蒼銀の月
死にたくないのに、理不尽に自分は殺されそうになっていた。
理由も理不尽だった。
一人残すのは、可哀想だから。
死にたがるのは母親だけで、自分は死にたくなんてないのに。
薄情かも知れないが、母親と死ぬ気なんてなかった。
だって、生きたかったから。
母親と二人きり、生きていくためにどんなこともやってきたのに……。
貴族か何か知らない良家の男との間に生まれて、迎えに来るからという都合の良い言葉を信じ続ける母親を支え、必死に生きてきたのに、いつまでも来ない男に母親は勝手に絶望して、自分を道連れに死のうとした。
一人残すのは、可哀想だからなんて、勝手に押し付けるな!
生んでもらったけど生き死にをどうして、母親に決められなければならない?
母子二人きりで生き抜くために、必死に働いたのに……。
沸き上がってきたのは、絶望ではなく怒りだった。
その視界が急に蒼く染まった。
蒼いのに、舞い散る銀色の光彩が煌めいて、綺麗な世界。
音のない静寂 の世界。
蒼味を帯びたものが、母親に絡みついた。
それが髪だとは、分からなかった。
目の前で母親は、銀色の粒子となって霧散 した。
体を起こし、顔上げたそのさきに、その人はいた。
踵まで届く、長い長い蒼い色の髪。
そしてその両眼に惹き付けられた。
蒼銀色の、月のような眼。
明らかに、人間ではない。
しかし、その眼に彼の心は全身は、惹き付けられた。
彼を確かにその人は見た。
しかし、興味無げに猿彦を一瞥 しただけだった。
追いすがりたかったのに、その人は音もなく消えてしまった。
「それが、貴方だった」
いずこの場所か、そう呟くのは、猿彦だった。
視線の先には、玉兎がぼうっと夜空を見上げていた。
あのあと玉兎は、自ら「食料」を探し回った。
やはり、のべつまくなしに喰らうことはできず、「食事」に苦労した。
ある程度「食事」がとれたことでようやく玉兎は落ち着いた。
「猿彦……」
「はい」
「こっち、来てくれる?」
空を見上げたまま、玉兎は言う。
切られた髪も元の長さに戻っていた。
「はい。失礼いたします」
断りを入れ、玉兎の近くへ寄る。
「少しだけ、甘えて良い?」
ひどく疲れた様子で聞いてきた。
「はい、俺で良ければ」
そう応えると、玉兎は嬉しそうに笑った。「あんなに飢餓状態になったのいつぶりだろう……怖かったよ……理性がどうにかなりそうだった」
横顔が、疲れて見えた。
「何も食べずに生きられたら楽なのにね……たくさん食料はあったのに、気持ち悪くて食べられなかった」
食事への欲求と拒絶と嫌悪に挟まれ、玉兎はなかなか飢えを満たせなかった。
死にたがる人間以外は、体が受け付けないためだ。
「もう、疲れたよ……だけどね、鬼狩りに殺される気にもなれない」
玉兎は自分を掻き抱いた。
「人間も鬼と変わらない……そんな奴等になんか……」
口元に、彼らを嘲笑う嗤いを浮かべる。
「こうしている間にも、人間は、人間を殺しているし傷つけている。他人を家族を友人を恋人を傷つけ、殺している。鬼と何も変わらないよ。ただ、「食事」と「食料」の対象が僕達鬼は、人間というだけ」
価値観、概念、全く鬼と人間は異質で、真逆で、そう「食」という対象が人間であるから、相容れない。
「僕はずっとずっと昔、親に殺されそうになった……死にたくなかったのに」
血だらけの体で必死に逃げていたら、薄紅の両眼の男に遭遇した。
死にたくないと泣きながらすがったら、血を分け与えてやると言われた。
日の下に出られなくなるが、死の恐怖から、救ってやれると。
生きていられるなら、どうなっても良かった。
だから、受け入れた。
追いすがってきた親をあっさり喰い殺したが、罪悪感はなかった。
