蒼銀の月
旧大名屋敷は、不気味な静けさの中にたたずんでいた。
正門の門は開いたまま。
まるで入れと言わんばかりに、口を開けている。
屋敷も何もまるで傷んでいない。
そこだけ時が止まったかのように。
「入るぞ。警戒を怠るな」
紅龍が言い、先に踏み入れる。
紅龍と先輩二人に挟まれて、善逸もびくびくしながら続く。
(先輩達もむちゃくちゃ、びびってるじゃん)
鬼がいると聞いてから、二人とも怯えた音が聴こえる。
それに引き換え、先頭を行く紅龍は不動だった。
さすがというべきか。
(本当は、こうなんだろうな)
凛として堂々として、鬼との戦いに臨む。
「我妻、何か聴こえるか?」
先を行く紅龍が問う。
「いいえ、何も」
旧大名屋敷の玄関にたどり着くも、何も聴こえない。
鬼の音が相変わらず聴こえて、気持ち悪い事この上ないが、異変の音はしない。
が。
(くっさい……!)
玄関から上がるなり、刺激臭が鼻を突く。
「何すか?この匂い……スゲー臭いんですけど……」
「匂いだって?」
三人とも、音も分からなければ匂いにも気づいていない。
「匂いも分かるのかよ、お前」
先輩の一人の顔がひきつっている。
「この屋敷入ってからですよ……」
音に加えて匂いまで……。
これって、ヤバい感じじゃあないのか?
「俺には、匂いも音も分からないが、さっきから頭の奥がチリチリする。普通じゃなさそうだな」
紅龍が、善逸を見る。
善逸は、紅龍の言葉を肯定するしかできない。
廊下を進み、更に奥を目指そうとした時。
「……っ!」
善逸の全身が硬直した。
(ヤバい!ヤバい!ヤバい!)
音が異様だ。
刺激臭も酷い。
しかも、なんだろう。
この異様な屋敷の中で、安らぎの音が聴こえる。
それが、更に気持ち悪い。
「おい!」
がくん、と崩れ落ちる善逸を紅龍が抱き止める。
「何で……食べられるのに、安らぎの音が聴こえるの……?」
紅龍の腕の中で、善逸は震えた。
そう。
信じられなかった。
自分から鬼に食べられるのを喜ぶ音。
「おい、周防……これって、マズいんじゃないのか」
善逸の異様な様子に、先輩二人は浮き足だってしまっている。
「ここを出よう!新入りの反応は、普通じゃない!」
もう一人が叫んだ時。
かっ、と周囲が蒼く染まった。
満月の月明かりが夜闇を蒼く染めるように。
「ようこそ。僕の餌箱へ」
紅龍達は一瞬で、空間移動させられていた。
当主の間だろう上座に、美貌の青年が座していた。
蒼く染まった長い髪は、畳の上に流麗な流れを描き広がっている。
青年の両眼は、蒼銀色だった。
まるで、月が人型になったような。
「随分、感覚の鋭い人間がいるね」
青年だが、低すぎず高すぎない美しい声音。
興味深げに、鬼が紅龍の腕の中で震える善逸を見る。
「面白いなぁ、人間は。鬼より弱いくせに、たまにそういうのがいるんだよね」
「貴様が、この屋敷に巣くう鬼か」
紅龍が、鬼を睨み付ける。
「そうだよ。ここを餌箱にしてるんだ」
つと、鬼は右手を指す。
視線を追うと、そこには虚ろな眼差しの女性が座り込んでいた。
「私を早く食べて下さい……楽になりたいんです……」
女性の口には、笑みさえ浮かんでいた。
その光景に、一同にゾッとした空気が漂う。
善逸は、鬼の音、女性の安らぎの音という異様さにあてられて、顔も上げられない。
「彼女は、僕の血鬼術に引き寄せられた子だよ。僕の血鬼術はね、死にたがる人間を引き寄せるんだ」
