9、守るべきもの
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どこか重苦しい朝、ウォルファは独りで仁顕王妃の居所へ出向いていた。彼女は静かに目を閉じると、昨日の決意を頭の中で巡らせた。
───次は私があの人を守るの。女にしか出来ない守り方もあるのだから。
「シム・ウォルファ殿、王妃様が通しても良いと仰っております」
「ありがとう」
彼女は尚宮の取り次ぎを受けると、王妃の前に姿を現した。不意にウォルファは王妃が以前よりも痩せているような気がして、悟られないように注意深くその姿に見入った。
「………久しぶりだな、ウォルファ。そなたが独りで訪ねてくることは珍しい。何かあったのか」
「いえ、本日は王妃様とお話しをしようかと」
「そうか。」
あくまでもにこやかに笑顔を絶やさず淑儀の姉としての立場を装いながら、彼女は王妃と様々なことを話した。
「そういえば……私は廃妃生活が長引けばもう、都から移ろうと思っていたのだ」
「そうなのですか?」
「そうだ。クナク山の麓にチョン・イングク殿がお持ちの簡素な家があるので、そちらへいこうと思っていたのだが……」
王妃はそこまで言うと、ウォルファに微笑みかけた。
「そなたの妹に救われた。今はよかったと思っている。……実は、私はそなたが羨ましい」
「え……?」
王妃には似合わない突然の羨望の言葉に、彼女は思わず目を丸くした。
「私は、この交泰殿に居るだけの者だ。お飾りの王妃なのだ。王様に女性として心から愛されたことは……一度もない」
「王妃様………」
「だが政敵ではあるが、領議政のそなたに対する愛が誠に羨ましい。あれ程無条件に愛されれば、幸せになれる気がする」
愛されることに不安を覚えるウォルファと、愛されたことが一度もなく、愛されたいと願う王妃。その見事な反意性に、ウォルファは悲しみを覚えた。
「ああ、気にしないでほしい。もう……良いのだ。諦めているのだから………」
「………愛は一様に測れるものではありませんから、きっと王妃様もいつかお分かりになります。王様は王妃様を大切にしておいでですから」
「………なら、良いのだがな」
彼女は王妃のあまりに悲しそうな表情を見て、思わず慰めたいと思った。だが、この人が夫を苦しめている事実は変わらない。いったい何が正しいのだろうか。その疑念が少しだけ、ウォルファの心をかすめていくのだった。
先日からの問題で機嫌の悪いヒジェは、いかにも不機嫌な顔をして宮殿を歩いていた。すると視界に、寂しそうな顔をしながら木に登っているクムが飛び込んできた。彼は少し考えると、そのまま見なかったことにして通りすぎようとした。だがもう一度振り返って見たクムの表情があまりにも悲しそうだったので、ヒジェは仕方がなく彼の登っている木の根本にやって来た。
「───何か悩みごとですか?王子様」
「ヒジェ叔父上!なぜここに?」
「遠くから、見ておりましたよ。王子様のお顔色が優れないもので……」
そう言うと、クムは突然いつもとちがってすっかり鬱ぎこんでしまった。
「………叔父上は、私が世子侍講院に入るのを反対されていますか?」
「王子様、それは………」
「叔父上、私は勉強がしたいのです。もし、王族でなければ……王族でなければ成均館にも入れたし、学友も作って楽しく学べたのでしょうか?」
ヒジェはその洞察力に言葉を失った。王位継承権のない王子は高等すぎる教育を受けてはならないことが暗黙の決まりなのだ。そして決して心の底からの友はできない。ヒジェのかつて唯一の友だった東平君も、同じことを言っていた。
───自分は、ただの王子だ。なのに、何も出来ない。いや、ただ王子であるだけ……という言葉が正しいのかもしれない。
あのときヒジェは何も言えなかった。そのせいで彼はあれ以来、東平君と話をしてはいない。それが悔しく思え、彼はクムの手をそっと握った。
「………決して、本心を見せないでください。」
「叔父上…?」
