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第5章


目の前を薙刀の刃が通り過ぎる。
咄嗟に避けたものでその刃はフェールデの空色の髪を切る。
切られた数本がぱらりと宙に舞うが、フェールデはそれをものともせず後ろに飛び退く。
視界に短くなっておかっぱぐらいの長さになった髪の毛が見える。
同時に笑い声。煉霞が笑った声だ。
その狂気に浸るような表情はフェールデに幼き日を思い出させた。

___雪が、降る。
今日も。優しく雪が降る。
暖かい部屋からそれを眺める。
明日は雪で遊べるだろうか。みんなと追いかけっこでもしようか。
そう考えて幸せな気持ちはいっそう膨らむ。
両親に呼ばれる声がして晩御飯なことを知る。
ご飯を食べて、お風呂に入って、寝たらもう明日だ。
楽しみだ。みんなと、人間と遊ぶのが。

目の前に雪のように燃え盛る火炎の火の粉が舞う。
柄にもなく遥か昔のことを思い出してしまった。
「なんだぁ゙?ぼさっとして。集中しろよ、この戦いに。……我は同族をも喰らうことを辞さぬ。油断してるとその生き血全て食ってしまうぞ」
くすくすと笑う煉霞。フェールデは先程から煉霞に刃すら届いていなかった。
離脱も考えたが、煉霞は紅永なんかより優しくない。たとえ逃げても背中にざくりだ。
煉霞の愉悦に浸るような表情はまだフェールデに過去を見せようとする。
どれもこれも重なるものばかりだ。
何もかも気にしたくなくてフェールデはその弓をつがえ直す。
「油断なんかしてないよ。寝言は寝てから言ってよね」
煉霞の能力を当てることはとうに諦めた。
分析したって無意味だ。あの炎は物質を除いて全てを焼き尽くす。それだけだ。
体をよじりながらその弓を引き、直後に口に指を加えるとぴゅうっと吹く。
指笛に反応したようにどこからともなく鹿と犬がこちらに来る。
鹿にフェールデが軽く乗ると煉霞はうざったそうにその眉を歪め、何を思ったか煉霞は自分の指に歯を立てる。
ぶつりと言う音と共に鮮血が指先から滴る。
その血は炎を纏い煉霞の片手に溢れんばかりの勢いで炎が燃え始める。
滴る鮮血はフェールデの心を揺さぶる。今すぐその血を喰らいたいと言う衝動。
吸血鬼は同族の血ですら美味いと感じるらしい。
そんな衝動、制御出来たらまだ楽しい日々があったのだろうか。
そんな柄にもなくただ脳に言葉が浮かぶ。
どう足掻いたって過去のことは変えられない。
それにもう後悔だってしていない。
あの景色は酷く美しかった。
弓をその手につがい直して煉霞に照準を揃える。
素早く矢から手を離せばそれはまっすぐ煉霞の元に進んでいく。
煉霞はその矢を少し視認すると矢をなんてことなく、するりと避ける。
僅かに頬を掠めたようだがそれはただの布石だったと後にわかる。
その血から炎が発される。
「ぬるい。ぬるいな。もっと全力で来い。」
にぃっと笑った煉霞はねじるように地面に足裏を押し付け強く地面を蹴る。
そこそこなスピードで走る鹿に向かって飛んできた。
それはフェールデにとって好都合だった。
至近距離に煉霞が来る。
煉霞が振った薙刀をすんでのところで避け、素早く煉霞を捕まえる。
とんでもない反発力だったがそれを力いっぱい抑えフェールデは瞳を開ける。
わずかな時間の間、止まっていてくれればいい。
煉霞はおそらく自分より格上だ。そんな相手を思うように動かすなど、相応の覚悟が必要だ。
そう思って瞳を見た。
ぞわりと全身の毛穴が粟立つような感覚を覚える。
深淵をのぞく時深淵もまたこちらを覗いているのだ。
どこかで聞いたことのある言葉だ。
ぐっと精神が持っていかれる感覚がして気づけばフェールデに意識はなかった。

びちゃっ、と地面に血がつく音。
切り裂かれた首元は酸素を取り込もうとしてヒューヒューと鳴るばかりだ。
鹿の上からその体は落ち動けないことを悟る。
肺に血が溜まっていく。

