I wish I were you.
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「あっれ~? 綾華様じゃないですかー。どーしたんですか?」
「なまえさん……」
背後から声をかけられて神里綾華は振り返った。
敬語を使っているはずなのにどこか抜けているような口調はなまえの特徴だ。
公の場でははっきりと受け答えするのに、私的な場ではいつもこうだった。
「こんなところにいたら、皆心配しますよ~」
「少し、……外の空気を吸いたくて」
「確かにそーですよね。休憩は大事ですよね! 御当主様なんて、ずうーっと缶詰で休憩しろって言っても聞かないんですよ~!」
なまえは神里家に代々使える立場の一族の一員である。
今は綾華の兄の神里家当主である綾人に仕えている。
本来であれば彼女は神里家ではなく自身の家のことをしなければならないのだが、彼女の父親が先日から腰痛で寝込んでいるせいで代わりに綾人の監視を引き受けているのだった。
監視と言っても、綾人はまじめに仕事に追われているので適度に休憩をとるように声をかける等の役目の方が多い。
ちなみにその他の難しい仕事は彼女の兄が父の代理をしている。
「トーマくんには色々ちょっかい出すくせに、私が言っても何にも聞いてくれないんです! だから綾華様から綾人くんに……。……あや、と……くん、に……」
「「……」」
なまえは自分の発言のおかしさに黙ってしまった。
綾華もまた何も言わずになまえを見ていた。2人の間に沈黙が広がる。
なまえは今の自分の発言を思い出して、ようやく失言したことに気がついた。
「……あっ!……やっべ……当主さまだった」
慌てて手で口を抑えたが遅かった。
なまえは時々綾人に対しての呼び名が昔のように戻ってしまうことを綾華は知っていた。
それはなまえが幼い頃から神里家に出入りしていたためである。
綾華の兄である綾人とは気があったらしく、よく一緒にいて仲が良かった。
綾華がそれを知っているからと言って、許されることではない。
「……えっと、当主様もー、も? ……んん? なんだったかなあ~??」
「ふふっ、そのままで大丈夫ですよ、なまえさん」
だが、綾華が許せば話は別だ。
混乱のあまり自分の言いたいことを忘れてしまったなまえ。
首を捻りうんうんと唸る彼女の姿は年上なのになんだか可愛らしく思えてしまった。
くすくすと品よく笑う綾華がフォローするとなまえは、ぱっと笑顔に変わった。
「そうですか? 綾華様は優しいですねー!! ありがとうございまーす! でも、間違えると後々大変なので当主様って呼びますね~!」
「……」
にこっと笑うなまえの笑顔は本当に嬉しそうで、いつもなら見ているこっちまで気持ちが明るくなっていたものだ。
だがいまの綾華にはそうはならなかった。
それは彼女の悩みと関係があった。
なまえは兄のことは綾人くんと呼んでいるがその妹である綾華のことは綾華様と呼ぶ。
本来であればそれが正しいことだ。
なまえが綾人に対する呼び方がおかしいのだが、それが綾華の心に引っかかっていた。
でも、なまえと綾華の関係はそれほど親しいものではない。
トーマと違ってお嬢などと砕けた呼び方もされないし、彼女が敬語を崩すことも綾華様以外の呼び方で呼ぶことも一切ない。
気軽に名前で呼んでほしいなどとそんなことは言えなかった。
「なまえさん……。なまえさんはお兄様のおそばにいなくてもよろしいのでしょうか?」
「それなんですよー! 私が何言っても聞かなかったのに、うちの兄様が当主様に言ったらすぐに頷いて、仮眠をとってくれたんですよー!」
兄様とはなまえの兄である。
腰痛で寝込む彼女の父親が担う実務を引き受けており、分担してもらったとはいえ、自分の雑務もあるため仕事量が膨大で綾人の監視を妹に託したと言うわけだった。
