第5章
耳を突き刺すような絶叫がコバルデの耳に届いた。
「…ちっ…うるさい家畜ですね」
思わず耳を塞いで悪態を着く。
そこまで叫ぶほどのことはしていない。
ただうざったいと思った筋肉、ピースに血をかけただけだ。
現在は緋緒が適応されているコバルデの血はピースの肉体に薔薇の紋様を描き確実にその場にいるピースに激痛を与えている。
ピースは我を忘れたように頭を抱え、激痛に苛まれているというのに喉を痛めるように叫び続ける。
痛む紋様の部分を引き剥がそうと擦るようにしているが紋様が落ちる気配はない。
「…ピース…!?…ピース!それは洗い流せば落ちる!少し落ちつ、け…!…」
近づいた鉄紺にピースは拳を浴びせかけ、鉄紺はそれを咄嗟に避ける。
触ることが出来ない。
絶叫で全ての声が聞こえていないようだ。
パニックになっているんだろうと思う。
絶叫し続けるピースを放ることも止めることも出来ず鉄紺は戸惑う。
ここに白華がいたならピースを力づくで止められていただろう。ピースと力勝負でまともにやり合えるのは白華程度だ。
しかしこのままピースが暴れていても話にならない。ピースを傷つける可能性しかないが鉄紺は薙刀を構え、ピースに向かう。
そこで声がした。
「鉄紺。水筒寄越せ」
驚きで返事は出来なかったが鉄紺は素早く水筒を肩から外し前に放る。
ここに来る気がした。
その予想は当たり横から水筒をかっ攫うように見覚えのある深緑色の髪が流れた。
そしてその水筒を片手に深緑色、白華はひょいとピースに近づき暴れるピースの拳を避けると容赦なくピースの首に蹴りを入れる。
「っカ…」
一瞬、ピースが怯んだ隙に白華は器用に片手で水筒を開けピースに水をぶっかける。
ばしゃんっ、と音が聞こえて薔薇の紋様は落ちていく。
同時にピースもどしゃっと地面に倒れた。起きる気配は無い。
「…うわ…やっちまったか……2人も同時に運べねぇぞ…どっちも重いんだぞ……あ、つか水全部出たかも。すまん鉄紺」
そう軽く謝る白華の肩には確かに俵担ぎされたセレイアが居る。
今の素早い動きを人1人担いでやったと言うのか。やはりボスは違う…が、なぜここにいる。
今回は指揮では無かったか。
水筒を投げて返され
「あ、おう……」
とつい普通に返事をしたがツッコミどころしかない。
一方の白華と言えば呑気にピースをずるずると引き摺って道の端に寄せている。
緊張感がない。
「……ボス…?だよな」
「んぁ?おう。…そうだが?…どうした突然」
いやそれはこちらのセリフだ。
なぜ突然現れたのか疑問が頭を支配する。
白華はと言えばピースの頬をぺちぺちと叩いて起きないかどうか格闘しているようだ。いや確実に首を殴った後に起き上がるのはいくら何でも化け物だろう。
案の定ピースは起きる気配がなく白華が仕方なさげにため息を着く。
「…ん?つかここB地区か。」
「それも知らないで来ていたのか!!!!」
ついに耐えきれず鉄紺は突っ込んだ。
「あ〜、いやな?とんでもねぇ叫び声が聞こえたもんで来てみたらやっぱピースでよ。…止めに来たんだが……そういえばこっちB地区だったな」
事の顛末はわかったがまず牢獄の中に入っていた白華がなぜここにいるとかまだ疑問はある、が。
今はそれどころでは無いので鉄紺は少しため息をついて後で聞こうと己を納得させる。
そして先程からこちらを見て薄気味悪い笑みを浮かべているコバルデを睨めばコバルデは明らかに気づかれたと言うようにくるりとこちらを振り返る。
「おや。お話は終わりですか?…うるさい家畜を黙らせてくれた事に感謝して、ワタクシは寛大な心でお待ちしていたんですよ。…それなのに何故。そんなに憎らしそうな目で見るのですか?…」
くすくすとコバルデは我慢できないように笑い始める。
どこが寛大だ。そう怒鳴りたい気持ちはあったが言おうとすれば顔の前に白華の手が置かれた。
「…おう。お前か。…その言動、煉霞が言ってた性根の腐った吸血鬼ってのは。…」
そう言う白華の声は静かだが刺々しい。
セレイアのことはどうやらピースと一緒に建物に寄りかけて寝かせているようで、視線を運べばそこにセレイアがいた。