むしろ、生きてきたなかで初めて、美味な味わいに歓喜さえわいた。
しかし、その美味な食事は、人間なら誰でもいいわけではないことを知る。
食べる以前に人間を見ても気持ち悪さを感じ、空腹に負けて無理やり喰らうと不味くて吐いてしまう。
食事ができず、飢餓状態が続き苦しくて仕方なかった。
理性がどうにかなってしまいそうな危機感が本能を刺激したからか、食べられそうな人間を感知する能力に覚醒した。
最初は本能のまま、自分から向かっていた。死にたがる人間の下に。
すぐ分かった。「これは、食べられる」と。食したそれは、あの日と同じ歓喜するほど美味だった。
あっさり喰い尽くすがまだ足りなくて、覚醒した能力を使って「食料」を探した。
人間を喰っていくと、自分が強くなっていくのが分かった。
能力が増していき、より「食料」を探しやすくなった。
そうすると、刀を持った輩に狙われるようになった。
人間達と変わらない「食事」をしているだけなのに。
身を守る力も覚醒していた。
だが、使うと空腹が増す。
ただでさえ食べるのにも苦労しているのに、自衛するのはきつかった。
しかし、使わないとこっちが死んでしまう。刀を使う輩は普通ではなかった。
刀も普通の刀ではなかった。
自衛するだけでは、限界がきた。剣士に追い詰められて、攻撃する能力に覚醒した。
その能力に目覚めた時から、髪も眼も蒼く染まった。
しかし生き長らえるための力は、自衛よりも攻撃する方が空腹が酷かった。
飢餓状態も酷くなり、身動きが取れなくなった。
「食料」に力が反応したら、喰らい尽くした。
保存なんて頭になく、いるだけ食べてしまった。
「だから、餌箱を作る事にした……血鬼術で引き寄せて、保存してってね」
自分の血鬼術に反応した人間だけを引き寄せて、異空間に保存しておく事を覚えた。
万華鏡のような、月の華の煌めくその中。
「猿彦、君に聞きたいことがあるんだ」
「はい。なんなりと」
「君はどんどん強くなっているね。無惨様もきっとお喜びだ」
「……」
「僕は、食べる量が知れているから、君より弱い……なのに猿彦はどうして、僕の側にいるのかな?きっと猿彦は、十二鬼月にもなれるのに」
「何を聞きたいのかと思えば、そのような事ですか」
「……怒ってる?ごめん……ずっと気になっていたからね」
猿彦の顔には、奇妙な面が覆っているため表情が分かりにくい。しかし、声に苛立ちがあった。
「貴方は覚えていないかも知れませんが、俺は貴方に救われた者です」
「救う?鬼の僕が、君を?」
玉兎はきょとんと、猿彦を見つめた。
「親に殺されそうになっていた俺を、貴方が、あいつを食べてくれたから」
「え?」
猿彦の声は、笑っていた。
「俺は、貴方をずっと探していた。貴方にお仕えしたいからです」
「……待ってよ、僕に仕えるって……そんなの無惨様が許すはずがないよ。皆、鬼は無惨様の為に尽くすのだから」
「俺は、無惨様に正直に申し上げました。仕えたい人の為に力が欲しいと」
「あの方が、それで君を鬼にしたの?」
信じられない顔で玉兎は言った。
「無惨様には、正直過ぎていっそ潔い と、関心を持たれました」
ー鬼が鬼を守るか。興味深い、其奴に仕える事を許すー
猿彦の脳裏に、あの日の光景が甦る。
生き延びて、用心棒の職に就いて幾年過ぎたあの夜、不意に現れた無惨は、あっさり猿彦の雇い主を殺してしまった。
一瞬の事だった。無造作に歩み寄りながら、強い鬼を作りたいと呟いた無惨は、猿彦に抵抗も許さないまま、手刀だけで胸板を貫いた。
血泡を吹きながら、猿彦は喘いだ。
ー死ねない。仕えたい人がいる。命をかけてもー
そのためなら、どんなに生き汚くてもかまわない。死にたくない。
