第2章
「無茶するねぇ。」
そう言うのは長い空色の髪を揺らす青年、フェールデ。ほとんど空いているように見えない目は何を考えているのか分からない。
鹿の上に跨ってゆるりとしている絵面はとても優雅で、森の守り人のようだ。
「この程度なんてことは無い…だけど…迷惑をかけたね。助かった」
そう礼を言うのは薔薇の眼帯をつけた吸血鬼、緋緒。
先程廃墟の3階から飛び降りちょうどふわふわの動物たちにキャッチしてもらったのだ。
鹿達の背中はふわふわで見事に優しく受け止めてくれた。
「いえいえ〜。」
そうにこにこ笑っているフェールデはかなり上機嫌なように見えて、恐らくたくさん血を飲んだんだなと思う。そうでなければ10を超える獣を扱えるわけもないのだ。
ゆるりと歩く獣達の目は虚ろだ。
操られているのかと少し悲しささえ覚える。
今日はなんだか調子がおかしい。いつもならこうは思わないはずなのに。
緋緒はそう思いながら僅かにため息をついた。
✣✣✣
建物が崩落する音がした。
ここをどう逃れるべきか、そう思った頃には頭に瓦礫がぶつかって意識が遠のいていた。
死ぬ、か?
そう思っていた。だけど覚悟していた痛みも苦しみもなかった。
薄らと目を開ければ、瓦礫は時間が止まったように宙に浮いていた。
「大丈夫かよー?」
少し辛そうながらも間延びした声が聞こえる。
直後、横から衝撃を感じる。それは非常に柔らかくどちかと言うと抱き上げられた感覚を覚える。
「ありがとうございます。ルーカスさん。」
そう言う柔らかな声の正体はと、視線だけを彼に向ける。
そこには金髪をきちんと束ね、開かぬ目で心を伺わせることをしない。アーナにとっては変なやつ、と形容するに他ない、セレイアという男の姿だった。
とんっとまた、柔らかに着地する音が聞こえる。
視界の横にふわふわとした金髪が掛かる。
これはセレイアとは違うものみたいだ。
どこか覚えがある感触だ。
「……何……?…」
威勢よく飛び起きようと思うが頭の傷のせいか視界がぐらつく。
とにかく目の前の2人が味方であるのか判断しなければ。いや、少なくとも2人が味方であることは分かっているのだ。それでも、まだ知り合ってまもない人間たちが何をするのか、少しは警戒しておかなければならないと。そう確か、縁が言っていた。いや、緒環の連中はいいのだったか。冴えない頭では良く思い出せない。
そっと地面に横たわらせられたと思うと柔らかな声が降り注ぐ。
「アーナさん。大丈夫ですか?」
大丈夫なわけないだろ。
そう返したい気持ちはあるが体は思うように動かない。恐らく瓦礫でかなり体を打ったのだろう。折れていないといいが。
返事をしなかったら何か頭を拭かれる感覚を覚えた。
少ししたらぎゅっと締められる感覚を感じてもう少し目を開けてみる。
何とか片手を動かし頭に触れると布が巻かれているようだ。包帯だろうか。
少し時間を置いたおかげか体が動くようになったため何とか起き上がってみる。
視界にやっとしっかりと映ったのは印象的な瞳孔だった。
あぁ思い出した、こいつは…
「ルーカス」
「おー!アーナ起きたぞー!だから言っただろー!大丈夫だって!」
ルーカスの元気な声が耳に響く。
「えぇ。そうですね。良かった。」
横から安堵したセレイアの声が聞こえる。
そうか、僕は助かったのか。
そう思って安堵する。
こんなところで死んだら、吸血鬼を根絶やしにするなんて出来ないからな。
怪我もさほど痛くなくなったし、「そろそろ行かないか」と2人に言うとセレイアは「無理をしないでくださいね」と困り気味の顔で、ルーカスは元気よく「行こうぜー!」と返した。
✣✣✣
「…ふむ……今はこっちの方が優勢かな。ま、と言っても。まだ人間たちは本気を出してないみたいだ。本気を出せば上位なんてイチコロだろうに。……何を考えてるのかな。白華は。…保守に転じればいつかは負けるというのに。」
