二人の幸福はまたあのときと同じように、月のウサギとウォルファとヒジェだけが知っているのだった。
ウォルファとヒジェは手を繋ぐと、町の大通りを人目も気にせず歩いた。
「もう、誰にも気を遣うことはない。そなたと俺は、夫婦なのだから」
「………はい。」
二人は夜遅くに帰宅すると、夜食の用意を頼むのを忘れていたことに気づいた。
「あ……………」
「まぁ、食べずとも良いか…………」
そうヒジェが言った瞬間、彼の腹が盛大に鳴った。
「………………参ったな」
二人は顔を見合わせて大笑いした。ウォルファはヒジェに部屋へ行っておくようにと伝えると、久しぶりに雑炊を作り始めた。
「ええと…………材料は…………」
さすがチャン家の厨房なだけはあって、食材は豊富だった。使っても文句を言われなさそうなものをざるに乗っけると、彼女はさっそく調理に取り掛かった。
出来上がった雑炊は、ヒジェがよく夜勤のときに食べていたものと同じ味がしていた。彼は義州の時のように、一口でウォルファが作ったものと言い当てた。食べ終わった彼は、腹をさすりながら上機嫌に言った。
「うん………旨い。そなたはやはり俺の妻だ」
「そうでしょうか?旦那様には勿体無いのでは?」
「何だと?こいつ、すぐ調子に乗りおって………」
彼は笑いながらウォルファの頬をつねると、空いた方の手で服を脱ぎ始めた。
「ちょっ…………な、何をしているのですか!?」
「ふん。お仕置きだ。こっちへ来い。」
ヒジェは彼女の手を引っ張ると、そのまま座布団に押し倒した。
「あ…………あの…………せめてお布団を…………」
「知らん。…………好きだ。」
ヒジェの細いようで意外としっかりしている鎖骨が、下着のはだけた部分から見え隠れする。彼はうっすら微笑むと、ウォルファを片手で押さえつけたまま、明かりを吹き消した。部屋が一気に暗くなり、月明かりだけが部屋を照らす。月光を背に受けたヒジェの端正な顔立ちが、ウォルファの胸を高鳴らせる。
「……………これでも今から布団へ行くと言うのか?」
「……………言いません。」
「では、良いな。」
そう言ったヒジェは、彼女のチマに指を絡めて帯を解いた。
朝目が覚めたヒジェは、ほぼ全裸で座布団の上に大の字で寝転がっていた。彼はまだ寝ぼけているのか、ウォルファを手で探りながら探している。だが、どこにもいない。彼は慌てて飛び起きると、パジだけを穿いてから大急ぎで部屋を飛び出した。
「ウォルファ!」
「あら、あなた。今起こしに行こうと思っていたのに………」
「目が覚めてそなたが居ないゆえ、驚いたぞ。」
ウォルファは彼に部屋へ戻るように促すと、朝食の膳を持ってこさせた。
「それより、私はあなたがいつ起きるか心配でした。」
「何故だ?」
「今日は会合でしょう?しかも、うちの家でしょう?なのに旦那様が寝坊してしまったら、私は禧嬪様にお顔向けできません。」
彼は一気に眠気が覚め、むしろ青ざめた。
「かっ、会合…………い、今は何刻だ!」
「大丈夫です。早起きしておきましたので、準備の方は順調ですよ。お召し物のお着替えも、きちんと間に合うように算段済みです。」
慌てるヒジェを落ち着かせたウォルファは、まずは食べるように促した。
「ほら、食べてください。まずは準備を一つずつ終わらせていきましょう」
「………そなたはもう食べたのか?」
彼は少しだけ恨めしそうな声で尋ねた。するとウォルファは微笑みを浮かべながらチェリョンを呼んだ。すぐに彼女は膳を持ってやって来ると、ウォルファの前に置いて去っていった。
「旦那様を差し置いて、私が食べるとでも?」
「そ、そなた……………一体いつから起きていた?」
「さぁ………早朝ですね」
「それを今まで食べておらんとは…………!身体を気遣え!俺の子を産むやもしれぬ身というのに…………」
心配してくれる夫に少しだけ喜んだウォルファだが、敢えて澄まし顔で答えた。
