1章 めぐり逢い


風が、ふと息を潜めた。
夜そのものが、二人の会話に耳を澄ませているかのようだった。

蔵馬は、ゆっくりと手を降ろした。
指先に残る感触を、振り払うこともせず。

沈黙。

煙の臭いが半減する頃、静寂を破ったのは彼だった。

「……すまなかった」

短く、息を含ませながら言う。

「君が人間だと思っていたんだ。これ以上オレに関わらないほうが、お互いのためだと判断した」

言い訳や正当化はしない。それだけで十分だった。

その言葉に、彼女は蔵馬の深い意識の何かに触れたような気がした。
心の奥の、影のような何かに。
葵は、一瞬だけ目を伏せた。それから、また顔を上げる。
表情が、柔らかさを取り戻した。

「……私が、妖怪だということを、黙っていたのは謝るわ。そして、感情的になったのも、ごめんなさい」

蔵馬は静かに聞いていた。
呼吸分の間のあと、彼女は言葉を続ける。

「でも、あなたが良かれと思ってしたことは……私の望まないことだったのは、伝えたかったの」

「……ああ」

彼は、少しだけ視線を逸らし、周囲を見渡す。
夜の冷たい風が、強く吹き抜ける。
蔵馬の中でいろんな思考が流れては、消えていった。
そして、彼の中で何かが変わり始めていた。

時間が再び動き出す。

「君は、普段はどこに住んでいるんだ?」

彼は話題を切り替えた。

「魔界よ。亜空間の割れ目から、行き来ができるの」

論より証拠と、葵は手のひらで空間をなぞる。空気が歪み、闇の裂け目が一瞬だけ開く。
その中に彼女の姿が消え、すぐに現れた。
手慣れた動きに、蔵馬は目を細めた。

闇撫やみなでの種族ではないのか?」

「ええ、違うわ。こちらに来たのは、人間界でいう観光といったところ。あちこちうろついている時に、あなたに出会ったの」

闇撫のように、次元や亜空間へ自由に行き来する種族ではなく、彼女自身の能力のようだ。

図書館で本を読んでいた姿が、ふと脳裏をよぎる。
覚えたての人間界の知識。
常識から少しずれた言動。
蔵馬の中で、点と点がつながっていく。

「自分の能力について、まだよくわかってないの。とりあえず、自然の声を聞いたり、力を借りたりすることはできるみたい」

先ほど、蔵馬を助けた時のように。
彼は、ずっと疑問に思っていたことを投げかけた。

「……夢幻花が、効かなかったのは?」

「そうねぇ……。私が、花から生まれた妖怪だからかもしれないわね」

(耐性がある……いや、それ以上か)

夢幻花の催眠効果も短かった。
彼女への疑問が、次々と解消されていった。
違和感は、完全には消えない。だが――消す必要も、今はない。


「その制服は?」

風に混じる焦げた匂いが、まだかすかに残っている。
蔵馬の視線は、無意識のうちに彼女の服装へと移っていた。
白いシャツに、紺色のブレザーとスカート。
人間界では、どこにでもいる女子学生の姿だ。

