誰かの秘密
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時刻は朝の5時半。
レースカーテンの隙間から朝日が差し込んで明るくなってきた寝室。その中央に置かれたクイーンサイズのベッドにはこの家の住人が眠っている。
はっきりとした白と黒の模様が特徴的なボーダーコリーであるバディは、自分の体内時計に従って起き上がった。前足を出して尻を高くあげて伸びをしてから、牙を剥き出しにしてあくびをする。そしてブルブルと体を振って、主人であるリラの肩の辺りを足でつついた。
「……ん〜〜」
モゾモゾと動くが、まだ眠りから覚めないようだ。バディは布団から出ていた手に鼻を擦り付けてアピールする。
実をいうとリラはもう起きているのだが、一生懸命起こそうとするバディが可愛くて寝たふりをしている。
手に触れた鼻を指先で擽るように動かせば、彼女が起きていることに気付いたバディは嬉しそうに尻尾を振る。
しかし耳をピンと立てて待っていても、リラはそのまま動かない。痺れを切らしたバディは、リラの胸から腹にかけて乗っかるという強硬手段に出た。
「グエッ……ふふっ、重たいよ、バディ。……おはよう」
これには流石のリラも白旗をあげた。
リラが目を開けたときに一番初めに見えたのは、きゅるるんとした黒い目。「お散歩行こうよ」と書いてあり、あまりの可愛さにノックアウトされた。
ちょうど彼女の豊かな胸の上に頭をのせるように伏せているバディは己が可愛いことを自覚していそうだ。
「今日もかわいいね、大好きよ」
何度かキスを落としてから起き上がる。サッと退いたバディはチラチラとリラを振り返りながら、早く行こうと急かしている。リラは毎朝の光景であるそれに笑いながら準備を始めるのだ。
ボーダーコリーは運動が大好きな犬種である。例に漏れずバディも運動が大好きで、毎日朝と夕方に1時間ずつお散歩をしてしっかりと運動させている。
雨の日には車で屋内のドッグランに連れて行き、存分に走らせる。フリーで気ままに仕事をするリラだからこそ、時間に縛られない動きができるのだ。普通の勤め人ではこうはいかない。
「おはようございます」
「おはよーございまーす」
朝6時の公園は同じように犬の散歩をする人や、健康のためのジョギングをする人がチラホラと見受けられる。大体毎朝同じ顔ぶれである。
休憩を挟みながら1時間かけて家に戻ってくる頃にはバディも満足げな顔をしている。
「ただいまー」
この声に返してくれる人は誰もいない。だが、リラは必ず「いってきます」と「ただいま」は言うようにしていた。でないと、その言葉のぬくもりすら忘れてしまいそうな気がしたからだ。
「ちょっと待っててね」
先に靴を脱いだリラは洗面所でバディ用のタオルを水に濡らし、バディの肉球を念入りに拭いた。拭いた後の足が再び汚れないように廊下に置いているバディは流石である。
ボーダーコリーは運動が大好きである他に、最も頭が良い犬種として知られている。他の犬は人間の3歳程の知能があると言われているが、ボーダーコリーは5歳程の知能があると言われている。5歳となれば言葉を理解し、言われた通りに行動ができるようになる歳だ。この2歳の差は非常に大きい。
故に躾けの仕方を間違えると、とんでもなくイタズラで手のかかる犬になるのだが、バディはリラの言うことをよくきく。
「はい、終わり! ご飯食べようねー」
フローリングで爪をカッカッと鳴らしながらリビングに入っていくバディを追う。
大人しくご飯台の前で待っているバディは今か今かとご飯を待っている。置き場所も知っているため自分で漁ることも出来るが、バディはそういうイタズラを全くしない。
その無垢な瞳に急かされたリラがご飯を入れても、バディは見向きもせずに彼女だけを見ている。実に賢い。
「伏せ。」