「叔父であっても、妻であっても、友であっても……どんなに王子様が絶対的な信頼を置く人であっても、決して本心を見せてはなりません。それが、王子なのです。」
「叔父上……叔父上は信じてはならぬのですか?叔父上はこんなに優しいのに!」
首を横に振るクムに、ヒジェはそれでも苦言を止めなかった。
「王子様。あなたと私は異なる党派に属しているのですよ?何故信じるのですか?」
「叔父上は優しいのです……叔父上は……叔父上は……叔父上は裏切りません!決して裏切りません!」
「王子様……」
それが切実な願いのように思えて、ヒジェは顔を背けた。自分はクムに信頼されている。そのことが彼を苦しめていた。一体どうすべきなのか、彼にもわかっていなかった。ただひとつ分かることは、自分に出来ることは何もない。それだけだった。
彼は静かにクムの元を去ると、そのまま執務室へ向かった。残されたクムはいつまでも、ヒジェの後ろ姿を見送り続けるのだった。
問題が起きたのは、その次の日のことだった。ヒジェは朝早くに禧嬪に呼び出され、不穏な予感を感じながらも参内した。
すると案の定、その場には青ざめた顔をしているナム医官がいた。ヒジェが慌てて禧嬪に問いかける。
「………医女が、姿を消しました。」
「何!?おい、どういうことだ!しっかり見張っておけと言ったではないか………!!!」
「しかも、王妃の居所へ向かっている姿が最後の目撃のようです」
その言葉に上気したヒジェは、反射的にナム医官の胸ぐらをつかみ、首を締め上げた。
「貴様ぁ………!!!殺してやる!!死ね!!死ねぇっ!!!」
「お、お許しを………お許しを……」
ナム医官を手荒く突き放したヒジェの脳裏には、真っ先にウォルファのことが思い浮かんだ。
────ウォルファ………!!そなたを守るためだ……許せ……!
「どうしましょう、兄上。」
「王妃殿を見張りましょう。どうせ王妃が匿っているのでしょう。あらゆる別邸を探します」
禧嬪は事が発覚する不安で震える手を必死に押さえつけると、兄の計画に無言で頷いた。
一方、ウォルファは密かにヒジェをつけさせていた部下からの報告で事を知った。
「医女が失踪した?それは王妃様のお計らいで間違いはないの?」
「はい、間違いはありません。いかがなさいましょうか、奥様。」
「…………旦那様よりも先に医女を見つけるのよ。王妃様にも、淑儀様にも、禧嬪様にも、医女は渡してはならない。」
「承知しました。」
ウォルファは部下を調査に向かわせると、空を仰いだ。
───ああ、許してください。私が私の幸せを守るためには………守るためにはこれしかないのです。お許し下さい、ヒジェ様。
こうして、運命の歯車が狂い始めた。だがそれは破滅へのほんの序章に過ぎないということを、彼女はまだ知らなかった。
その日、再び王妃の居所に出向いたウォルファは先日とは打って変わった冷ややかな表情を浮かべていた。そんな彼女と向き合った王妃は、禧嬪には感じたことのないような恐怖を覚えた。
「………用は何だ」
「王妃様、私はここに宣言致します。王妃様が延礽君様を推された訳も、これから世子様ならびに禧嬪様に何をなさろうとしているのか。それは知りません。……ですが私の夫の座を揺るがそうとなさるのであれば、私は全力で戦います。王妃様が延礽君様と我が妹を守るために戦う覚悟をお決めになったように。」
王妃は彼女の瞳の奥に強かに燃えている真剣な眼差しを汲み取ると、黙って頷いた。
「そなたがそのような道を選ぶなら、私は止めぬ。だが、最後はどうなろうと私は保証できぬ」
「私は、あの人を愛していますから。あの人は私が守ります。叶わぬ恋を、あの人は現実のものに変えてくれました。ですから今度は私があの人の夢を守りたいのです。例えそれが私の身を滅ぼすとしても」
ウォルファの脳裏にはヒジェの側で話すことさえ許されなかった頃のことが浮かんでいた。
───賤民と両班の名家のお嬢様だなんて。あり得ない取り合わせだったわ。
心無い人の差別に傷つくこともあった。
──俺が大将になるためには何をしても嫌いにならないと約束したくせに!
