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「まぶしっ」
1週間の勤務を終え、へろへろになりながら会社の玄関を出た途端、右方から容赦ない光線を浴びせられる。一瞬なにが起きたのか理解できなかったが、目を凝らすと車のライトを向けられていることが分かった。
どうやら運転手は、ヘッドライトをハイビームにしたりローライトにしたりと、せわしなくレバーをカチカチと鳴らしている。暴力的な光が、仕事終わりに疲れた体からさらに思考力を奪っていく。こんなふざけたことをしてくるのは1人しかいない。
(左馬刻さん…なんでここに?)
彼は今朝、日が昇る前に部屋から出て行った。なんでも重要な仕事があるとかで、シンジュクに向かうと言ってたような。きっとまた遅くなるんだろうな、とぼんやり考えながら、眠気まなこで聞いたのでしっかり覚えていない。けれど、左馬刻さんが少し微笑んで布団をかけ直してくれたこと、「行ってくる」とひどく小さなやさしい声を投げかけてくれたことは覚えている。
「ンだよ。せっかく人が仕事早く切り上げて迎えに来てやったんだろが」
「わー珍しい。そんなこともあるんですね」
疲れ切っていて自分でも思ったより声に覇気が乗らなかった。左馬刻さんも感じ取ったのか、片眉がぴくっと動いた。
彼のお仕事は、予想している時間よりも過ぎることがほとんどだ。待つことには慣れたけれど、早く来られることには免疫がない。
「行くぞ、乗れ」
乗車を急かされ、わけがわからないまま助手席に飛び乗った。今日の左馬刻さんはどことなくご機嫌な気がするのだ。それは何かを企んでいる証拠を示す。
「今から山奥向かうぜ」
「えっ!?わたしついに埋められる!?」
「バーカ。ンなワケあるか」
「じゃあなんだってこんな時間に山奥なんて」
「フロ」
「浮浪者を埋めに行くんですか!?」
「アァ!?違ぇつってんだろ!風呂だよ風呂!温泉!」
温泉?
左馬刻さんとあまりに結びつかなくて、堪えきれず少し吹き出してしまう。
「てめぇ、何がンな面白しれェんだ」
「ごめんなさい、まさか左馬刻さんから温泉っていう言葉が出てくると思わなくて」
「お前、行きてェっつったよな」
「え」
「いいから行くぞ。んでそのまま泊まる」
あれは2週間ほど前だろうか。 たまたま休日が合った私たちは、たまたま空いた夕方の時間に、たまたまニュース番組を垂れ流していた。箱の中では地元局のニュースキャスターが、ヨコハマから2時間ほど車を走らせるとたどり着く温泉地の紹介をしていた。
寒さが徐々に訪れはじめ、背景の紅葉と温泉の湯気が相まった様子を見て、ぽつりと「いいなぁ、温泉」と呟いたことを今思い出した。
そのときの左馬刻さんはというと、大きなソファに全身の力を預け、興味なさげにスマホをいじっていたような。
「左馬刻さん、」
「ア?」
「変なものでもたべた?」
「てんめ……ッ、さっきから口が減らねーなァ」
運転していた左馬刻さんは苛立ち始めつつ、正面から助手席に顔を向けた。そして、ギョッとした。
「ありがと、うれしい」
知らない間に涙が溢れていた。仕事でささくれ立った心を、左馬刻さんが簡単に治してしまった。あまりに自然に私を想ってくれるものだから、行き先の温泉に着く前にすでに感無量だ。
やだな、泣くつもりなんかなかったのに、うれしさでどんどん溢れてくる。幸せのあまり涙が出るのは、彼と夜を共にした日以来かもしれない。いずれにせよ、左馬刻さんから数えきれないほどの幸福を与えてもらっている。幸せの容量が限界を迎えた結果の、嬉しい悲鳴の涙だ。
「おい、なんの涙だそりゃ」
「嬉し涙です」
「わけわかんねぇ」
「いいんです、わけわかんなくて。幸せなので」
ふと左馬刻さんが真顔になる。そして沈黙が訪れ、夜の帳とともに車内を包み込む。暗闇の中、スピードを上げて進む車が、数々の明かりに近づいては過ぎ去るのを繰り返し、気がつくと赤信号を前に失速した。
赤信号で止まって遅れることワンテンポ。左馬刻さんが助手席側に身を乗り出した。目元に柔らかいものが触れる感触があった。
それは左馬刻さんのやわい部分を詰め込んだようなキスだった。私は驚いて左馬刻さんを凝視してしまう。
「俺も、お前に構えるのが幸せなんだよ。だから下手な意地はってねーで俺を頼れ。詩露に泣かれると、クソダセェことにどうしたらいいか分からなくなる」
普段とは違う、左馬刻さんのやわらかな声に心が凪いでいく。
意地を張ってしまうのは性分で、こればかりはどうにもならない。お陰で自分を苦しめることなんてしばしばある。そんな時に彼は頼れと言うのだ。得体の知れない仕事に忙しく、野生的で、乱暴で、女には困ってない、なんて顔した、ひどく美しい人が。一体全体、どういう奇跡なのだ、これは。
このやさしい人にどうかずっと幸せでありますように。それが無理なら、私が神様になってこの人を幸福にしたい。全ての苦しみから守ってあげたい。もうこれ以上、彼のこころのやわい部分が傷つくことはありませんように。
「そうやって優しくされると、余計に涙が出てきちゃうんですよ」
「わかった、テメーはもう一生泣いてろ」
「えーん」
「そんで俺に一生慰められてろ」
「はい」
「クッ、はい、かよ」
「断る理由がないです」
「いい返事だ」
信号が青に変わり、車が速度を上げていく。左馬刻さんの左手と、私の右手はつながったまま。世間が灯す光を横目に、私たちは山中の小旅行をするために夜のドライブと洒落込んだ。
「今さら離してやるつもりもねぇよ」