1章 めぐり逢い

考えを巡らせている時だった。
頭上から気配がする。少し遅れて、小石と共に何かが落ちてきた。

「南野君!これであがって!」

透き通った声。
蔵馬は反射的に顔を上げた。
暗闇の縁から、緑色の縄が垂れている。
イネ科の植物を丁寧に編んだ、自然のロープ――明らかに作られたものだが、不思議な均整を保っていた。

その先に立っていたのは――暗闇の中、小さく浮かぶ姿は葵だった。
蔵馬の目が、わずかに見開かれる。

(……なぜだっ?)

あの時、確かに線を引いた。夢幻花で、自分との記憶を消したはずだ。
思考が錯綜する。

(記憶の欠片が戻ったのか?それとも――)

その先の答えは見つからない。

「今、戸惑っている暇はないはずよ!次の攻撃が来る前にあがって!」

葵の必死の呼びかけは、まっすぐ彼に届く。
確かに――今は、それが最優先だ。

思考よりも、体が先に動いていた。蔵馬は躊躇を切り捨て、縄を掴んだ。
植物の繊維が、意外なほどしなやかに指に馴染む。
地中の壁を蹴り、腕に力を込める。

背後で、鈍い振動が走った。
――奴が動けるようになる前に、先手を打つ。

穴の上に近づいたとき、彼女が手を差し出した。

「掴んで!」
「……」
蔵馬は一瞬だけ、その手を見た。細い指は、震えていない。
助けを求める手ではなく、助けようとしている手だった。
彼はその手をしっかりと握る。
ついに地上へと引き上げられる。


夜風が、肌を打つ。
二人の距離が、急に近づいた。深い瞳と瞳が、ふいに重なった。
その間、わずか数秒。言葉はなく、時間だけが伸びる。


――長い沈黙。
蔵馬は、先に視線を外した。

「……葵。君は一体――」

「説明は、後でするわ」

落ち着いた声が返ってくる。

「あの妖怪相手に、どうするの?」

木竜を見て、迷いなく妖怪と判断したその言葉。
蔵馬は、改めて彼女を観察する。
その顔は、自分が知っているもの。しかし、知らない部分が多すぎたようだ。

風が強まり、二人の髪が揺れる。
地中の気配は、意図的に消されていた。

「……手は考えた」

大きく空いた穴を見つめながら、蔵馬は静かに告げる。

「しかし、少々派手な攻撃になる。巻き添えになりたくなければ、離れた所にいてくれ」

彼女は無言で頷き、廃校のほうへ走り出す。
その背を見届けると、彼は深く息を吸う。

(……決めるのは、後でいい)

冴えた瞳の少年は、音もなく歩き出した。



「ふぅ……」

廃校の教室で、葵は壁に背を預け、胸の奥に渦巻いていた感情を鎮めようとしていた。

冷たい床の感触。
目を覚ましたとき、暗闇の中、ここに一人だった。
断片的な記憶を巻き戻していると、外で土が崩れる音がした。
反射的に身を起こして、建物を出た。
そこには、夜の闇へと続く深い穴が大きく口を開けていた。

暗がりで見えにくかったが、見慣れた姿が、獣のような影と激しく交錯していた。
咄嗟のことだった。考えるより先に、意識が探す。

『何か……つかめるものがあれば』

視界の端に、細長い雑草が映った。
次の瞬間、草は束ねられ、編みこまれ、縄へと形を変えていく。
まるで、応えるように。

自分がやったのか、それとも何かがそうさせたのかはわからない。
でも――迷いはなかった。

直感的に縄を掴み、穴へ投げ入れる。
そして彼に呼びかけていた。
ただ彼を助けたい、その想いだけだった。


瞬間的に回想の糸が、断ち切られる。

――ドンッ、ドン!

重低音とともに、強い衝撃が地面を通して腹の底に響いた。
続けざまに、もう一度、さらにもう一度。
廃校の壁が軋み、古い窓ガラスがガタガタと鳴る。

窓の外を見ると、土埃が盛大に舞い上がり、焦げた草と炎が混ざった独特の匂いが鼻をつく。

(……無事、かしら)

葵は建物の陰から身を乗り出し、濛々と立ち込める黒煙の向こうを見つめた。
煙は重く、なかなか晴れない。
地響きが完全に収まるまで、どれほどの時間が過ぎたのか――わからない。

葵は気づいていなかった。
自分の安否よりも、彼が無事でいることを願っていたことに。

やがて、揺らぐ煙の帳の奥に、ひとつの影がぼんやりと浮かび上がった。

「……南野君!」

声が、思ったよりも大きく出た。

影は、ゆっくりと近づいてくる。
歩調は一定で、乱れがない。
彼は歩きながら、肩や袖についた土と煤を軽く払った。

近づくにつれ、輪郭がはっきりする。
足取りは確かで、崩れた様子はなかった。

「……倒したの?」

蔵馬は足を止める。一度だけ周囲を見渡し、煙の残る地面へ視線を落とす。

「ああ」

短く答えたあと、淡々と言葉を継ぐ。

「サボテンを爆弾に変えた。地中を移動する性質を利用して、地雷として複数埋めておいたんだ」

説明は端的だった。
勝敗を誇る調子でも、感情を含ませるでもない。

葵は、静かに彼を見つめた。
彼の冷静な判断力と、恐ろしいまでの戦術眼が垣間見える。
自分が持たない戦闘技術に、感嘆していた。

ふと彼女の視線に気づいたのか、蔵馬は顔を上げた。
何とも言えない複雑な面持ち。
その目は、夜よりも深い魔が潜む影を帯びて、まっすぐ葵を捉える。

「……君は」

煙の中に、言葉と言葉の隙間が漂う。

「一体、何者なんだ?」

問いは低く、少年のものとは思えない口調だった。
だが、詰問ではない。

葵はすぐには答えなかった。
風の勢いが少し弱くなって、二人の間をすり抜けていく。
土埃をまとった空気が、少しだけ冷たく感じられた。
葵の、象牙に近い色素の薄い髪が揺れて、淡い光を反射する。