──今のあなたが本性なら、あなたなんて要らない。
互いの思いが空回りし、信じ合えなくなったこともあった。
──好きだ、ウォルファ。私は自分の気持ちさえ分かっていなかった。これ程むせかえるような恋情を隠し持っていたなど……
拭ってやれない涙も、癒すことが許されない悲しみもあった。
──そなたは、自由になっていい。そなたは鳥なのだからどこへでも行ける。だが、俺は飛べない鳥だ。住む世界が違う。
どちらかを犠牲にしないと生きていけない時もあった。
──西人であろうが、南人であろうが、私が愛したのはこの女です。誰も愛せなかったこの私が……唯一愛したのはこの女なのです
どうして、こんなに立場が異なるのだろうかと自分を呪ったときもあった。
それでも、ウォルファとヒジェは愛を貫いた。もう二度と離れずに済むために、彼女は全てを裏切ることを決意したのだ。
───ヒジェ様、ヒジェ様………私が生涯でただ一人、全てをかけて愛せる殿方……
ヒジェと生きていければ、どこでもいい。共に生きることを許されるのならば、身分など捨ててもいい。それが彼女の覚悟だった。
「言うことは、それだけか」
「はい、王妃様。」
「下がりなさい」
拗れてしまった運命に複雑な表情を見せる王妃に一礼すると、ウォルファは王妃殿を後にした。そして彼女はもう二度とここに来ることはなかった。
その日の昼さがり、ウォルファが市場を歩いていると向こうからチャン・ムヨルがやって来た。誰かを探している様子の彼からとっさに隠れるため、彼女は物陰に隠れた。程なくして彼が捕盗庁にいる部下と話を始めたため、ウォルファは聞き耳を立てた。
「───例の医女、どうしましょうか」
「禧嬪様たちよりも先に探し出せ。そして淑儀様に引き渡すのだ。………朝廷の政権を掌握し、領議政になる器はチャン・ヒジェではない。この私だ」
「かしこまりました」
身の毛もよだつような指示に対し、衝撃のあまり口を押さえると、ウォルファはムヨルが自分に気づいていないことを確認し、大慌てで自宅に戻った。
「テハは居るか」
「はい、奥様」
外に控えている部下を呼びつけると、ウォルファは静かな声で命じた。
「………チャン・ムヨルの部下であるミン武官も見張りなさい」
「かしこまりました。」
「旦那様の捜索はどのような状態だ?進展はあったか?」
「いえ、ありません。王妃の別邸とチョン・イングク殿の私有地の全てを調べたようですが、まだなようです。これが密かに入手した捜索場所の目録です」
ウォルファはテハから目録を受け取り、一通り目を通してから首をかしげた。
「……おかしいわ。イングク殿がお持ちのはずのクナク山の麓にある別邸が記録されていない。」
「そのような場所にあるとは、私も初耳です」
「身代わりを用意して、クナク山に行ってみましょう。医女はそこに居るのかもしれないわ」
彼女はそう言うと、テハを下がらせてからチェリョンも呼ばずに支度を始めた。テハはステクの弟で、ヒジェが護衛のためにつけた部下だった。
──それが、こんなところで役に立つなんて……
彼女は男装をするために髪を下ろし、上に束ねて結んでからはちまきを巻いた。その胸の中では、医女が見つかることを切に願いながら護身用の短刀を懐にいれると、周囲を確認してから塀の外へと向かった。
用意された馬を駆りながら、ウォルファはテハに尋ねた。
「テハ。身代わりはどうしたの?」
「部下が連れています。決して身元を明かすことのできない者で、奥様のご要望通りに捕らえられても問題の無い脱獄者にしました」
「ありがとう。……医女が居なかったら、ごめんねさいね」
「いえ、私もクナク山が怪しいと思います。」
