仕事のない歌騎士
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お嬢さまのご婚約が決まったのは、あの日から季節が二つほど進んだ、雪の積もる冬の日だった。決まったというのは具体的な日取りが決まったという意味で、婚約なさったのは予定通り侯爵家の跡取りだった。春がやってきた頃に北の屋敷へと移動されることになり、夏が近くなる頃に侯爵家へ入られることとなった。
目に見えて忙しくなった。持っていく荷物の選別(これはお嬢さまの荷物が少なくてすぐに終わった)、嫁入り道具の選別(セナがあまりにもこだわるのでとても時間が掛かった)、そして一緒に屋敷に入る次女の選別だ。お嬢さいについていかない侍女は、同じように結婚を控えていたり、地元に戻る者もいるようだ。雪のピークが来たというのに侍女の選別もまかかわっておらず、騎士の選別は、向こうの家との兼ね合いがあると言うことで後回しにされていた。
「お目にかかったことはあるのですか」
「小さい頃、一度だけ。でもはっきりとは覚えていません。屋敷に来たばかりのことですから」
スオウという名前の侯爵家は、数ある侯爵家の中でも一番の領地を持つ最も公爵家に近い家だ。若い当主が近々家督を継ぐのだという。語学に長けた美形なのだと聞く。
「分かっているかもしれないけれど、今日は皆さんの話をします」
雪が溶け始める頃、おれたち従者を集めたお嬢さまが重い口を開いた。
まずお嬢さまは侍女の名前を数人呼び、一緒に来るように打診をした。お命じにならないところが彼女らしい。侍女はうなずき、家族に連絡を入れると言って部屋を出て行った。残される侍女は、それぞれ結婚を控えていたり、勤め先が変わるのだという。お嬢さまは丁寧にお礼を言い、髪飾りなどの装飾品を与えていた。……これが、主従の縁を切るという儀式のような役割を果たしている。
「……さて、護衛のことだけれど」
お嬢さまはおれたちのことを見つめ、しばらく黙り込む。
「イズミ、リツ。一緒に来てください」
「喜んで」
「拝命致しました」
セナとリッツが床に膝を着く。おれはあれ、と頭の片隅で思った。おれ、今名前を呼ばれなかったな。
「レオ」
「……はい」
「あなたは私の出発の日より、あの子のところについてください。……よろしくお願いしますね」
「…………」
すぐに返事が出来なかったが、おれはのろのろと膝を着いた。いつも身につけている剣が、今だけは鉛のように重い。
「承知致しました」
……うそだ、承知なんて、出来るわけがない。
宿舎に戻って、セナが慌ただしく荷物をまとめているのをぼんやりと眺めていた。おれも部屋の場所が変わるというのに、荷物をまとめる気になれなかった。
それでも考えてみれば、この人選はあっけないほど妥当なのだ。幼い頃から仕えてきた二人と、季節を一巡り程しか一緒にいないおれ。どちらを選ぶのかなんて、火を見るより明らかだ。
……それでも、結構距離は縮まっていたと思うんだけどな。
異動先が妹君なことにも違和感があった。妹君のところには余るほど騎士がいるのに、これ以上騎士を増やす理由が分からない。
お嬢さまがそっと目を伏せた瞬間が忘れられない。お嬢さまは、おれをお連れになるつもりだったんだろうか。
「……れおくん」
「セナ?」
荷物まとめが一段落ついたのか、セナがおれの部屋の扉に体を預けていた。おれがベッドから体を起こすと「……髪ボサボサ」と苦い顔をする。
「お嬢さまのこと、恨んだりしないでよねぇ」
「恨んだりなんて」
「そう? 居残りだって分かった瞬間、凄い顔してたよぉ」
「……三人の繋がりにはどうしたって勝てない」
「ふうん?」
セナが立ち上がって部屋を出て行く。結局何がしたいのか分からないまま、おれはセナの背中を見つめた。セナは部屋の扉を開け、吐き捨てるように言った。
「アンタ、お嬢さまに対してその程度なんだ」
雪が溶けた。お嬢さまが屋敷を去る日も近い。おれはセナの言葉を胸に抱えたまま、毎日黙々と仕事をしていた。異動先である妹君の騎士と打ち合わせや引き継ぎを受けることも多く、なかなかお嬢さまと会話も出来ない、そんな忙しい日々を送っていた。
