ワンダーランド・シンドローム
ナマエヘンカン
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──わたし、ここで死ぬのかなあ。
咄嗟に頭に浮かんだのはそのひとことに尽きる。高校からの帰り道、図書室で借りた本の続きがどうしても気になって、読みながら歩き出してほんの十数分のところで、見事に蓋の開いていたマンホールに落ちた。
桜庭 ありす、十七年の人生が今幕を閉じようとしている。今更自分の不注意を呪ったが、もうどうすることもできないので大人しく覚悟を決めることにした。
しかし頭に浮かんでくるのは走馬灯なんかではなく、お母さんに頼まれた買い物がまだだっただとか、明日提出のプリントができていないだとか、取っておいたおやつが食べれずじまいだったなとか、そんなくだらないことばかり。なんだか涙が出てきそうだ。
そうこうしている間にも身体はどんどん落ち続けている。
底に叩きつけられる恐怖から体感時間が引き延ばされているのかとさえ馬鹿なことを思ったが、それにしても長すぎる。マンホールの中をしっかり覗いた経験などなかったが、それほど深い穴であるはずはない。
さすがに不安になってきたありすは、重力に逆らってなんとか目をこじ開けてみたが、周囲は真っ暗な闇が広がるだけで、穴の入り口はおろか、下に伸びているはずの下水道すらも見えはしなかった。たとえ底があってもなくても、これだけ暗ければどちらも同じことだ。
高いところから飛び降り自殺をする際、人は身体が空中にある時点で気を失っているという話を聞いたことがある。自殺なんてこれっぽっちも考えたことはなかったが、まさかその感覚を身をもって体感することになるとは、と思わず苦笑いを浮かべながら、ありすは意識を手放した。
目が覚めると、暖かく、それでいて少しごつごつして硬いものが身体の下にある。まどろみの中、生物的なその温度が心地よくて無意識に頬を擦り寄せた。
「うぅ……ん……」
すると、小さく洩れた吐息に反応する声があった。
「よかったあ! 目が覚めましたか?」
恐らく自分と同い年くらいの女の子のものだろう、とぼんやり思う。寝起きだからか、言葉は靄がかかったように聞こえて、内容ははっきりと理解できなかったのだが。……果たして、本当にそうだろうか?
───が、外国語!?
違った。
決してありすが寝ぼけていて言葉を聞き取れなかったのではない。耳慣れない音の羅列は間違いなく異国の言語で、しかし近さからして確実にこちらへ話しかけているとしか考えられなかった。
予想外の事態に一気に意識が現実に引き戻され、眠気など一瞬にして吹き飛んだありすはぱちりと目を開ける。
見えたのは、こちらを覗き込んでいる信じられないほど澄んだ一対のターコイズの瞳。驚いたありすは小さな悲鳴とももに文字通り飛び上がった。
それが災いして、身体の下にあった暖かくて硬い支えもぐらりと大きく揺れる。そうして初めて、なぜか自分がいつもよりかなり目線が高い位置にいたことに気づいてしまった。
今日はやたらいろんなところから落ちるなあ、と思う暇もなくふわりと身体が宙に浮き、ぎゅっと目を閉じる。
ぽすん、と、地面に激突したにしては柔らかい衝撃を背中に受けて、ありすは恐る恐る瞼を持ち上げた。と、またしても人間離れした美しさのアンバーと目が合った。一拍おいて、それが褐色の肌をもつ少女の顔に埋まっているものだということに気づく。とすると顔の距離的に、この少女がありすの身体を受け止めてくれ、横抱きされている状況だ。体格はひとまわりほどありすのほうが小柄とはいえ、大した腕力である。
ひとまずお礼を述べようとしたが、驚きと混乱を引きずっているせいか上手く声が出せない。口をぱくぱくさせていると、見上げた先にある少女の顔がこてんと傾げられ、その口からやや抑揚に乏しい問いかけが発せられた。
「……大丈夫?」
──っ!? やっぱり、英語……!