テハはそう言うと、ウォルファににこりともせずに返事をした。表情にこそ出さないものの、テハはウォルファを篤く信頼していた。ヒジェに対する愛を貫く姿勢は、尊敬に値するものだとも思っていた。だからこそ、彼は主人の願いを叶えたいと思っているのだ。しかし、同時にヒジェという男を彼はいまいち好きになることが出来ずにいた。横暴で残忍な性格のあんな男を、なぜここまで完璧な不自由ひとつない女性が愛したのか。それがどうしても分からなかった。もちろん、そんな彼の疑問もウォルファには全てお見通しだった。彼女はテハの方は敢えて向かず、片時も肌身離さないように持ち歩いている紐飾りに指先で触れながら独り言のように言った。
「どうして、愛しているのかわからない。彼がチャン・ヒジェだったから私が愛したのか、私だったからチャン・ヒジェを愛したのか…………」
「奥様が仰ることは時々私の思惑から外れますので、そのお答えに関しては全く分かりません」
「答えの出ない問いくらい、誰にだってあるわよ」
いつかわかれば良いのだけれども、とウォルファが言おうとしたその時だった。テハが馬を止めて、その場に降り立った。
「ここです、奥様。」
「わかったわ、行きましょう」
粗末な家に向かうと、既にそこには身代わりとなる者が待機していた。目隠しをされている脱獄した女性がそのまま部屋に連れていかれてく。代わりに家から連れ出されたのは、間違いなくあの医女だった。その表情は恐怖で青ざめていたが、ウォルファの姿を見てより怯え始めた。
「おっ………奥様………!!お助けください!お許しください!王妃様に全て話したことを、お許しください!」
「大丈夫だ。そなたは旦那様にも淑儀様にも渡さぬ。だが、そのためには私に全てを話して欲しい。」
「わかりました!必ず話します。ありがとうございます……ありがとうございます……」
「では、ここに代理人を置け。」
ウォルファは人目につかぬよう医女を運び出すと、その足で自らが密かに所有する家へ向かった。
部屋に入ると、医女は淡々と事の次第を語り始めた。
「………世子様は、痿疾という病です。」
「やはりそうか。……それで、何故このようなことに?」
「禧嬪様が、領議政様を通じて命じたのです。全て隠し世子様を王座に就けるため、あの方々は領議政様の伝で清国から取り寄せた薬剤で密かに治療をしていましたが、効果はありませんでした。主治医ではなくナム医官を用いたのも、全てこのためでした」
思いの外に大きかった事の全容を知り、ウォルファは狼狽した。何より、夫がこのようなことまで自分に隠していたことに衝撃を受けた。
医女をテハたちに託すと、ウォルファは帰路についた。家にはいつも通り、ヒジェがいた。彼は深刻な表情で部下と話し込んでいたが、ウォルファに気づくと話を切り上げて笑顔を作って近づいてきた。
「おお、ウォルファ!最近あまり構ってやれず、済まなかったな。」
「大丈夫ですよ、ヒジェ様。私は、あなたが今日も生きていらっしゃるだけで………」
「そんなことを言うな。さ、こっちへ来い」
そう言って抱き寄せてきたヒジェの胸は、とても温かかった。その不確かな温もりに、ウォルファは思わず涙が出そうになった。
─────ヒジェ様………
この人はあんな危険なことをしていても、平然と装える。不安ではないのだろうか。
突然そんな疑問がウォルファの中に生じた。だが、目の前のヒジェは相変わらず笑顔を絶やさない。
彼女は自分の妻としての無力さと無知さに心を痛めると、黙ってヒジェの背中に手を回し、いつもより強く抱き締めた。
今のウォルファには、それしか出来ないとしても。
───次は私があの人を守るの。女にしか出来ない守り方もあるのだから。
「シム・ウォルファ殿、王妃様が通しても良いと仰っております」
「ありがとう」
