2章 善逸と森の剣士
ーここにいれば大丈夫だ。必ず俺が守るから。必ずー
(誰だ?知らない声だ……それにとても悲しくて痛い音だ)
暗闇の中から、遠くから聴こえてきた知らない男の声。
ふっと、瞼を開けると視界は枝葉の折り重なる霧のない空間だった。
「あれ…俺確か根っこに足とられて」
散々傾斜を転がって、転がりながら意識が薄れて…。
「ここってどこ?!」
慌てて跳ね起きたら、ぐわんと視界が回り、気持ち悪さでひっくり返ってしまった。
ぼすんと頭を受け止めたのは、誰かが作った枕のようなもの。
「物音がすると思ったら、気がついたようだね」
青年だった。善逸の側に膝をつくと、安心したように笑った。
(誰だ?)
「水を汲みに沢に下りたら、君が倒れていてびっくりしたよ」
歳は20代くらいだろうか。いわゆる好青年という風貌の美丈夫。
(俺より男前じゃん!)
気持ち悪さの中、変な嫉妬が首をもたげる。
「まだ眠った方がいい。体が沢に浸かっていたからね」
(これって何?夢?どこにいるの、俺…)
善逸は戸惑うしかできない。
「これを飲んで眠るといい。大丈夫、毒じゃないから」
男は善逸の上体を起こすと、片膝で支えてやりながら、手に持っていたお椀に入っている液体を口にゆっくり流し入れた。
(まっずい…)
独特のえぐみと苦味に、感情が顔に出る。
(あ、この人剣士だ……この手、剣を握ってる者の手だ)
肩から伝わる手の感触、椀を持つ手のごつごつした感じ。
「良薬は口に苦しだ。良くなるよ」
青年は善逸の表情を見て、くすりと笑った。
善逸の体をそっと横たえさせ、上掛けをかけてくれた。
飲ませてもらった物のおかげで、気持ち悪さが引いてきて、とろとろと眠気がやってきた。
お礼が言いたいのに、眠気の方が勝って瞼が自然と閉じていく。
「おやすみ」
青年の声は優しかった。
(じいちゃんや炭治郎達以外で、優しい音の人にあったの初めてかも)
そう思いながら、善逸は眠りに落ちていった。
しゃっ。
鋭い鞘鳴りの音に眠りに落ちていた善逸の意識は、本能的に覚醒した。
したが、素早くとはいかない。
傾斜を転がる中、あちこち打っているようで鈍痛がするし、うまく起き上がれない。
受け身は器用にとっていたのか、骨は折っていないようだが。
「俺、どのくらい寝てたのかな……」
視界に入る天井は、変わらず枝葉の折り重なるあの天井。
あの鞘鳴り、鞘走りというべきか。
かなりの剣客の音だ。
達人、上位の腕だ。
「あの人かな…」
明治維新から、警察官、軍人以外で刀を持つ事は禁じられている。
政府非公認の鬼殺隊士は、刀を所持している為、完全に法令違反だ。
鬼殺隊士が着用する隊服をあの青年は着ていなかった。
大正に時代が変わってもまだ、和装の服装文化は残っていて、青年も着物袴姿だった。
「本当にここってどこなんだろう…。ちゃんと布団あるし」
はっと善逸は思い至る。
自分が寝かされているこの布団、あの人ではないのか?ずっと、固い地面で寝起きしてないか?
