1章 めぐり逢い
(気づけば、もう一年か……)
蔵馬は机の上の書物から視線を外し、東の窓へと目を向けた。
人間界の夜の気配にわずかに混ざる、穏やかな妖気をとらえていた。
「蔵馬」
時刻は22時。
窓枠に手をかけ、軽やかに身を翻した葵が、部屋の中へ降り立つ。
淡藤色の上着に、ゆったりとした白地のパンツ。
魔界の住人らしい、落ち着いた出で立ちだ。
「遅くなってしまったかしら?」
「いや。ちょうど区切りのいいところだった」
蔵馬は立ち上がり、彼女が肩から下ろした麻袋を受け取る。
ずしりとした重み。中で乾いた葉が擦れ合う音がした。

「今回は、たくさん頼んでしまって……すまない」
一年前より、かなり伸びた蔵馬の髪は背中まであり、短髪よりも彼になじんでいた。
「大丈夫よ。中身を確認してね」
麻袋の口を解くと、乾燥させた根、結晶化した樹液、布で包まれた種子などの資源が数十種類――。
ふと、見慣れたものの中に、依頼した記憶にないものが混じっている。
蔵馬は、そのひとつを手に取った。
「……葵、これは?」
「最近、魔界で見つかった新種なの。薬効が高いと言われている植物を、いくつか持ってきたわ」
彼の指先が、わずかに動く。
数度呼吸を置いて、視線を落としたまま言った。
「……そうか。気を遣わせてしまったようだな」
「私の意志でやっていることだから。気にしないで受け取って」
淡々と発した声の中に、さりげない優しさの温度が含まれていた。
蔵馬は小さく息を吐いた。
それはため息というほど重くもなく、かといって軽く流せるものでもなかった。
依頼品の傾向から、何かしらの治療に用いるものだと、彼女は感じ取っていた。
対象が誰なのかまでは、聞いていない。
けれど――家の中に、彼以外の気配がないことが、一つの答えのように思えた。
彼から直接聞いたことはない。
それでも、わかってしまうことはある。
――言わない優しさ。
――聞かない優しさ。
蔵馬は、それを好ましく思っていた。
物分かりの良い彼女らしい。
これから自分が踏み込もうとしている領域は、彼女には関係がない。
知れば、きっと止めるだろう。
止めるほどの誠実さを、彼女は持っている。
だから――知らせる必要はない。
蔵馬は引き出しから、小さな包みを取り出した。
薄い紙に挟まれた、カスミソウの押し花。白く小さな花弁が月光を受けた。
そして、丁寧に折られた一枚の地図。
「葵、これを」
彼女は受け取り、花と地図を交互に見る。
「頼みごとが続いて悪いんだが……今度は、この洞窟に行ってきてもらいたい」
指で示した場所は、魔界の外れ。妖怪のあまり寄りつかない地形だ。
彼は地図から指を離さない。数秒ほど視線を落としたまま、「頼む」 とだけ言った。
「鍵はこの花だ。オレの妖気を通してある。行けば、開くだろう」
「ここに行って、何をすればいいの?」
一瞬、蔵馬は視線を逸らした。
窓の外、朧げな月の光が目に入る。
「……行けば、わかる」
葵は彼の顔を見つめる。
何かを思いながらも、詮索しない目で。
「わかったわ。期限はいつまで?」
「……2か月後に、戻ってきてくれ」
自分から発せられた言葉に、蔵馬自身が意識を向ける。
期限ではなく、彼の所にもどる期日を指定したことに。
――その頃には、すべて終わっているはずだ。
葵の勘が、静かに働く。
彼の瞳の奥に、言葉にならない色が混ざっているのを感じ取る。
しかし、彼女はそれ以上何も言わなかった。
代わりに、小さく頷いた。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
その1か月後。
誰もいない夜の路地を、蔵馬はひとり歩いていた。
飛影 の剣から受けた傷を抑えながら、呼吸を乱さぬよう意識する。