にっこりと、柔らかい笑みを鬼は浮かべた。
「どうして、僕がわざわざ鬼狩りをここまで引き寄せたと思う?」
女性を引き寄せ、横目で紅龍達を見る。
「こういう鬼がいることも分かって欲しいんだ」
「死にたがる人間を食べているから、黙認しろと?」
紅龍が眉を吊り上げる。
「だって僕、誰も襲ってないよ?術に引き寄せられた人間だけ食べてるだけだから」
蒼銀色の瞳が笑う。
「鬼だってお腹は空くんだ。でも、僕は生きる気力のある人間がどうしても食べらなくて……だからこの血鬼術なのかな?」
「人間を選べば良いという話ではない!」
「……世の中、こうやって死にたがる人間もいる。誰も彼も満ち足りて生きていると思う?」
紅龍に、鬼は嘲笑する。
「彼女は、誰にも救われる気はない。だから、僕の血鬼術に引き寄せられた」
鬼の長い髪が、女性に絡み付いていく。
「僕は、生きたいと思っている人間は襲わないよ。もうずっと昔から、そうしてきた」
鬼が善逸を見る。
「ねえ、君ならわかるでしょ?僕が嘘を吐いてないことを」
びくっと善逸は体をすくませる。
鬼は嘘は吐いていない。
だが、それに頷けない。
死にたがる人間なら、鬼に食べられても良いなんて思えないし、思いたくない。
「全く、人間は意味が分からないよ。死にたがる人間に死ぬなって、簡単に言うよね?それで、助けているつもりなのかな」
紅龍達の見ている前で、女性はあっさり銀色の粒子と化した。
空間に満ちる、感謝と安堵の音が善逸の耳を刺した。
「ひ……っ!い……や、だ」
紅龍が、善逸の頭を強く抱え込む。
「幸せの価値も不幸の価値も、当人にしか分からないでしょ?人間だった頃から、僕思っていたんだ」
銀色の粒子が、鬼に吸い込まれていく。
「だからかな?って鬼になったけど、生きる気力に満ち足りてる人間が食べられないのはってね」
「鬼の食の趣味趣向には、理解しかねる」
「ふぅん、そう」
紅龍の返事に、蒼銀色の眼差しが凍てつく。
「じゃあ、猿彦。こいつら食べてしまって」
「御意」
忽然とそれは現れた。
人とも動物とも分からない奇妙な面を着けた鬼。
「僕は新しい餌箱を探すよ」
「承知」
両手の爪があり得ないぐらい伸びる。
「待て」
それを止めたのは、また違う鬼だった。
「猿彦、こいつらは俺に喰わせろ。良いだろ!玉兎よお!」
ニタニタと、その鬼は青年鬼を見る。
「ずっとお前のおこぼればかりだったんだ。ここを出て行くなら、こいつらは俺によこせ」
「……勝手に住み着いておいて、よく言うよ」
玉兎と呼ばれた鬼が消える不愉快気に言っていると、猿彦が伺ってきた。
「いかが致しますか。私は、別にこれらを喰わずとも構いませんが」
「そう?じゃあ、あれにあげてくれる?ごめんね」
「話は決まったな」
嬉しげに、鬼が笑う。
玉兎という鬼を、逃がすわけにはいかない。
紅龍は判断した。
十二鬼月ではないが、下弦以上か上弦未満の鬼気を感じる。
「我妻を頼む」
小さく呟き、同僚に託すと呼吸を使う。
いぃぃぃぃぃ。
独特の呼吸音が満ちる。
星の呼吸。
陸の型。
「武曲・開陽」
抜刀した刃が、灼熱する。
星の放つ熱量の如く。
牙剥くのは、光速の、乱撃。
「へぇ……」
蒼銀色の瞳が笑った。
その軌跡に、猿彦が介入した。
まるで、意に介することもなく、あの爪で乱撃を如く受け流した。
(星の呼吸を……陸の型を受け流された?)