「これを着ていると、人間に見えるでしょ?」

あっさりと彼女は言う。
もちろん、学校に通っているわけではない。
妖怪が人間社会に溶け込むには、形から入るという選択は、妥当だ。

蔵馬がそう思っていると、彼女の視線がふっと落ちた。

「足の傷は、大丈夫なの?」

見ているのは、先ほどの戦いで負傷した彼の片脚。
制服の裾が破れ、乾きかけた血の色がわずかに覗いている。

「問題ない。もう手当ては済ませた」

「……そう」

軽傷だったはずの痛みを、彼は今になって意識した。
じん、と鈍い感覚が遅れてくる。

――忘れていたな。
それほどまでに、意識が別のところへ向かっていたらしい。


蔵馬は、夜空を一度だけ仰いだ。
雲の切れ間から、淡い月光が落ちてくる。

「……君は、これからどうするつもりだ?」

視線を戻さず、問いかける。

「このまま、町に留まるのか?」

「……今、思いついたんだけど」

葵は少し間をおいて、蔵馬を正面から見据えた。その瞳は、一瞬柔らかく光った。
彼の背後には、まだ小さく煙がたなびいていた。

「これは、あくまでこちらからの提案よ」

彼女は言葉を選ぶように、ゆっくり続けた。

「私は、人間界のことをもっと知りたい。それから……魔界のことも。あなたから」

蔵馬の肩口を、夜風が抜ける。彼は、視線を夜空から葵に移した。

「そのお返しに、あなたのために働くわ。魔界に行けるこの能力、きっと役に立つと思うの。もちろん、あなたの生活の邪魔はしない」

一息で言い切る声に、迷いや挑発の色はない。

――提案、か。
彼は、ほんのわずかに息を詰めた。
軽い社交辞令のつもりで投げた問いだったが、返ってきたのは、予想を超えた具体性だった。
「……いきなりだな」
彼は少し目を細める。

「まだ会って間もないオレを……信用していいのか?」

「ええ。私は、あなたに興味があるの」

「……。」

即答だった。
蔵馬は静かに、観察を続けた。

「生まれたての世間知らずには、指南役が必要でしょう?」

無防備な微笑み。
葵には猜疑心のかけらもない。

――危うい。
そう判断する思考は、いつも通り冷静だった。
しかし、どうしたはずみか、その結論を即座に行動へ移さなかった。

(……悪くない条件だ)

蔵馬は、少し間を置いてから口元を緩めた。
それは計算された笑みではなく、15歳の少年の柔らかさを帯びていた。
自分でもそれに気づきながらも、表情を変えることはなかった。

「……魔界で、調達してほしいものがあるときは、頼むことになる」

条件提示。
受諾とも、拒絶とも言えない位置。

「交渉成立ね」

葵はふわりと微笑み、頷いた。


二人は並んで歩き出した。廃校を離れ、街灯の途切れた夜道へ。
砂利を踏む音が、一定のリズムを刻む。

道すがら、葵は今までの経緯を簡単に尋ねた。
蔵馬は、答えられる範囲で応じた。
妖狐だったこと。
盗賊だったこと。
霊界に追われ、今は南野秀一として生きていること。
普段なら伏せる類の話だった。

(今日のオレは……気まぐれが強いようだな)

内心で、そう思う。
葵の不思議な雰囲気に、ペースを崩しているだけだと、その時は片付けた。


霊界とは――死後、霊体となってから行く場所、また霊体の管理を司る世界。
蔵馬のような妖怪や、霊感が強いものは、生きながら霊体となり、霊界を訪れることも可能だ。



「そういえば」

彼女は足をとめた。

「あなたの、元々の名前は?」

風が通り抜けた。
彼は遠くを見つめながら、二、三度呼吸を置いた。そして――

「……蔵馬だ」

「よろしく、蔵馬」

改めての挨拶に、彼は視線を合わせなかった。
制服のパンツのポケットに片手を入れて、距離を置いて立ち止まる。
そして振り返った彼女に向けて、挨拶代わりに忠告を一つ伝えた。

「君は妖怪の中でも、かなり素直な気質だ。オレに対して、警戒心がまるでない」

静かな抑揚の中に芯の強さを感じる声は、年相応のものとは異なる。

「一応言っておこう。オレの話は、鵜呑みにするな。全てが真実で、全てが嘘のこともある。半分真実で半分嘘だと思うくらいで、ちょうどいい」

葵は黙って聞いていた。澄んだ瞳に、目の前の少年を映して。

「まずは、自分が最初に感じたことを優先しろ。それが、生きていくうえでの基本だ」

言い終えると、彼女は素直に微笑んだ。

「早速、ご指南をありがとう」


蔵馬の見立てでは、彼女は戦闘向きではないタイプの妖怪だった。
一時的な自分への興味で離れるか、厳しい魔界のサバイバルにいずれ負けてしまうだろう。

彼は後ろの色素の薄い少女を一瞥した。

――そのはずだ。
そう思考を到達させながら、彼は夜道を進んだ。

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