1章 めぐり逢い
季節は12月の末。
学校を終えた制服姿の少年が、曇り空のなかを一人で帰宅していた。
端正な顔立ちに短髪の彼は、学校では南野秀一と呼ばれている。
成績はよく、物腰も柔らかい。中学のクラスメイトにも人気があるが、特定の人といることはあまりない。
ましてや、放課後に誰かと連れ立つことはほとんどない。
それは、偶然ではなかった。
彼は帰宅路を、意図的にいくつかに分けている。
この日選んだのは、少し遠回りになる迂回路だった。
民家が点在している一角に、草木が生い茂る空き地がある。
人が足を踏み入れることは滅多になく、冬枯れの匂いと湿った土の気配が残る場所だ。
——そこに、誰かがいた。
視界の端で異質なものを捉えた瞬間、少年の足がわずかに減速する。
意識するより先に、体が反応していた。
15、16歳の女子生徒が、地面にしゃがみ込んでいる。
どこの学校とも知れない制服。紺のブレザーに、同色のスカート。
肩下まで伸びた髪を、後頭部の低い位置で一つに結んでいた。

「そうなのね……。別の所に、根付きたかったのね」
彼の発達した聴覚が、小さな独り言を捉えた。
空き地に似つかわしくない、柔らかな声だった。
高すぎず、低すぎず、水を含んだように耳に残る。
彼女は、枯れかけた低木に両手を添えている。
高さ60センチほど。葉の縁は色を失い、土も痩せていた。
——話しかけているのか。
一歩、通り過ぎるはずだった足を止めた。
自分でも理由を測りかねたまま、数秒の沈黙が生まれる。
(……妙だな)
危険は感じない。それは確信できる。それにもかかわらず、足が止まっていた。
おそらく、これは好奇心だろう。
「……その木、弱っているんじゃないかな」
柔らかく、艶のある少し高い声が響いた。
小柄な女子生徒が振り返った。
色素の薄い髪が揺れ、光を吸い込むような、透明度の高い深い瞳がこちらを捉えた。
一瞬だけ目を見開き、すぐにふわりと微笑んだ。
「植物のこと、詳しいの?」
警戒よりも、純粋な興味。
その反応を、彼は静かに観察する。
「……少しね」
少年、南野秀一は、気付けば彼女の隣へ腰を下ろしていた。
膝越しに土の冷たさが伝わる。
彼女の手が添えられている葉に、慣れた動作で指先を伸ばす。
乾いた感触。水分が足りていない。
「土と、相性が合わなかったようだね。ここじゃ、根が息苦しい」
「移し変えれば?」
「別の場所にね。水はけの違う土なら、持ち直すかもしれないね」
少女は小さく頷いた。
どういう風の吹き回しか、彼は初対面の彼女と並んで歩いていた。
道中、お互いに言葉は少なく、彼女は抱えた小さな木を何度も確かめるように見つめている。
空き地と土の種類が異なる河原に着いた。
新しい土に根が触れた瞬間、木の葉がかすかに揺れた。
「ありがとう。えっと……あなたの名前は?」
「……南野だ」
「南野……君、ありがとう。私は葵 って呼んで」
土のついた手を払う仕草は、どこか無防備だった。
最近この町に越してきたこと、今は散策の途中だったことを話す。
年齢の割に、語られる言葉は落ち着いている。
彼は、葵から目を離さず、静かに分析する。
(霊力はそこそこあるが……普通の人間のようだ。妖気も感じない)
結論は、すぐに出た。
危険ではない。少なくとも、今は。
南野秀一、妖怪名蔵馬は、どことなく波長が合うと感じたが、それ以上踏み込まず、その場を離れた。
歩き出してから、胸の奥に小さな波が広がる。
安心と、説明のつかない違和感。
