短編集


 ああ…と吐息のような小さな声が聞こえた。俺は嫁さんの枕元へ近付き、そっと耳を寄せる。

「どうした?」
「……いえ、」

 嫁さんは目を一度瞬かせ、俺を見た。少しだけ焦点が合っていないように見えたが、それはいつものことである。俺は嫁さんの枕元に座り込んだ。

「……私が貴方に嫁いで来た時もこのように晴れ渡った日でしたね」
「そうだな」

 外は雨がしとしとと降っているように思えたが、嫁さんにとっては晴れているのだろう。…いや、本当に晴れているのかもしれない。なにぶん俺も昔と比べたらもう目が上手く利かないから。一つ頷いた。

「最初、」

 彼女はぽつりと呟く。

「私は結婚するつもりなんてありませんでした。私はなんと不幸せなんだとひっそり思っておりました。だって人間にも馴染めず、化物にもなれないのですから。……貴方との縁談が来たとき……本当は恐かったのです。でもこの身の上ですから拒否なんて出来ましょうか」
「……そうだな」
「貴方のこと、詰まらぬ男ならば本当に喰ってしまおうかとも考えていたのですよ?」
「おやそれは恐い。…いや、そういえばそんなことを昔言っていたかな」
「あら、そうだったかしら。……まぁ結局、今まで共に永らえてしまいました。貴方みたいな男、そうそう居りませんもの」

 それは俺の特異体質のことを言っているのだろうか。俺は再び「そうか」と言う。幾らか艶やかさは失われたものの、相変わらず赤い唇がふっと弧を描く。

「貴方は相変わらず淡白な返事をなさるのね」
「そうだろうか?」
「ええ、そうですわ。………ねぇ、貴方」
「どうした?」
「…………」
「…………」
「……私、もうじき死ぬのですね」
「…………そうだな。」
「人間になり損なった私など、まだ死なないと思っておりましたのに」
「……お前はなり損ないなんかじゃないよ」
「そうでしょうか?」
「そうだよ。お前と幾年か過ごしてみて思ったが、ただ食べる物が違うだけじゃないか。ただ食べられない物が多いだけじゃないか。それだけでは化物とは言わないよ。ただの人間だ」

 そう言うと、俺は嫁さんの髪の毛に触れた。長く綺麗な黒髪は白髪に変わっている。それでも綺麗な髪の毛を撫でた。少しだけごわつき、それでも指が通るそれにまだ生きていることを感じる。

「そうかしら。…………ああ、でもきっと貴方が言うのだもの。きっとそうですね。血の繋がった薄情な家族より、貴方と過ごした年月の方がもうずっと長いもの」

 嫁さんは笑った。出会った頃の威嚇するような艶のある表情ではない。今思うとあれは彼女なりの身の守り方だったのだろう。嫁さんは小さく息を吐いた。

「……少し、眠たいですね」
「………そうか。それなら少し眠るといい」
「……そうですね、」
「ああ。……そうだ、今日は特別に子守唄でも歌おうか」
「あら、子守唄なんて歌えましたの?」
「まぁな。昔……まだ母上が優しかった頃、歌ってくださったのだ。それを今、思い出した」
「まあ」

 嫁さんはそう言うと優しく笑った。

「まだまだ貴方のこと知りませんね、私。…知ろうとしなかったこと、今更ながら少しは後悔しているのですよ?」
「そうなのか?」
「ええ。…………貴方、」
「何だ?」

 徐々に焦点が合わなくなり、呆けてきた瞳の光彩を俺は飽くことなく眺める。そっと目元を撫でるようにして、前髪に触れた。着物の袖から伸びる俺の腕は傷1つないけれど、痩せていて頼りない。嫁さんが俺を食べたなんて証拠はどこにもない。これで良かったのだと思う。こんな痩せた腕なら直に俺も死んでしまうだろうから。ただ、彼女と穏やかに浄土へ逝ければそれでいい。嫁さんはこの世で一番優しげな笑みを見せた。子供がもし居たのならきっとその子に見せるような、そんな優しく穏やかな微笑み。

「わたくしは、あなたを、」

 そこに居る嫁さんは昔のように若くて美しい姿ではない。それでも俺にとってはどこまでも美しい娘なのだ。何にも代えがたい嫁さんである。

「確かに。……愛していました」


 そういうと、嫁さんは静かに目を閉じた。


「……俺は良い嫁を貰ったな」

 化物だとか、人間だとか。そういうのは関係ない。ただ、俺にとって、美しく優しい嫁さんであることが重要なのだ。ただの、人間なのだ。

「…俺も、愛してるよ」
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