そう言って紅永はくつくつと笑う。
「ま、本気を出していないのはこちらもそうか。…なら、少し引き付けておいてもらおう。」
そこまで言って、紅永は指をパチンっと鳴らす。
「おいで」
そう言って、笑った。
✣✣✣
「……あ?…」
確か自分は今ある街の街道を歩いていたはずだ。そこそこな数の血液パックを手に入れられて上機嫌で屋敷に戻ろうと歩いていた、はずだった。
しかし、見覚えのある街道は目の前から消え去っており代わりに無惨に人の血が散らばった街道が目の前にある。
汚ぇなと、思うがとにかくここがどこなのか把握せねば。
そう思ってくるりと後ろを振り返れば確かに見覚えのある金髪の男がこちらに弓を構えていた。
「ノクスさん」
殺意に満ちた瞳でこちらを見る。
ノクスはそこで全てを悟る。
呼ばれて”しまった”のだと。
ここにセレイアがいるということは、ここは今夜襲撃する予定だと言っていた町だ。
「…あいつ…やりやがった……」
ノクスは紅永の能力を知らない。ただ紅永が”何でもできる”ということだけは知っていた。
圧倒的な強さ、生命力、存在感。どれを引いても最強だ。紅永はそんな、周りを圧倒するようなものの権化なのだ。
自分を任意の場所に強制転移させるなど、容易い事だろう。
だが、懸念はそこではなかった。
「よりにもよってこいつの前かよ」
そう言ってノクスは挑発的に笑う。
「こいよ。マフラー」
そう、手をこちらにくいっと引いて槍を構える。
もう引くことは出来ない。する気もない。
「あなたと言う人は」
怒りが滲む声でセレイアは言う。
ルーカスにもアーナにもこの2人がどのような関係にあるのかなど知らない。
ただぼーっと2人を見つめ、ノクスの様子を伺い、セレイアに助太刀をするために身構える。
どちらとともなく動いた時には、ガキンッと鈍い、金属達がぶつかる音が聞こえた。
✣✣✣
「さて……お遊びはこんな感じ、かなぁ」
ゆらりと紅永は立ち上がる。
喉の奥からくっと少し笑い声を漏らすと紅永はくるりと後ろに振り返る。
「で、君達を呼び出した理由を話そうか?」
にやりと笑って目線を2人の赤い目に向ける。
「言われなくとも」
そう不遜に言うのは仁。
どこか心配そうな顔をするのはディーバだ。
「君たちには」
2人の顔を少し見比べてから紅永は口を開いた。
____
ノクスが呼ばれ、皆が戦い始めた頃。
白華とピース、アリクレッドは交戦の気配のする場所へ走っていた。
全体的に戦闘場所はかなり一極集中しているらしくそれと同時に白華達から最も遠いところで行われていた。
連絡はイルフォードと星那からひとつしか来ていない。
『特位出現。観測しました。引き続き追跡、及び情報収集をします。それと、ボスのいる方角の方に走っていきました。以上です』
それだけだった。通信機越しのいつもとは違った無機質な声の中に少しばかりの殺意があった気がする。顔見知りだったのか、そんな要らぬ推測をしてしまう。この手のことはあまり詮索しない方がいいことは分かっている。だがそれでも、白華はどこか引っかかっていた。
長年の勘という奴なのか。分からないがこの特位の話を聞く度に感じる違和感。
追って殺してはい終わりとは行かないそんな感覚。
なんにせよ保険をかけておくことに損は無い。
そう考えてこれからの作戦と戦況に頭を巡らせた。
____
「紅永に言われたのはこっちだったよな」
そう緋緒がフェールデの従えている鹿の1匹に乗りながら確認する。
「多分こっちのはず」
フェールデはいつもの表情を崩さずに言った。
「あ!居たよ。苦戦してるみたいだ。やっぱりコバルデくんだけだと大変みたいだ」
呑気にそういうフェールデに目線を向けることなく緋緒も口を開く。
