1章 めぐり逢い
命を懸けて、母を救おうとしたこと。
何も告げずに姿を消したこと。この男は、自分の選択を後悔していない。
しかし、それはかつて彼女の記憶を消そうとした行為と、同義だった。
合理的で、独断的で――彼女にとっては、好ましくはなかっただろう。
治療を続ける葵は、こちらに何も聞かない。しかし、何も知らないわけでもない。
その距離感が、人間として生きてきた良心のようなものを刺激した。

しばらくはお互い無言で、息遣いだけで会話が進む。
彼女の手を通して伝わる温度に、蔵馬はとうとう口を開いた。
「葵。……何も伝えなくて、すまなかった」
間近で、彼女が顔を上げた。
その深い双眸には、どこかほっとした色と、少しの憂いが入り混じっていた。
言葉がなくても、彼は理解した。
(不安にさせてしまったな……)
蔵馬はことの詳細を、話し始めた。そこに、弁解や脚色は一切なかった。
葵はひと言も挟まず、耳を傾け、彼の傷に手を添えていた。
「なんとなく……気づいていたわ。でも、生きてまた会えるって思ってた。だから……早く戻ってきたの」
蔵馬は、視線を伏せたまま息を吐いた。
(……そうか)
彼の目元がわずかに緩んだ。彼女のほうが、先を見据えていたのかもしれない。
妖気が巡り、痛みは次第に引いていく。
代わりに、触れられていた場所の温もりが、静かに残った。
冬の夜。
肌を晒しているはずなのに、不思議と寒さは感じない。
顔を上げると、雲が切れ、どこか哲学的な月が静かに姿を現していた。
風は止み、世界が一瞬、息を潜めたように感じられた。
蔵馬はその光を見つめながら、まだ名づける必要のない何かを、胸の奥に保留した。
ふっと息を吐いた。
「……調子、狂うな」
突然の呟きに、葵が顔を上げる。
「?」
彼は再び目を伏せると、彼女の指先には、まだヨモギの緑が淡く残っている。
月明かりを受けて、その色がわずかに浮かんで見えた。
「もっと……怒られるかと思っていたよ」
「命をかけて、誰かを助けようとした人に、怒らないわよ」
葵はそう言って、再び傷口に目をやる。
「それに、私があなたに怒ったの……一度だけよ」
その言葉に、蔵馬の口元がわずかに緩んだ。
一年前の光景が、意図せず脳裏をよぎる。
葵の言葉には、責めも押し付けもなかった。
こちらを理解しようとする、純粋な温度があった。
ヨモギの青い匂いに、彼女特有の、花のようなほのかな甘さが混じる。
夜の闇が、二人の周囲だけを包み込んでいるようだった。
「これから……あなたは、どうなるの?」
「オレは霊界から秘宝を盗んだ罪で、裁判を受ける。その決定に従うつもりだ」
「……そう」
一瞬の間。
枯れ葉が風に擦れる音が、遠くで鳴った。
「何か、私にできることはある?」
思いがけない言葉に、蔵馬は彼女を見た。
数十センチの距離。
お互いの深い瞳が、再会する。
「大丈夫だ。判決も……それほど悪くないだろう」
経験と計算に基づいた、現実的な見立てを伝える。
「それなら、良かったわ」
短い言葉に、胸の奥の張りつめていたものが静かにほどけていくのを蔵馬は感じた。
彼は敢えて、今の状態を言葉に乗せた。
「……心配してくれたのか」
葵は少しだけ考えるように視線を上げ、それから微笑む。
「少しね。あなたは、いつも計画的に物事を推し進めるけど、今回の結末は、想定外だったでしょう?」
「……そうだな」
命を投げ出す覚悟で臨んだ結果、生きて霊界裁判を受けることになるとは考えていなかった。そして今のこの状況も、予定にはなかった。
「私は、霊界がどんなところか知らないから。これから先、あなたがどうなるのか気になったの」
「……。」
蔵馬は、言葉を探さなかった。
妖怪にとって、霊界はあまり評判の良い場所ではない。
公平に裁きを下すかどうかわからない――と考えるのが、一般的だった。
彼女の本音に、彼の中のどこかがわずかに反応した。
やがて、温かい手が背中と腹部から離れる。
葵は布で手を拭うと、鞄から小さな包みを取り出した。
――カスミソウの押し花。
「……これは?」
「地図の場所には行ったけど、開けてないの」
何気ない調子で言う。
「洞窟の前で、奥に何があるのか感づいてしまって。だから、やめたの」
蔵馬は、思わず目を見開いた。
対称的に、彼女は何事もなかったように微笑み、彼の腹部にサラシを巻き始める。
布が擦れる音が、夜にやけに大きく聞こえた。
(参ったな……)
目元がわずかに緩む。勘がいい、という言葉では足りない。
彼女は理解を飛び越えて、核心に触れてしまった。
「だから、お相子よ」
「……。」
サラシを結びながら、葵はふっと微笑んだ。
しばらく、彼は静かに彼女の言葉を聞いていた。
「今回のことで、謝ることはないわ。それと……今後はこういう贈り物の仕方はなしよ」
「……そうだな」
蔵馬も、小さく笑った。
押し付けない優しさと、踏み込みすぎない距離感。
それが、妙に心地いい。
手当てが終わり、蔵馬は上着を身に着けた。
痛みは落ち着き、代わりに、触れられていた場所にかすかな温もりが残っている。
「葵は……物分かりがいいな」
「そう?」
「そのくせ、オレの予想外のことをよくする」
「あら。それはお互い様でしょう?」
その返しに、蔵馬はふっと息をついた。
(……違いない)
それでも、彼女の場合は理解しているからこそ、自由で縛られない。
未熟でも世間知らずでもなく、彼女の性質だ。
自分とは、決定的に違う。
葵は一歩下がり、夜の闇に溶けるように姿を消した。
彼は、しばらくその場所を見つめていた。
冬の空気が、肺の奥まで澄み渡る。冷たさの中に、そこはかとない余韻があった。
名づける必要のない何かが、胸の奥で、静かに育ち続けている。
蔵馬は歩き出した。
その何かを、まだ確認しないまま。
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おまけ♢
木竜との戦闘から一晩明けた朝。
昨日とは打って変わって冷え込んだ空気の中、蔵馬は制服のポケットに手を突っ込み、ゆっくり歩きながら昨夜の出来事を思い返していた。
(ホワイトデーなんて、よく知ってたな)
コートのお礼にと、渡された小さな箱を思い浮かべる。
中には、素朴なプレーンのクッキーが入っていた。
箱を開けた瞬間、ほんのりと甘い香りが広がった。
(どうやって、買ったんだろうな……)
人間界のことを、どれだけ知っているのか不思議だった。
時折見せる彼女の興味深々な様子からすると、ただの好奇心ではない気がする。
葵が図書館で人間界の何を学んでいるのか、雑多にいろんな分野に手を出しているのかもしれないと蔵馬は思った。
それも単なる表面的な学びではなく、どこか深い部分で理解しようとしているように感じる。
いつもと変わらない通学中。
いつもとは変わって、誰かのことを考えている自分がいた。