「ちとお前に用のあるやつが山ほどいるんでな。出来ることなら生け捕りにさせてもらおうか」
そう言葉を続ける白華はぴりぴりと殺気立っている。
思わずコバルデもその殺気に目を細め足を後ろにした。
しかし、その直後それを飲み込むほどの威圧感がそこを支配した。
「……あは…あははは!あっはっはっ!これは僥倖!叩けば次出てくるだろうとは思っていたけれどもう出てきてくれるとは!…」
その声はよく通る少年の声。
お洒落に光る街頭の上にその足を綺麗に整え立ち、背中のマントをたなびかせるのはまさに紅永であった。
「…ボス…!…」
コバルデはその双眸を丸くしそう呼ぶ。
喜色満面の表情をする紅永は上機嫌でコバルデに目線を送ると言う。
「コバルデ。よくやったね。キミにしてはいい功績だ。わざわざ呼び出してくれるとは…」
くすくすと笑う紅永に褒められコバルデは一層嬉しそうににたにたと笑う。
そこに爆発音のような銃声が走る。
その音は確実に白華のものだ。
白華の翳した銃からは既に煙が立っていた。
その銃弾は真っ直ぐ進み紅永の心臓を射抜く。
紅永はその勢いのまま街頭からふらりと血を撒いて落下する。
それも頭から。
どしゃっ、と音がして内臓が飛び散る。
一瞬本当に死んだと思った。しかしその希望はあっさり砕かれた。
飛び散った血は糸のように伸び紅永の体をするすると巻き込んで行く。
棺桶のような形になったかと思えばすぐぱん、と破裂してその中から紅永が出てきた。
「流石白華だ!ボクのことを2度も殺すなんて!」
上機嫌の表情は変わらない。
2度殺す…?それは一体……
「これで7……8だね!…さぁへぷっ」
その次の言葉は吹っ飛んできたディーバによってかき消され紅永もそれに巻き込まれ吹っ飛んだ。
建物にがしゃんとぶつかった音がし、建物の壁は呆気なく崩れる。
がら、と瓦礫が落ちる音がした。
ディーバが飛んできた方向を見れば銃を構えた星那と腹を抑えたイルフォードが居る。
「…っ、は…ぁっ、…?ボス…?何故ここに…」
よたよたとこちらに歩いてくるイルフォードは出血のせいか満身創痍に見える。
ぼたぼたと血は流れ止まる気配は無さそうだ。
星那が支えながらこちらに歩いてくる。
巻き付けたスカーフにも血が滲んでいた。
「…ピースの叫び声で駆けつけただけだ。たまたま近くにいたんでな。…イルフォード歩け…なさそうだな。早めに雪花の元に連れてってやりたいところだが、ここから撤退するのはちと厳しいぞ」
そう言って白華が飛んで行った紅永の方に目線を向ける。
コバルデはと言えばそそくさとそちらの方に駆け寄り「ボス!ディーバ嬢!大丈夫ですか!?」と声を掛けている。
「…ぁいたた………ちょっと、ディーバ!せっかくいいとこだったのに…もー!」
紅永は瓦礫の中からもそもそと出てくるとその額には血が伝っている。
血は顎を伝ってぽたぽたと地面に流れると同時にその白いシャツを汚していく。
一方ディーバの方は応答がなく瓦礫の下敷きのようだ。紅永の方が下の方から出たというのに元気なのも非常にバケモノじみているとコバルデはそう感じる。
紅永は呼びかけても反応しないディーバに痺れを切らしたように「ディーバ!寝たフリはいいから起きてくんない!?」と怒りどこからともなく鎌を取り出すと鎌で瓦礫をゴルフのように打ち、瓦礫がその衝撃で砕けながらディーバの上から吹っ飛んでいく。
出てきたディーバの小さな体躯は打撲の跡と頭を打ったのか頭から血が流れている。
「…あーらら……」
紅永は口元を抑えて軽くそう言う。心配している様子は微塵もない。
紅永は念の為に顔を覗き込んでみるがその大きな双眸は閉じられていておそらく気絶しているのだろう。
顔を覗き込んだ時、紅永の額から血が落ちそうになったが紅永はそれを手で素早く止める。
あくまでもディーバに血を飲ませるつもりは無いらしい。
ごしごしと額を擦ればその傷は前髪に隠れ、血も止まったように流れてこなくなる。
どうやらかすり傷だったようだ。
「…うーん……もう。せっかく楽しくなりそうだったのに!…ボクも頭痛いし!…はぁ!…」
少し考えた後に紅永が1人ぷんすこと怒り始める。一体どうしたというのか。