小さな棘のようなものが、意識のどこかに残っている。だが不快ではなかった。
——まあいい。
そう判断し、彼は思考をそこで止めた。
これが蔵馬と葵の出逢いだった。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
数日後、蔵馬が図書館に行った帰りのことだった。
町の中心部の大通りを歩いていると、聞き覚えのある声が空気に乗って届いた。
「今、用事があって急いでいるの」
「硬いこと言うなよ、ちょっと、茶しばくだけだから付き合えよ」
道路の向こう側で、茶髪にリーゼントの男子高校生三人が、一人の女子生徒を囲んでいた。
数日前に出会った、葵だった。
相手の雰囲気に飲まれることなく、毅然とした態度。
人目もあるから、大事には至らないだろう。
そう結論づけて、次の交差点で脇道に入ろうとした時だった。
「南野君!」
背後から呼ばれ、彼は小さく息を吐いた。
聞かなかったことにもできるが——。
(……予定が変わったな)
蔵馬が振り返る前に、葵が走ってくる。
向こうに残された男たちが、舌打ちをしながらこちらを睨んでいた。
「……やあ。また会ったね。あの人たち、こっち見てるけど大丈夫?」
一瞬、彼女と背後を見比べる。
「道がわからなくて声をかけたの。でも、話が別の方向に……」
「……声をかける相手を、間違えたようだね」
色々と突っ込みどころはあるが、表に出さない。
今は、この場を離れるのが優先だ。
先を急いでいる、と言おうとしたとき、彼女が紙を広げた。
——今日は、どうも予定が狂う日のようだ。
「ここの場所、良かったら案内できるかしら?」
葵が差し出した地図に、彼は視線を落とした。
紙の端は何度か折り返された跡があり、指先の熱でわずかに柔らかくなっている。
示されていたのは、市民交流センター内にある市立中央図書館だった。
半年前に改装され、自習室やカフェ、テラスも併設された、比較的新しい施設。
専門書の蔵書も多く、彼自身も先ほど立ち寄っていた場所だ。
(……なるほど)
偶然と言うには、少し出来すぎているが、深読みするほどのことでもない。
「案内だけなら、大丈夫だよ」
彼は来た道を戻ることにした。
並んで歩く間、言葉はほとんど交わされなかった。
靴底が舗道を踏む音。遠くを走る車の低いエンジン音。
冬の乾いた空気が、頬を撫でる。
葵は沈黙を、会話で埋めようとしなかった。
図書館の入口で、軽く会釈をして別れる。
たったそれだけの、短い関わりだった。
——それから。
蔵馬は、図書館でたびたび葵を見かけるようになった。
目を合わせることも、声をかけることもない。
ただ、卓越した五感が彼女の気配を無意識にとらえていた。
彼女はいつも、窓際の自習スペースにいた。
見ようとしていたわけではない。それでも辺りを見渡せば、自然と視界のどこかにその姿が入る。
冬の薄明かりに照らされながら、黙々とノートに何かを書き留め、本をめくる。
動きも存在も静かで、空気のようだった。
そうして2か月が過ぎていた。
特別な出来事は何もなかった。ただ図書館へ行けば、窓際のどこかに彼女がいる。
それが、いつの間にか当たり前になっていた。
ひとつ、気になることがあった。
彼女はいつも、制服姿のままだった。コートも、マフラーも身につけない。
窓際は、特に冷えるはずなのに、彼女は平然としている。
季節だけが進み、人々の服装が少しずつ厚くなっていく。それでも彼女だけは、出会った頃と何も変わらない。
(……寒さに鈍いのか?)