「あの間に入り込むように突進できたりできるか?能力を使う」
淡々と言うとフェールデはあぁ!と少し思い当たったような顔をして言った。
「大丈夫だよ」
✣✣✣
「ぐ……っ……」
大きな衝撃とともにコバルデの体が宙に浮く。
避けきることも出来なかったため打ち付けるギリギリに壁に血を僅かに付け破壊。勢いと相殺とまでは行かなくとも衝撃を抑えられるだろうと思っての事だった。
何とか痛む体に鞭を打ちいつものように平静を装う。
「…おや。先程から手加減でもしていらっしゃるんですか?致命打にもなっていませんよ」
そう鉄紺を嘲笑ってやれば殊更キレる素振りを見せ声を荒らげた。
「貴様!!その余裕な顔必ず」
そう言った瞬間後ろから叫び声が聞こえ、鉄紺は咄嗟に振り向く。
その隙にコバルデはここぞとばかりに攻撃を仕掛ける。
ほんの一瞬外に気が向いてしまったがた為に鉄紺はそれを避けきれず手が腹を掠める。
ミシ、と言う嫌な音がして鉄紺は慌てて後ろに体を退ける。
「惜しかったですね」
そう言ってアーナの見た目をしたコバルデは涼しい顔をしている。
「貴様…ぁ゙…」
「おお怖い怖い」
強く睨むが気にもしていないような素振りでわざとらしく返されて余計に腹が立った。
「にしても……どうしたんでしょうね?あれはお仲間さんの声では?」
そうニヤニヤと笑いながら言うコバルデ。
挑発だとは分かっているものの腹が立つ。
先程の叫び声は確実に煉霞のものであった。
痛々しい叫び声。攻撃だろうか。あの近くにはコバルデ以外の気配はなかったはずなのに。
戦いに熱中していたせいか気配に気を配れば周辺の人が増えていることが何となく伺える。
今更ながら不味いと思い戻ろうと踵を返すがこのままコバルデを逃がすのは。
そこまで頭が回った直後にコバルデは鉄紺の横を駆け抜ける。
「ワタクシは野蛮な家畜の相手をするほど暇ではありませんので」
こちらに静かにに目を向けて言うコバルデ。
その言葉だけで鉄紺の神経を逆撫でするには事足りてしまった。
「待て!!!コバルデ!!!」
✣✣✣
「ゔ…ぃ゙ぁ゙……」
呻き声を上げて煉霞は崩れ落ちる。
その首から肩には血で刻まれた薔薇の文様が見える。
「っ…ぁ゙ぁ゙」
元来煉霞は痛みになど強くない。
今この激痛に耐え意識を飛ばさないでいられるだけマシなのだ。
縁は煉霞に駆け寄り煉霞の体を丁寧に支え起こす。
肩を抑える煉霞の手は固く握られていて体が強ばっているのが感じられる。
縁はそれを横目に突如として現れ鹿の上からふわりと降り立った薔薇の吸血鬼に視線を向ける。
「君は、」
こんな時、煉霞ならすらすらと出てくるのだろうか。吸血鬼に関しては個体名まで把握出来るほど博識でない自分を恨む。
「悪いが、名乗ってる暇など無いんだ。」
薔薇の吸血鬼はそこまで静かに伝えてからたっぷりと恨みを込めた声で言い放つ。
「死んでくれ」
何となく続きの言葉が分かっていたものの背筋が凍る。明確な殺意。
今煉霞を連れて逃げるのは無理がある。そう悟る。だからといって放置もできない。
どうする。
激しい痛み。焼けるように熱く痛い。
意識を手放そうと思えばできる。そんな気がする。抵抗すら辞めてしまえば楽になるのでは。そうとも考える。
だけどここは敵の目の前で。自分の肩を握る縁の手がそう訴えている。
何か話している。だけどそれを頭の中で訳すほど余裕はなくてただ痛みに蹲るしか出来なかった。
『これぐらい。利用してしまえ』
聞き慣れない声が頭の中に響く。
利用?利用っていったって何を。
それ以上はノイズが入って聞き取れなかった。否、聞きたくなかった。
これは聞いてはいけない気がしたから。
先程の声が聞こえてなんとなく痛みが和らいだ気がする。そんなのは恐らく気の所為だろうがそれでもないよりマシだ。
視界の端で縁が床に手を当てている。きっと植物で吸血鬼の行先を阻もうとしているのだ。