「コバルデ!」
「はい」
怒った声のままコバルデを呼べばコバルデはニタニタと笑って片膝を着く。
「ディーバ持って」
横柄な態度でそう頼めばコバルデはあっさりと了承しディーバを抱き上げる。
スカートがめくれないようにそっとお姫様抱っこをすればその体は強さとは裏腹に軽かった。
「…あーあ!せっかく楽しかったのに!君のせいで水刺されちゃった。…コバルデ、戻るよ」
「行くのですか?」
紅永がイルフォードに不平を訴えた後、紅永は踵を返してコバルデに呼びかける。コバルデはもう行ってしまうのか、ボスなら何とかできるのではないかと思い思わずそう口にする。
紅永はと言えば気怠そうに「ディーバを何とかしないとボクの頭痛が治んないんでね。集中できないから帰る。」と返された。
一体どういうことなのか、ディーバ程度、傷の手当をしなくてもなんとかなるだろうとそう思うが他でもないボスの命令にコバルデが意見する訳もなく
「分かりました」
そう言ってコバルデは紅永の後ろについて行く。
「…!貴様…おい…ま、て…んぐ」
当然のように歩いていくコバルデ達を鉄紺は止めようとするがその言葉は白華に口を塞がれて止められる。
「…どこかに行ってくれるなら楽だ。今戦うのは得策じゃない。…分かるな…?…」
そう静かに諭されてしまえばいいえと首を振ることは出来ない。
鉄紺も引き際は弁えているつもりだ。
白華の言葉に鉄紺はこくこくと頷いた。
紅永達はその間にだいぶ離れ、もう全員の視界から消えていた。
ピースとセレイアをどう運ぶかと白華が思考を巡らせ、眠る2人の方に足を向けた時、轟音と共にA地区の方面に赤と紫の火柱が大きく立ち上った。
時は少し遡りA地区
煉霞は本来投げるはずのナイフを片手に持ち仁とぐっと距離を詰める。
下から切り上げるように振れば仁はそれをしっかりと避ける。
仁は抜刀するために後ろに飛んで煉霞から離れる。
想定通りの行動だった。
煉霞は地面を思い切り蹴ると片手に持ったナイフを投げ捨て仁に抱きつくような形で仁の体に飛び込む。
「ぅ゙ぐっ、」
仁も予想外の行動に思わず呻き声を上げ体がふらつく。
地面に倒れると思えばそれは煉霞が即座に足で止め、ばびゅん!と音が出そうなほどのスピードで煉霞は足を真横に切り返し崩れた建物の瓦礫の内側に仁を抱えたまま飛び込む。
その間約2秒ほど。
ちょうどその場にいるもの全てが煉霞への視線が外れた時のことで幸い誰にも触れられなかった。
瓦礫の内側に身を隠すようにコソコソと入り込み仁からそっと体を離す。
外の状態をちらりと見て確認するが縁もアリクレッドも碧も戦いが徐々に白熱してきているようだ。
「…仁くん。…一つだけお聞きします」
煉霞は姿勢を正し、轟音の中でもよく通る声で話す。
それでも恐らく仁にしか聞こえていない程の声量だ。
「…?…突然、何…」
「俺に近づいたのは意図して、俺を騙すためですか?……あの時話してくれたことは本心ですか?」
最後の方になるにつれて煉霞の声が僅かに震えていることが分かる。
もしかしなくても煉霞は何かを確認しようとしていないだろうか。
この期に及んでまだ、仁を信じようとしてるのではないのだろうか。
そんな考えが仁の頭をよぎった。
そんな都合のいいこと、この世界にあるとは思えないが。
「…騙す為なんかじゃない。本当だ。話したことも、全部、本心だ。」
そう、できるだけ煉霞の目を真っ直ぐ見て、本心だと通じるように言った。信じてくれるのなら、まだ望みはあると思ってしまう。
嘘だと糾弾されるかもしれないと少し恐怖があって仁は思わず唾を飲む。
しかし帰ってきた言葉はあまりにも軽かった。
「ほんと?よかった!」
「…へ…?」
本当にそれだけなのか、言うことは。嘘をついていたことも何も言わず。それだけ。
「?どうしたの?…多分仁くんは知ってたんでしょ?俺が祓魔師で、仁くんはいずれ敵に回るって。…俺が察し悪くて、きっと仁くん言うタイミング無かったんだよね。ごめん」
謝られるのはこっちじゃない。寧ろ謝るのは俺の方だと思わず口を開けかけた。
ただ口をついて出たのはそんな疑問じゃなかった。