彼女は尚宮の取り次ぎを受けると、王妃の前に姿を現した。不意にウォルファは王妃が以前よりも痩せているような気がして、悟られないように注意深くその姿に見入った。
「………久しぶりだな、ウォルファ。そなたが独りで訪ねてくることは珍しい。何かあったのか」
「いえ、本日は王妃様とお話しをしようかと」
「そうか。」
あくまでもにこやかに笑顔を絶やさず淑儀の姉としての立場を装いながら、彼女は王妃と様々なことを話した。
「そういえば……私は廃妃生活が長引けばもう、都から移ろうと思っていたのだ」
「そうなのですか?」
「そうだ。クナク山の麓にチョン・イングク殿がお持ちの簡素な家があるので、そちらへいこうと思っていたのだが……」
王妃はそこまで言うと、ウォルファに微笑みかけた。
「そなたの妹に救われた。今はよかったと思っている。……実は、私はそなたが羨ましい」
「え……?」
王妃には似合わない突然の羨望の言葉に、彼女は思わず目を丸くした。
「私は、この交泰殿に居るだけの者だ。お飾りの王妃なのだ。王様に女性として心から愛されたことは……一度もない」
「王妃様………」
「だが政敵ではあるが、領議政のそなたに対する愛が誠に羨ましい。あれ程無条件に愛されれば、幸せになれる気がする」
愛されることに不安を覚えるウォルファと、愛されたことが一度もなく、愛されたいと願う王妃。その見事な反意性に、ウォルファは悲しみを覚えた。
「ああ、気にしないでほしい。もう……良いのだ。諦めているのだから………」
「………愛は一様に測れるものではありませんから、きっと王妃様もいつかお分かりになります。王様は王妃様を大切にしておいでですから」
「………なら、良いのだがな」
彼女は王妃のあまりに悲しそうな表情を見て、思わず慰めたいと思った。だが、この人が夫を苦しめている事実は変わらない。いったい何が正しいのだろうか。その疑念が少しだけ、ウォルファの心をかすめていくのだった。
先日からの問題で機嫌の悪いヒジェは、いかにも不機嫌な顔をして宮殿を歩いていた。すると視界に、寂しそうな顔をしながら木に登っているクムが飛び込んできた。彼は少し考えると、そのまま見なかったことにして通りすぎようとした。だがもう一度振り返って見たクムの表情があまりにも悲しそうだったので、ヒジェは仕方がなく彼の登っている木の根本にやって来た。
「───何か悩みごとですか?王子様」
「ヒジェ叔父上!なぜここに?」
「遠くから、見ておりましたよ。王子様のお顔色が優れないもので……」
そう言うと、クムは突然いつもとちがってすっかり鬱ぎこんでしまった。
「………叔父上は、私が世子侍講院に入るのを反対されていますか?」
「王子様、それは………」
「叔父上、私は勉強がしたいのです。もし、王族でなければ……王族でなければ成均館にも入れたし、学友も作って楽しく学べたのでしょうか?」
ヒジェはその洞察力に言葉を失った。王位継承権のない王子は高等すぎる教育を受けてはならないことが暗黙の決まりなのだ。そして決して心の底からの友はできない。ヒジェのかつて唯一の友だった東平君も、同じことを言っていた。
───自分は、ただの王子だ。なのに、何も出来ない。いや、ただ王子であるだけ……という言葉が正しいのかもしれない。
あのときヒジェは何も言えなかった。そのせいで彼はあれ以来、東平君と話をしてはいない。それが悔しく思え、彼はクムの手をそっと握った。
「………決して、本心を見せないでください。」
「叔父上…?」
「叔父であっても、妻であっても、友であっても……どんなに王子様が絶対的な信頼を置く人であっても、決して本心を見せてはなりません。それが、王子なのです。」
「叔父上……叔父上は信じてはならぬのですか?叔父上はこんなに優しいのに!」
首を横に振るクムに、ヒジェはそれでも苦言を止めなかった。