手のひらを下にして地面と平行にし、それを下に下げるようなハンドサインをすれば、バディが素早く伏せる。その手をひっくり返せばへそ天で寝っ転がり、指を開いたり閉じたりすればその状態で足がわちゃわちゃ動く。
リラがその可愛さに頬を緩ませながら、最後にバディの前で親指と人差し指で輪を作った。そこにズポッと差し込まれる濡れた黒い鼻。
「ああーんもうかわいい! よし! お食べ。」
美味しそうに食べるバディを特等席で見守る。毎日全力で一生懸命生きているバディを見ていると、こちらも頑張ろうと思えるのだ。ペットとはそういう目に見えない、科学では証明できない力を我々に与えてくれる。
やがて丁寧に皿まで舐めて完食したバディは、お気に入りのクッションの上を陣取って伏せをする。しばらく微睡む時間だ。それを見届けてからリラはようやく自分のことをする。
シャワーを浴びて汗ばんだ身体を清潔にし、肩にタオルをかけたまま自分の朝食を作る。大抵はシリアルとスムージーだけだ。一人暮らしの朝食なんてこんなものである。
一人で使うにしては大きすぎるテーブルに座り、朝食にする。目の前にはもう誰にも座られることのない二脚の椅子。テーブルを小さくすることも考えたが、テーブルの記憶を視て思い出に浸ることもあるため、その選択肢は消えた。
寂しくなったとき、両親に会いたくなったとき。リラは物の記憶を視て、頭の中だけで彼らに会いにいく。
物を捨てること。それは彼女にとって、思い出を捨てることと同義である。当然遺品の処分ができるはずもなく、両親が暮らしていた頃とほとんど変わっていない。
だからこの家には、一人暮らしには不釣り合いなものが多く残っている。
中身が半分ほどしか入っていない冷蔵庫。
L字型の大きなカウチソファ。
一人になってから容量がいっぱいになったことのない洗濯機。
全て3つ以上ある食器。
自分の出した音だけしか聞こえない孤独。
大きな独り言に「うるさいよ」と笑いながら注意してくれる父もいなければ、自分が出演したドラマのオチに感動して号泣する母もいない。新聞を捲る音も、コーヒーメーカーのコポコポという音もしない。
ドアの蝶番がキィと鳴る音も、廊下を歩く足音も、全部自分が生み出したものしか聞こえない。
ずっと三人で暮らしていたリラには、それが耐えられなかった。だから彼女は二年前、バディという相棒を迎えたのだ。
初心者には推奨できない犬種だったが、リラはどうしてもボーダーコリーが飼いたかった。頭のいいボーダーコリーなら、良き相棒となり自分を支えてくれると思ったからだ。
思った通りバディはリラに生きる活力を与えてくれた。何をする気にもなれず、後ろばかり振り返っていたリラがこのままではいけないと、他でもないバディのためにしっかり生きていかなければならないと、強く思わされた。
朝食を食べ終えても時刻は8時半。
ここからソファでうたた寝をするのがいつもの光景だ。
リラはL字型のカウチソファに寝そべり、こういう時用に置いてある毛布をかけた。すぐにバディが頭の方にやってきて寝る体勢になる。手を伸ばして温かい体を撫でていれば、あっという間に瞼が重くなっていく。
「おやすみ」
声をかけてからリラは眠りの世界に旅立った。
起きてから少しだけ仕事をし、昼食を挟みながら15時まで仕事をする。これといった決まりはないが、大抵毎日同じような過ごし方だ。
「天気も良いし、公園で遊ぼっか!」
外を確認したリラは、バディに声をかけると準備を始めた。Tシャツにスウェットという動きやすい服装に着替え、ボールやフリスビーが入ったバッグを持ってバディと家を出る。
向かったのは朝散歩で向かった公園とは別の公園。芝生が広がっているこの公園には、同じように犬を連れて遊びに来ている人が何人もいる。
「バディ、いくよー? ……それ!」