目の前の無惨を睨んだ時、猿彦が事切れない様子に、無惨が愉快げに嗤った。
睨み返し、声を絞り出した。
ーある鬼に仕えたい……蒼い髪をした鬼に俺は、救われた……その鬼に会いたいから生きてきた……ここで死ぬわけにいかないー
無惨は、目を丸くし、大笑した。
ー鬼に救われた?面白い事をいう人間だ。鬼になりたいか?確実になれるという保証はないが、私の血を受けてみるか?ー
無惨は、猿彦に実験台の材料のような言い方と、対象を見るような眼差しだったが、彼は構わなかった。
「そして俺は鬼になって、無惨様の命じられる通りに、貴方を追ってきたというわけです」
「……僕は君の事なんて覚えていないのに」
「俺はそれでも構いませんでした」
「僕が聞かなかったら、ずっと僕は知らないままでも?」
「はい」
「……君の事を覚えてもない鬼に仕える為に、鬼になる?信じられないよ」
額に手を当て、玉兎は苦笑いする。
「俺が覚えていたら、それで良いんです。俺は、貴方を覚えていますから」
「何それ……変な言い方だね……」
猿彦には、怒りも復讐も恨みの感情も感じられない。
「俺が貴方より強くなるのは、単純な話ですよ」
「単純て……」
「俺は誰よりも強くなって、貴方を守る」
「は、はは……君、馬鹿じゃないの?守るって……君の事を覚えていない奴を親の仇を守るって……」
「俺が決めたんです……貴方には、迷惑でしょうが」
「……なんだか僕、口説かれてるみたいだね」
言われて、猿彦は言葉に詰まる。
完全に引かれただろうか。
一方的に猿彦から接近したようなものだし、聞かれたから話しただけだが、確かに口説いているとも取れるが……。
「ふぅん……」
玉兎が小さく呟き、その美貌の顔を不意に猿彦に寄せてきた。
「……玉兎様」
玉兎の顔の近さに、猿彦は動揺する。
「君みたいな馬鹿もいるもんだね」
つっと玉兎の手が、猿彦の面に触れる。
「じゃあ、約束してくれる?」
「は、はい」
「僕よりもっと強くなって……それからどこにもいかないって、約束してくれる?」
「俺はどこにも行きませんよ。ずっと貴方の側にいます」
「なら、いいけど」
闇が不意に広がった。
ただただ、蒼い闇だ。
音もない無音の世界に周囲が包まれる。
凄まじい異質な空間に、猿彦は玉兎と二人きりになる。
だが猿彦には、先ほどの動揺はない。
「こんな事はなさらないでください。悲しくなります」
蒼い闇は、玉兎の威嚇だった。
「貴方こそ、何に怯えているのですか?」「……君は本当に強いね……」
呟いた顔に、怯えた表情が浮かんでいた。「猿彦……」
蒼い髪が流れた。
猿彦に、玉兎がぎゅうっとしがみついてきた。
「ぎ、玉兎様!?」
不覚にも、体が熱くなり動揺してしまう。「無惨様はいつか遠くに行ってしまう。あの方はとても強くて憧れで、僕の太陽なのに」猿彦は慌てた。無惨の血を受けた鬼は、思考を読まれる。今の発言も……。
「大丈夫……無惨様にはもう僕の思考もどこにいるかも、わからないよ」
「それは……」
「ねぇ、そのまま聞いていて」
耳元で囁く玉兎の声に、体が熱くなるのがどうにもならない。
「君の呪い、僕が外してあげる」
「ー!?」
「無惨様はいつか、遠くに行ってしまう……だから、君がいっしょに行かないようにしなきゃならないんだ」
無惨が遠くに行くとはどういう事なのか……。「ずっと、僕といてくれるんだよね?」
「答えは決まっています」
「ありがとう……良かった」
背中に回る手の腕の力が強くなる。
「無惨様は昼も克服しようとなさってる…何故かは知らないけど、無惨様が昼も克服されたら、夜の世界に僕の居場所がなくなってしまう」