その疑問が、消えずに残った。
ある日、蔵馬は図書館を出た彼女の後を追った。
理由をつけるほどのことではない。
ただ、確かめておきたかった。そうしなければ、妙に気になり続けるようで。
外に出ると、鉛色の空から、珍しく雪が舞っていた。
細かく、音もなく、地面に吸い込まれる。
葵は足を止め、手のひらを差し出す。
落ちてくる雪のひとひらを拾っては、消えるのを眺めている。
くしゅっ。
くしゅっ……くしゅっ。
小さなくしゃみが、三度続いた。
(……やっぱり、寒いんじゃないか)
彼女は気にした様子もなく、町の中を歩き出す。
色素の薄い、不思議な光り方をする髪が、冷たい風を受けて揺れていた。
蔵馬は距離を保ち、角の影を選びながら後を追う。
足音を殺し、気配を落とす。彼にとっては造作もない。
町の中心を離れるにつれ、空がひらけていく。
鉛色の天上から、ちらちらと降る雪を、彼女はぼんやりと見ていた。
何を考えているのかは、わからない。
ただ、その視線は目の前ではなく、もっと遠くを向いているようだった。
5分ほど、いやそれ以上だろうか。
彼女は周りを気にせず空を見上げていた。
そう、道のど真ん中で。
そう判断したのは、バイクの音が近づいていたからだった。
角を曲がった車体は、速度を落としきれていない。
ブレーキは、間に合わないタイミングだった。
その瞬間まで、少年は動かなかった。
——危ない。
思考が追いつくより早く、体が前へ出る。
蔵馬は彼女の腕を掴み、勢いのまま歩道側へ引き寄せる。
バイクは、すぐ横を風のように通り過ぎていった。
「……南野君?」
葵は、瞬きをしただけだった。
恐怖も驚きも、表情には浮かばない。誰かに呼ばれて、振り向いたようだった。
「いつの間に」
「……そうゆう問題と場合じゃない」
彼は、息を整えながら彼女を見る。
(……無自覚にもほどがある)
「とりあえず、周りを気にしながら空を見ようか」
言葉は淡々としていたが、声がわずかに硬い。
「近くにいたなら、声をかけてくれたらよかったのに」
「……そうだね」
尾行していたとは言えず、言葉を濁す。
そんな彼の様子にかまわず、彼女は再び空を仰いだ。
蔵馬が言葉の続きを考えていると。
「くしゅっ!くしゅっ……」
その小さな音が、彼の注意を引き戻す。
先ほど触れた彼女の腕の冷たさが、脳裏によみがえる。
外気温はおそらく2、3℃。
自分はマフラーとコートに身を包み、彼女はいつもの制服のみ。
しかもスカートで、膝下の素肌が冬の外気にさらされている。
——平気なわけがない。
「コート、着なくて大丈夫?」
彼の好奇心はさらに続いて、何気なく彼女に問いかけた。
「あまり寒いって感覚がないの」
白い息が、はっきりと浮かぶ。
それが、強がりではなく、温度に無頓着なのだとすぐに分かった。
「寒く無かったら、そんなにくしゃみしないよ」
その声には呆れたようなため息が混ざりつつも、語尾は穏やかだった。
蔵馬は、自分の着ていたチャコールグレーのコートを脱いだ。そして葵の前に差し出した。
自分でも何をしているんだろうと思いながらも、手は引かなかった。
「これ、着なよ」
「……いいの?」
「そのままだと、風邪をひく」
独特の抑揚でゆっくりと響く彼の音は、冬の空気に広がる。
葵は不思議そうにしばらくコートを見つめてから、そっと腕を通す。
布が触れる音。その動作は、どこか慎重だった。
「……はぁ」
吐息が、白く広がる。
「……温かい」
彼の温もりが残るコートは、じんわりと彼女の体を温めてくれた。
ほっとして微笑む葵に、蔵馬はわずかに視線を逸らした。
——これは、人間的な善意だ。
そう結論づけるのが最も自然だった。彼は思考をそこで止めた。
胸の奥で、何かが留まったまま動かなくなっているのを、静かに流した。
「私、寒かったのね」
葵はそう言って、袖の先から指先だけをのぞかせ、両手を擦り合わせた。