「……最後に名前を聞いておこう。これから我の糧になるがいい」
くすくすと趣味悪く笑う煉霞は片手に炎を纏っている。その炎でフェールデを焼くつもりなのだろう。
何が名前を応えろだ。答える余裕もない。
煉霞の持っているものがスノードロップでないとはいえ、その体に致命傷レベルの深い傷を負えばその命が尽き果てるのも時間の問題だ。
放っておけば治るかもしれないが血をも燃やし尽くされれば生きることは出来ない。

燃える炎が出す火花はフェールデには、雪に見えていた。
冷たかったけれど優しい雪に。
同時にあの景色が視界に映る。あぁ、綺麗だったなぁ。もう一度、また…

煉霞が痺れを切らしたように「ふん。つまらんな」と言ってその手を振りかぶる。
あぁもう。終わるのだろうか。
先程よりひゅ、ひゅ、と苦しそうに喘ぐフェールデを見て誰もがフェールデ・レイカンゲルの死を確信した。時だった。
煉霞の手がピタリと止まり、その炎は勢いを無くす。終いには全て消え去り鱗片も残らなかった。
見ていることしか出来なかった碧も流石にうろたえる。なぜここで殺さないのか。
縁はアリクレッドを抱え煉霞に近寄ろうとする。
突然かくんっと膝を着いた煉霞は掠れた声で言った。
「フェールデ、フェールデ・レイカンゲル、さん……ですよね」
その声はまさに皆がよく知っている煉霞の声だった。
「…フェールデさん、ま、って、く、ださい…うちに…うでの、いい…医者、が……っぅ、ぉぇ…」
必死に繕うように煉霞は笑うが猛烈な目眩と吐き気に襲われ嘔吐く。
げほげほとむせれば肺は焼けるように痛かった。
「煉霞くん…!?大丈夫!?」
縁が慌てたようにそう言うと煉霞は必死に顔を上げてジェスチャーで何かを伝えようとする。
フェールデさんを助けて。そう言っているように感じた。
フェールデを指さして、運んでと言わんばかりにフェールデの手を引く。
どう足掻いたってその大きな裂傷では雪花の能力を使っても無事で済みそうにない。
第一、敵に情けをかけるほどみんな余裕は無いのだ。
縁はどうしたものかと少し悩むが煉霞の背中をさすって「煉霞くんは休んでて」と優しく言う。
煉霞はまだ不安そうにしていたが強い頭痛と目眩、終いには吐き気で精神を保っているほどの余裕はもうなかったらしく、少しその瞳を閉じればその体躯はぐらりと揺れ縁の懐に収まる。
碧にも手を貸してもらいたかったが、碧はまだ、フェールデと話があるようで。縁は煉霞とアリクレッドを何とか抱えてその場を少し離れた。

ひゅーひゅーと鳴る自分の呼吸の音と大量の出血のせいで頭が回らない。ただこれから死ぬのかもしれないということだけ。それだけが分かる。
薄く開いた視界に広がるのは雪原だった。

どこを見ても雪、雪。
見慣れた風景だ。
もこもこの服を着込んだ子供たちがあたたかそうな家から出てきて元気にこちらに駆け寄ってくる。
遊ぼうと言ってくれる。
ボクの手を引いて。
子供が笑ってくれるからボクも嬉しくて思わず笑う。
今日は何をして遊ぶんだろう。何をして。
また会いに、来てくれたのかな。

そう思ったのに、その暖かな景色は真っ赤な血の色になってなにも、なにも。見えなく、なった。

「…なぁ。あんたはなんで。なんでこないなことしたん」
眠っていたのだろうか。ひゅ、ひゅ、と息をする喉は変わらない。痛みも感じる。一時的に気を失っていたというのが正しいのだろうか。
「…なんで、なんであんたは俺を騙したん。」
先程まで戦っていた煉霞の姿は無い。
その目を横に向ければ、その先には碧が居た。
突然何を聞くのかと回らない頭でそう思う。
ただ何となく、答えた。
「……ぜっ、たい、…ボクが、食べて…やる、って…思って……」
碧に許す気など到底無く、理由を聞いたって許せるとは思っていなかった。
だけどその口から出たのは何度顔を合わせて、何度も言われたセリフだった。
「絶対許さへん」
縁は周辺にもう居ない。気でも効かせたか、それとも……。碧は考えるのを辞める。
札に血溜まりを作ったフェールデの血を付ける。
ズタズタに体を切り裂いてやりたい気持ちを抑えてフェールデの傷口、首あたりにその札を貼り付ける。
札を貼った吸血鬼がどんな風に死ぬのかは何度も見た。これが吸血鬼に対する復讐だ。
フェールデの体は足先、指先から砂のようにさらさらと崩れてゆく。
その色は真っ白で、雪。粉雪のようだ。