息も乱さず、猿彦は兎月を守り、爪を構える。
「ありがとう、猿彦。あいつはいいから。さっさと行こう」
「……承知」
猿彦は不満そうだが、玉兎に従った。
「くっ……」
屈辱だ。
敵でさえないらしい。
「あ、一つ言っておくよ」
玉兎から笑みが消える。
「君達鬼狩りが、僕に今度また、ちょっかいかけたら」
僅かに、その眼光が鋭くなる。
脳が、臓物が一気に冷えきった。
まるで氷の蛇が、紅龍の全身を縛り上げたかのように。
「来た奴等は皆、僕自ら殺すからね」
真冬の凍てつく月のような冷たさだった。
「じゃあね。僕の事理解してもらえなくて、残念だよ」
蒼い光を残して、玉兎も猿彦も消えた。
残るのは、あとから現れた鬼と、紅龍達のみ。
「けひひ、さてどいつから喰ってやろうか」
鬼は一匹。
しかし、異様さが消えていない。
「一匹なら、やれるんじゃね?」
先輩の一人が言う。
「一番ヤバそうなのも勝手にいなくなったし。生きて帰れそうだぞ」
「だな」
(違うって……あいつも普通じゃあない……)
畳に横たわらせられた善逸は、体を起こそうとした。
自分が動かないと、先輩達が死ぬ。
紅龍は、あの鬼のひと睨みで硬直してしまっている。
(動かなきゃ……怖いけど……まだ気持ち悪いけど)
両脚に、呼吸を集中させる。
ー来る!ー
異様な音の発生と、善逸が動いたのは、正に同時。
二人の先輩を抱えて善逸は動いた。
その箇所を漆黒の蛇の大顎が砕いた。
「おわあっ!」
畳に三人、もつれるように転がり、畳を砕いた蛇に青ざめる。
「ちっ。意外に動ける鬼狩りがいやがるな」
鬼の両腕が、大蛇に変容していた。
(体の構造どーなってるの?マジで。元人間かよ!)
先輩二人を助けた善逸だが、その異形の姿に体が震える。
というか、当の先輩二人も固まっていて、それどころではなくなっていた。
「玉兎の鬼気に晒されて、厄介なのが固まってくれてて幸運だ」
はっと、善逸が紅龍を見ると、紅龍は凍てついたように身動きしていなかった。
「玉兎が怒ると厄介なんだよ。ああやって、怒りを向けらると、暫く動けなくなる」
(なんだよ、そりゃ!)
という事は、先に紅龍が狙われる。
「丸飲みにしてやるよ!」
鬼の左の大蛇が、鎌首をもたげた。
紅龍が捕捉される。
(ヤバい!周防さんは、動けない!)
俺が、何とかしなきゃ!
漆黒の大蛇が、紅龍に大顎を開け襲いかかった。
玉兎の怒気の呪縛を食らった紅龍は動けない。
凄まじい音を立てて、畳が弾ける。
雷の呼吸を脚に全集中させ、善逸が走った。
「周防さん!」
かっさらう形で善逸は紅龍に抱きつき、駆け抜けた。
紅龍のいた場所を大顎が噛み砕き、畳がひしゃげる。
「この、クソ餓鬼が!」
二度も補食を邪魔され、鬼のこめかみがびきびきとひきつる。
「大丈夫?周防さん」
「あ、我妻?」
紅龍の体はまだ、自由が利くに至っていない。
それでも、我には返ったようだ。
「お前が助けてくれたのか……」
「まぐれですよ…」
善逸の体は震えていた。
「階級、甲なのに、新入りに迷惑かけるとか、情けないな…」
「そんな…」
事はない、そう言いかけた善逸の体が吹き飛ばされた。
ふすまをぶち壊し、畳が弾ける程、体が叩きつけられる。
「我妻!!」
紅龍が叫ぶ。
善逸はぴくりともしない。
「このクソ餓鬼が!一度ならず、二度も補食の邪魔しやがって!」
鬼は完全に、怒っていた。
「ただ丸飲みにするんじゃ面白くねぇ!蛇の頭でさんざんド突き回して、全身の骨へし折って、挽き肉してから喰ってやる!」
両腕の大蛇が、善逸に首を向ける。
先輩二人は怯えて動けない。
紅龍も、玉兎の怒気の呪縛で体が動かせない。
必死に助けてくれた後輩の、なぶり殺されるのをただ、見るしかない。
「我妻…」
悔しさだけしか、なかった。
二匹の大蛇が、善逸に襲いかかった。
ぼん!という、衝撃音。
大蛇の二つの頭が、宙を舞っていた。
「え?」
間抜けな声を鬼が出した。
大蛇の頭は、すっぱりと斬られていた。
その断面は滑らかで、筋肉から骨まで綺麗に露出していた。
一拍間を置いて、斬られた箇所から血が吹き出した。
「な、何だ?」
狼狽えながらも、鬼ゆえに、すぐさま部位が再生する。
瞬く間に再び大蛇となり、鎌首をもたげた。
しかし、その蛇も怯えてすぐに動けない。
それは、異様な気配だ。
その場に満ちる突き刺さるような、圧力。
しいぃぃぃぃぃ…
独特の呼吸音。
「何だこいつは…」
鬼は自らに突き刺さる圧力に、戦慄する。
自分が吹き飛ばした筈の少年が、立っている。
しかも、あり得ない前傾姿勢をとって。
部屋全体の空気がびりびりと、震える。
構えを取る、善逸の放つ圧力だった。
その鋭さは、紅龍もそして先輩二人も圧倒した。
しいぃぃぃぃぃ…
「このっ!」
鬼は両腕の大蛇を善逸に襲いかからせた。
動かれる前に殺らねば、自分が死ぬ!
