忘れた頃に間借り人
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「アルハイゼンさん、遅いな……」
なまえは時計に目をやりながら、料理に蠅帳をかぶせた。
アルハイゼンは定刻通りに帰宅する男であったが、時折酒場に寄ることもある。
今日は酒を買いに行くとなまえに話していたから、いつもより帰宅時間が遅くなるのは十分に想定し得ることだった。
だが酒場に寄っていることを踏まえても帰りが遅い。
酒場だから酔っ払いにでも絡まれたのかと思ったが、彼は誰かに絡まれたりしても持ち前の頭脳と武力でどうにかできる人だ。
応用も機転もきくとても頭の良い人だから心配することはない。
そう信じながらも、妻としては夫を心配してしまうのは仕方のないことだろう。
もしかしたら彼の向かった先の酒場で知人に出会い、話が盛り上がったのかもしれないとも思った。
もちろん彼の交友関係の狭さは知らないふりをしている。
まさかそれが当たっているとは思わずに、それとも書記官の仕事で何かあって長引いているのかもしれない……となまえは色々と考えを巡らせていた。
そんな事を考えているものだから、なまえは気晴らしに手にした本の中身など全く頭に入ってこなかった。
頭に入らない言葉の羅列を目に入れるだけで適当にページをめくってみたり、本の背表紙を撫でてみたり、所在無げにうろうろと歩き回ってみたりして気を紛らわせていた。
あまりにも遅いものだから寝支度も調えてソファーに置いてあったクッションを抱き抱えた頃には蠅帳をかけた料理はもう冷めきっていて、しかも夫の帰宅を待つなまえにも睡魔という限界が訪れ始めていた。
酒場までそんなに時間がかかるはずがないのに帰ってこないアルハイゼンを心配しながらもうつらうつらと船を漕ぎ始めてしまう。
玄関の扉のほうを気にしながら無為に過ごしていたけれど、時間が経つにつれ襲い来る睡魔には勝てずに玄関からほど近いソファーで横になっていたなまえはいつの間にか眠ってしまっていた。
――――
アルハイゼンが帰宅したのはそれからずいぶん後のことだった。
夜も更けて家々は明かりを消して寝静まった頃に彼は帰ってきた。
鍵を取り出して施錠されていた扉を開けて、明かりのついた室内へと入る。
扉は閉めなかった。
その理由は簡単だ。
彼の後ろにはもう一人いたからだ。
酒場で久しぶりに出会ったその男は知らぬ間に破産していたらしい。
しかも金も家もないくせに見栄っ張りなその男は酒場を住処にしていたことも周囲に隠していたという。
そんな聞いてもいないことをべらべらと一から十まで喋り出してアルハイゼンを酒場に足止めしたその男の名はカーヴェという。
以前は共に研究をした仲ではあったが方向性の違いにより交流もなくなり、その研究も頓挫した。
アルハイゼンはこの男の妹と夫婦である。
だからといって彼は妻の家族と積極的に交流を持つつもりもないし、相手が避けてきているというのに自ら赴く理由もない。
妻は大切だがその兄に関してはある一点を除いて彼の興味を引くことはなかったから尚更2人が会うことなどそれこそないに等しかった。
それだというのに今日カーヴェはアルハイゼンを引き留めてプライベートな話を暴露した。
たいして仲良くもない……カーヴェの言葉を借りるとするならば元友人であるはずのアルハイゼンにそんな話をするなどという彼にとってはありえないその光景はとても興味深く映った。
だからこそアルハイゼンはカーヴェの話を聞いたのかもしれない。
結局酒場が閉まる時間になっても話し続けていた男と共にアルハイゼンはセットでやんわりとだが半ば強引に店主であるランバトに酒場から追い出された(これはおそらく居座り続けた酔っ払いが妻の兄だと言うことも関係しているのだろう)。
酒場から出てしばらくしても喋りっぱなしだったその人物は今やすっかり静かになっていた。
こんな夜の遅い時間に喚かれても迷惑なだけなのでアルハイゼンにとっては歓迎するべきことである。
静かになった酔っ払いは何かを考えているらしくずっと黙ったまま彼の後ろをついていた。
そんな酔っ払いが改めて声を出したのはアルハイゼンの家に入ってからのことだった。
彼らが帰ってきた頃にはリビングで夫を待ちながら睡魔に負けたなまえは本格的に寝入ってしまっていた。