言葉を受けて、葵がゆっくりと口を開いた。

「私は、あなたと同じ妖怪よ」

静かな湖に、一滴の波紋が生じるような声。

「なにっ?」

蔵馬の眉が、わずかに動いた。

「……妖怪、だと?」

「ええ」

蔵馬の視線が、無意識に、急速に彼女の全身をたどる。
妖気の気配を探る。
――だが、何も引っかからない。
深い夜の底のような双眸に、別の色が混ざる。

「君からは……妖気を感じない」

「そうでしょう?だから、伝えるかどうか迷って、様子を見ていたのよ。私、1年程前に魔界で生まれたばかりなの」

その言葉が、蔵馬の中で静かに反響した。
魔界とは――、妖怪たちの住む世界。蔵馬の故郷でもある。
記憶の底に沈んだ風景が、微かに揺れる。

「まだ、妖力が安定していないのか?」

「自分でもわからないの。ただ、このおかげで、魔界でも人間と勘違いされることが多かったわ」

蔵馬は、黙ったまま彼女を見る。
初めて会った日から抱いていた違和感が、少しずつ別の形へ変わっていく。
だが、その名前はまだわからなかった。

肉体感覚が発展途上で、寒さを感じなかったこと。
鬼と対峙したときの落ち着き。蔵馬を助けたときの植物を操った、あの瞬間。
ようやく、いろんなことに合点がいった。
それで全てが説明できたわけではないが――。

「……そうか」

一陣の風が吹き抜ける。
短いが、深く重さを伴った沈黙。

「知っていたら……」

言いかけて、彼は言葉を止めた。視線を逸らし、遠くの夜空を見る。
言うべきか。伏せるべきか。

その時、自分の中の何かが変わる気配がした。
もちろん、それを言葉にすることはしなかった。

「あんなことは、しなかった」

「あんなこと?」

葵が首を傾げる。
この日この時、彼の口は妙に素直だった。

「君がさっき眠ったのは、夢幻花の花粉を使ったからだ。睡眠と……記憶の消去の効果がある」

「……え?」

今まで以上に、葵の目が大きく見開かれた。
それに構わず、彼は続けた。

「オレの能力を見られた以上、そのままにできなかった」

「記憶を……消すつもりだったの?」

一瞬の沈黙。蔵馬の冷静な表情は変わらない。

「……そういうことだ」

風が少しだけ静まった。
葵は何も言わず、虚空を見つめていた。
時間が静かに流れる中、彼女の世界だけが止まっているようだった。

(当然の反応か……)

相手を観察しながら、彼はふっと息を吐いた。

突然――葵は蔵馬へと駆け出した。
そして拳が振り上げられる。

「……っ!」

蔵馬はなんなく、それを受け止めた。
トン、と小さな衝撃。

さきほど死闘を繰り広げた蔵馬にとっては、それはあまりにひ弱な攻撃だった。
しかし、彼女の瞳は、真っ直ぐだった。

「っ……何をするんだ?!」

反射的に漏れた声にかぶさるように、葵は言った。

「私は、怒っている!」

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空気を分けるような澄んだ声が響く。
廃墟の敷地には、他に人影はない。
風に揺れる草と、まだ残る煙の匂いが、二人を包んでいる。

拳を立てたのは一度きり。
声を張った葵の肩が、感情の高まりゆえに、わずかに上下しているのがわかる。
それでも――目は、逸らさない。

「記憶を消そうとしたのには、それなりの理由があるのはわかるわ。ただ、こちらの都合も聞かないで、勝手に判断したのはどうかと思う!」

葵は口唇を引き結んだ。
何かを飲み込むように。何かを失いかけた子供のように。

風が、二人の間を抜ける。
草の先が擦れ合い、乾いた音を立てた。

――……軽い。
そう体が捉えた直後、彼はもう一つの違和感に気づく。
重さだった。
手のひらに伝わるのは、衝撃というより、逃げも、迷いもないまま向けられた意志。
冷えた夜気の中で、そこだけが、じんわりと熱を帯びている。

蔵馬の思考がこの事態に結論をつける前に、言葉が続いた。

「私は、あなたと話すのが楽しかった」

予想しない言葉が、妙に、静かに彼の胸の奥へ沈んでいく。
葵は、握られた拳を引こうとしなかった。

「だから……これからもそうしたい。その私の自由意志を奪う権利はないはずよ!」

「……っ」

指先が、わずかに強張る。蔵馬は何も言わなかった。
その曇りのない深い瞳と、剣幕から目が離せない。
言葉はいくつも浮かんだが、そのどれも口から発せられないまま消えていく。

時間が、完全に止まったようだった。
手のひらに残る熱を、無意識に確かめる。

――いつもなら、相手の感情にもこれほど反応しないのに。

これは、今までの経験が通用しない。敵意とも、脅威とも違う。
彼女の視線は、刃のようではなく、ただ純粋だった。
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