怯えで玉兎の体が震えだす。
「無惨様が遠くに行ってしまう……」
玉兎の呟きに、チリチリとどうしてか、猿彦の胸が灼ける。
「俺がいます。大丈夫ですよ」
体はまだ熱い。
玉兎と体が密着しているのもある。
「だから貴方は、俺を見ていればいいんです!」
自然に、玉兎を強く抱き締めていた。
玉兎の首筋に、顎を埋める姿勢になった。
「猿彦……ちょっと……今の何?」
「え?」
体勢は変わらないまま、玉兎に聞かれ間抜けた返事をしていた。
「え?じゃあなくて、君、僕の事口説いてるの?」
「いや、俺は!」
さらりと顔にかかる玉兎の髪に、ようやく猿彦は体勢に気がつき、全身が更に熱くなった。
「ふふ。無惨様の事で怯えていたのがどこかにいってしまったよ」
「いや、あの……」
「まあ、なんだか落ち着くし、しばらくこうしてくれる?」
言われて体の熱さがどうにかなりそうだ。
「……失礼します」
玉兎の体をふわりと浮かせると、猿彦は玉兎を自分の膝に乗せ、胸に抱え込む。
「何?この姿勢?」
「この方がより落ち着くでしょう」
すぐ近く、猿彦と玉兎の顔は近い。
「ふふ……変なの。でも、まあいいよ」
玉兎は猿彦の胸に顔を埋めた。
「確かに落ち着くかも」
「……」
「このまま眠れたら、いいんだけどね」
「瞼だけでも閉じられては?」
「人間の時みたいに?すぐ飽きそうだな」
と言いながら、玉兎は瞼を閉じる。
「いいかも……蒼い闇の中なら静かだし、猿彦いるのもよくわかるし、ね」
「はい」
ただ、蒼い闇。
玉兎の作り出した無音の空間で、猿彦は玉兎を胸により、抱え込む。
「どうしたの?」
胸に抱え込まれた玉兎は、不思議そうに見上げてきた。
「しばらく眠られるがよろしいかと」
「鬼は眠らないよ?何を言ってるの?」
「言ってみただけです」
「猿彦なんだか、変だよ?」
玉兎に、猿彦は答えない。
「まあ、いいよ」
ふっと玉兎は笑う。
「今はこうしていたいし。こうして甘えるの、いつぶりだろうな」
その玉兎の肩がびくっとはねた。
「玉兎様?」
「……この感じ……冥月の牢獄」
チリチリと猿彦の胸が灼ける。
ずっと昔、玉兎がある兄弟にかけた血鬼術。
鬼でも人間でもない状態で生きるか、玉兎を殺して解放されるか、玉兎に喰われるかを選ばせる一種の呪い。
「……懐かしい技を使うかと思ってたけど、そうか……あいつ、あの時の末裔か」
あいつ……赤い髪の星の呼吸を使う。
「近くまで来ているね。自分から動くなんて、周防蒼龍みたいだ」
初代周防紅龍の兄、周防蒼龍の名を口にし、玉兎は嗤う。
「僕を狩りに来て喰われた愚かなお兄さんだったな」
玉兎は猿彦の胸を軽く押した。
猿彦が玉兎を支えながら、立たせてくれる。
「でもどうだろう……何か意図があるのかな?猿彦の実力をよく知ってるのに、自分から動くなんて」
周囲の闇が更に蒼く染まっていく。
「猿彦、力を貸して。たくさん血鬼術を使いそうだから」
「承知」
短く応える猿彦にふわりと笑った。
無音の蒼が広がっていく。
異質な音のない世界。
果ての見えない、異質な世界。
ただただ蒼い、闇。
理由も理不尽だった。
一人残すのは、可哀想だから。
死にたがるのは母親だけで、自分は死にたくなんてないのに。
薄情かも知れないが、母親と死ぬ気なんてなかった。
だって、生きたかったから。
母親と二人きり、生きていくためにどんなこともやってきたのに……。
貴族か何か知らない良家の男との間に生まれて、迎えに来るからという都合の良い言葉を信じ続ける母親を支え、必死に生きてきたのに、いつまでも来ない男に母親は勝手に絶望して、自分を道連れに死のうとした。
一人残すのは、可哀想だからなんて、勝手に押し付けるな!