「…なんで。なんで敵の組織の、いつ裏切るかも分からないやつを信じることができる。…」
そう聞いていた。
煉霞は目を丸くし明らかに照れくさいかのように視線を逸らす。
「だって。それは信じてるから。…えっと、仁くん、俺みたいな雑魚に今嘘をついても意味が無いじゃない?…それに、仁くんは嘘をつくような人じゃない。俺は仁くんを信じてるから、だから俺は仁くんの協力者になったんだ」
それは理解者であり共犯者の、煉霞の心からの声なのだろう。
その目には強い意志と光があった。
何か、覚悟も。
「…とりあえず、俺は仁くんの口裏に合わせるよ。…元はと言えば俺が知らなくて言ったことだし……ほんとにごめんね…このままじゃ、仁くんの身も危なくなっちゃう。俺が確かめたいってそのエゴのためにここに引き止めて置いて…」
先程の意思のある目と打って変わって次々に鬱々としたセリフが出てくる。
それに対して仁は別に特段煉霞が悪いと思っている訳では無かったし説明しなかった自分にも火はあったと少し思っている。
「…や、別に大丈夫大丈夫。何とかする。」
そういつものようにへらりと笑えば煉霞も安心するかと思ったが煉霞は一層表情を暗くして
「俺みたいな雑魚のせいで手間取らせちゃってごめんね……」
と宣う。
仁は乾いた笑いを浮かべながら、鬱々としている暇は無いので仁は瓦礫の外に目を向ける。
時折聞こえる轟音。それは建物のレンガが崩れた音だとかタイルが剥がれる音だった。
そしてその戦況の最中にいるのは緋緒。
フェールデは少し離れたところで黒髪のアリクレッドと青髪の碧と戦っているようだ。
ここで助けに行くべきか仁は迷う。
緋緒を信用こそしているもののそれでも目の前で戦っている姿はやはり心配だ。
「仁くんは茨目さんの方に行ってください」
煉霞はそう当然のように言う。
仮にもまだ敵であるのに。
「…え?…」
「あっ、ごめ!ごめんなさい!俺に指示出されるなんて不快だよね…」
「いやそんな事じゃなくて」
煉霞の言動から見るに仁をなにか疑っている訳では無いようだ。緋緒の相手である縁を殺すかもしれないというのに。
「…ぁ、えと……その、仁くんならいい感じに茨目さんを逃がせるかなと思って…その…俺の烏滸がましい考えなんです、けど…」
目をふせながらそういう煉霞は本当に仁のことを信用しているのだという言葉を平気で吐く。
こんなに警戒心がなくて大丈夫なのかと何度思ったことか。
ただ、仁はそれに対して悪い気はしなかった。だから思わず「大丈夫。行ってくる」なんて返して特に作戦も考えず駆け出す。
1歩飛び出してから思った。何も考えていないと。
不安要素が減ったことで舞い上がったか。己の行動を心底後悔したが、動いてしまったものは仕方ない。
小さく呻きつつも緋緒に向かう魔の手を振り解きに行った。
煉霞は仁が行ったことを見届けると瓦礫の山からひょこ、と顔を出してフェールデの方の戦況を見る。
そちらの戦況はアリクレッドと碧が優勢なようには到底見えなかった。
碧こそ無傷なものだがアリクレッドはかすり傷が多い。能力でフォークの形を変形させすぎたか左の小指が一切動いていないのを見るに折れているのだろう。
アリクレッドは敗北主義者であるが人を守るとなればその身を引くことは無い。個人的にはかっこいい人だとは思う。
しかし、無茶するアリクレッドをぼうっと見つめているほど煉霞は極悪非道では無い。
何の策もないが少しでも助けになれたらと地面を踏み締めその歩を進める。
ナイフを片手に静かに構えるとフェールデに向かって投擲する。
予想外の位置から飛んできたはずのナイフをフェールデは当然のように避ける。
そしてナイフの飛んできた方向にいる煉霞に餌が増えたとばかりに嬉しそうな顔で笑いかけその瞳を微かに開ける。
その表情は悪という他なく煉霞はその表情に背筋が凍りつく感覚がした。
同時に後ろから、地面をふむ音。
ば、と慌てて後ろを向けば緋緒がそこにナイフを振りかざしていた。
逃れることも出来ず煉霞は思わずぎゅ、と目を瞑る。
殺される、とそう確信した時だった。
暖かななにかに包まれるような感覚がした。