突き動かしたのは、焦燥と恐怖だった。
大口を開け、大蛇が襲いかかる。
善逸は、動かない。
「我妻!!」
紅龍が叫ぶ。
「雷の呼吸。壱の型…」
きん!と親指が鍔を跳ね、鯉口を切る。
「霹靂一閃」
畳を踏み砕き、善逸が消えた。
紅龍達が見た光景は。
雷光が駆け抜けたかと思うと、鬼の両腕の大蛇が口から横一文字に、二枚に切り裂かれていた。
そして、宙を鬼の頸が舞っていた。
蛇の口を切り裂いても落ちない速度のまま、鬼は頸を斬られたのだ。
「斬られた?俺が!?あの餓鬼に!?」
頸が畳に激突して初めて、鬼は自分が斬られたと知った。
速すぎる。
見えなかった。
ぐずぐずと灰になりながら、鬼は自分を斬った鬼狩りを見つめる事しかできなかった。
彼が見た最後の光景は、納刀と同時に倒れる鬼狩りの姿だった。
鬼が灰となり、畳に残骸を散らした。
紅龍達はそこでようやく、状況が終了した事に気づく。
「我妻!」
玉兎の、ひと睨みの余波か満足に動かない体を捺して、紅龍は善逸の下にどうにか向かう。
「我妻…?」
側に寄って容態を確認すると、善逸は眠っていた。
穏やかに。
体をあれだけ畳に叩きつけられた筈なのに、苦しそうな様子がない。
「……不甲斐ないな、俺は」
何もできなかった。
玉兎を倒せず、敵でさえないらしい己。
睨まれただけで、体は動かず、事態を好転させる事もできなかった。
唯一、働きを見せたのは、この新入り。
あの速さは、紅龍でも見えなかった。
我妻善逸は、ただ者ではない。
「俺は、なんて不甲斐ないんだ」
呟く事しかできなかった。
正門の門は開いたまま。
まるで入れと言わんばかりに、口を開けている。
屋敷も何もまるで傷んでいない。
そこだけ時が止まったかのように。
「入るぞ。警戒を怠るな」
紅龍が言い、先に踏み入れる。
紅龍と先輩二人に挟まれて、善逸もびくびくしながら続く。
(先輩達もむちゃくちゃ、びびってるじゃん)
鬼がいると聞いてから、二人とも怯えた音が聴こえる。
それに引き換え、先頭を行く紅龍は不動だった。
さすがというべきか。
(本当は、こうなんだろうな)
凛として堂々として、鬼との戦いに臨む。
「我妻、何か聴こえるか?」
先を行く紅龍が問う。
「いいえ、何も」
旧大名屋敷の玄関にたどり着くも、何も聴こえない。
鬼の音が相変わらず聴こえて、気持ち悪い事この上ないが、異変の音はしない。
が。
(くっさい……!)
玄関から上がるなり、刺激臭が鼻を突く。
「何すか?この匂い……スゲー臭いんですけど……」
「匂いだって?」
三人とも、音も分からなければ匂いにも気づいていない。
「匂いも分かるのかよ、お前」
先輩の一人の顔がひきつっている。
「この屋敷入ってからですよ……」
音に加えて匂いまで……。
これって、ヤバい感じじゃあないのか?
「俺には、匂いも音も分からないが、さっきから頭の奥がチリチリする。普通じゃなさそうだな」
紅龍が、善逸を見る。
善逸は、紅龍の言葉を肯定するしかできない。
廊下を進み、更に奥を目指そうとした時。
「……っ!」
善逸の全身が硬直した。
(ヤバい!ヤバい!ヤバい!)