「私、まだ懐妊していませんから。」
「これだけ四六時中交わっておれば、そのうち出来る」
「やだ、もう…………使用人たちに聞こえたらどうするんですか………!」
いろいろなことを思い出したのか、ウォルファの冷静な顔がとたんに真っ赤に染まる。するとチェリョンとイェジンが外から大声で返事をした。
「聞こえていますよー」
「ほら…!!もう!!旦那様の馬鹿!」
「お、おい。怒るなよ…………分かった分かった………」
彼女はヒジェの肩を何度も手のひらで叩いた。一見平凡でありふれた普通の夫婦喧嘩のように見えるが、これが二人の夢だった。
「うふふ。夫婦喧嘩しちゃった。」
「そうだな、ウォルファ。夫婦喧嘩は夫婦でなければ出来ぬからな」
ヒジェは笑いながら膳の最後の一口を口に入れると、着替えの支度をするように命じた。すると、ウォルファはチェリョンが持ってきた服を彼に着せ始めた。
「………じっとしていください」
「ふっ………………お、おう……………」
赤と黒を重ねた服は、赤い官服に腹黒い心で自分の本心を塗り固めている彼の姿にも見える。ウォルファは襟元などを整えると、少し離れたところからヒジェを眺めて満足げに何度も首を縦に振った。
「うんうん、すごくいいわ。」
「では、支度に取りかかるとするか」
「はい。」
そう言うヒジェに、彼女は笑顔で元気よく返事をするのだった。
「さて………………」
ウォルファはすっかり準備が出来上がった様子を見て満足そうに微笑んだ。ヒジェも隣で眠そうな顔をしながら立っている。
最初に来たのはやはりユンだった。
「お前、早すぎるだろう………」
「叔父上から、党首は最後に来ると聞いていたが、私は先に行かないとな。能力のない党首だと侮られるよりましだ」
「ユン……………」
彼はヒジェから視線を離し、ウォルファの方を見た。
「お久しぶりです、ユン様。」
「ああ、久しぶりだ。…………また、きれいになったな」
「え?」
二人を気遣って小さな声で呟くように言った彼の言葉は、ウォルファには届いていない。もちろん、ヒジェにも聞こえてはないなかった。ユンは適当にはぐらかすと、苦笑いをしながら腕を横に振った。
「………いや、気にするな。それより、もてなしの方を頑張るのだぞ」
「ええ。頑張りますね」
彼女は会釈をすると、さっそくやって来た奥様方の接待を始めた。その姿がとても遠く感じられ、ヒジェは目を細めた。
「……………妻になったことが今も不思議でならぬ」
「そうだな。私も信じられん」
「何だ。それはどういう意味だ。おい、こら!ユン!」
ユンは不可解な笑みを浮かべると、そのままさっさと歩きだした。慌てて後ろから追いかけるヒジェは、何が何やらさっぱり理解できていなかった。
会合が終了すると、ウォルファは奥様方からもらった手土産の帳簿を確認しながら確かめていた。すると、一つの箱が空っぽの状態で出てきた。
「あら?これ……………兵曹判相様のところの蟹……よね?」
彼女が帳簿と空の箱を交互に見ていると、チェリョンが向こうの方ですっとんきょうな声をあげた。
「ひぇぇ!!」
「ど、どうしたの!?」
「お、奥様………蟹が脱走しました………」
「えっ?あの蟹、生きてたの!?」
「はい。受け取ったときに中で動いていたので………」
二人は顔を見合わせて目を丸くした。
「…………じゃあ、今あの蟹はどこに………?」
「さぁ……………」
一方、ヒジェはユンと飲んでいる途中に水を飲みに行こうと部屋を出たところだった。すると、彼は見覚えのないものが廊下を歩いているのを目にして足を止めた。
「……………何故こいつがここに……?」
それは、蟹だった。悠長に廊下を歩いているそれを見たヒジェは、自分が酔っているのではと思い、そのまま台所へ向かった。
「おい、チェリョン。水をくれ…………って、ウォルファ。こんなところで何をしている?」