それよりおそらく自分が退けば縁は思うように戦えるはずだ。
「……え…に…し、さん。……」
掠れて小さな声であったが何とか聞き取ってくれたようで言葉に反応してこちらを見てくれる。
「……お…れが……どきま…す…」
説明しようと口を開けば途中にいきなり薔薇の吸血鬼、緋緒が飛び込んでくる。
それはそうだ。敵の防御は今がら空きであったのだから。
一目散に煉霞目掛けて飛び込んでくる。妥当な判断、だが煉霞からすれば飛んで火に入るなんとやらだ。
床に手を付き切りかかるナイフを持った手を思い切り踵で蹴りあげる。
痛みで緋緒が顔を歪め一瞬怯む。
その隙を見逃さず煉霞は素早く腰からナイフを取り出すと緋緒の顔目掛けて飛ばした。
緋緒は咄嗟に避け煉霞の狙い通り頬を掠った。
緋緒がすぐ下にいたはずの煉霞に目を向ければもうそこにはおらず遠くへ猛スピードで走っていた。
「っ……はや…」
思わず驚きの声が漏れる。追いつかない程の距離だ。あの一瞬で10メートルは走りその上今眺めてもどんどん遠くへ行く。どこかの曲がり角で曲がったと思えばその姿は消えて行った。
ほんの少しばかり呆然とすると床から不意にツルが足に巻き付く。
勢いよくちぎろうと足を振ろうとした瞬間、縁が既にこちらに縄鏢を投げていた。
足は動かず避けられない。
ナイフを振って弾けるか分からない。
まずいと思えば不意に横から鹿が走って来て縄鏢の縄に突進し軌道変更をする。その直後、縁に向かって1本の矢が飛ぶ。
縁も咄嗟に避け後ろに後ずさった。
「新手かな。さすがにこの場ひとりじゃきつい気がするんだけどなぁ」
そう言って縁はいつもの余裕そうな笑みを少し崩した。
✣✣✣
ちょこまかと走るコバルデに鉄紺は追い付けずいつの間にか見失ってしまう。
「っは、はぁっ。……どこ…どこに行った。…」
そう息を切らしながら周囲に視線を巡らせる。
しかしコバルデの姿は影も形も見えなかった。
少し冷静になった頭に呻き声が届く。
「…?……」
小さくはあったが苦しそうな声だ。もしかして民間人が襲われでもしたか。慌てて声のする方に駆けてみれば横たわっているのは見覚えのある赤髪。
「…君は……」
慌てて駆け寄ればそれは紛れもなく煉霞なのだと分かる。
「煉霞くんだな?…どうした…!どこかやられたのか」
声をかけてみると薄らと目を開けこちらを見る。よく見ればその首には薔薇のような赤い線が刻まれている。
「これは、一体……」
触れてみれば僅かな吸血鬼の気配。
それで確信する。これは吸血鬼の能力であると。
「……みず…、…てつ……こんさん。……水…持ってました…よね…?…」
煉霞はゆるりと上半身だけを起こす。
「あっ…あぁ。それがどう」
「貸してください」
かすれ気味の声で煉霞が言う。
鉄紺も少し慌てながらかけている水筒を渡す。
開けて欲しいと言うのでそっと開けて渡す。
煉霞はそれをしっかりと掴むと少し震える手で首と肩にかけた。すると薔薇の模様は流れ消えた。
「……っはぁ…っしぬかと………あっ!鉄紺さんごめんなさい!これ全部使い切ってはいないはずなので……能力に必要なものなのに……申し訳ないです……」
先程まであれほど辛そうな顔をしていたのにすぐいつもの顔に戻り水筒を返してくる。
「…あぁ。大丈夫だ。構わない。…にしたって一体何が…?……」
水筒の蓋を閉め肩にかけ直して煉霞に問う。
あの薔薇の文様についても気になる。しっかり聞かせてもらいたい。それに思い返せば先程の悲鳴も煉霞だったはずだ。
そう考えつつ煉霞を見遣れば特に怪我はないようで呑気に「うーん。それがですね」なんて説明を始める。
どこか緊張感のない煉霞を見ているとここが戦場ということを忘れそうになるな、なんて心の中で苦笑して、事のあらましを説明してくれる煉霞の声に耳を傾けた。