あーゆーおーけい、と一度反芻し、悟る。
ありすを保護してくれたらしい人々は、なぜだか外国人の集団であるようだ。しかしまだ英語で助かった、と思った。他の言語など、少なくともありすには習った経験も習う機会もなかったからだ。特別賢いわけではないが、高校で学習した範囲までならなんとか理解することはできる。
そうして頷いたありすを確かめて、少女──ラムレザルは安堵したようにわずかに表情を和らげた。
「すごいラム、王子様みたーい! それにひきかえシンってば、いきなりバランス崩しちゃだめじゃない。危ないでしょ?」
「ええ!? なんだよオレのせいかよ! そもそもその子びっくりさせたのはエルのほうだろー!」
「もう、ひとのせいにしないで!」
「そっくりそのままお返しするぜ!」
「──言葉が、わからないの?」
その一連を傍から眺めていたもうひとりの少女エルフェルトと青年シンが子どもじみた言い合いを始めたが、それを遮ったのは張りつめたラムレザルの声だった。
え、とふたりが目を遣ると、地面に降ろされたありすは、困ったように眉をㇵの字にしている。同じような顔のラムレザルが途方に暮れたように見つめてくるので、ふたりは慌てて彼女たちに駆け寄った。
「どういうこと、ラム?」
「何があったのか尋ねてみたけど、言葉が通じないみたい。どうしよう」
「まあ落ち着けって。さっき、大丈夫かって聞いてたときはちゃんと頷いてたじゃん」
「簡単な言葉なら理解できるのかも。でも、話すのは上手くないみたい」
「100年以上前のジャパニーズかもなんだし、英語が得意じゃないのかなあ。詳しいことはソルさんが戻ってこないとわからないけど」
「うーん、まあ、簡単なことなら通じるんだろ? じゃ、自己紹介でもしとこうぜ、なっ?」
ぱっと笑って言うシンにつられて、姉妹も見合わせた顔を明るくして頷いた。
「はじめまして! さっきは驚かせちゃってごめんなさい。私はエルフェルト=ヴァレンタイン! エルって呼んでくれたらいいな。それで、こっちが姉の……」
「ラムレザル=ヴァレンタイン。ラムでいいよ」
「で、オレはシン=キスク! どうだ? わかるか?」
「え、ええと……エルちゃん、ラムちゃん、シンくん……?」
ひとことも聞き漏らすまいと必死なありすに合わせて、三人はゆっくり発音してくれた。最後にシンに覗き込まれ、おずおずとそれぞれを指さしながら名前を繰り返すと、三人がわかりやすく破顔した。
かわいい~! と今にも頬ずりしてきそうなエルフェルトを引き留めたシンが、
「よければアンタの名前も教えてもらえると助かるんだけどな」
と笑いかけるので、はっとしてありすも自己紹介をする。
「わたしは、……ありす・桜庭、です。あの、英語はあんまりわからなくて……ごめんなさい」
「へえ~、ありすっていうんですね」
「なんか、不思議な響きだね」
「そんだけ話せるならダイジョブだって、自信持てよ!」
最後にぺこりと頭を下げる。三人の反応からして、暖かく歓迎してくれているようでありすはほっとした。
「まあ聞きたいことは山ほどあるんだけどさ、無理はしなくていいから今日はうち帰って休もうぜ。たぶんオヤジが話つけてくれるだろうし。あっ、噂をすれば、だ。おーい、オヤジーっ!!」
シンはありすの肩を軽く叩くのとは逆の手を、どこかに向けて振って叫んだ。
それを追って視線を走らせると、少し離れたところから歩いてくる人影がある。それはこちらに近づくにつれて大きく、赤いシルエットになり──
「ようやくお目覚めかよ、そのチビ……って、あぁ?」
そのドスの効いた声と凶悪な眼光をもつ男を目にした途端、ありすはあまりの迫力にぴしりと固まってしまった。