「ああ、ヒジェ様。大変なの。頂き物の蟹が逃げたの」
その話を聞いて、ヒジェは自分が幻覚を見たのではなく、本当に蟹が廊下を闊歩していたことに気づいた。
「お、おい。その蟹なら俺の部屋の前を横切っていったぞ!!」
「えっ?嘘!捕まえないと!あなたも手伝って」
「え?お、俺も!?」
編みかごを引っ付かんだウォルファは、目撃証言のあった場所に急行した。その騒がしさにユンも気づいて部屋の外に出てきた。
「なんだ。なんの騒ぎ……………か、蟹!?」
彼は目の前を物凄い速さで走っていく蟹を見ながら、次にウォルファが編みかごを手に持ってそれを追いかける構図に、何が起きているのか把握しかねた。
「…………蟹…だよな?あれ。」
「そうだ。貰い物の蟹が脱走した。ウォルファは夕食を追いかけ回しているというところだな」
ヒジェが涼しげに説明をしていると、目の前に蟹が再び逃げてきた。ウォルファは彼を見つけるや否や、かごを投げて叫んだ。
「あなた!捕まえて!」
「えっ?俺!?」
ヒジェは一瞬蟹と同じがに股になると、目を見開いてウォルファを見た。
「早くして下さい。」
「は、はい………………」
彼は渋々蟹に恐る恐る近づくと、子供の頃のことを思いだし、かごを使わず素手で掴んだ。
「ほれ、捕まえた。」
だが油断した瞬間、蟹はヒジェの腕を太い爪で挟んだ。
「んんーーーーーっ!!?」
もはや声にならない叫びが家中に響く。見かねたユンはとっさに爪の左右を開いて蟹をかごに放り入れた。
「いったたたた…………あぁ…………アザが…………」
腕を抑えてうずくまるヒジェに近寄ったウォルファは、しゃがみこんで微笑んだ。
「ありがとう、あなた。」
「礼を言うならユンに言え………あいつが居なかったらあと一歩のところで、俺は確実に奴を柱で粉砕していた」
彼は立ち上がると、ユンの方を指し示して苦笑いした。
「…………夕食が無くなってしまうところだったのね」
「俺より夕食を心配するとは………」
呆れ返った様子のヒジェを見て、彼女は大笑いした。ユンも失笑している。
「このアホ嫁が。蟹とでも結婚しとけ。」
「酷いわ。あなただってバカ旦那の癖に」
二人がにらみあっていると、また蟹が隙をついて篭からにげだそうとしている。慌ててウォルファとヒジェは篭の上に二人で手をかざすと、底を支えながらゆっくり台所まで運んでいった。
「…全く。これほどまで元気な蟹だ。絶対旨いな」
彼はチェリョンによって茹でられている蟹を見ながら、舌なめずりをして笑った。
「これで身が詰まっていなかったら本当に旦那様に殺されそう………」
「そのとき蟹は死んでいる故、そなたが償え」
「ええっ!?嫌です!」
ウォルファはすねると、彼が先程蟹に掴まれた場所をつねった。
「いたたたたたた!!!そなた、痛いぞ!!」
「いつも寝不足にさせられているお返しです。」
そう言われて腹が立つ──ではなく、燃えるのがヒジェが普通の男と違う所である。もちろんそんなことに気づいていないウォルファは、勝ち誇ったように笑っている。彼はユンが居ないことを確認すると、裏口に回るや否や素早く唇を奪った。驚いた彼女は、息を止めてヒジェを凝視した。
「────ぷはっ……!なっ、なっ…………何するんですか!!」
「………好きだ。」
彼がもう一度口づけをしようとしたときだった。運悪くイェジンが空の膳を持って通りかかる。彼女は流石に驚いて食器を取り落としそうになった。
「わっ…………しっ、失礼しました………」
「だ、大丈夫………?」
「お、お二人をユン様がお待ちです。では、失礼します」
慌てて去っていくイェジンの後ろ姿を見て、ウォルファはヒジェの肩を肘で小突いた。
「使用人たちに変な印象が付いてしまうじゃない」
「もう遅いだろう………都では色々と有名だぞ」
「えっ?嘘でしょう?」
彼女は呆然とヒジェの真剣な顔を見つめた。だが彼が否定する兆候はない。ウォルファはため息をつくと、彼とは少しだけ距離を置いてユンの元に向かった。
