いつか陽だまりの下で笑いたい
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いくら泣いてもどうにもならない。そんなことはずっと前から知っている。けれど泣かずにはいられない。私ではどうにもならない。彼の境遇を改善したくても、かの魔神に縛られたこの身ではただ彼の枷になるだけで何の役にも立たない。昼間はかの魔神に捕まった他の者達の治療に奔走する。あの魔神は私達のことを駒だとしか思っていない。だから、誰がどれほど傷ついたって何も思わない。死なぬ程度に戦わせて私に彼らの治療をさせて、また突撃させる。不死身の軍団のようなそれに敵対する者が恐れていると聞いたことがあるが外に出ない私にはよくわからない。
それでも私が治せない者もいる。死にたくないという者もいれば安らかな顔で死んでいく者もいる。何にせよ最期には皆決まって私にありがとうかすまないと言葉をかけていった。しかし、かの魔神が欲深いものだとはいえ常に戦火に身を投じているわけではない。奇襲がなければ基本的には夜に戦いはない。だから、夜になると私は宛がわれた部屋に帰り、一人で彼の帰りを待つ。彼のことだけを考えていられる。
「……おかえりなさい」
「……」
その言葉に返事はないまま彼は倒れ込む。私はただ彼の体を受け止めて抱きしめることしかできない。今日もまたボロボロになるまで戦わされたんだと気づいて泣きたくなる。日を追うごとに彼の口数は減っている。代わりに増えるのは無数の傷跡。無邪気に笑い合った日々が懐かしい。あの時捕まりさえしなければ私達は今も笑い合えていたのかな。
「……、また殺してしまった」
「……」
彼がぽつりと言葉をこぼす。ここに来てから今までの生活は一変した。遠かった死という言葉はずっと近くに来ていて私達を蝕んでいる。日毎に戦は激化の一途を辿っている。はじめは小さな戦火だったのに今では魔神、仙人、そして人間……この地に住まうだれもが見て見ぬ振りができないほどにその炎は大きくなってしまった。終わりの見えない明日に絶望を抱いて、闇を背負った彼は少しずつ変わっていった。
私には何もできなかった。彼の表面的な傷は治せても心までは治せない。何も知らなかった頃には戻れない。悪夢を、地獄を、私たちは知ってしまった。そうして毎日を繰り返し私たちは少しずつであるが確実に何かを失っていった。毎夜彼を思って泣くのは日課になった。満身創痍の彼の手を握り私は泣いた。
そんなある日、かの魔神は岩の魔神の侵攻を受けた。岩の魔神の力は強大でいくらあの魔神が強いと言ってもそれは岩の魔神の力に比べれば弱いものだ。だが岩の魔神とは違い、こちらには私という治癒の力があった。私が傷ついた仲間を治して戦場に送り出すからこそ、辛うじて戦況は
数少なくなってしまった負傷者の治療を終えた私は1人部屋にこもっていた。減っていく人員にここを去った彼らはあの魔神に使役されないで済むのだろうと私は安堵した。でも、もしあの魔神の術中範囲に入ったら彼らもまた戦わされるのではないか。そう思いついてしまった。私はあの魔神が岩の魔神の元へ向かった真の狙いに気づいてしまったようだ。気づいてしまったらじっとしてはいられない。せっかく魔神の手から逃げ出せた彼らを助けなければ……そう思って私は部屋を飛び出した。そのはずだったのだが、部屋から出た私の目の前に現れたひとつの影に足を止められた。その影の正体は岩の魔神のもとへ向かったはずのあの魔神だった。
「なまえ……私のかわいいなまえ」
「――、っ」
上機嫌な時に呼ばれる言葉で私の前に現れたかの魔神の姿はボロボロだった。いつだって綺麗な服を着ていたのに、今は血に塗れて見る影もない。服も、髪も何もかも血や泥が付着している。私は思わず息を呑んだ。一体何があったのか。
「私を、治しておくれ……お前のその力……だれにも負けないその治癒の力さえあれば……私は……」
ずるりと這い寄ってくる魔神の姿に私は思わず後ずる。そのせいで先ほどまでいた部屋に戻された。それでも魔神は近寄り私の手を掴んだ。魔神が近くまで来られて、はじめて私は魔神の体に突き刺さる一本の槍に気づく。
「そ、その槍は………?」
「そうさ……あの忌々しい岩の魔神め……」