生んでもらったけど生き死にをどうして、母親に決められなければならない?
母子二人きりで生き抜くために、必死に働いたのに……。
沸き上がってきたのは、絶望ではなく怒りだった。
その視界が急に蒼く染まった。
蒼いのに、舞い散る銀色の光彩が煌めいて、綺麗な世界。
音のない
蒼味を帯びたものが、母親に絡みついた。
それが髪だとは、分からなかった。
目の前で母親は、銀色の粒子となって
体を起こし、顔上げたそのさきに、その人はいた。
踵まで届く、長い長い蒼い色の髪。
そしてその両眼に惹き付けられた。
蒼銀色の、月のような眼。
明らかに、人間ではない。
しかし、その眼に彼の心は全身は、惹き付けられた。
彼を確かにその人は見た。
しかし、興味無げに猿彦を
追いすがりたかったのに、その人は音もなく消えてしまった。
「それが、貴方だった」
いずこの場所か、そう呟くのは、猿彦だった。
視線の先には、玉兎がぼうっと夜空を見上げていた。
あのあと玉兎は、自ら「食料」を探し回った。
やはり、のべつまくなしに喰らうことはできず、「食事」に苦労した。
ある程度「食事」がとれたことでようやく玉兎は落ち着いた。
「猿彦……」
「はい」
「こっち、来てくれる?」
空を見上げたまま、玉兎は言う。
切られた髪も元の長さに戻っていた。
「はい。失礼いたします」
断りを入れ、玉兎の近くへ寄る。
「少しだけ、甘えて良い?」
ひどく疲れた様子で聞いてきた。
「はい、俺で良ければ」
そう応えると、玉兎は嬉しそうに笑った。「あんなに飢餓状態になったのいつぶりだろう……怖かったよ……理性がどうにかなりそうだった」
横顔が、疲れて見えた。
「何も食べずに生きられたら楽なのにね……たくさん食料はあったのに、気持ち悪くて食べられなかった」
食事への欲求と拒絶と嫌悪に挟まれ、玉兎はなかなか飢えを満たせなかった。
死にたがる人間以外は、体が受け付けないためだ。
「もう、疲れたよ……だけどね、鬼狩りに殺される気にもなれない」
玉兎は自分を掻き抱いた。
「人間も鬼と変わらない……そんな奴等になんか……」
口元に、彼らを嘲笑う嗤いを浮かべる。
「こうしている間にも、人間は、人間を殺しているし傷つけている。他人を家族を友人を恋人を傷つけ、殺している。鬼と何も変わらないよ。ただ、「食事」と「食料」の対象が僕達鬼は、人間というだけ」
価値観、概念、全く鬼と人間は異質で、真逆で、そう「食」という対象が人間であるから、相容れない。
「僕はずっとずっと昔、親に殺されそうになった……死にたくなかったのに」
血だらけの体で必死に逃げていたら、薄紅の両眼の男に遭遇した。
死にたくないと泣きながらすがったら、血を分け与えてやると言われた。
日の下に出られなくなるが、死の恐怖から、救ってやれると。
生きていられるなら、どうなっても良かった。
だから、受け入れた。
追いすがってきた親をあっさり喰い殺したが、罪悪感はなかった。
むしろ、生きてきたなかで初めて、美味な味わいに歓喜さえわいた。
しかし、その美味な食事は、人間なら誰でもいいわけではないことを知る。
食べる以前に人間を見ても気持ち悪さを感じ、空腹に負けて無理やり喰らうと不味くて吐いてしまう。
食事ができず、飢餓状態が続き苦しくて仕方なかった。