そう思ったら、長々寝ている気になれなくなってきた。
しいぃぃぃ。
善逸は呼吸法を使った。
少しでも血の廻りを速め、治りを早めようとしたのだ。
「君、呼吸法は駄目だよ」
やや小走り気味に青年が入ってきて、善逸の側にしゃがみこんできた。
「弱ってる時に、血流を上げるような事をすればかえって体の負担になる」
「呼吸法、知ってるの?」
問う善逸に、青年の顔がはっとなった。
そして、あの痛みが聴こえた…すぐ消えた。
「ああ、でも昔の話さ。もう使う事はない」
それ以上、何だか聞けなくて善逸は黙りこくった。
「あのさ、ここってどこ?貴方は誰なんだ?あ、俺、我妻善逸って言うんだ」
変わりに、自己紹介もしれっと混ぜて青年に質問する。
「俺は風間隼人。かつては鬼狩りだったが、今はこの森で弟と隠居生活さ」
また、痛い音がした。
隼人自身の全身を刺すような、裂かれるような。すぐに消えてしまうのだけど、その音は善逸の胸に突き刺さる。
「良いな、家族がいるんだ」
善逸は赤子の時に捨てられ、天涯孤独だった。
「あいつが7歳の時に両親が鬼に喰われて死んでからは、俺が親代わりさ」
「……そうなんだ」
鬼殺隊士になって、任地に行くたびに現地の人達から聞く現状をここでも聞き、善逸の表情は曇る。
「俺がもう少し早く向かっていれば、父も母も近隣の者達も助けられたんだがな」
「えっ」
聴こえてきた痛みは、それだったのか…。
善逸は顔を強ばらせた。
「故郷に鬼が出たと聞かされ、同じ鬼狩りの友と走った。でも間に合わなかった」
故郷は、鬼に荒らされ幾人もの犠牲者が出た。
鬼殺隊士として戦ったが、守りきれなかった。
「虚しくなってしまってね…。剣を振るうことが。駆けつけても間に合わなくて、犠牲者を出して、父も母も救えなかった」
悔しさに隼人は拳を握りしめた。
「いつも間に合わない。急いで駆けつけても誰も救えない……だから辞めたんだ。生き残った弟と暮らす事にした」
隼人は善逸を見つめ、自嘲する。
「とんだ臆病者で卑怯者さ。自分さえ良ければいいんだよ、俺はね」
「貴方には、守りたい家族がいるんだろ?弟の為に生きたって良いと思うな」
自分は仲間に背中を向けて、恐怖から任務を投げ出したが……。
「君は優しいな」
隼人は寂しそうな笑みを浮かべた。
悲しい音、痛い音。
この人からは、そんな音しか聴こえない。
「もう少し眠るといい。起きてから何か少しは食べてみようか」
優しく頭をぽんぽんされた。
(俺、16なんですけど……子供扱いだな)
体力消耗中にたくさん話したせいか、また眠気がきて、善逸は再び眠りに落ちていった。
ーまた、斬れなかったー
隼人は出てきたねぐらを振り返った。
枝葉が重なりあう球状の塊、それが彼の今の居住だった。
一度目は、沢で見つけた時。
沢に体が浸かり、ぐったりしていたがまだ息があった。
死んでいれば残り二人を引き寄せる囮に利用しようと思っていた。
生きていれば斬って、鮮度のあるうちにあいつに喰わせるつもりでいた。
仰向けで倒れているその胸に、刀を突き刺そうと柄に手をかけた瞬間、抜く事ができなかった。
『抜いたら自分が斬られる』
剣客の本能が警鐘を鳴らしたのだ。
意識がないはずなのに、彼の生死の間合いに隼人が踏み込めば間違いなく、隼人が斬られた。
確信だった。
身体中から、汗が吹き出して何もできなかった。
そして、どうしてか連れて帰ってしまった。
『連れて帰ったのは生かして、残り二人の囮にするためだ』
ずっと自分に言い聞かせた。
餌として喰わせても良かったのに、突き出さなかった。
二度目は、彼が薬で眠っている時。
外で刀を抜いたが、足が止まってしまった。
喉元に刃を突き付けられているかのような剣気が、肌に突き刺さった。
抜き身の刀を手に、僅かに踏み込んだだけだったのに。
ー意識がないはずなのにー
隙がない。
迂闊に踏み込めば、死ぬ。
だが、起きている彼はそんな鋭さなど微塵もなかった。
剣客としての実力と経験、本能が善逸を警戒していた。
しかし、起きているうちなら斬れる。
何故、斬らない?
それとも『斬れない』のか?
隼人は自問自答した。
あの時。自分は鬼に加担したあの時から、心を捨てた筈だ。
願いを叶える為に。
友も鬼殺隊も捨てた。
全ては自分の願いを叶える為に。
(俺の中に迷いが?今更?)
隼人はねぐらの裏手に作った釜戸の側の棚をそっと開けた。
そこには一振りの刀が立て掛けられていた。
『樹人』を斬る為に残しておいた日輪刀。
増えすぎたら森から溢れてしまうから『間引いて』いた。
鬼の一部だから、日輪刀でないと灰にならない。
色を失い、見た目は刀と変わらない。
「どうしてだ……」
隼人は僅かに、刀身を鞘から引き抜き眉を潜めた。
色を失ったあの時から色はなかったのに。
刃は、鮮やかな緑色に染まっていた。
風に舞う葉を散らした美しい輝きを放って。
……彼は日輪刀は色を失ったと思い込んでいた。
実際は色は残っていたのだが。
ただ彼の目には、刀が色を無くしたように映っていた。
善逸の存在が彼の中の何かを揺らしたのか…。
(誰だ?知らない声だ……それにとても悲しくて痛い音だ)
暗闇の中から、遠くから聴こえてきた知らない男の声。
ふっと、瞼を開けると視界は枝葉の折り重なる霧のない空間だった。
「あれ…俺確か根っこに足とられて」
散々傾斜を転がって、転がりながら意識が薄れて…。
「ここってどこ?!」
慌てて跳ね起きたら、ぐわんと視界が回り、気持ち悪さでひっくり返ってしまった。
ぼすんと頭を受け止めたのは、誰かが作った枕のようなもの。
「物音がすると思ったら、気がついたようだね」
青年だった。善逸の側に膝をつくと、安心したように笑った。
(誰だ?)