私の指摘に怒りに染まったその声と共に私の手を掴む魔神の手にも力がこめられる。ギチギチと骨が軋むような力強さに思わず顔を歪めた。
「あの魔神……あいつさえ……あいつさえいなければ……」
私の問いかけのせいで完全に怒りに染まったその魔神は岩の魔神へ呪詛のようにぶつぶつと何か言葉を呟いている。その度に握られた手にかかる力も増して骨が軋んで痛い。離して欲しい、そう思う。だがこの魔神からの数々の仕打ちが思い出されてそんな言葉を言えるはずもない。ただ耐えるしかない自分が嫌になる。
「なまえ……お前が私を治すんだ……それであの岩の魔神を倒すんだよ……お前さえいれば……私は無敵なん、だ……っ」
魔神が思い出したかのように私にすがりつく。そしてまた私に治せと言ってきたかと思えば魔神の口から血が溢れ出した。驚いて後ろに下がろうとしたが魔神が掴んでいるせいで動けなかった。
「うっ、……ごほっ、」
咳き込んだかと思えばさらに血を吐いた。魔神の吐いた血は近くにいる私を汚した。魔神の血が身長差ゆえに顔にかかり、視界を染める。私はその生暖かさに無意識のうちに手を触れていた。
――どろり。そう形容できるそれは、ある程度の粘着性を感じる。これが魔神の肉体に通っている血なのか。
「(――ああ。これはもう……)」
滴り落ちる血を拭うこともせずに私は魔神の血に塗れた手を見つめる。
「(ここで……)」
その血を浴びて、魔神の血を感じて私はそう思った。
「(ここで……殺すしかない)」
そう決意した時、大切な彼の姿が目に浮かんだ。彼をはじめとした未だ生きている
幸い魔神は瀕死だ。岩の魔神は噂通り強い魔神だった。目の前の魔神が本来持つはずの治癒力が追い付かないほどの力で痛めつけたのだ。治癒力がなくなったことを知っているからこそ目の前の魔神は私に縋ろうとしている。だから私が治さなければこの魔神は地に還る。未だに髪に、顔に、体にかかり続ける魔神の血を浴びながら私はそんなことを考えていた。その時になってようやく私もまた以前の私からはかけ離れたものになってしまっていたことに初めて気がついた。戻れないのは私も一緒だった。
「……なまえ、?」
身動き一つしない私を不思議に思ったのか魔神は名前を呼んだ。その声に私は視線をそろりと魔神へと動かす。今は魔神への恐怖は消えていた。あるのは殺意。ただそれだけだった。私は無意識に口を開く。
「おまえは、ここで死ぬ。私はもうお前を治したりしない」
「な、……なんだ、と……」
私の言葉に見るからに魔神は動揺していた。はじめての反抗だったから。その間にも魔神からは血が溢れて、地面に滴り落ちる。口からだけではなく岩の魔神に傷つけられたであろう傷口からも溢れている。それはじわりじわりと、しかし確実に魔神から命を奪っているはずだ。
「お前は死ぬべきだ。お前が見下したすべてのもののためにも。私が助けられなかったすべての仲間のために……お前はここで死ぬべきだ」
血塗れの魔神と私だけの空間で魔神に呪いの言葉を紡いだ。魔神は私の言葉が信じられないような顔をした。そんな顔もできたのかといつも見下されていたばかりだった私は思った。そんな魔神の顔も一瞬で、次の瞬間からは鬼の形相で今度は魔神が私に呪いを紡ぐ。
「死ぬべきは……お前だッ! なまえッッ!! 私を、治さないなどと……よく言えたものだな! ……お前如きが魔神を愚弄するとは……ッ! 私を、……この私を裏切った罪は重いぞ……っ!!」
激昂したその態度はまさに魔神だった。血塗れの中に立つ私は魔神の恐怖が思い起こされて無意識のうちに震えていた。それでも治すわけにはいかない。反射のように力を使いそうになる自分を心の中で諌めながら負けないように魔神を睨みつけた。魔神はなおも私を罵倒しながらも血は止まらず、その声色も徐々に覇気がなくなっていく。それに連れてだんだんと激昂した魔神は静かになっていった。私は決して目を逸さなかった。目の前で土に還っていく魔神を見つめて、その手に魔神の怨嗟を感じながら私は魔神の最期の時までずっと見つめていた。やがてその最期の時が来た瞬間、魔神は小さな声で私に呟いた。
「呪われろ…小さな娘よ。か弱きその身を呪うがいい。私の呪いはおまえを決して逃しはしない……」
――そうして魔神は私に呪いをかけた。