まるで今になって思い出したような口ぶりだった。
蔵馬は、思わず苦笑した。
「持って行くといいよ」
「え?いいの?」
葵は、着ているコートと蔵馬の顔を、交互に見比べた。
「君が自分のコートを用意できたら、そのとき返してくれればいい」
「……ありがとう」
葵の表情がふっとほどける。
さきほどと同じ、花が開くような笑顔だった。
「……。」
蔵馬はそれを正面から受け取らず、すぐに視線を逸らした。
足先を戻し、家の方向へ歩き出す。
背中に視線を感じたが、振り返らなかった。
ふと見上げた空には、さきほどまで舞っていた雪の名残もない。
雲の切れ間から、淡い夕焼けが覗いていた。
(……もう止んだか)
しかし、胸の奥に残る小さな引っ掛かりだけは、消えていなかった。
彼はその理由を考えず、家に向かって歩を進めた。
学校を終えた制服姿の少年が、曇り空のなかを一人で帰宅していた。
端正な顔立ちに短髪の彼は、学校では南野秀一と呼ばれている。
成績はよく、物腰も柔らかい。中学のクラスメイトにも人気があるが、特定の人といることはあまりない。
ましてや、放課後に誰かと連れ立つことはほとんどない。
それは、偶然ではなかった。
彼は帰宅路を、意図的にいくつかに分けている。
この日選んだのは、少し遠回りになる迂回路だった。
民家が点在している一角に、草木が生い茂る空き地がある。
人が足を踏み入れることは滅多になく、冬枯れの匂いと湿った土の気配が残る場所だ。
——そこに、誰かがいた。
視界の端で異質なものを捉えた瞬間、少年の足がわずかに減速する。
意識するより先に、体が反応していた。
15、16歳の女子生徒が、地面にしゃがみ込んでいる。
どこの学校とも知れない制服。紺のブレザーに、同色のスカート。
肩下まで伸びた髪を、後頭部の低い位置で一つに結んでいた。

「そうなのね……。別の所に、根付きたかったのね」
彼の発達した聴覚が、小さな独り言を捉えた。
空き地に似つかわしくない、柔らかな声だった。
高すぎず、低すぎず、水を含んだように耳に残る。
彼女は、枯れかけた低木に両手を添えている。
高さ60センチほど。葉の縁は色を失い、土も痩せていた。
——話しかけているのか。
一歩、通り過ぎるはずだった足を止めた。
自分でも理由を測りかねたまま、数秒の沈黙が生まれる。
(……妙だな)
危険は感じない。それは確信できる。それにもかかわらず、足が止まっていた。
おそらく、これは好奇心だろう。
「……その木、弱っているんじゃないかな」
柔らかく、艶のある少し高い声が響いた。
小柄な女子生徒が振り返った。
色素の薄い髪が揺れ、光を吸い込むような、透明度の高い深い瞳がこちらを捉えた。
一瞬だけ目を見開き、すぐにふわりと微笑んだ。
「植物のこと、詳しいの?」
警戒よりも、純粋な興味。
その反応を、彼は静かに観察する。
「……少しね」
少年、南野秀一は、気付けば彼女の隣へ腰を下ろしていた。
膝越しに土の冷たさが伝わる。
彼女の手が添えられている葉に、慣れた動作で指先を伸ばす。
乾いた感触。水分が足りていない。
「土と、相性が合わなかったようだね。ここじゃ、根が息苦しい」
「移し変えれば?」
「別の場所にね。水はけの違う土なら、持ち直すかもしれないね」
少女は小さく頷いた。
どういう風の吹き回しか、彼は初対面の彼女と並んで歩いていた。
道中、お互いに言葉は少なく、彼女は抱えた小さな木を何度も確かめるように見つめている。
空き地と土の種類が異なる河原に着いた。
新しい土に根が触れた瞬間、木の葉がかすかに揺れた。
「ありがとう。えっと……あなたの名前は?」
「……南野だ」
「南野……君、ありがとう。私は
土のついた手を払う仕草は、どこか無防備だった。
最近この町に越してきたこと、今は散策の途中だったことを話す。
年齢の割に、語られる言葉は落ち着いている。
彼は、葵から目を離さず、静かに分析する。