「水を汲みに沢に下りたら、君が倒れていてびっくりしたよ」
歳は20代くらいだろうか。いわゆる好青年という風貌の美丈夫。
(俺より男前じゃん!)
気持ち悪さの中、変な嫉妬が首をもたげる。
「まだ眠った方がいい。体が沢に浸かっていたからね」
(これって何?夢?どこにいるの、俺…)
善逸は戸惑うしかできない。
「これを飲んで眠るといい。大丈夫、毒じゃないから」
男は善逸の上体を起こすと、片膝で支えてやりながら、手に持っていたお椀に入っている液体を口にゆっくり流し入れた。
(まっずい…)
独特のえぐみと苦味に、感情が顔に出る。
(あ、この人剣士だ……この手、剣を握ってる者の手だ)
肩から伝わる手の感触、椀を持つ手のごつごつした感じ。
「良薬は口に苦しだ。良くなるよ」
青年は善逸の表情を見て、くすりと笑った。
善逸の体をそっと横たえさせ、上掛けをかけてくれた。
飲ませてもらった物のおかげで、気持ち悪さが引いてきて、とろとろと眠気がやってきた。
お礼が言いたいのに、眠気の方が勝って瞼が自然と閉じていく。
「おやすみ」
青年の声は優しかった。
(じいちゃんや炭治郎達以外で、優しい音の人にあったの初めてかも)
そう思いながら、善逸は眠りに落ちていった。
しゃっ。
鋭い鞘鳴りの音に眠りに落ちていた善逸の意識は、本能的に覚醒した。
したが、素早くとはいかない。
傾斜を転がる中、あちこち打っているようで鈍痛がするし、うまく起き上がれない。
受け身は器用にとっていたのか、骨は折っていないようだが。
「俺、どのくらい寝てたのかな……」
視界に入る天井は、変わらず枝葉の折り重なるあの天井。
あの鞘鳴り、鞘走りというべきか。
かなりの剣客の音だ。
達人、上位の腕だ。
「あの人かな…」
明治維新から、警察官、軍人以外で刀を持つ事は禁じられている。
政府非公認の鬼殺隊士は、刀を所持している為、完全に法令違反だ。
鬼殺隊士が着用する隊服をあの青年は着ていなかった。
大正に時代が変わってもまだ、和装の服装文化は残っていて、青年も着物袴姿だった。
「本当にここってどこなんだろう…。ちゃんと布団あるし」
はっと善逸は思い至る。
自分が寝かされているこの布団、あの人ではないのか?ずっと、固い地面で寝起きしてないか?