「王子様。あなたと私は異なる党派に属しているのですよ?何故信じるのですか?」
「叔父上は優しいのです……叔父上は……叔父上は……叔父上は裏切りません!決して裏切りません!」
「王子様……」
それが切実な願いのように思えて、ヒジェは顔を背けた。自分はクムに信頼されている。そのことが彼を苦しめていた。一体どうすべきなのか、彼にもわかっていなかった。ただひとつ分かることは、自分に出来ることは何もない。それだけだった。
彼は静かにクムの元を去ると、そのまま執務室へ向かった。残されたクムはいつまでも、ヒジェの後ろ姿を見送り続けるのだった。
問題が起きたのは、その次の日のことだった。ヒジェは朝早くに禧嬪に呼び出され、不穏な予感を感じながらも参内した。
すると案の定、その場には青ざめた顔をしているナム医官がいた。ヒジェが慌てて禧嬪に問いかける。
「………医女が、姿を消しました。」
「何!?おい、どういうことだ!しっかり見張っておけと言ったではないか………!!!」
「しかも、王妃の居所へ向かっている姿が最後の目撃のようです」
その言葉に上気したヒジェは、反射的にナム医官の胸ぐらをつかみ、首を締め上げた。
「貴様ぁ………!!!殺してやる!!死ね!!死ねぇっ!!!」
「お、お許しを………お許しを……」
ナム医官を手荒く突き放したヒジェの脳裏には、真っ先にウォルファのことが思い浮かんだ。
────ウォルファ………!!そなたを守るためだ……許せ……!
「どうしましょう、兄上。」
「王妃殿を見張りましょう。どうせ王妃が匿っているのでしょう。あらゆる別邸を探します」
禧嬪は事が発覚する不安で震える手を必死に押さえつけると、兄の計画に無言で頷いた。
一方、ウォルファは密かにヒジェをつけさせていた部下からの報告で事を知った。
「医女が失踪した?それは王妃様のお計らいで間違いはないの?」
「はい、間違いはありません。いかがなさいましょうか、奥様。」
「…………旦那様よりも先に医女を見つけるのよ。王妃様にも、淑儀様にも、禧嬪様にも、医女は渡してはならない。」
「承知しました。」
ウォルファは部下を調査に向かわせると、空を仰いだ。
───ああ、許してください。私が私の幸せを守るためには………守るためにはこれしかないのです。お許し下さい、ヒジェ様。
こうして、運命の歯車が狂い始めた。だがそれは破滅へのほんの序章に過ぎないということを、彼女はまだ知らなかった。
その日、再び王妃の居所に出向いたウォルファは先日とは打って変わった冷ややかな表情を浮かべていた。そんな彼女と向き合った王妃は、禧嬪には感じたことのないような恐怖を覚えた。
「………用は何だ」
「王妃様、私はここに宣言致します。王妃様が延礽君様を推された訳も、これから世子様ならびに禧嬪様に何をなさろうとしているのか。それは知りません。……ですが私の夫の座を揺るがそうとなさるのであれば、私は全力で戦います。王妃様が延礽君様と我が妹を守るために戦う覚悟をお決めになったように。」
王妃は彼女の瞳の奥に強かに燃えている真剣な眼差しを汲み取ると、黙って頷いた。
「そなたがそのような道を選ぶなら、私は止めぬ。だが、最後はどうなろうと私は保証できぬ」
「私は、あの人を愛していますから。あの人は私が守ります。叶わぬ恋を、あの人は現実のものに変えてくれました。ですから今度は私があの人の夢を守りたいのです。例えそれが私の身を滅ぼすとしても」
ウォルファの脳裏にはヒジェの側で話すことさえ許されなかった頃のことが浮かんでいた。
───賤民と両班の名家のお嬢様だなんて。あり得ない取り合わせだったわ。
心無い人の差別に傷つくこともあった。
──俺が大将になるためには何をしても嫌いにならないと約束したくせに!