あぁ、雪。綺麗だった。どこの雪も。足跡が着いていないのも。着いているのも。
鮮血で染まっているのも。

____子供たちの笑い声が聞こえる。
父と母に遊びに行ってもいいかと聞いたらいいよと言ってくれた。いつものように念押しで「怪我をさせるんじゃないぞ」とだけ言われて。
はーいと子供特有の返事をしてコートを着込んで家を飛び出す。
家を出れば世界は真っ白で、思わずほうっと息を吐いた。
ボクが家から出てきたことに気づいた1人がこちらに大きく手を振る。
一緒に遊ぼうとボクを呼んだ。
ボクもそれが嬉しくて小さな足と手を振ってみんなの方に走った。

雪合戦をして雪だるまを作って。
手先も冷えるほど遊んで顔も真っ赤になった。
馬鹿みたいにけらけら笑ってコートの中もびちょ濡れだ。
家に帰ったら暖かいタオルで身体を拭いてもらってお風呂に入る。
いつもの流れだ。
今日の晩御飯はなんだろうか。楽しみだった。

家の扉をそっと開けて「ただいま」と元気よく言ったが家の中から返事は無い。
いつもなら優しい声が帰ってくるのに。
「…おとうさん?…おかあさん?……」
不思議に思いながらもぺたぺたと家の中に入ってくる。そこには慌てて外出の準備を整える両親がいた。
「…おとうさん!おかあさん!どっか行くの?」
どこに行くのだろう。市場だろうか。でももう午後だ。市場に行くには遅すぎる。
父も母も少し驚いた表情をしてから「おかえり」と笑ってくれる。
それがいつも通りでボクは嬉しかった。
「フェールデ。」
「なぁに?」
コートを脱ごうとすると父に名前を呼ばれる。
「今日は、○○さんのお家に行ってきなさい。」
「……なんで?…」
○○さんと言えば時々お泊まりをするお友達のお家だ。
「それがな。お父さんとお母さん、これが用事が出来たんだ。今から急いで出なきゃ行けない。夜も帰って来れないかもしれないから、フェールデだけだと心配だろう?○○さんならフェールデも過ごしやすいかと思って」
次々と言われることはどれも疑問を呈したくなるものばかりだった。でも幼いボクはそんなことを気にするより、今の平穏を信じきっていた。
「…分かった!じゃあボク今からお泊まりの準備するね!」

泊まりの準備をしたボクを両親は連れて○○さんのお家に行った。
○○さんちの子供はボクが来たのに驚いたけどお泊まりと聞いたら嬉しそうにしていた。
ボクとその子は今日の夜何しようか。カードゲームでもしようか。トランプならあるよ、だなんて夢中で話をしていた。
向こうの両親とボクの両親が真剣に何かを話していたけどボクは知る由も、聞く気もなかった。

その日。父と母は帰ってこなかった。

○○さんとほかの村人はボクに大変だったねと何故か言葉をかけた。ボクにはそれが理解できなかった。
どうやらボクのお父さんとお母さんはもう帰ってこないらしいとだけ。分かった。
そこからボクは村人の人にお世話になりながら生活をした。
お父さんとお母さんが居ないことは悲しかったけれど、みんなと遊んでる時間はそんなことさえも忘れられた。

そこから数年。ボクは成長した。肩ぐらいまでしか無かった髪は肩甲骨辺りまで伸びた。
しっかり切りそろえてもらってボクは嬉しかった。
そんなある日。村の大人たちが話していることをボクは聞いた。
「もう祓魔師達は来てないのよね」
「もうみんな倒したと思ってるらしいわ」
「良かったわね…フェールデくんまで倒しに来たら…。嫌ね。せっかく平穏に暮らしているのに」
「祓魔師なんて悪を決め付けなければ生きてけないんだよ」
そんな会話。
とどのつまりは祓魔師はボクの親を殺したのだ。
憎い感情はもちろんあった。
だけどボクはそれを寸分も出さず笑った。
「皆さん。晩御飯、うちで召し上がって行かれますか?」
そう、そっと部屋に入って声をかける。
にこやかに笑ったボクの顔を見て村の人達は少しほっとした表情をする。先程のことが聞かれていないかと不安になったのかもしれない。
おそらく聞いていなかったと思っているのだろう。
ばっちり聞こえていた。
ただ、ボクにはそれを表情に出さないようにする能力があっただけだ。
その日はそれだけ。それ以降もそれだけ。