理性がどうにかなってしまいそうな危機感が本能を刺激したからか、食べられそうな人間を感知する能力に覚醒した。
最初は本能のまま、自分から向かっていた。死にたがる人間の下に。
すぐ分かった。「これは、食べられる」と。食したそれは、あの日と同じ歓喜するほど美味だった。
あっさり喰い尽くすがまだ足りなくて、覚醒した能力を使って「食料」を探した。
人間を喰っていくと、自分が強くなっていくのが分かった。
能力が増していき、より「食料」を探しやすくなった。
そうすると、刀を持った輩に狙われるようになった。
人間達と変わらない「食事」をしているだけなのに。
身を守る力も覚醒していた。
だが、使うと空腹が増す。
ただでさえ食べるのにも苦労しているのに、自衛するのはきつかった。
しかし、使わないとこっちが死んでしまう。刀を使う輩は普通ではなかった。
刀も普通の刀ではなかった。
自衛するだけでは、限界がきた。剣士に追い詰められて、攻撃する能力に覚醒した。
その能力に目覚めた時から、髪も眼も蒼く染まった。
しかし生き長らえるための力は、自衛よりも攻撃する方が空腹が酷かった。
飢餓状態も酷くなり、身動きが取れなくなった。
「食料」に力が反応したら、喰らい尽くした。
保存なんて頭になく、いるだけ食べてしまった。
「だから、餌箱を作る事にした……血鬼術で引き寄せて、保存してってね」
自分の血鬼術に反応した人間だけを引き寄せて、異空間に保存しておく事を覚えた。
万華鏡のような、月の華の煌めくその中。
「猿彦、君に聞きたいことがあるんだ」
「はい。なんなりと」
「君はどんどん強くなっているね。無惨様もきっとお喜びだ」
「……」
「僕は、食べる量が知れているから、君より弱い……なのに猿彦はどうして、僕の側にいるのかな?きっと猿彦は、十二鬼月にもなれるのに」
「何を聞きたいのかと思えば、そのような事ですか」
「……怒ってる?ごめん……ずっと気になっていたからね」
猿彦の顔には、奇妙な面が覆っているため表情が分かりにくい。しかし、声に苛立ちがあった。
「貴方は覚えていないかも知れませんが、俺は貴方に救われた者です」
「救う?鬼の僕が、君を?」
玉兎はきょとんと、猿彦を見つめた。
「親に殺されそうになっていた俺を、貴方が、あいつを食べてくれたから」
「え?」
猿彦の声は、笑っていた。
「俺は、貴方をずっと探していた。貴方にお仕えしたいからです」
「……待ってよ、僕に仕えるって……そんなの無惨様が許すはずがないよ。皆、鬼は無惨様の為に尽くすのだから」
「俺は、無惨様に正直に申し上げました。仕えたい人の為に力が欲しいと」
「あの方が、それで君を鬼にしたの?」
信じられない顔で玉兎は言った。
「無惨様には、正直過ぎていっそ
ー鬼が鬼を守るか。興味深い、其奴に仕える事を許すー
猿彦の脳裏に、あの日の光景が甦る。
生き延びて、用心棒の職に就いて幾年過ぎたあの夜、不意に現れた無惨は、あっさり猿彦の雇い主を殺してしまった。
一瞬の事だった。無造作に歩み寄りながら、強い鬼を作りたいと呟いた無惨は、猿彦に抵抗も許さないまま、手刀だけで胸板を貫いた。
血泡を吹きながら、猿彦は喘いだ。
ー死ねない。仕えたい人がいる。命をかけてもー
そのためなら、どんなに生き汚くてもかまわない。死にたくない。
目の前の無惨を睨んだ時、猿彦が事切れない様子に、無惨が愉快げに嗤った。