(霊力はそこそこあるが……普通の人間のようだ。妖気も感じない)
結論は、すぐに出た。
危険ではない。少なくとも、今は。
南野秀一、妖怪名蔵馬は、どことなく波長が合うと感じたが、それ以上踏み込まず、その場を離れた。
歩き出してから、胸の奥に小さな波が広がる。
安心と、説明のつかない違和感。
小さな棘のようなものが、意識のどこかに残っている。だが不快ではなかった。
——まあいい。
そう判断し、彼は思考をそこで止めた。
これが蔵馬と葵の出逢いだった。
♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢
数日後、蔵馬が図書館に行った帰りのことだった。
町の中心部の大通りを歩いていると、聞き覚えのある声が空気に乗って届いた。
「今、用事があって急いでいるの」
「硬いこと言うなよ、ちょっと、茶しばくだけだから付き合えよ」
道路の向こう側で、茶髪にリーゼントの男子高校生三人が、一人の女子生徒を囲んでいた。
数日前に出会った、葵だった。
相手の雰囲気に飲まれることなく、毅然とした態度。
人目もあるから、大事には至らないだろう。
そう結論づけて、次の交差点で脇道に入ろうとした時だった。
「南野君!」
背後から呼ばれ、彼は小さく息を吐いた。
聞かなかったことにもできるが——。
(……予定が変わったな)
蔵馬が振り返る前に、葵が走ってくる。
向こうに残された男たちが、舌打ちをしながらこちらを睨んでいた。
「……やあ。また会ったね。あの人たち、こっち見てるけど大丈夫?」
一瞬、彼女と背後を見比べる。
「道がわからなくて声をかけたの。でも、話が別の方向に……」
「……声をかける相手を、間違えたようだね」
色々と突っ込みどころはあるが、表に出さない。
今は、この場を離れるのが優先だ。
先を急いでいる、と言おうとしたとき、彼女が紙を広げた。
——今日は、どうも予定が狂う日のようだ。
「ここの場所、良かったら案内できるかしら?」
葵が差し出した地図に、彼は視線を落とした。
紙の端は何度か折り返された跡があり、指先の熱でわずかに柔らかくなっている。
示されていたのは、市民交流センター内にある市立中央図書館だった。
半年前に改装され、自習室やカフェ、テラスも併設された、比較的新しい施設。
専門書の蔵書も多く、彼自身も先ほど立ち寄っていた場所だ。
(……なるほど)
偶然と言うには、少し出来すぎているが、深読みするほどのことでもない。
「案内だけなら、大丈夫だよ」
彼は来た道を戻ることにした。
並んで歩く間、言葉はほとんど交わされなかった。
靴底が舗道を踏む音。遠くを走る車の低いエンジン音。
冬の乾いた空気が、頬を撫でる。
葵は沈黙を、会話で埋めようとしなかった。
図書館の入口で、軽く会釈をして別れる。
たったそれだけの、短い関わりだった。
——それから。
蔵馬は、図書館でたびたび葵を見かけるようになった。
目を合わせることも、声をかけることもない。
ただ、卓越した五感が彼女の気配を無意識にとらえていた。
彼女はいつも、窓際の自習スペースにいた。
見ようとしていたわけではない。それでも辺りを見渡せば、自然と視界のどこかにその姿が入る。
冬の薄明かりに照らされながら、黙々とノートに何かを書き留め、本をめくる。
動きも存在も静かで、空気のようだった。
そうして2か月が過ぎていた。
特別な出来事は何もなかった。ただ図書館へ行けば、窓際のどこかに彼女がいる。
それが、いつの間にか当たり前になっていた。
ひとつ、気になることがあった。
彼女はいつも、制服姿のままだった。コートも、マフラーも身につけない。
窓際は、特に冷えるはずなのに、彼女は平然としている。
季節だけが進み、人々の服装が少しずつ厚くなっていく。それでも彼女だけは、出会った頃と何も変わらない。
(……寒さに鈍いのか?)