フリスビーを投げれば、ものすごい勢いで走っていくバディ。空中でジャンピングキャッチをして、尻尾を振りながら嬉しそうにリラのもとまで走ってくる。
「かわいいねー、いい子だねー! じゃあもう一回ね? ……そりゃ!!」
多少投げ方に失敗してあらぬ方法に飛んでいってもバディは喜んで走っていく。そしてしっかりと空中でキャッチして戻ってくるのだ。その反射神経と瞬発力は流石である。
「よーしよしよしよしー!! すごいねバディは。賢いねぇ!」
「あー!! リラお姉さんとバディくんだー!!」
リラが撫でるのをやめて声のした方を見れば、最近知り合った子どもたちがいた。
いつもカチューシャをしている吉田歩美に、非常に物知りな円谷光彦、そして食べることが大好きで二人よりも身体の大きな小嶋元太。この春から小学校に上がった三人組は同じクラスで非常に仲が良く、家も近いため三人で遊んでいることが多い。
「あら、こんにちは。」
「こんにちはー!!」
「こんにちは!! バディ君撫でてもいいですか?」
「うん、いいよ。下からそーっとね」
歩美と光彦は膝をつき、バディと目線を合わせた。それから手を差し伸べて、バディの顎にそっと触れる。
手の匂いを念入りに嗅いでから、バディは小さな手をペロリと舐めた。
「はい、撫でていいよ」
「わーい!」
二人は「かわいい」と言いながらバディの頭と背中を撫でている。褒められて悪い気分になる飼い主はいない。リラも内心「そうでしょう、そうでしょう」と強く頷いていた。
「元太くんは触らないんですかー?」
「……オレ、前に近所の犬に尻かまれたことあるんだよ。だから犬はちょっと…」
目を逸らす元太に、その光景が視なくても想像できた。
「えーー、こんなに大人しくてかわいいのに…」
「人には好きなものもあれば、苦手なものもあるからね。歩美ちゃんは蛇好き?」
「ううん、きらーい。」
「それと同じだよ。歩美ちゃんが嫌いな蛇を好きな人がいるように、元太くんはわんちゃんが苦手なの。」
「うーーん……歩美わかんない」
リラは難しそうに唸る歩美の頭を撫でてから、二人にボールを見せた。
「今ね、バディと遊んでたの。投げてみる?」
「えっ!! いいんですか!!!」
「歩美もやりたーい!!」
順番にね、と声をかけてから光彦にボールを渡した。小学一年生のボール投げなんてたかが知れているため、何十メートル先まで行くことはない。むしろバディには少し物足りないかもしれないと思いつつ、リラは楽しそうにボールを投げる二人を見守る。
「元太くんも投げてみますか?」
「……投げるだけなら、、」
いつの間にか光彦の横に来ていた元太もボール投げに参加した。しかし拾って来たボールを直接受け取るのは流石に怖いようで、光彦に受け取らせている。
光彦と元太がバディと遊んでいるため、手持ち無沙汰だった歩美は今日の大ニュースを伝えるためにリラの横にやってきた。
「今日ね、クラスに転校生が来たの!」
今は4月中旬。入学式を終えて、ようやく学校に通うことに慣れてきた頃だ。そんな時に、しかも入学したばかりの一年生に転校生とは非常に珍しい。
「入学したばっかりなのに珍しいね? 男の子? 女の子?」
「男の子!! 江戸川コナンくんっていうの!」
「……」
両親の顔が見てみたい名前である。リラには我が子にコナンと名付ける勇気はない。
「その子、すっごい頭がいいの! 運動もできてね、かっこいいんだよ!」
頬を染めて話す歩美はやはり小さくても恋する乙女である。
小学校低学年の時は運動神経の良い子全員がかっこよく見えるものだ。ドッヂボールが強い子や足が速い子は特にそうである。
「そうなんだ。仲良くなれそう?」
「うーーん、わかんない! でも、もし仲良くなったらリラお姉さんにも会わせてあげる!!」
「あら、じゃあ楽しみにしてるね」
そんな話をした次の週。
リラは遂に噂の彼と対面した。