そう思ったら、長々寝ている気になれなくなってきた。
しいぃぃぃ。
善逸は呼吸法を使った。
少しでも血の廻りを速め、治りを早めようとしたのだ。
「君、呼吸法は駄目だよ」
やや小走り気味に青年が入ってきて、善逸の側にしゃがみこんできた。
「弱ってる時に、血流を上げるような事をすればかえって体の負担になる」
「呼吸法、知ってるの?」
問う善逸に、青年の顔がはっとなった。
そして、あの痛みが聴こえた…すぐ消えた。
「ああ、でも昔の話さ。もう使う事はない」
それ以上、何だか聞けなくて善逸は黙りこくった。
「あのさ、ここってどこ?貴方は誰なんだ?あ、俺、我妻善逸って言うんだ」
変わりに、自己紹介もしれっと混ぜて青年に質問する。
「俺は風間隼人。かつては鬼狩りだったが、今はこの森で弟と隠居生活さ」
また、痛い音がした。
隼人自身の全身を刺すような、裂かれるような。すぐに消えてしまうのだけど、その音は善逸の胸に突き刺さる。
「良いな、家族がいるんだ」
善逸は赤子の時に捨てられ、天涯孤独だった。
「あいつが7歳の時に両親が鬼に喰われて死んでからは、俺が親代わりさ」
「……そうなんだ」
鬼殺隊士になって、任地に行くたびに現地の人達から聞く現状をここでも聞き、善逸の表情は曇る。
「俺がもう少し早く向かっていれば、父も母も近隣の者達も助けられたんだがな」
「えっ」
聴こえてきた痛みは、それだったのか…。
善逸は顔を強ばらせた。
「故郷に鬼が出たと聞かされ、同じ鬼狩りの友と走った。でも間に合わなかった」
故郷は、鬼に荒らされ幾人もの犠牲者が出た。
鬼殺隊士として戦ったが、守りきれなかった。
「虚しくなってしまってね…。剣を振るうことが。駆けつけても間に合わなくて、犠牲者を出して、父も母も救えなかった」
悔しさに隼人は拳を握りしめた。
「いつも間に合わない。急いで駆けつけても誰も救えない……だから辞めたんだ。生き残った弟と暮らす事にした」
隼人は善逸を見つめ、自嘲する。
「とんだ臆病者で卑怯者さ。自分さえ良ければいいんだよ、俺はね」
「貴方には、守りたい家族がいるんだろ?弟の為に生きたって良いと思うな」
自分は仲間に背中を向けて、恐怖から任務を投げ出したが……。
「君は優しいな」
隼人は寂しそうな笑みを浮かべた。
悲しい音、痛い音。
この人からは、そんな音しか聴こえない。
「もう少し眠るといい。起きてから何か少しは食べてみようか」
優しく頭をぽんぽんされた。
(俺、16なんですけど……子供扱いだな)
体力消耗中にたくさん話したせいか、また眠気がきて、善逸は再び眠りに落ちていった。
ーまた、斬れなかったー
隼人は出てきたねぐらを振り返った。
枝葉が重なりあう球状の塊、それが彼の今の居住だった。
一度目は、沢で見つけた時。
沢に体が浸かり、ぐったりしていたがまだ息があった。
死んでいれば残り二人を引き寄せる囮に利用しようと思っていた。
生きていれば斬って、鮮度のあるうちにあいつに喰わせるつもりでいた。
仰向けで倒れているその胸に、刀を突き刺そうと柄に手をかけた瞬間、抜く事ができなかった。
『抜いたら自分が斬られる』
剣客の本能が警鐘を鳴らしたのだ。
意識がないはずなのに、彼の生死の間合いに隼人が踏み込めば間違いなく、隼人が斬られた。
確信だった。
身体中から、汗が吹き出して何もできなかった。
そして、どうしてか連れて帰ってしまった。
『連れて帰ったのは生かして、残り二人の囮にするためだ』
ずっと自分に言い聞かせた。
餌として喰わせても良かったのに、突き出さなかった。
二度目は、彼が薬で眠っている時。
外で刀を抜いたが、足が止まってしまった。
喉元に刃を突き付けられているかのような剣気が、肌に突き刺さった。
抜き身の刀を手に、僅かに踏み込んだだけだったのに。
ー意識がないはずなのにー
隙がない。
迂闊に踏み込めば、死ぬ。
だが、起きている彼はそんな鋭さなど微塵もなかった。
剣客としての実力と経験、本能が善逸を警戒していた。
しかし、起きているうちなら斬れる。
何故、斬らない?
それとも『斬れない』のか?
隼人は自問自答した。
あの時。自分は鬼に加担したあの時から、心を捨てた筈だ。
願いを叶える為に。
友も鬼殺隊も捨てた。
全ては自分の願いを叶える為に。
(俺の中に迷いが?今更?)
隼人はねぐらの裏手に作った釜戸の側の棚をそっと開けた。
そこには一振りの刀が立て掛けられていた。
『樹人』を斬る為に残しておいた日輪刀。
増えすぎたら森から溢れてしまうから『間引いて』いた。
鬼の一部だから、日輪刀でないと灰にならない。
色を失い、見た目は刀と変わらない。
「どうしてだ……」
隼人は僅かに、刀身を鞘から引き抜き眉を潜めた。
色を失ったあの時から色はなかったのに。
刃は、鮮やかな緑色に染まっていた。
風に舞う葉を散らした美しい輝きを放って。
……彼は日輪刀は色を失ったと思い込んでいた。
実際は色は残っていたのだが。
ただ彼の目には、刀が色を無くしたように映っていた。
善逸の存在が彼の中の何かを揺らしたのか…。