すやすやとソファーで無防備に眠るなまえを見て、最初にかけ寄ったのはアルハイゼンではなく、彼に連れられてきたカーヴェであった。
ソファーで眠るなまえに対して何を勘違いしたのかひどく慌てた様子で彼が駆け寄るのをアルハイゼンは見た。
「なまえ……!」
「静かにしろ。なまえが起きる」
そしてなまえに手を伸ばしかけた酔っぱらいの短絡的な行動を遮るようにアルハイゼンは玄関扉を閉めながら静かに言葉を口にした。
それから何も被らずに眠るなまえに近くに畳まれていたブランケットをかける。
眠るなまえをそのままにカーヴェを伴って家の奥へと進んだアルハイゼンはある部屋の前で立ち止まる。
そこは所謂客室と呼ばれるような部屋であるがアルハイゼンには家族はいないし、なまえの家族もこの家に来るようなことはないので専らただの空き部屋だった。
それでもなまえが時折空気を入れ替えたり、掃除をしているおかげで寝られる部屋にはなっている。
ただベッドメイキングがされているかは定かではないがそんなことまでアルハイゼンが気に掛ける必要はない。
少なくともベッドはあるので寝られることは確かだ。
「君はこの部屋で休むといい。部屋は片付いている。なまえに感謝するんだな」
「……ああ」
道中でもうるさいぐらい喚いていた酔っ払いの返事は静かだった。
とっさに眠る妹の姿を見て心配する癖にこの男は彼女と顔を合わせたくないのだ。
アルハイゼンについて行くことは妹に会うことに繋がるということは明らかなのに顔を見せたくないとは矛盾している。
いや、この男の本心は妹との再会は望んだものなのだからアルハイゼンについてきたのは考えなしの行動ではないといえるかもしれない。
だがそんなことを彼がカーヴェに話す必要はない。
「細かいことは明日話す」
「…………」
アルハイゼンの言う細かいこととはつまり家のないカーヴェが間借りするにあたっての注意事項などである。
カーヴェが妻の兄だとしても家をなくしたこの男がこの家に間借りするとなれば当然家賃等の細々とした取り決めは必要だ。
しかしそのような契約的な話を酔っ払いにしたって無駄である。
そういう決まりごとは素面でするものだ。
つまりアルハイゼンにとって今カーヴェと話すことは何もなく、これまで散々あれこれぶちまけてきたこの酔っ払いにももう話題などないはずだ。
そう結論付けて背を向けたアルハイゼンはカーヴェの様子を全く気にすることなく立ち去った。
立ち去るアルハイゼンの背中を見つめたままカーヴェは酒に酔ってぼんやりとする中で数時間前からの目まぐるしい展開を思い出していた。
頑なに避けていた元友人に世話になっているという現実。
それは懐にあるわずかばかりの財産にも表れていて、軽すぎる財布を確かめてため息をついた。
自身の現状。
妙論派の星とまで呼ばれる誰もが認める人気建築デザイナーであるカーヴェの破産。
本来ではありえないこの事実は妹には知られたくなかった。
だからこそ酒場に入り浸り、過ごしていたのに結局カーヴェは妹の住む家にいる。
矛盾していることはわかっている。
アルハイゼンは妹の夫だ。
彼に世話になることはなまえと顔を合わせることに繋がるのは当然だ。
はじめて妹が結婚していてよかったと思った。
なまえがもしまだカーヴェと共に暮らしていたらまたいらぬ苦労をかける羽目になっただろう。
彼女には隠してきたこの恥ずべく状況はカーヴェに現実をまざまざと見せつけた。
家をなくしランバトの好意で酒場に入り浸ること半月以上。
妹が積極的に酒を嗜むような人間でなくてよかった。
そうでなければカーヴェのことはとっくに知られていただろう。
そんなことを考えている間もカーヴェはその場に立ったままだ。
酒に酔っているせいでぼんやりと暗い室内を見つめていた。
まわらぬ頭で何を考えたって大した考えもできない。
なぜアルハイゼンが家に連れてきてくれたのか。
……ついてきたことを許したのか。
理由もなく人を助けるような男ではないことをカーヴェはよく知っていた。
あの元友人は妹の夫として彼女のためにカーヴェを助けるような人間でもない。
もし、アルハイゼンが本当になまえのためにカーヴェを助けられるような人間であればそもそもアルハイゼンと今でも友人でいたはずだ。
――君の理想はどうなった?