音が異様だ。
刺激臭も酷い。
しかも、なんだろう。
この異様な屋敷の中で、安らぎの音が聴こえる。
それが、更に気持ち悪い。
「おい!」
がくん、と崩れ落ちる善逸を紅龍が抱き止める。
「何で……食べられるのに、安らぎの音が聴こえるの……?」
紅龍の腕の中で、善逸は震えた。
そう。
信じられなかった。
自分から鬼に食べられるのを喜ぶ音。
「おい、周防……これって、マズいんじゃないのか」
善逸の異様な様子に、先輩二人は浮き足だってしまっている。
「ここを出よう!新入りの反応は、普通じゃない!」
もう一人が叫んだ時。
かっ、と周囲が蒼く染まった。
満月の月明かりが夜闇を蒼く染めるように。
「ようこそ。僕の餌箱へ」
紅龍達は一瞬で、空間移動させられていた。
当主の間だろう上座に、美貌の青年が座していた。
蒼く染まった長い髪は、畳の上に流麗な流れを描き広がっている。
青年の両眼は、蒼銀色だった。
まるで、月が人型になったような。
「随分、感覚の鋭い人間がいるね」
青年だが、低すぎず高すぎない美しい声音。
興味深げに、鬼が紅龍の腕の中で震える善逸を見る。
「面白いなぁ、人間は。鬼より弱いくせに、たまにそういうのがいるんだよね」
「貴様が、この屋敷に巣くう鬼か」
紅龍が、鬼を睨み付ける。
「そうだよ。ここを餌箱にしてるんだ」
つと、鬼は右手を指す。
視線を追うと、そこには虚ろな眼差しの女性が座り込んでいた。
「私を早く食べて下さい……楽になりたいんです……」
女性の口には、笑みさえ浮かんでいた。
その光景に、一同にゾッとした空気が漂う。
善逸は、鬼の音、女性の安らぎの音という異様さにあてられて、顔も上げられない。
「彼女は、僕の血鬼術に引き寄せられた子だよ。僕の血鬼術はね、死にたがる人間を引き寄せるんだ」
にっこりと、柔らかい笑みを鬼は浮かべた。
「どうして、僕がわざわざ鬼狩りをここまで引き寄せたと思う?」
女性を引き寄せ、横目で紅龍達を見る。
「こういう鬼がいることも分かって欲しいんだ」
「死にたがる人間を食べているから、黙認しろと?」
紅龍が眉を吊り上げる。
「だって僕、誰も襲ってないよ?術に引き寄せられた人間だけ食べてるだけだから」
蒼銀色の瞳が笑う。
「鬼だってお腹は空くんだ。でも、僕は生きる気力のある人間がどうしても食べらなくて……だからこの血鬼術なのかな?」
「人間を選べば良いという話ではない!」
「……世の中、こうやって死にたがる人間もいる。誰も彼も満ち足りて生きていると思う?」
紅龍に、鬼は嘲笑する。
「彼女は、誰にも救われる気はない。だから、僕の血鬼術に引き寄せられた」
鬼の長い髪が、女性に絡み付いていく。
「僕は、生きたいと思っている人間は襲わないよ。もうずっと昔から、そうしてきた」
鬼が善逸を見る。
「ねえ、君ならわかるでしょ?僕が嘘を吐いてないことを」
びくっと善逸は体をすくませる。
鬼は嘘は吐いていない。
だが、それに頷けない。
死にたがる人間なら、鬼に食べられても良いなんて思えないし、思いたくない。
「全く、人間は意味が分からないよ。死にたがる人間に死ぬなって、簡単に言うよね?それで、助けているつもりなのかな」
紅龍達の見ている前で、女性はあっさり銀色の粒子と化した。
空間に満ちる、感謝と安堵の音が善逸の耳を刺した。
「ひ……っ!い……や、だ」
紅龍が、善逸の頭を強く抱え込む。
「幸せの価値も不幸の価値も、当人にしか分からないでしょ?人間だった頃から、僕思っていたんだ」
銀色の粒子が、鬼に吸い込まれていく。
「だからかな?って鬼になったけど、生きる気力に満ち足りてる人間が食べられないのはってね」
「鬼の食の趣味趣向には、理解しかねる」
「ふぅん、そう」
紅龍の返事に、蒼銀色の眼差しが凍てつく。
「じゃあ、猿彦。こいつら食べてしまって」
「御意」
忽然とそれは現れた。
人とも動物とも分からない奇妙な面を着けた鬼。
「僕は新しい餌箱を探すよ」
「承知」
両手の爪があり得ないぐらい伸びる。
「待て」
それを止めたのは、また違う鬼だった。
「猿彦、こいつらは俺に喰わせろ。良いだろ!玉兎よお!」
ニタニタと、その鬼は青年鬼を見る。
「ずっとお前のおこぼればかりだったんだ。ここを出て行くなら、こいつらは俺によこせ」
「……勝手に住み着いておいて、よく言うよ」
玉兎と呼ばれた鬼が消える不愉快気に言っていると、猿彦が伺ってきた。
「いかが致しますか。私は、別にこれらを喰わずとも構いませんが」
「そう?じゃあ、あれにあげてくれる?ごめんね」
「話は決まったな」
嬉しげに、鬼が笑う。
玉兎という鬼を、逃がすわけにはいかない。
紅龍は判断した。
十二鬼月ではないが、下弦以上か上弦未満の鬼気を感じる。
「我妻を頼む」
小さく呟き、同僚に託すと呼吸を使う。
いぃぃぃぃぃ。
独特の呼吸音が満ちる。
星の呼吸。
陸の型。
「武曲・開陽」
抜刀した刃が、灼熱する。
星の放つ熱量の如く。
牙剥くのは、光速の、乱撃。
「へぇ……」
蒼銀色の瞳が笑った。
その軌跡に、猿彦が介入した。
まるで、意に介することもなく、あの爪で乱撃を如く受け流した。
(星の呼吸を……陸の型を受け流された?)