その疑問が、消えずに残った。
ある日、蔵馬は図書館を出た彼女の後を追った。
理由をつけるほどのことではない。
ただ、確かめておきたかった。そうしなければ、妙に気になり続けるようで。
外に出ると、鉛色の空から、珍しく雪が舞っていた。
細かく、音もなく、地面に吸い込まれる。
葵は足を止め、手のひらを差し出す。
落ちてくる雪のひとひらを拾っては、消えるのを眺めている。
くしゅっ。
くしゅっ……くしゅっ。
小さなくしゃみが、三度続いた。
(……やっぱり、寒いんじゃないか)
彼女は気にした様子もなく、町の中を歩き出す。
色素の薄い、不思議な光り方をする髪が、冷たい風を受けて揺れていた。
蔵馬は距離を保ち、角の影を選びながら後を追う。
足音を殺し、気配を落とす。彼にとっては造作もない。
町の中心を離れるにつれ、空がひらけていく。
鉛色の天上から、ちらちらと降る雪を、彼女はぼんやりと見ていた。
何を考えているのかは、わからない。
ただ、その視線は目の前ではなく、もっと遠くを向いているようだった。
5分ほど、いやそれ以上だろうか。
彼女は周りを気にせず空を見上げていた。
そう、道のど真ん中で。
そう判断したのは、バイクの音が近づいていたからだった。
角を曲がった車体は、速度を落としきれていない。
ブレーキは、間に合わないタイミングだった。
その瞬間まで、少年は動かなかった。
——危ない。
思考が追いつくより早く、体が前へ出る。
蔵馬は彼女の腕を掴み、勢いのまま歩道側へ引き寄せる。
バイクは、すぐ横を風のように通り過ぎていった。
「……南野君?」
葵は、瞬きをしただけだった。
恐怖も驚きも、表情には浮かばない。誰かに呼ばれて、振り向いたようだった。
「いつの間に」
「……そうゆう問題と場合じゃない」
彼は、息を整えながら彼女を見る。
(……無自覚にもほどがある)
「とりあえず、周りを気にしながら空を見ようか」
言葉は淡々としていたが、声がわずかに硬い。
「近くにいたなら、声をかけてくれたらよかったのに」
「……そうだね」
尾行していたとは言えず、言葉を濁す。
そんな彼の様子にかまわず、彼女は再び空を仰いだ。
蔵馬が言葉の続きを考えていると。
「くしゅっ!くしゅっ……」
その小さな音が、彼の注意を引き戻す。
先ほど触れた彼女の腕の冷たさが、脳裏によみがえる。
外気温はおそらく2、3℃。
自分はマフラーとコートに身を包み、彼女はいつもの制服のみ。
しかもスカートで、膝下の素肌が冬の外気にさらされている。
——平気なわけがない。
「コート、着なくて大丈夫?」
彼の好奇心はさらに続いて、何気なく彼女に問いかけた。
「あまり寒いって感覚がないの」
白い息が、はっきりと浮かぶ。
それが、強がりではなく、温度に無頓着なのだとすぐに分かった。
「寒く無かったら、そんなにくしゃみしないよ」
その声には呆れたようなため息が混ざりつつも、語尾は穏やかだった。
蔵馬は、自分の着ていたチャコールグレーのコートを脱いだ。そして葵の前に差し出した。
自分でも何をしているんだろうと思いながらも、手は引かなかった。
「これ、着なよ」
「……いいの?」
「そのままだと、風邪をひく」
独特の抑揚でゆっくりと響く彼の音は、冬の空気に広がる。
葵は不思議そうにしばらくコートを見つめてから、そっと腕を通す。
布が触れる音。その動作は、どこか慎重だった。
「……はぁ」
吐息が、白く広がる。
「……温かい」
彼の温もりが残るコートは、じんわりと彼女の体を温めてくれた。
ほっとして微笑む葵に、蔵馬はわずかに視線を逸らした。
——これは、人間的な善意だ。
そう結論づけるのが最も自然だった。彼は思考をそこで止めた。
胸の奥で、何かが留まったまま動かなくなっているのを、静かに流した。
「私、寒かったのね」
葵はそう言って、袖の先から指先だけをのぞかせ、両手を擦り合わせた。
まるで今になって思い出したような口ぶりだった。
蔵馬は、思わず苦笑した。
「持って行くといいよ」
「え?いいの?」
葵は、着ているコートと蔵馬の顔を、交互に見比べた。
「君が自分のコートを用意できたら、そのとき返してくれればいい」
「……ありがとう」
葵の表情がふっとほどける。
さきほどと同じ、花が開くような笑顔だった。
「……。」
蔵馬はそれを正面から受け取らず、すぐに視線を逸らした。
足先を戻し、家の方向へ歩き出す。
背中に視線を感じたが、振り返らなかった。
ふと見上げた空には、さきほどまで舞っていた雪の名残もない。
雲の切れ間から、淡い夕焼けが覗いていた。
(……もう止んだか)
しかし、胸の奥に残る小さな引っ掛かりだけは、消えていなかった。
彼はその理由を考えず、家に向かって歩を進めた。
1/1ページ