アルハイゼンはカーヴェに問いかけた。
カーヴェが酒場で久しぶりに……それこそ彼が妹と結婚する時以来に会ったきりの元友人は相変わらずの観察眼を持ち、持ち前の頭脳で見出し痛いところを容赦なくついてくる。
カーヴェがずっと理想を追い求め続けるように変わらないのだ。
現実だけは絶えず変化を容認していかざるを得ないのに内面の奥深いところは何も変わらないことを実感させられた。
たしかにアルハイゼンは酒場からずっとカーヴェの話を聞いてくれていたが、それは人助けというような無条件の善意ではないことはわかっていた。
カーヴェにはわからない理由がきっとある。
アルハイゼンがどういう人間なのか一時は彼を一番親しい友人だと定めたカーヴェは知っていた。
そもそも無条件の善意なんてそんなものは存在しないのかもしれない。
カーヴェ自身だって人から感謝されるような思いやりは過去の出来事による贖罪のための善意だ。
自身を救うための思いやり。
罪悪感に苛まれながら抜け出せずに他者へ善行を行うことで楽になろうとしている己の罪を隠すためのただの自己満足かもしれない。
一番行うべき人達にできずに他人に行っている善意。
それならば他者が行うような親切のほうがもっと純粋なものだといえるのではないだろうか。
それこそ暗闇の中で妹が己を呼んだあの声のほうがずっと感情がこもっていてそれなのに純粋で、……。
「…………」
そこまで考えたとき、カーヴェは考えを振り払うように目を瞑った。
酔うと嫌なことを忘れられるけど、ふとした瞬間に思い出してしまうこともある。
現実から逃げきれないのだと理想を追い求める難しさについ心が酒を求めてしまう。
どうにも儘ならぬ現実に小さくため息が出た。
それでもその苦しみを享受することこそが彼にとって父をはじめとした母や妹への贖罪だった。
カーヴェは自身の罪をよく知っていた。
知っていたからこそ今ここに立っているのかもしれない。
「何を突っ立っている」
アルハイゼンが再びカーヴェの前に姿を表したのはそんな時だった。
声をかけられてようやくアルハイゼンの存在や周囲の変化に気がつくほどぼんやりとしていたらしい。
付けっぱなしだったリビングルームの明かりを消して眠ったままのなまえを抱えたアルハイゼンは静かに彼に近づいてきた。
「君がなぜ案内した部屋に入らずにそんなところに突っ立っているかは知らないが、立って寝るのが好みならずっとそこに立っておけばいい」
アルハイゼンはカーヴェの横を通り過ぎて案内した部屋とは違う部屋の前に立つ。
そしてなまえを抱えたまま扉を開いた。
手慣れた動作にアルハイゼンがなまえを運ぶのは初めてではないとカーヴェは気づいた。
「なまえは……」
アルハイゼンの腕の中で微動だにしないなまえを見てカーヴェはなんだか不安になった。
「彼女が一度寝たらなかなか起きないのは君も知っているだろう」
「……っ」
なまえを心配するそぶりを見せたカーヴェにアルハイゼンは振り向きもせずにそれだけを言った。
そんな彼の行動からも人に対する興味のなさが見てとれた。
それが人付き合いでいうところの無愛想と呼ばれることもアルハイゼンは知っているはずだ。
話す時ぐらい顔を向けるべきではないか。
そう思いながらもカーヴェは何も言わなかった。
それはなまえの存在があったからだ。
少し酔いが覚めているのだろうか妹のことを考えられる余裕が今のカーヴェにはあった。
カーヴェにとってなまえは大切な妹だ。
大事な家族であり、そして贖罪の対象でもある。
彼が父にあの一言を言わなければ彼女から父を奪うこともなかった。
愛する妹から暖かな家庭と夢を奪ったのは間違いなく自分だとカーヴェは信じて疑わなかった。
そう思い込まなければ彼は生きていけなかった。
崩壊した家庭に離れて暮らすことになった母と妹。
妹に母を押し付けて教令院に進んだ己の浅ましさ。
その根本的原因こそ自らにある。
幼さ故の短慮だなんて、子供だったから仕方ないなんてとてもいえない。
それからの彼の人生は常に罪悪感と共にあった。
カーヴェが父を殺したのだ。
それが彼の中での確固たる真実として確立されていてその後ろめたさこそが今のカーヴェを形成していた。
夢を叶えるべきだと背中を押してくれた妹こそ真に思いやりのある優しさを持っているのだと言えるのではないだろうか。
だからカーヴェは酒のせいで普段よりも沸点が低くなったとしてもアルハイゼンに何も言わなかった。
彼の腕の中で眠る妹を起こすことに繋がるような行為をできるはずもない。
ただ握った拳を緩めて落ち着かせるように息を吐いた。
そしてなまえのことを考えた。
妹のことを考えると自然と気持ちを落ち着けることができる。
その理由をきっとアルハイゼンも知っているだろう。
だから彼はなまえとの結婚を決めたのだから。
「……」
カーヴェはもう一度息を吐いた。
それはアルハイゼンの言葉に妹はそんな子だったと彼女の眠りの深さを思い出してために出た安堵だった。
そして同時に今目覚めないことに感謝した。
なまえが目覚めないこの瞬間は兄の失態を知られないのだとわかったから。
そのためだけになまえと会うのを避けていたカーヴェにとってそれが単なる引き延ばしにしかならないことを知っていた。
知っていながらカーヴェはなまえを抱えて室内に消えたアルハイゼンを見送って今度こそ自らもあてがわれた部屋へと入っていった。