息も乱さず、猿彦は兎月を守り、爪を構える。
「ありがとう、猿彦。あいつはいいから。さっさと行こう」
「……承知」
猿彦は不満そうだが、玉兎に従った。
「くっ……」
屈辱だ。
敵でさえないらしい。
「あ、一つ言っておくよ」
玉兎から笑みが消える。
「君達鬼狩りが、僕に今度また、ちょっかいかけたら」
僅かに、その眼光が鋭くなる。
脳が、臓物が一気に冷えきった。
まるで氷の蛇が、紅龍の全身を縛り上げたかのように。
「来た奴等は皆、僕自ら殺すからね」
真冬の凍てつく月のような冷たさだった。
「じゃあね。僕の事理解してもらえなくて、残念だよ」
蒼い光を残して、玉兎も猿彦も消えた。
残るのは、あとから現れた鬼と、紅龍達のみ。
「けひひ、さてどいつから喰ってやろうか」
鬼は一匹。
しかし、異様さが消えていない。
「一匹なら、やれるんじゃね?」
先輩の一人が言う。
「一番ヤバそうなのも勝手にいなくなったし。生きて帰れそうだぞ」
「だな」
(違うって……あいつも普通じゃあない……)
畳に横たわらせられた善逸は、体を起こそうとした。
自分が動かないと、先輩達が死ぬ。
紅龍は、あの鬼のひと睨みで硬直してしまっている。
(動かなきゃ……怖いけど……まだ気持ち悪いけど)
両脚に、呼吸を集中させる。
ー来る!ー
異様な音の発生と、善逸が動いたのは、正に同時。
二人の先輩を抱えて善逸は動いた。
その箇所を漆黒の蛇の大顎が砕いた。
「おわあっ!」
畳に三人、もつれるように転がり、畳を砕いた蛇に青ざめる。
「ちっ。意外に動ける鬼狩りがいやがるな」
鬼の両腕が、大蛇に変容していた。
(体の構造どーなってるの?マジで。元人間かよ!)
先輩二人を助けた善逸だが、その異形の姿に体が震える。
というか、当の先輩二人も固まっていて、それどころではなくなっていた。
「玉兎の鬼気に晒されて、厄介なのが固まってくれてて幸運だ」
はっと、善逸が紅龍を見ると、紅龍は凍てついたように身動きしていなかった。
「玉兎が怒ると厄介なんだよ。ああやって、怒りを向けらると、暫く動けなくなる」
(なんだよ、そりゃ!)
という事は、先に紅龍が狙われる。
「丸飲みにしてやるよ!」
鬼の左の大蛇が、鎌首をもたげた。
紅龍が捕捉される。
(ヤバい!周防さんは、動けない!)
俺が、何とかしなきゃ!