急所は外れている。致命傷ではない。
応急処置は済ませた。魔界の薬草が、血と妖気の流れを抑えていた。
だが、鈍い痛みが、歩調に合わせて脈打つ。
――飛影とは、有名な魔界の盗賊の名前。先日、彼と共に霊界から三大秘宝を盗み出した。
蔵馬は、秘宝の一つ暗黒鏡を使って、自分の命と引き換えに病気の母親を救おうとした。
霊界探偵の幽助の機転により、蔵馬もその母親も助かった。
その借りをかえすため、彼は幽助と飛影が戦っているところに割って入り、腹部を貫かれた。
冷たく澄んだ冬の風が、頬を撫でる。月は雲に隠れ、世界は静まり返っている。
その静けさが、なぜか――あの夜と重なった。
(……無事に、見つけられるだろうか…)
その問いが何を指しているのか、自分でも整理できなかった。
ただ、思考は、自然と彼女へ向かう。
彼女に渡したのは、かつて蓄えた財を隠していた場所の鍵だった。
当面困らないだけの金品。
今までの礼と、サヨナラも言わずに、暗黒鏡を使い命を賭けようとしたことへの、彼なりの謝罪。
胸の奥に残る、説明のつかない余白を抱えたまま。
蔵馬は足を止め、夜空を見上げる。
あの日、もう二度と会うことはないと、その小さな背中を見送った。
冷徹に選んだ彼の中の別れだった。
――結果だけを見れば、生き残り、こうして再び巡り合う可能性が生まれた。
運命という言葉を好んでは使わない。
だが、説明のつかない巡り合わせがあることも、否定はできなかった。
(……戻ってきたら、きちんと謝らないとな)
一年前。
彼女の記憶を消そうとしたあの瞬間、葵が見せた表情が、ふと脳裏をよぎる。
あの時の顔が忘れられない。
――今度は、拳ひとつで済まないかもしれない。
そんなことを考えながら、蔵馬は無意識に口元を緩めていた。
冬の乾いた風が、路地を抜けていく。
凛とした空気に重なって、微かに混じる香りがあった。
花だ。それも、ただの花ではない。
蔵馬の思考が完全止まる。
鼓動が先に反応した。傷の痛みなど、一瞬で遠のく。
次の瞬間、理性が即座に否定する。
(……いや、そんなはずはない)
この香りを知っている。だが、彼女は今、魔界にいるはずだ。
時間も、距離も、合わない。
今しがた思い出していた相手の匂いが、記憶としてよみがえっただけだ。
そう結論づけようとした矢先、嗅覚が、聴覚が、皮膚感覚が――一斉に同じ方向を指した。
「蔵馬」
澄んだ声が、まっすぐと彼に向かって響く。
聞き間違える余地はなかった。
ゆっくりと振り返ると、数十メートル先に、葵が立っていた。
月は雲に隠れ、彼女の表情は読み取れない。
それでも、こちらを捉える深い視線は、はっきりとわかる。
「……葵」
喉から出たのは、予想もしない音だった。
名を呼ぶと、彼女は小さく頷いた。
静かに歩み寄り、乾いた靴音が闇にこだまする。
白い息が、お互いの口から生まれてはすぐに消えていった。
近づくにつれ、蔵馬は彼女の視線が、自分の腹部に落ちていることに気づく。
血の匂い。妖気の乱れ。
葵は驚いた様子を見せず、ほんの一拍、息を吐いた。
「話は後で。ここで良ければ手当てするわ」
柔らかく、指示というより当然のような口調。
「……ああ」
近くの林の中へ入り、蔵馬は腰を下ろす。
制服の上着を脱ぎ、傷を露わにすると冷気が肌を刺した。
葵は丁寧に魔界のヨモギをすり潰す。
指先から立ちのぼる、清涼な香り。そこに、彼女特有の、ほのかな甘さが重なる。
傷口に手を当てられた瞬間、蔵馬は呼吸を整えた。
細胞が活性して、体が脈打つように熱が巡っていく。
「少し気を流すわ。完全ではないけど……楽になるはず」
「……十分だ」
彼女の所作を、蔵馬は黙って見ていた。
(……治癒が、できるようになったのか)