の、はずだった。
ボクが何も言わずに。それで終わるだけそのはずだったのだ。

またみんなと遊んでいたある日、1人が転んだ。
鬼ごっこだったからわざわざ見ている余裕はなかったがフェールデは何となく心配する素振りをするために振り返った。
それが、きっと正解で間違いだった。
どうやらその子は木の裂けた皮に肌をひっかけたようだった。
その子の足には大きな裂傷。
そこから香る匂いは、甘美で。
フェールデに助けを呼ぶなんて手段はひとつとして残っていなかった。
ただ、その子の横に膝を着いて目を離せない傷を見つめる。
その子は必死に泣かないようにしていて、それすらもフェールデの興奮材料にしかならなかった。

気づいた時にはもう、その子の表情は死んでいた。
顔面蒼白で虚ろな目。先程まで泣いていたのか頬にはかわいた涙の痕。
初めて血を味わったフェールデにはそんな子供は今まで一緒に過ごした友達ではなく、ただの人間にしか見えていなかった。
食料としての、人間。

___その後のことはよく覚えていない。
目に入る友達に喰らいついてその血を貪った。
逃げ惑う子供たち、ただどれもこれもその瞳を見つめればボクの思いどおりになった。
それがボクの能力であることは少しあとに気づいた。

村人はみんな。死んだ。

はず。なのに。

「……ここは、…?…」
見覚えのある雪景色。
真っ白の雪を真っ赤に染めた。最後見たのはそんな景色。
だけど今は真っ白だ。
吐く息も白い。
そして今ボクは冬用のコートも着ていない。
でも不思議と寒くなかった。
「フェールデ」
そう、優しく。聞き覚えのある声で名を呼ばれた。
何時ぶりか、もうどれだけ聞いていなかったであろうその声。
顔をあげれば父が立っていた。
「…おとう、さん……」
気づけばボクの体は小さく、幼くなっていた。
「ほら。そんなところで立ってると風邪ひくわよ。コート、ちゃんと着なさい」
「おかあさん」
ふわりと暖かなコートが身を包む。
お父さんもお母さんも、ボクの手を取って優しくその手を掴む。

心臓が、期待に染まった。
「…おかえり、おとうさん、おかあさん」
そう言って笑ったら泣いてる顔を笑うんだ。
鼻をすする度にツンとするほど冷たい空気を吸ってみんなが待つ方にボクは歩く。
みんな待ってる。
また、会いに来てくれたんだね。

「あのね。おとうさん、おかあさん、行こう。」
「あぁ」「えぇ」
お父さんとお母さんの奥にいるみんなのところにボクは2人の手を取って向かう。会いに来てくれた。迎えに来てくれた。それだけでボクは嬉しくて。
また昔を繰り返すんじゃないかって少し思ったけど、それもまた、いいのかなって少し思ってしまった。