他の社奉行の者が行えばいいのではないかと思われるかもしれないが、花火大会や様々な行事が重なりすごく忙しく、正直猫の手も借りたいぐらいなのだ。
実際腰痛で寝込んでいる彼女の父も床の中で書類の決済や、他の者への指示を出していると聞く。
綾華自身もようやく、まとまった休憩時間をとれたほどだから実務に精を出す彼らの忙しさなど想像に難くない。
「 といってもすぐに起こさなくてはいけないのですけどねー……」
「お兄様は……ちゃんと眠っていらっしゃるのでしょうか」
なまえが綾人の忙しさを綾華に伝えきいて、普段から食事や睡眠もろくに取れないほど忙しい兄が心配だった。
10年ほど前に前奉行――つまり綾華と綾人の父親である――が年若い神里家の後継ぎを残して死んだ。
想定よりもずっと早い父の死は社奉行の混乱をもたらすことになり、後継だった綾人はもとより平凡な神里家のご令嬢の運命も変えてしまった。
綾人が当主の座についた後、社奉行としてその実務の責任を負うことになり、社奉行は安定を見せていく。
奉行として忙しくなった兄を綾華が支えるために彼女は多くのことを学び、社奉行としての実務に追われる兄の負担を少しでも軽くしようと忙しい兄に代わって社交場を引き受けた。
だから、稲妻の人は白鷺の姫君として綾華を慕い、人前に出てこない当主である綾人よりもずっと彼女の噂ばかりしている。
だが、彼女自身が一番よくわかっていた。
慕われるべきは稲妻の民のために寝る間も惜しんで自分のことを蔑ろにしながら、実務に勤しむ兄であるべきだということを。
けれど兄は優しい人だからそんなことは望んでいない。
人に尊敬されるために社奉行になったわけではないとそう言うだろう。
綾華は望んで社交場へ出ることを決めたけれど、人付き合いの良く何事も完璧な神里家の姫君という姿だけをみせなければならない。
そんな人々が望む姿というのはまだ年若い彼女には辛かった。
兄のように自分を犠牲にして働き詰めることはそのように育てられていない彼女には相当な負担となった。
ましてや、日々外に出て人々と交流し、他人の気心のおけないやりとりを見ていたら綾華の中に憧れが宿ることは誰にも止められなかった。
家司のトーマをもう1人の兄、あるいは友のように綾華は思っているが彼はあくまでも恩を受けた側としての立場を崩さない。
彼が親しくしてくれようとも彼は絶対に綾華のことをお嬢以上の親しさで接することはない。
つまるところ綾華は友達が欲しかった。
一方的ではだめなのだ。
お互いが対等でいなければ意味がない。
対等でなんでも話せる友という存在に憧れた。
亡き母のように友と語り合ってみたかった。
その憧れがずっと綾華の胸の内にあり、もう隠していられないほどその望みは大きくなっていた。
「あ、あの、なまえさん……」
「? 綾華様どうかしましたか?」
なまえの綾人への態度はきっと対等なものだろう。
当主様と呼んでいても兄への態度は綾華がトーマから受けるものとは明らかに違う。
渇望するからこそ見えるその憧れ。
「(私が望めばなまえさんは私のことをお兄様と同じように接してくれるでしょうか)」
だが今の綾華はとてもそう話す勇気がなかった。
それは彼女の性質によるものだった。
後にトーマが異邦の旅人に語ったように彼女のような人間が一歩を踏み出すにはしがらみが多い。
だからこそ、彼女の個人的な事情での本音を得るためには積極的にいかなければならない。
「えっと、その……」
綾華が口ごもったが、なまえが彼女にそれを問い詰めようとはしなかった。
綾華が言うべきか迷って答えられない間もなまえが口を開くことはなかった。
それはもしかしたらその対応は主家に対するものだったのかもしれない。
だけど、綾華にはとてもありがたくそして、辛い沈黙だった。