──今のあなたが本性なら、あなたなんて要らない。
互いの思いが空回りし、信じ合えなくなったこともあった。
──好きだ、ウォルファ。私は自分の気持ちさえ分かっていなかった。これ程むせかえるような恋情を隠し持っていたなど……
拭ってやれない涙も、癒すことが許されない悲しみもあった。
──そなたは、自由になっていい。そなたは鳥なのだからどこへでも行ける。だが、俺は飛べない鳥だ。住む世界が違う。
どちらかを犠牲にしないと生きていけない時もあった。
──西人であろうが、南人であろうが、私が愛したのはこの女です。誰も愛せなかったこの私が……唯一愛したのはこの女なのです
どうして、こんなに立場が異なるのだろうかと自分を呪ったときもあった。
それでも、ウォルファとヒジェは愛を貫いた。もう二度と離れずに済むために、彼女は全てを裏切ることを決意したのだ。
───ヒジェ様、ヒジェ様………私が生涯でただ一人、全てをかけて愛せる殿方……
ヒジェと生きていければ、どこでもいい。共に生きることを許されるのならば、身分など捨ててもいい。それが彼女の覚悟だった。
「言うことは、それだけか」
「はい、王妃様。」
「下がりなさい」
拗れてしまった運命に複雑な表情を見せる王妃に一礼すると、ウォルファは王妃殿を後にした。そして彼女はもう二度とここに来ることはなかった。
その日の昼さがり、ウォルファが市場を歩いていると向こうからチャン・ムヨルがやって来た。誰かを探している様子の彼からとっさに隠れるため、彼女は物陰に隠れた。程なくして彼が捕盗庁にいる部下と話を始めたため、ウォルファは聞き耳を立てた。
「───例の医女、どうしましょうか」
「禧嬪様たちよりも先に探し出せ。そして淑儀様に引き渡すのだ。………朝廷の政権を掌握し、領議政になる器はチャン・ヒジェではない。この私だ」
「かしこまりました」
身の毛もよだつような指示に対し、衝撃のあまり口を押さえると、ウォルファはムヨルが自分に気づいていないことを確認し、大慌てで自宅に戻った。
「テハは居るか」
「はい、奥様」
外に控えている部下を呼びつけると、ウォルファは静かな声で命じた。
「………チャン・ムヨルの部下であるミン武官も見張りなさい」
「かしこまりました。」
「旦那様の捜索はどのような状態だ?進展はあったか?」
「いえ、ありません。王妃の別邸とチョン・イングク殿の私有地の全てを調べたようですが、まだなようです。これが密かに入手した捜索場所の目録です」
ウォルファはテハから目録を受け取り、一通り目を通してから首をかしげた。
「……おかしいわ。イングク殿がお持ちのはずのクナク山の麓にある別邸が記録されていない。」
「そのような場所にあるとは、私も初耳です」
「身代わりを用意して、クナク山に行ってみましょう。医女はそこに居るのかもしれないわ」
彼女はそう言うと、テハを下がらせてからチェリョンも呼ばずに支度を始めた。テハはステクの弟で、ヒジェが護衛のためにつけた部下だった。
──それが、こんなところで役に立つなんて……
彼女は男装をするために髪を下ろし、上に束ねて結んでからはちまきを巻いた。その胸の中では、医女が見つかることを切に願いながら護身用の短刀を懐にいれると、周囲を確認してから塀の外へと向かった。
用意された馬を駆りながら、ウォルファはテハに尋ねた。
「テハ。身代わりはどうしたの?」
「部下が連れています。決して身元を明かすことのできない者で、奥様のご要望通りに捕らえられても問題の無い脱獄者にしました」
「ありがとう。……医女が居なかったら、ごめんねさいね」
「いえ、私もクナク山が怪しいと思います。」