「陛下」
「はいなぁに。つか、ボク王族じゃないんだけど?」
「申し訳ありません。ボス。報告です。フェールデ・レイカンゲルの死亡が確認されました」
そう機械的に報告するのは黒髪赤目の青年。
力の大きさから見て中位だろうか。おそらく伝令係と言うやつだ。
「フェールデが?……あっそう。死体は?」
「砂のように消えました」
「……砂…太陽に当たった訳でもないのに……あぁもしかしてあの神社の子か…」
「はい」
「いいよもう。下がって」
紅永が気だるそうに言うと青年はしゅんっと消えた。そういう能力なのだろうか。
「フェールデが死んだ?……」
「そうだよ」
そう、馬鹿の一つ覚えみたいにさっきの報告の内容を繰り返すのはリアナ。
「……そう。……ねぇあんた。神社の子ってなによ」
「ん?あぁそれ。……リアナが気に入ってる子だよ。あの子の札の能力は特殊だからね」
「どういうこと?…」
「……あの札は吸血鬼に裂傷を与える効力もあるけど、瀕死の吸血鬼に貼り付けるとその体を灰に変える。元気な吸血鬼に張っても軽くデバフがかかるだけで意味はあまりないけど」
わざわざ昔のよしみで説明してやったがリアナがこれで理解できるかどうか。
「…ふぅん。……そう」
理解したのかは分からないがそう何かを押し殺すようにリアナは相槌を打つ。
「ていうか、あんた何時まで1人チェスやってんの?」
リアナは紅永と机を挟んで座っている。その机の上に広げられるチェスの盤上は非常に混沌としていた。
「ん?……時が来るまで、かな」
そう笑う紅永の顔は酷く大人びて見えて、どうせろくなことを考えていないんだということだけは予想が着く。
「……バッカみたい。……誰も彼もあんたの玩具。……ねぇあんたほんとにヨウなの?…」
「残念。違うよ。…ボクはもう紅永だから。キミが知ってるヨウじゃない」
わざわざ親切に答えてやったのだ。もっと反応をしてくれてもいいだろう。と思うほどにはリアナの反応は薄かった。
「とっくのとうに知ってるわよ。もしあんたが昔のままなら、こんなこと起こさなかったわ。」
「短期間でボクを知った気になられちゃ困るなぁ」
「これが短いってあんたの時間感覚どうなってるのよ」
そうリアナは紅永を一瞥し紅永が並べるチェスの駒達を眺めた。

A地区

「…終わった、かな?…」
「知らんわ。あんたが吸血鬼逃したせいであいつしかおらんと思うけど。」
縁がそう聞くと突っぱねた返事が返ってくる。
やはり碧は手厳しい。…恨まれるのも当然ではあるのだが。
……気まずい沈黙が流れる。
話題を探そうと思っても、縁にそれを発言する権利はない気がする。
何を言っても地雷を踏み抜きそうだ。
そこで沈黙を破るように声が発された。
「碧。縁。怪我は無いか」
少し通る男の声。
紛れもなく白華のものだ。
「白華さん。」
「ボス」
「元気そうだな」
2人が口々に振り返って白華を呼べば少し疲れた様子だが2人の姿を見て安心したように少し笑う。
「白華さん…?…」
安心したのもつかの間、ドスの効いた声が白華の背中からする。
「ッヒ」
小さな声で白華が悲鳴をあげる。
ギギギッ、と音が鳴るようにたどたどしく白華が振り返るとそこには般若のようなオーラを背負ってにこやかに微笑む正が居た。
「なんで脱獄してるんですか?」
「いっ、いや、その、これには事情が、その、緊急事態で、悪かったとは思ってるし、その、ほら…な!」
「な!じゃないです!ただでさえあなたは!」
我慢できなくなったようにくどくどと説教を始めてしまった正に、白華もバツが悪いようにどことなくしょんぼりとしながらそのお叱りを聞く。
年上の威厳なんてものはなかった。
碧は来てそうそうにうるさい夫婦だと思い周りに目線を巡らせる。
気づけばイルフォードやルーカスなど他の団員も来ている。勢揃いだ。
しかしセレイアの姿が見えない。
一体どこに……
「セレイアならボスの足元だぞ」
突然下から声がしたと思い碧が思わずびくりと跳ねる。
ちらりと下を見るとそこには鉄紺が腕を組んで立っている。
「鉄紺さんかいな…」
少しほっとしたがセレイアが足元とはどういうことだろうと思い目線を白華の足元に向ける。
よく見れば、いやよく見なくともセレイアは白華の足に寄りかかるように座らされている。白華が先程からあまり動かないのはそのせいだったか。
セレイアはすやすやと眠っており視界の端に入るピースに至っては投げ捨てられたように大の字で床で転がっている。見た限りだと白華が運んできたようだ。よくもまぁ2人も同時に、とは思うが触れないでおく。
「…セレイアさん…?…」
「やめておけ」
名前を呼んだら鉄紺に止められる。何故だろう。
「どうやら敵の精神攻撃を受けたようでな。先程から意識が戻らない。と、ボスが言っていた。」
「そゆこと。碧、セレイア背負ってくんねぇか。おじさんピース運ぶのだけで手一杯なのよ」
「白華さん!聞いてます!?」
先程おそらく2人を抱えてここまで来たであろう人が突然おじさんぶるな。と少し思うが皮肉を言うのをぐっと抑える。この人はこういう人だ。ペースに載せられてはいけない。
「分かりました。俺が運びます」
お姫様抱っこできるだろうかと思い少し手をさまよわせ掴んでみるがビクともしない。
己の力のなさを静かに恨みながら大人しく背負うことにして、セレイアの腕を自分の体に回し、持ち上げる。
「はい。ちゅうもーく」
特徴的な女性の声が騒音の中で響く。
みんなが安否を確認しあっていた声をピタリとやめて声の方を見ればそこには赤髪の女性、雪花が立っていた。
「談笑は車でもできるよ。早くアジトに戻って怪我を見せておくれ。怪我人はあっちの白い方の車に、かすり傷も一応見せておくれ。傷も何一つない元気なやつは怪我人を運ぶなりして手伝ってくれ。終わったらあっちの黒い車に乗って。」
そう端的に説明すると雪花は手をパンッ、と勢いよく叩いて行動開始の号令を鳴らした。

