1章 めぐり逢い


次の瞬間、彼は動いていた。
音もなく、葵の背後へ回る。ためらいはなかった。
腕を伸ばし、その小さな体を包み込む。

抱き寄せた力は強くない。
けれど、逃がさない位置だけは、正確だった。

「……え?」

「……葵、ありがとう」

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小さく絞り出したような声。
奥で震えた音が、背中越しに伝わる。
彼の体温。胸の鼓動。
そして甘く、それでいてビターな花の匂い。
全てがグラデーション的に押し寄せ、葵の感覚をくすぐる。

振り返ろうとしたが、できなかった。
蔵馬の腕は、抱擁というより、留め具のようだった。
この場所に繋ぎ止めるための、静かな拘束であり、守り。

有無を言わせぬ緊張と、言葉にならない切迫感が、背中から伝わってくる。
葵の中で浮かんだのは、
――どうして?ではなく、
――何かあったの?
彼を案じる気配が、先に立つ。

「……南野君?」

蔵馬は答えない。
代わりに、額をそっと彼女の頭に寄せた。

髪から、ほのかに香りが立つ。
知っているようで、思い出せない。
それでも、記憶が覚えている懐かしさがあった。
蔵馬は目を閉じた。ほんの一瞬だけ、指先に集めた妖気が、わずかに揺れる。



(……これで、最後だ)

指先に、妖気を集める。
夢幻花の花粉。
睡眠と記憶の消去の効果がある。
短期間で、同じ手段をまた選ぶことになるとは――数奇なめぐり合わせだった。

「みな……み、の……」

葵が、名前を呼びかける。だが、声は最後まで形にならない。
意識が薄れ、瞼がゆっくりと落ちていく。
彼の腕の中で、小さな体の力が抜けていった。

蔵馬は、即座に体勢を落とした。
立膝のまま彼女を抱え、衝撃が来ないように支える。
その動作に、迷いはなかった。

――話せば、何かが変わったかもしれない。
だが、それを確かめるつもりはない。その「かもしれない」を、彼は選ばない。
今の自分の妖力では、守る余裕はない。
それを、誰よりも理解している。甘さは、己以外も傷つける。


彼はそっと、彼女を床へと横たえた。
葵の頬にかかった髪を、指先で払う。
触れるつもりはなかったのに、 手は自然に動いていた。
そして一度だけ、その顔を見下ろした。

(……君のおかげで、また夢を見ることができた)

触れた途端に、消えてしまいそうな泡沫の。
思考はそこで途切れた。
何を得たのか。 何を失いかけているのか。まだ言葉にならない。

「……。」

しばらく、言葉は胸の奥にも浮かばなかった。


そのときだった。
突然、外気に混じる異質な妖気。鋭く、湿った感触が背筋を走る。
蔵馬の目が細まる。
あからさまな殺気は、確実に自分に向けられている。

(……八つ手やつでほどではないが、今のオレと互角ほどの妖力。勝てるか……)



もう一度葵に視線を送る。
眠る横顔は静かだった。 数か月前、 空き地で植物に話しかけていた少女と同じ顔だった。

(……)

蔵馬は視線を外した。
そして、音も立てずに教室を出た。
夜気が、肌に張りつく。空は深く、灯りはほぼない。

(確かに、ここだ)

気配は消されているが、完全ではない。
蔵馬は歩みを止め、五感を研ぎ澄ます。
風の流れ。地面の微細な振動。空気に残る、土と妖怪の匂い。

次の瞬間――

ガラガラッ!
足元が崩れた。

「っ……!」

視界が一気に落ち、体が引きずり込まれる。
蔵馬は即座に身を丸め、着地の衝撃を逃がした。

暗闇の底で、獣のような低い唸りが響いた。
地面が割れ、もぐらの形をした妖怪が姿を現した。

鋭い爪が、地を裂く。
蔵馬は跳ねるように距離を取るが、足元が遅れた。

「っく!」

軽く足を負傷する。

「胴体と足を切り離す予定だったんだが、よく避けたなぁ。蔵馬」

敵意に満ちた声が、地底に不気味に響く。
蔵馬は呼吸を整え、静かに立ち上がった。
退く選択肢はない。

背後には、眠る少女がいる。本来なら、もう関わるはずのなかった存在だ。


「お前は確か、木竜もくりゅうか」

低く、押し込めたような声が響く。普段の生活では、決して出さない音。
土の匂いが濃い。掘り返された大地から、湿った空気が立ちのぼっている。

「そうだ。手下の鬼が世話になったな!」

「……オレが倒したやつか」

「八つ手がいなくなった今、お前を倒せばこの町はオレのものだ!」

八つ手――数か月前に、蔵馬がある妖怪と共闘して倒した妖怪だった。

言い終えるや否や、木竜は地中へと沈み込み、姿を消す。地面が不自然にうねる。
わずかな静寂ののち、地面が裂け、鋭い爪が飛び出した。

左右、下方と――弾丸のような速度で、連続して襲いかかる。
蔵馬は後ろへ跳び、紙一重でかわす。
頬をかすめた風圧が、ひやりと皮膚を撫でた。
足裏に伝わる微かな振動を拾いながら、視覚と合わせて周囲を測る。



(奴のフィールドで、長期戦はまずいっ)

爪をかわしながら、蔵馬は無駄のない動きで距離を取る。
呼吸は乱れていない。だが、地中という条件が思考の余白を削っていく。

風華円舞陣ふうかえんぶじん!」

指先から解き放たれた花びらが、鋭い風切り音を立てて宙を舞う。
空中で曲線を描き、地面の裂け目へと吸い込まれていった。

直後、地底を震わせるような悲鳴が響く。
木竜は、逃げるようにさらに地中深く潜った。

(耳は、やつのセンサーだ)

蔵馬は一歩踏み込み、周囲の気配を探る。

(これで、しばらく正確な攻撃ができないはずだ……)

この一撃は一時的に木竜の聴覚を封じたが、致命傷には程遠い。
地中は、なおも木竜の独壇場のようなもの。

(早く地上へ)
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