綾華の頭の中で友達になりたいとなまえに告げてしまえばいいという考えと、断られたらどうするのか?ましてや相手にすらされなかったら?というネガティブな思いが交互に出ては消えていく。
そうやって数秒か、数分か……もはや時間の経過などわからないほど思考の深みにはまっているといつの間にか遠くから誰かを呼ぶ声が聞こえた。
その声にハッとしたのは綾華ではなくなまえだった。
そう、その声はなまえを呼んでいた。
「なまえー!」
「えっ、あれ、トーマくん……? すみません、綾華様。……トーマくん! ここーっ!」
なまえを呼ぶ声はトーマだった。
呼ばれたなまえは綾華に一言謝って声のする方へと進み、姿が見えたのかそちらへと手を振った。
しばらくして、トーマがなまえのもとへ走り寄ってきた。
「なまえ! 若が、……ってお嬢!?」
なんでなまえと一緒に?と言わんばかりにトーマは驚きの声をあげた。
綾華がどう答えようかと迷っていると、心配そうな顔をしたなまえがトーマに詰め寄った。
「トーマくん、それより綾人くんに何かあったの!?」
近い距離感に綾華は少しだけ彼が羨ましく思った。
ふたりの関係はきっと対等なのだとそう思った。
「えっ、……若に何かあったというより……なまえ、若を起こすの忘れていたんじゃないのか?」
「あっ!!」
なまえの綾人くん発言にトーマは驚いた表情を見せて綾華を見た。
綾華はトーマに向かって何も言わないようにと首を振った。
その意図を組んでトーマはその事実を流して詰め寄るなまえの勢いにたじたじになりながらも答えたのだった。
「えっ! うそ……そんな……時間……どうしよう……、すみません綾華様! 私、行かなくてはなりません……! お話はまた今度でもよろしいでしょうか?」
そんなに時間が経っていたとは思わず呆然としながらもなまえは着物の帯に挟んだ懐中時計を取り出し時刻を確認するが、結局さらに顔を青ざめさせるだけだった。
頭を抱えながら、なんとか綾華に主人より先に場を離れる非礼を詫びて許しを貰うことにした。
なまえの勢いに完全に押された綾華は頷くことしかできない。
なんとか綾華が絞り出した「気をつけてください」という声に頭をさげて早々に2人の前を立ち去る。
ひえーっと声をあげそうな感じでわたわたと小走りで屋敷の中へ入っていくなまえの姿を見送ることしかできなかった。
カラコロとなまえの下駄の音が響いては消えていった。
「なまえのやつ、また若のこと名前で呼んでたな……」
次会ったら注意しとかないと……と、いつもの世話焼きの面をみせるトーマの声を耳に入れながら綾華は去り行くなまえの後ろ姿を見ていた。
そうしてなまえの姿が見えなくなった後、トーマは綾華の方へと振り返った。
「そういえばお嬢、なまえと話していたみたいだけど、一体何を?」
「えっと……、いえ、ただの世間話ですよ」
綾華となまえが話すことはあまりない。
それはなまえが神里家にいることが少ないことを意味している。
なまえは綾人の幼馴染ではあるけれど、彼女は普段は自分の家にいるからだ。
今でこそ綾人の傍にいるから、神里家にやってきてはいるけれど、それがなければなまえがここに来ることはない。
トーマの疑問に綾華は言葉を濁して誤魔化した。
それをトーマも気づいてはいたが踏み込むべきことではないと判断してそれ以上聞くことはなかった。
綾華とトーマは神里家の邸内に戻り、そしてそれぞれの仕事に戻ったのだった。
結局、綾華はその後激しくなる目狩り令や天領奉行の横行、そして異国からやってきた旅人への助力に忙しくして、なまえと話す時間をとることはできなかった。
綾華が再びなまえと話せる時は旅人という新しい友を得た後のことだった。
そして、彼とその小さな相棒からアドバイスをもらい彼女はひとりで考えていた時よりもずっと上手になまえと話ができるようになったのだった。
設定とあとがき