睨み返し、声を絞り出した。
ーある鬼に仕えたい……蒼い髪をした鬼に俺は、救われた……その鬼に会いたいから生きてきた……ここで死ぬわけにいかないー
無惨は、目を丸くし、大笑した。
ー鬼に救われた?面白い事をいう人間だ。鬼になりたいか?確実になれるという保証はないが、私の血を受けてみるか?ー
無惨は、猿彦に実験台の材料のような言い方と、対象を見るような眼差しだったが、彼は構わなかった。
「そして俺は鬼になって、無惨様の命じられる通りに、貴方を追ってきたというわけです」
「……僕は君の事なんて覚えていないのに」
「俺はそれでも構いませんでした」
「僕が聞かなかったら、ずっと僕は知らないままでも?」
「はい」
「……君の事を覚えてもない鬼に仕える為に、鬼になる?信じられないよ」
額に手を当て、玉兎は苦笑いする。
「俺が覚えていたら、それで良いんです。俺は、貴方を覚えていますから」
「何それ……変な言い方だね……」
猿彦には、怒りも復讐も恨みの感情も感じられない。
「俺が貴方より強くなるのは、単純な話ですよ」
「単純て……」
「俺は誰よりも強くなって、貴方を守る」
「は、はは……君、馬鹿じゃないの?守るって……君の事を覚えていない奴を親の仇を守るって……」
「俺が決めたんです……貴方には、迷惑でしょうが」
「……なんだか僕、口説かれてるみたいだね」
言われて、猿彦は言葉に詰まる。
完全に引かれただろうか。
一方的に猿彦から接近したようなものだし、聞かれたから話しただけだが、確かに口説いているとも取れるが……。
「ふぅん……」
玉兎が小さく呟き、その美貌の顔を不意に猿彦に寄せてきた。
「……玉兎様」
玉兎の顔の近さに、猿彦は動揺する。
「君みたいな馬鹿もいるもんだね」
つっと玉兎の手が、猿彦の面に触れる。
「じゃあ、約束してくれる?」
「は、はい」
「僕よりもっと強くなって……それからどこにもいかないって、約束してくれる?」
「俺はどこにも行きませんよ。ずっと貴方の側にいます」
「なら、いいけど」
闇が不意に広がった。
ただただ、蒼い闇だ。
音もない無音の世界に周囲が包まれる。
凄まじい異質な空間に、猿彦は玉兎と二人きりになる。
だが猿彦には、先ほどの動揺はない。
「こんな事はなさらないでください。悲しくなります」
蒼い闇は、玉兎の威嚇だった。
「貴方こそ、何に怯えているのですか?」「……君は本当に強いね……」
呟いた顔に、怯えた表情が浮かんでいた。「猿彦……」
蒼い髪が流れた。
猿彦に、玉兎がぎゅうっとしがみついてきた。
「ぎ、玉兎様!?」
不覚にも、体が熱くなり動揺してしまう。「無惨様はいつか遠くに行ってしまう。あの方はとても強くて憧れで、僕の太陽なのに」猿彦は慌てた。無惨の血を受けた鬼は、思考を読まれる。今の発言も……。
「大丈夫……無惨様にはもう僕の思考もどこにいるかも、わからないよ」
「それは……」
「ねぇ、そのまま聞いていて」
耳元で囁く玉兎の声に、体が熱くなるのがどうにもならない。
「君の呪い、僕が外してあげる」
「ー!?」
「無惨様はいつか、遠くに行ってしまう……だから、君がいっしょに行かないようにしなきゃならないんだ」
無惨が遠くに行くとはどういう事なのか……。「ずっと、僕といてくれるんだよね?」