漆黒の大蛇が、紅龍に大顎を開け襲いかかった。
玉兎の怒気の呪縛を食らった紅龍は動けない。
凄まじい音を立てて、畳が弾ける。
雷の呼吸を脚に全集中させ、善逸が走った。
「周防さん!」
かっさらう形で善逸は紅龍に抱きつき、駆け抜けた。
紅龍のいた場所を大顎が噛み砕き、畳がひしゃげる。
「この、クソ餓鬼が!」
二度も補食を邪魔され、鬼のこめかみがびきびきとひきつる。
「大丈夫?周防さん」
「あ、我妻?」
紅龍の体はまだ、自由が利くに至っていない。
それでも、我には返ったようだ。
「お前が助けてくれたのか……」
「まぐれですよ…」
善逸の体は震えていた。
「階級、甲なのに、新入りに迷惑かけるとか、情けないな…」
「そんな…」
事はない、そう言いかけた善逸の体が吹き飛ばされた。
ふすまをぶち壊し、畳が弾ける程、体が叩きつけられる。
「我妻!!」
紅龍が叫ぶ。
善逸はぴくりともしない。
「このクソ餓鬼が!一度ならず、二度も補食の邪魔しやがって!」
鬼は完全に、怒っていた。
「ただ丸飲みにするんじゃ面白くねぇ!蛇の頭でさんざんド突き回して、全身の骨へし折って、挽き肉してから喰ってやる!」
両腕の大蛇が、善逸に首を向ける。
先輩二人は怯えて動けない。
紅龍も、玉兎の怒気の呪縛で体が動かせない。
必死に助けてくれた後輩の、なぶり殺されるのをただ、見るしかない。
「我妻…」
悔しさだけしか、なかった。
二匹の大蛇が、善逸に襲いかかった。
ぼん!という、衝撃音。
大蛇の二つの頭が、宙を舞っていた。
「え?」
間抜けな声を鬼が出した。
大蛇の頭は、すっぱりと斬られていた。
その断面は滑らかで、筋肉から骨まで綺麗に露出していた。
一拍間を置いて、斬られた箇所から血が吹き出した。
「な、何だ?」
狼狽えながらも、鬼ゆえに、すぐさま部位が再生する。
瞬く間に再び大蛇となり、鎌首をもたげた。
しかし、その蛇も怯えてすぐに動けない。
それは、異様な気配だ。
その場に満ちる突き刺さるような、圧力。
しいぃぃぃぃぃ…
独特の呼吸音。
「何だこいつは…」
鬼は自らに突き刺さる圧力に、戦慄する。
自分が吹き飛ばした筈の少年が、立っている。
しかも、あり得ない前傾姿勢をとって。
部屋全体の空気がびりびりと、震える。
構えを取る、善逸の放つ圧力だった。
その鋭さは、紅龍もそして先輩二人も圧倒した。
しいぃぃぃぃぃ…
「このっ!」
鬼は両腕の大蛇を善逸に襲いかからせた。
動かれる前に殺らねば、自分が死ぬ!
突き動かしたのは、焦燥と恐怖だった。
大口を開け、大蛇が襲いかかる。
善逸は、動かない。
「我妻!!」
紅龍が叫ぶ。
「雷の呼吸。壱の型…」
きん!と親指が鍔を跳ね、鯉口を切る。
「霹靂一閃」
畳を踏み砕き、善逸が消えた。
紅龍達が見た光景は。
雷光が駆け抜けたかと思うと、鬼の両腕の大蛇が口から横一文字に、二枚に切り裂かれていた。
そして、宙を鬼の頸が舞っていた。
蛇の口を切り裂いても落ちない速度のまま、鬼は頸を斬られたのだ。
「斬られた?俺が!?あの餓鬼に!?」
頸が畳に激突して初めて、鬼は自分が斬られたと知った。
速すぎる。
見えなかった。
ぐずぐずと灰になりながら、鬼は自分を斬った鬼狩りを見つめる事しかできなかった。
彼が見た最後の光景は、納刀と同時に倒れる鬼狩りの姿だった。
鬼が灰となり、畳に残骸を散らした。
紅龍達はそこでようやく、状況が終了した事に気づく。
「我妻!」
玉兎の、ひと睨みの余波か満足に動かない体を捺して、紅龍は善逸の下にどうにか向かう。
「我妻…?」
側に寄って容態を確認すると、善逸は眠っていた。
穏やかに。
体をあれだけ畳に叩きつけられた筈なのに、苦しそうな様子がない。
「……不甲斐ないな、俺は」
何もできなかった。
玉兎を倒せず、敵でさえないらしい己。
睨まれただけで、体は動かず、事態を好転させる事もできなかった。
唯一、働きを見せたのは、この新入り。
あの速さは、紅龍でも見えなかった。
我妻善逸は、ただ者ではない。
「俺は、なんて不甲斐ないんだ」
呟く事しかできなかった。