1章 めぐり逢い
3月に入ったばかりだというのに、春が足早にやってきたように、その日は驚くほど暖かかった。通学路では、上着を脱いで歩く学生たちの姿も見える。
蔵馬は、少し前を歩く葵の後ろ姿に視線を留めていた。
彼女の背よりやや大きなリュックを背負い、人通りの少ない路地を、迷いのない足取りで進んでいる。
前回は、あの一件で途中までしか追えなかった。
今日は方向だけ確認できればいい――そう思っていた矢先。
またしても、予想外のことが起こった。
路地の影を縫うように、一つの気配が動いた。
鈍く、粘ついた妖気。
一つ目の下級妖怪だが、性質は悪い。
大きさは彼女と同じほど。明らかに、腹を空かせている様子だった。
(……まずいな)
妖怪は、彼女の背後へ距離を詰めていた。
狙いは明らかだった。
じり、じり、と影が伸びる。
攻撃範囲に入った瞬間、妖怪は跳んだ。
蔵馬も、同時に走り出していた。
しかし、再び予想外のことが起こった。
葵は振り返り、大きなリュックを両手で構え、前に突き出す。
カンッ!
乾いた金属音が、路地に響いた。
鬼の爪がリュックに食い込む。
蔵馬は一瞬、自分の目を疑った。普通の人間なら、防御ではなく悲鳴が上がる。
(……見えている?)
その疑問と同時に、胸の奥で何かが沈んだ。
やはり彼女は、ただの人間ではない。
鬼の方が、たじろいでいた。
自分の姿を認識されているとは思っていなかったのだろう。
見えるということは、霊力が高いという証明だった。
蔵馬は、足元の雑草に妖気を通した。葉は一瞬で鋭い刃へと変わる。
風を切る音と共に、背後から鬼に切り付けた。
妖怪が悲鳴を上げる間もなく、地に伏した。
その瞬間、葵と蔵馬の視線が交わる。
「南野君?!」
驚きはあるが、恐怖は薄い。
そのことが、彼の判断をさらに早めた。
「とりあえず、こっちだ!」
説明は後でいい。人目につく前に、ここを離れる必要があった。
――そして彼女について確かめる必要も。
彼は葵の手首を掴み、路地を抜ける。
誘導した先は、廃校になった古い小学校だった。
校舎の一角、教室だったと思われる場所の窓ガラスは割れ、時折風が鳴いている。
「……あれを見て、驚かないんだな」
「初めてじゃないの」
あっさりとした返事だった。
夕方になり辺りは暗く、周辺には街灯もまばら。
市街地から遠く離れているその場所には、人っ子一人いない。
この非日常的な状況の中でも、葵は落ち着いていた。同年代の女子なら、5分ともたない。
「前にも襲われたことがあって、リュックの中にこれを入れてたの」
先ほどの襲撃で、一部穴の開いたリュックを床に置いた。
口を開き、中に手を入れると、ずしりと重いものを取り出す。
二キロの鉄アレイ。
「護身用か」
「ええ。あなたみたいに、武器は作れないから」
感情の上下のない落ち着いた声。
まっすぐに向けられた視線が、暗がりの中で不思議に澄んでいた。

蔵馬は、何も言わず目を伏せる。
薄暗い教室に風が吹き込み、割れた窓が小さく鳴る。
彼女が見ているもの。
彼女が持っているもの。
そして――自分が、何を見せてしまったのか。
(彼女が何者であっても……このまま帰すわけにはいかない)
夢幻花の感触を、指先で思い出していた。
数か月前の出来事が、不意に脳裏をかすめた。
あのときも、始まりは些細なことだった。
ただ、近くにいた。それだけで。
蔵馬のそばにいた一人のクラスメイト。彼女は、彼に想いを寄せていた。
距離が近いほど、影響は強くなる。
結果、彼女の霊力は不自然に引き上げられ、本来見えないはずの妖怪が見えるようになってしまった。
そして――彼が植物を武器化し、戦っているのを見てしまう。
後に、蔵馬と敵対する妖怪にさらわれた。
自分の存在が、クラスメイトを異界へと巻き込んでしまった。
その事実は、軽いものではなかった。
彼は彼女の記憶の一部を消した。
自分に向けられていた初恋の感情も、まとめて。
彼女が、平穏な日常に戻るために必要だと判断した。
蔵馬は、視線を落とした。
今、目の前にいる葵との出逢いも、構図だけならよく似ている。
偶然。接触。能力の露呈。
そして彼女への危険性。
(……同じことを、繰り返すわけにはいかない)
理由は、十分すぎるほどある。
関わらない。線を引く。
それが、お互いにとって最も最適だ。
「南野君は、強いのね」
回想していたところ、葵の柔らかな声に現実に戻された。
廃校の教室。
割れた窓から風が吹き込み、床に散った埃がわずかに舞う。
二人しかいない空間に、その声は穏やかに残った。
「……そうでもないさ」
誇張も謙遜もない、事実としての返答だった。
視線を伏せたまま、蔵馬は指先に意識を集める。
――夢幻花。
必要なら、すぐに使える距離だ。
そのとき。
「そうそう、思い出したわ」
突然、葵が声を上げる。
その場で屈み、リュックに手を入れて、ゴソゴソと何かを探し始めた。
カサカサと擦れる音。
蔵馬の指が、わずかに止まった。
彼女が取り出したのは、透明な袋に入った一着のコートだった。
自分のものだと、すぐに分かる。
「はい」
葵は、両手でそれを差し出した。
(調子が狂うな……)
一瞬、思考が噛み合わない。
彼女といると、いつものペースが乱れる。
「ありがとう」
「……もう、コートは用意できたんだね」
彼は袋を受け取る。
その拍子に、彼女の指先がほんの一瞬、彼の指に触れた。
温度が、残る。
袋の中には、丁寧に畳まれたコートと――
その上には、小さな白い箱。
「葵、これは?」
名前を呼んだのは、思考を超えた行動だった。
無意識に出た音だと、脳内で処理する。
「もうすぐ、ホワイトデーだから」
コートのお返しに、と付け加えた彼女の言葉に思考が引っかかる。
「ありがとう、と言いたいところだけど。ホワイトデーは、男性が女性に贈る日だったと思うよ」
「友人同士で、感謝の気持ちを贈る日でもあるでしょう?」
葵はそう言って、柔らかく微笑んだ。
自然体な言動に、蔵馬は返す言葉を一瞬、探した。
「……そうだね」
理解できない善意は、時にもっとも厄介だ。
室内が暗くて助かった。表情を整える時間をかせげる。
人間として生きた経験のため、昔よりも感情が出やすいから。
彼女の行為に他意はない。ただ、感じたままを差し出しているだけだ。
だからこそ、厄介だった。
しかし、冷徹な選択は変わらない。
葵の中の、自分との時間を消すことを。
(身勝手だと思われても……)
蔵馬はほんの数秒、呼吸を置いた。
廃校の教室に流れる風の音が、微かに遠のく。
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