「答えは決まっています」
「ありがとう……良かった」
背中に回る手の腕の力が強くなる。
「無惨様は昼も克服しようとなさってる…何故かは知らないけど、無惨様が昼も克服されたら、夜の世界に僕の居場所がなくなってしまう」
怯えで玉兎の体が震えだす。
「無惨様が遠くに行ってしまう……」
玉兎の呟きに、チリチリとどうしてか、猿彦の胸が灼ける。
「俺がいます。大丈夫ですよ」
体はまだ熱い。
玉兎と体が密着しているのもある。
「だから貴方は、俺を見ていればいいんです!」
自然に、玉兎を強く抱き締めていた。
玉兎の首筋に、顎を埋める姿勢になった。
「猿彦……ちょっと……今の何?」
「え?」
体勢は変わらないまま、玉兎に聞かれ間抜けた返事をしていた。
「え?じゃあなくて、君、僕の事口説いてるの?」
「いや、俺は!」
さらりと顔にかかる玉兎の髪に、ようやく猿彦は体勢に気がつき、全身が更に熱くなった。
「ふふ。無惨様の事で怯えていたのがどこかにいってしまったよ」
「いや、あの……」
「まあ、なんだか落ち着くし、しばらくこうしてくれる?」
言われて体の熱さがどうにかなりそうだ。
「……失礼します」
玉兎の体をふわりと浮かせると、猿彦は玉兎を自分の膝に乗せ、胸に抱え込む。
「何?この姿勢?」
「この方がより落ち着くでしょう」
すぐ近く、猿彦と玉兎の顔は近い。
「ふふ……変なの。でも、まあいいよ」
玉兎は猿彦の胸に顔を埋めた。
「確かに落ち着くかも」
「……」
「このまま眠れたら、いいんだけどね」
「瞼だけでも閉じられては?」
「人間の時みたいに?すぐ飽きそうだな」
と言いながら、玉兎は瞼を閉じる。
「いいかも……蒼い闇の中なら静かだし、猿彦いるのもよくわかるし、ね」
「はい」
ただ、蒼い闇。
玉兎の作り出した無音の空間で、猿彦は玉兎を胸により、抱え込む。
「どうしたの?」
胸に抱え込まれた玉兎は、不思議そうに見上げてきた。
「しばらく眠られるがよろしいかと」
「鬼は眠らないよ?何を言ってるの?」
「言ってみただけです」
「猿彦なんだか、変だよ?」
玉兎に、猿彦は答えない。
「まあ、いいよ」
ふっと玉兎は笑う。
「今はこうしていたいし。こうして甘えるの、いつぶりだろうな」
その玉兎の肩がびくっとはねた。
「玉兎様?」
「……この感じ……冥月の牢獄」
チリチリと猿彦の胸が灼ける。
ずっと昔、玉兎がある兄弟にかけた血鬼術。
鬼でも人間でもない状態で生きるか、玉兎を殺して解放されるか、玉兎に喰われるかを選ばせる一種の呪い。
「……懐かしい技を使うかと思ってたけど、そうか……あいつ、あの時の末裔か」
あいつ……赤い髪の星の呼吸を使う。
「近くまで来ているね。自分から動くなんて、周防蒼龍みたいだ」
初代周防紅龍の兄、周防蒼龍の名を口にし、玉兎は嗤う。
「僕を狩りに来て喰われた愚かなお兄さんだったな」
玉兎は猿彦の胸を軽く押した。
猿彦が玉兎を支えながら、立たせてくれる。
「でもどうだろう……何か意図があるのかな?猿彦の実力をよく知ってるのに、自分から動くなんて」
周囲の闇が更に蒼く染まっていく。
「猿彦、力を貸して。たくさん血鬼術を使いそうだから」
「承知」
短く応える猿彦にふわりと笑った。
無音の蒼が広がっていく。
異質な音のない世界。
果ての見えない、異質な世界。
ただただ蒼い、闇。