テハはそう言うと、ウォルファににこりともせずに返事をした。表情にこそ出さないものの、テハはウォルファを篤く信頼していた。ヒジェに対する愛を貫く姿勢は、尊敬に値するものだとも思っていた。だからこそ、彼は主人の願いを叶えたいと思っているのだ。しかし、同時にヒジェという男を彼はいまいち好きになることが出来ずにいた。横暴で残忍な性格のあんな男を、なぜここまで完璧な不自由ひとつない女性が愛したのか。それがどうしても分からなかった。もちろん、そんな彼の疑問もウォルファには全てお見通しだった。彼女はテハの方は敢えて向かず、片時も肌身離さないように持ち歩いている紐飾りに指先で触れながら独り言のように言った。
「どうして、愛しているのかわからない。彼がチャン・ヒジェだったから私が愛したのか、私だったからチャン・ヒジェを愛したのか…………」
「奥様が仰ることは時々私の思惑から外れますので、そのお答えに関しては全く分かりません」
「答えの出ない問いくらい、誰にだってあるわよ」
いつかわかれば良いのだけれども、とウォルファが言おうとしたその時だった。テハが馬を止めて、その場に降り立った。
「ここです、奥様。」
「わかったわ、行きましょう」
粗末な家に向かうと、既にそこには身代わりとなる者が待機していた。目隠しをされている脱獄した女性がそのまま部屋に連れていかれてく。代わりに家から連れ出されたのは、間違いなくあの医女だった。その表情は恐怖で青ざめていたが、ウォルファの姿を見てより怯え始めた。
「おっ………奥様………!!お助けください!お許しください!王妃様に全て話したことを、お許しください!」
「大丈夫だ。そなたは旦那様にも淑儀様にも渡さぬ。だが、そのためには私に全てを話して欲しい。」
「わかりました!必ず話します。ありがとうございます……ありがとうございます……」
「では、ここに代理人を置け。」
ウォルファは人目につかぬよう医女を運び出すと、その足で自らが密かに所有する家へ向かった。
部屋に入ると、医女は淡々と事の次第を語り始めた。
「………世子様は、痿疾という病です。」
「やはりそうか。……それで、何故このようなことに?」
「禧嬪様が、領議政様を通じて命じたのです。全て隠し世子様を王座に就けるため、あの方々は領議政様の伝で清国から取り寄せた薬剤で密かに治療をしていましたが、効果はありませんでした。主治医ではなくナム医官を用いたのも、全てこのためでした」
思いの外に大きかった事の全容を知り、ウォルファは狼狽した。何より、夫がこのようなことまで自分に隠していたことに衝撃を受けた。
医女をテハたちに託すと、ウォルファは帰路についた。家にはいつも通り、ヒジェがいた。彼は深刻な表情で部下と話し込んでいたが、ウォルファに気づくと話を切り上げて笑顔を作って近づいてきた。
「おお、ウォルファ!最近あまり構ってやれず、済まなかったな。」
「大丈夫ですよ、ヒジェ様。私は、あなたが今日も生きていらっしゃるだけで………」
「そんなことを言うな。さ、こっちへ来い」
そう言って抱き寄せてきたヒジェの胸は、とても温かかった。その不確かな温もりに、ウォルファは思わず涙が出そうになった。
─────ヒジェ様………
この人はあんな危険なことをしていても、平然と装える。不安ではないのだろうか。
突然そんな疑問がウォルファの中に生じた。だが、目の前のヒジェは相変わらず笑顔を絶やさない。
彼女は自分の妻としての無力さと無知さに心を痛めると、黙ってヒジェの背中に手を回し、いつもより強く抱き締めた。
今のウォルファには、それしか出来ないとしても。