✣✣✣
「おい縁。…」
「?どうしたのアーナくん」
みんなが行動を始め、縁が煉霞を持ち上げようとしたところでアーナが声をかけてくる。
「…その、そいつは、どうしたんだ。怪我があるようには見えないが……」
「えっと…」
聞かれたことは縁にも検討が着いていない。
突然別の人のようになったと思えば元に戻って先程頭痛と吐き気を訴えた挙句咳をして気絶をしたものだから。
「…私にも、それは分からないかな…雪花さんに見せたらわかると思うんだけど…多分無事だと思うよ。疲れただけかもしれないし」
少し笑ってそう返してみるとアーナは少し安心したような雰囲気を見せる。もしや心配だったのだろうか。
「ふ、ふん!軟弱なやつ!縁ひとりで2人も運ぶのは大変だろう!僕が運ぶのを手伝ってやる!そいつを寄越せ!」
照れ隠しのようにそう手を差し出すアーナに縁は少し吹き出しそうになるがそれを抑えて煉霞を渡す。
「ありがとう。お願いね」
アーナは少し嬉しいのか表情を一瞬輝かせ「当然だ」と言って煉霞をせっせと持ち上げる。
己の体より大きな煉霞の体はアーナの体には余るがそれでも軽々と持ち上げる。やはり力持ちだ。
さぁ救護用の車の方に歩こうとすると煉霞が小さく声を上げる。
「なんだ、起きたのか貴様。ならおり、て…」
煉霞はその間おそらく1度も目を開けていない。
が、アーナの体にぎゅっ、と抱きつきそのまますや、とまた寝始めた。
完全にいい夢を見ている。
アーナは羞恥に煉霞を投げ飛ばし殴り飛ばしたい衝動に駆られるが仮にもけが人だと必死に理性でそれを阻む。
「…い、いこうか…」
「………あぁ……」
これ以上ないほど不服そうな声で返事が返ってきた気がした。

✣✣✣
救護用の車にセレイアをいち早く運ぶと雪花を急かしてセレイアの様子を見てもらう。
雪花は少し仕方なさげに笑ったが「まぁ愛しの彼だもんな」なんてくすくす笑って診てくれた。上手をいかれているようで少し不満を隠せなくなった碧を見て雪花は尚更ケラケラと笑った。
「…ふむ……そうだね。体に異常は見受けられない。しかもかすり傷ひとつすらない…いや、打撲跡は少しあるけど本人が受け身をとったみたいだ。大きな怪我はないよ。まぁあとは目を覚ましてからだな……能力の残滓が見える。…しかもこれは、…特位……」
「それ本当なん!?」
まさか特位と交戦していたとは。もしや白華の采配か。
祓魔師という職業はいつ己の身が死ぬかも分からない世界であることは重々承知している。だが、それでも危険に晒したのが白華とあれば……
「怪我が少ないことからそこまで長時間交戦はしていないようだ。…それに…どうせ白華が命令したなら1発殴ってやろう、とでも思っているんだろう?」
「…な、っそないなわけ…あらへん…!」
「図星だねぇ」
くすくす笑う雪花にどうしても手玉に取られている気がして眉間に皺が寄る。
「まぁ落ち着け。白華が任せたということは特位に渡り合えると思ったんだろうね。ただ、……白華はイレギュラーだ。特位っていうのは今は本当に稀有な存在で、白華はそれと渡り合ってる。捨て身の覚悟で挑んでも勝てるかどうか分からない相手にね。…おそらく不測の事態が起こったんだろう。例えばそう、特位の能力。今は不明だが洗脳系の可能性も考えられる。…精神攻撃、てことはそういうことかもしれないね。…」
「…でも、…前戦った時にはその体を切り裂いても元通りに戻ったって言うとったで。…そういう能力と違うん?」
単純な疑問を口にすれば雪花は少し思案する表情をして答えた。
「特位と呼ばれる理由が1つの能力とは限らない。……まぁこれは可能性の話だがね。それは本人の治癒力の可能性もある。…まぁ今は推定しかわからない。…とりあえず、そんなに彼が心配ならずっと隣で見てやっておくれ。起きた時に恋人の顔、見たいだろうしな」
そう言ってウィンクして声高に笑った雪花にどことなく白華の面影を感じる。
もしや、だが、白華の性格はこの人から来ているとかないだろうか。可能性が高そうだ……。
そう思いながら碧はセレイアの眠るベットのあるカーテンを開けた。