客観的に評価する思考と、それとは別の説明のつかない安堵が、並んで存在している。
蔵馬は机の上の書物から視線を外し、東の窓へと目を向けた。
人間界の夜の気配にわずかに混ざる、穏やかな妖気をとらえていた。
「蔵馬」
時刻は22時。
窓枠に手をかけ、軽やかに身を翻した葵が、部屋の中へ降り立つ。
淡藤色の上着に、ゆったりとした白地のパンツ。
魔界の住人らしい、落ち着いた出で立ちだ。
「遅くなってしまったかしら?」
「いや。ちょうど区切りのいいところだった」
蔵馬は立ち上がり、彼女が肩から下ろした麻袋を受け取る。
ずしりとした重み。中で乾いた葉が擦れ合う音がした。

「今回は、たくさん頼んでしまって……すまない」
一年前より、かなり伸びた蔵馬の髪は背中まであり、短髪よりも彼になじんでいた。
「大丈夫よ。中身を確認してね」
麻袋の口を解くと、乾燥させた根、結晶化した樹液、布で包まれた種子などの資源が数十種類――。
ふと、見慣れたものの中に、依頼した記憶にないものが混じっている。
蔵馬は、そのひとつを手に取った。
「……葵、これは?」
「最近、魔界で見つかった新種なの。薬効が高いと言われている植物を、いくつか持ってきたわ」
彼の指先が、わずかに動く。
数度呼吸を置いて、視線を落としたまま言った。
「……そうか。気を遣わせてしまったようだな」
「私の意志でやっていることだから。気にしないで受け取って」
淡々と発した声の中に、さりげない優しさの温度が含まれていた。
蔵馬は小さく息を吐いた。
それはため息というほど重くもなく、かといって軽く流せるものでもなかった。
依頼品の傾向から、何かしらの治療に用いるものだと、彼女は感じ取っていた。
対象が誰なのかまでは、聞いていない。
けれど――家の中に、彼以外の気配がないことが、一つの答えのように思えた。
彼から直接聞いたことはない。
それでも、わかってしまうことはある。
――言わない優しさ。
――聞かない優しさ。
蔵馬は、それを好ましく思っていた。
物分かりの良い彼女らしい。
これから自分が踏み込もうとしている領域は、彼女には関係がない。
知れば、きっと止めるだろう。
止めるほどの誠実さを、彼女は持っている。
だから――知らせる必要はない。
蔵馬は引き出しから、小さな包みを取り出した。
薄い紙に挟まれた、カスミソウの押し花。白く小さな花弁が月光を受けた。
そして、丁寧に折られた一枚の地図。
「葵、これを」
彼女は受け取り、花と地図を交互に見る。
「頼みごとが続いて悪いんだが……今度は、この洞窟に行ってきてもらいたい」
指で示した場所は、魔界の外れ。妖怪のあまり寄りつかない地形だ。
彼は地図から指を離さない。数秒ほど視線を落としたまま、「頼む」 とだけ言った。
「鍵はこの花だ。オレの妖気を通してある。行けば、開くだろう」
「ここに行って、何をすればいいの?」
一瞬、蔵馬は視線を逸らした。
窓の外、朧げな月の光が目に入る。
「……行けば、わかる」
葵は彼の顔を見つめる。
何かを思いながらも、詮索しない目で。
「わかったわ。期限はいつまで?」
「……2か月後に、戻ってきてくれ」
自分から発せられた言葉に、蔵馬自身が意識を向ける。
期限ではなく、彼の所にもどる期日を指定したことに。
――その頃には、すべて終わっているはずだ。
葵の勘が、静かに働く。
彼の瞳の奥に、言葉にならない色が混ざっているのを感じ取る。
しかし、彼女はそれ以上何も言わなかった。
代わりに、小さく頷いた。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
その1か月後。
誰もいない夜の路地を、蔵馬はひとり歩いていた。
急所は外れている。致命傷ではない。
