読切
夕暮れの校舎。茜空と影のコントラスト。小さくなるざわめき。
美術室に最後まで残っていた私の前には男子生徒。普段交流がないからか、名前もよく覚えていない。おかしいな。部員はそれほど多くはないのにーーまあいいか。
「君ももう帰りなよ」
「そうですね」
窓の外を見て頷くと、画材を片付け、荷物を持って立ち上がる男子生徒。
「あ、そうだ。部長、下駄箱まで一緒に行きませんか」
「いいよ」
人気の無くなった廊下を二人で歩く。
「こんな時間まで残ってるなんて気合い入ってるね。文化祭の展示用、間に合いそう?」
「ええ、楽しみにしててくださいね」
廊下の角を曲がって階段を降りればすぐに生徒昇降口。帰る生徒を見送る先生が私達に気付いて声をかけた。
「もう外は暗いから、気を付けて帰るんだよ」
「はーい」
「できるだけ友達と一緒に帰るようにね」
「え……あれ? 先生、あの、もう一人、いませんでしたか?」
「え? 階段を降りてきた所から君一人だったけど……先生この後校舎内の見回りするから、君はもう帰りなさい」
「はい……」
途中で忘れ物を思い出したのかもしれない。そういえば、名前も学年も聞かなかったな。そんな事を考えながら、その日は帰宅した。
* * *
翌日、部活に昨日の男子生徒は現れなかった。
他の子も知らないと言うし、名簿に載っている名前を見て、はっきり顔が浮かぶほど男子生徒は少ない。
そう、昨日の男子生徒は美術部ではなかった。
なのに何故あんな時間まで美術室にいたのだろう。あんなにも画材を持っていたのに、作品を描いていたのに、部外者だった男子生徒。
頭の中で「何故」を繰り返して、しかし筆を握る手は黙々とキャンバスに色を重ねていく。
下校時間が迫り、一人減り、二人減り、またオレンジ色の光が差す頃、音もなく彼は現れた。
いつの間にか、隣で昨日の続きを描いていた。
「なん、で……いつの間に……」
「ずっといましたよ? ここに」
黄昏時になると現れる幽霊なのか? と問えば腹を抱えて笑われた。
「あっははははは! 面白い発想ですね!」
ひいひい言いながら筆を置き、私に向き直る。両手をだらりと垂らし、イタズラっぽく笑って「うらめしや〜」と彼は言った。
「どう?」
「全然怖くない」
「でしょうねぇ」
だって幽霊じゃないですからと言いながら再び筆を持ち、絵に向き合う彼の表情は楽しげながらも真剣だ。
人でなかったとしても、悪いものではない……のかもしれない。
「ねぇ、どうして昨日、急にいなくなったの?」
「忘れ物…」
「一言言ってくれたら良かったのに」
「…ではなくて、トイレに寄ってたんですよ」
「……ひ、一言、言ってくれたらよかったのに」
と言いながらも異性に言い出し辛いのは分かる。
しばらく二人とも無言でキャンバスに絵の具を置いていた。
彼が突然こんなことを言い出した。
「部長さんは、もっと絵が上手くなりたい、とか考えた事ありますか」
「あるよ」
それは絵を描く人皆思うことでしょう?
「力添えしましょうか」
「どういうこと?」
「一瞬で画力の大幅アップ、してみたくないですか」
さっきより暗くなった教室。どこか嬉しそうに楽しそうに、問いかける彼の表情は逆光でよく見えない。
きっとこれは、年頃の誰もが一度は夢見るチャンス。
きっとこれは、逃せば二度と訪れないチャンス。
「とても魅力的なお誘いね。でも私は、じっくり時間をかけて実力を高めていきたいの」
ああ、断ってしまった。残念な気持ちと、これで良かったのだという安堵が半々だ。
「残念です」
断られても嬉しそうな声色に変化はない。
私は教室の出入り口に移動して、パチリと明かりをつけた。天井の蛍光灯が一斉に光を放つ。
「代わりに、絵の練習に付き合ってくれる?」
自分の席に戻り、練習用スケッチブックを取り出す私の問いかけに、彼は嬉しそうに頷いた。
* * *
それから、部員が帰ってから校舎が施錠されるまでの放課後のわずかな時間は二人だけの秘密の時間になった。
毎日着々と減っていくスケッチブックの残りページ数。
教室の飾り付けを見ながら彼は微笑む。
「楽しみですね」
「うん。もちろん君も文化祭に来るんでしょう? 作品いっぱい描いてたし」
「僕の作品は、自分で並べておきます。部長や部員の皆さんの手は煩わせません」
「……絵を描くのが好きならさ、君も部員だよ」
「ありがとうございます」
穏やかな笑みを浮かべて彼は言った。
もしかしたら、もう会えないかもしれない。そんな予感がした。
暗くなった窓の外を見る二人。
「あの…」
言いかけたタイミングでチャイムが鳴った。もう帰らないと。
「さよなら、部長」
「さよなら…」
名前も知らないキミーー。
* * *
「あれ? 部長また上達してない?」
「文化祭前、一番最後まで残って描いてたもんね〜」
「この無記名の作品誰の? めっちゃ上手いんだけど」
「こんなの描いてる人いたっけ?」
「先生かな」
『秘密の黄昏時』終