✣✣✣
言いたいことを山ほどいい、正はやっとスッキリしたようではぁっと息を吐く。
白華も悪かったとは思っているためかただすまんとしか返せなかった。
正がやっと話を終えて「まったく…」と言ったあと、ふい、とそっぽを向く。その時にふと気づいた。
「正。…その傷、どうした」
トントン、と白華が自分の頬を指で叩く。
傷?そこにはいつもガーゼはあるが…そのことだろうか?そう思い慌てて触ればガーゼはあった。
なんのことかと首をかしげれば「そこじゃなくてだな」と言ってこちらに手を伸ばしてくる。
頬に手を伸ばしてきたかと思うと、正の目元近くにある頬の傷を指で撫でる。
ぴりっと痛みが走りそこに傷があったのに正はようやっと気づく。
おそらくノクスの攻撃を避けているときに掠ったのだろう。いつのことかはもう検討が付かないが。
「…痛むか?…」
「え、?いや別に気にする程じゃ……ぁ!?」
そう聞かれたと思ったら次の瞬間には抱き上げられていた。
「ちょっと、!降ろしてください!」
「怪我人は雪花の所に連れて行かんとなぁ。」
クスクスと面白そうに笑う白華はそれはもう楽しんでいる。
ふざけないで欲しい。
「歩いて行けますから!」
「かすり傷だと舐めて行かないかもしれないだろ」
「貴方に言われたくありませんが!?」
そうぎゃあぎゃあと言い合いをしながら2人は雪花の救護用の車に向かった。

✣✣✣

「…おっと。…」
ころん、とチェスの白い駒が倒れる。
駒はころころと転がりその机から落ち、そうになる。
落ちそうなコマを素早く拾ったのは仁だった。
「っぶね……」
「あ。仁。いつの間に」
頬杖を着いて盤上を見ていたリアナがそう言って驚く。
紅永はと言えば一切動揺して居ない様子だった。
「……落ちたぞ。ボス。…」
「あぁ。あげるよキミに」
「…は?…」
落ちそうだった駒を返そうとつき返せばそうあっさりと返されて紅永は駒から興味無さげに目線を外す。
何をしているのかと思い仁はチェスの盤上を見る。
すると個数がおかしかった。
黒の駒が7つ。白の駒が12個。
先程落ちた駒を見ればそれは白のポーン。
それはなんだか薄気味悪く、嫌な予感を覚えさせるのには十分な不快感だった。
「…ボス。…揃ったぞ」
フェールデを除いて全員が、会議室に揃っている。リアナはここに居るからリアナとフェールデを除いて、と言った方が正確か。
「そう。分かった。今行くよ」
そう言って紅永は笑う。

次の戦いへの幕はもう、上がっていた。


✣✣✣

かんっ、と音が響く。
紅永達が部屋から退出してもうだいぶ経っていた。
音を響かせ机の上から落下したのは黒いポーン。
そして机上に置いてある盤上でころりと転がって倒れているのは白のキング。
落下した黒いポーンはころころと地面を転がり青年の足にぶつかる。
その青年はフェールデが死んだ時に紅永にその旨を報告した黒髪赤目の青年だった。
青年は赤い瞳だけを動かし足に当たった駒を見下ろす。
「………」
青年は瞳に駒を捉えたと思えば、一言も発さず踵を返し、駒をそのまま放っておく。

助ける、など。
一介の吸血鬼がすることでは無いと分かっていた。
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