応急処置は済ませた。魔界の薬草が、血と妖気の流れを抑えていた。
だが、鈍い痛みが、歩調に合わせて脈打つ。
――飛影とは、有名な魔界の盗賊の名前。先日、彼と共に霊界から三大秘宝を盗み出した。
蔵馬は、秘宝の一つ暗黒鏡を使って、自分の命と引き換えに病気の母親を救おうとした。
霊界探偵の幽助の機転により、蔵馬もその母親も助かった。
その借りをかえすため、彼は幽助と飛影が戦っているところに割って入り、腹部を貫かれた。
冷たく澄んだ冬の風が、頬を撫でる。月は雲に隠れ、世界は静まり返っている。
その静けさが、なぜか――あの夜と重なった。
(……無事に、見つけられるだろうか…)
その問いが何を指しているのか、自分でも整理できなかった。
ただ、思考は、自然と彼女へ向かう。
彼女に渡したのは、かつて蓄えた財を隠していた場所の鍵だった。
当面困らないだけの金品。
今までの礼と、サヨナラも言わずに、暗黒鏡を使い命を賭けようとしたことへの、彼なりの謝罪。
胸の奥に残る、説明のつかない余白を抱えたまま。
蔵馬は足を止め、夜空を見上げる。
あの日、もう二度と会うことはないと、その小さな背中を見送った。
冷徹に選んだ彼の中の別れだった。
――結果だけを見れば、生き残り、こうして再び巡り合う可能性が生まれた。
運命という言葉を好んでは使わない。
だが、説明のつかない巡り合わせがあることも、否定はできなかった。
(……戻ってきたら、きちんと謝らないとな)
一年前。
彼女の記憶を消そうとしたあの瞬間、葵が見せた表情が、ふと脳裏をよぎる。
あの時の顔が忘れられない。
――今度は、拳ひとつで済まないかもしれない。
そんなことを考えながら、蔵馬は無意識に口元を緩めていた。
冬の乾いた風が、路地を抜けていく。
凛とした空気に重なって、微かに混じる香りがあった。
花だ。それも、ただの花ではない。
蔵馬の思考が完全止まる。
鼓動が先に反応した。傷の痛みなど、一瞬で遠のく。
次の瞬間、理性が即座に否定する。
(……いや、そんなはずはない)
この香りを知っている。だが、彼女は今、魔界にいるはずだ。
時間も、距離も、合わない。
今しがた思い出していた相手の匂いが、記憶としてよみがえっただけだ。
そう結論づけようとした矢先、嗅覚が、聴覚が、皮膚感覚が――一斉に同じ方向を指した。
「蔵馬」
澄んだ声が、まっすぐと彼に向かって響く。
聞き間違える余地はなかった。
ゆっくりと振り返ると、数十メートル先に、葵が立っていた。
月は雲に隠れ、彼女の表情は読み取れない。
それでも、こちらを捉える深い視線は、はっきりとわかる。
「……葵」
喉から出たのは、予想もしない音だった。
名を呼ぶと、彼女は小さく頷いた。
静かに歩み寄り、乾いた靴音が闇にこだまする。
白い息が、お互いの口から生まれてはすぐに消えていった。
近づくにつれ、蔵馬は彼女の視線が、自分の腹部に落ちていることに気づく。
血の匂い。妖気の乱れ。
葵は驚いた様子を見せず、ほんの一拍、息を吐いた。
「話は後で。ここで良ければ手当てするわ」
柔らかく、指示というより当然のような口調。
「……ああ」
近くの林の中へ入り、蔵馬は腰を下ろす。
制服の上着を脱ぎ、傷を露わにすると冷気が肌を刺した。
葵は丁寧に魔界のヨモギをすり潰す。
指先から立ちのぼる、清涼な香り。そこに、彼女特有の、ほのかな甘さが重なる。
傷口に手を当てられた瞬間、蔵馬は呼吸を整えた。
細胞が活性して、体が脈打つように熱が巡っていく。
「少し気を流すわ。完全ではないけど……楽になるはず」
「……十分だ」
彼女の所作を、蔵馬は黙って見ていた。
(……治癒が、できるようになったのか)
客観的に評価する思考と、それとは別の説明のつかない安堵が、並んで存在している。