ウォルファが部屋へ着くと、ヒジェはユンの表情を察して彼女に席を外すように命じた。部屋を出た彼女は首をかしげた。
「……変ね。何かしら」
だが立ち聞きするのも悪いと思い、彼女はそのまま自室へ戻っていった。
このとき聞いておけば。彼女はそのことを後々まで後悔することになる。
部屋ではヒジェが深刻な顔をしてユンの差し出した紙を見ていた。
「───内医院の外から薬を頻繁に調達しているようだな」
「……お前が何故それを知っている」
「勝手に済まないが、動向を調べた。近頃のそなたと禧嬪様はどこかおかしい。そこで色々調査させたところ、そなたと禧嬪様は世子様の主治医ではなく、ナム医官を用いているとか。……………私が気づいたのだ。他の者も怪しんでいるやも知れん」
ヒジェは肩を震わせ、目を充血させながらユンを見上げた。そこには普段の威厳ある危険な政治家、チャン・ヒジェは居なかった。そこにいたのは、ただの男であり、良妻の夫であるチャン・ヒジェだった。彼は声と唇を震わせながら動転した声で言った。
「たっ………頼む…………い、言わないでくれ。それは黙っておいてくれ………頼む…………」
「当然だ。公開するつもりはない。だが、隠す前に教えてほしい。一体何がある。これはそなたが万が一守りきれぬ場合に備えて、私がそなたとその妻を守るためでもある。」
「ユン……………」
彼は少しだけ考えると、言葉を詰まらせながら淡々と答え始めた。
「────世子様は、ご病気だ。」
「何?」
「しかも、治る見込みはもうない。」
「どこが悪い。別に病気持ちの東宮は珍しくないだろう」
そんなことかと流そうとするユンに、ヒジェは思わず声を荒げた。目からは大粒の涙が溢れている。
「違う!その病は……………その病は………世子様の世継ぎを残す機能に支障を来すものなのだ」
その告白に、ユンは絶句した。
「何……………?世継ぎを……望めぬ御身なのか?」
「そうだ…………どうすれば良い?これがばれれば、世子様と禧嬪様、そして南人はおしまいだ。」
「────淑嬪と西人の時代が………来るというのか………」
「ユン、俺はどうすれば良い?ウォルファを守ることが出来るのだろうか?あの恐ろしい王様を欺いた罪だ。一家揃って死刑になるのは目に見えている!」
両目から涙を流すヒジェに両肩を揺さぶられたユンは、呆然としながら床を眺めた。
「………………チャン・ムヨルにだけは絶対に知られるな。そしてこのことは妻にも話してはならん。これを知っているのは?」
「俺と禧嬪様と…………ナム医官と…………あとは奴の医女だ」
ユンは少し考えると、落ち着いた頃を見計らってヒジェの目を見て冷静に告げた。
「まずは本来なら、二人とも口封じすべきなのだが………仕損じて下手に追い詰めれば、こちらの不利になりかねない。ここは何もせず、黙っておれ。王になれば、適当に親戚の王族の息子を世子に据えれば良い。良いな、ヒジェ。絶対に、そなたは動くな。私に必ず相談しろ。必要とあらば何でもしよう。」
「ユン……………済まない…………済まない…………」
泣き崩れるヒジェを見て、ユンは思った。
───この男は、とんでもない苦しみを一人で抱え込んでいたのか…………
心のどこかでまだ傷む恋心が、彼を嫉妬に駆り立てている側面もあった。だが今のヒジェの姿を見て、彼は心の底から同情した。そして初めて誰かに芽生えた友情と、同じ人を慕う恋心が傷むからこそ、何としてでも彼に協力せねばと決意するのだった。
何も知らないウォルファは、裁縫をしながら鼻唄を歌っている。すると、普段は気にも留めない部分で針を指に刺してしまった。
「いたっ………」
血がゆっくりと散る花びらのように溢れる。手拭いで止血をしながら肩をすくめた彼女には、これが不吉な運命の前触れであることなど知る由も無いのだった。