「お姉さまが明日出立だなんて、信じられませんわ」
「……そう」
「寂しくなりますわ。私、夏の休暇には必ず遊びに行きますわね」
「ええ、ありがとう」
いつものような淡々とした夕食を終えて、お嬢さまは早めに寝台に入った。明日の朝、お嬢さまは早くに出立をする。今日が、おれにとっての最後の日だ。寝台に向かうお嬢さまに向かって、深々と頭を下げた。お嬢さまはチラリとこちらに目線を寄越し、そのまま奥の部屋へと消えていった。
仕方ないと分かっていても、荷物をまとめて部屋を移動するのは変な気分がした。妹君の護衛たちは新入りだと喜び、何故か哀れまれたりもした。……新しい職場、大丈夫だろうか。
そして翌日の早朝、お嬢さまはこの街を離れ、北の屋敷にお移りになった。実家と嫁ぎ先の間にひとつ屋敷を挟むことによって、実家を出る意味が深まるのだ。
「レオ、待っていましたよ」
妹君は鈴を転がしたような声でおれに声をかけた。恐れ入ります、と返事をしながら仕事のことなどを何点か確認する。
「お姉さまについて、退屈だったでしょう?」
「……いえ、そんなことは」
「実はね、私がレオが良いと言ったのよ。士官学校の卒業生の中で、貴方が一番綺麗だったわ」
「……綺麗?」
「ええ。だからわたくし、お姉さまにお願いしたのです。お姉さまはどのみち屋敷を出られるのだから、後任の騎士はわたくしが選んでも良いでしょうって」
士官学校の卒業の日から一週間のうちに来いと言われたこと、はじめて仕えた主人がおれに仕事はないと言い渡したこと、妹君に最初に会ったときの護衛がおれだったこと、妹君と目が合ったあのとき。……ああ、全てこういうことだったのか。お嬢さまはこれを見越して。
おれは、何かを口にして妹君の前から下がった。先輩の騎士が「仕方ない、お嬢さまはそういう方だから」と慰めるように言ってくれたが、おれは迷わず宿舎へ帰った。そして、荷ほどきをはじめたばかりの荷物を、もう一度まとめはじめた。
*
「お嬢、これでよかったの」
「リツ、そういうこと言わないでちょうだい。気が滅入るわ」
同じ馬車に乗ったリツが、早口でやせ我慢を言う顔を見て溜息をついた。昨晩、禄に眠っていないのだろう。これから長旅だというのに、これでは先が思いやられる。
レオが本来妹君の護衛であることは、本人以外最初から周知の事実であった。いくら仕事がないと主人が言い渡したとしても護衛は護衛、すぐに主が移るのだからといって仕事をおろそかにされては困る。そんな理由で伏せられた本来の主人のところで、今頃胃を痛めている頃ではないかとリツはぼんやりと思想を巡らせた。
外で馬を走らせているイズミも、時々こちらを覗き込んでいる。顔色の優れない主人の手を握りながら、リツは再び溜息をついた。
*
久しぶりに帰った宿舎のベッドで、おれは目を開けているのもやっとという疲労の中、紙に手を伸ばした。以前とは全く違う日々だけれど、少しだって霊感が湧けばそれを書き留めない理由はない。お嬢さまはおれがいつどこで作曲をはじめようがとがめたことはなかったけれど、妹君のところではそんなわけにはいかなかった。妹君はあまり楽器はお好きではないらしい。おれは呼び慣れない彼女の名前を舌の上で転がした。ご婚約なされたのだから、奥さまとお呼びするのが正しいのだけれど。
異動と共に引っ越してきたこの部屋は、前の部屋よりも随分と広い。広い割には帰ってくることがほとんどなく、おれたちの私物はほとんど仮眠部屋に置いてあるのが事実だった。半日の休みを得て、おれは寝溜めでもしようと久しぶりに部屋に帰ってきたのだ。
ベッドの脇に置いてあるはずの楽譜に手を伸ばすと、手のひらが何度か机を叩いた。
(……あれ)
いつも楽譜を書くときに使っていた万年筆がない。この部屋から出してはいないはずなのに。おれは手を伸ばした先を覗き込んだ。名前さまがくださった真っ白な楽譜が散らばっている。そのど真ん中に綺麗な字で何かが書いてある。それを読んだおれは、眠気が吹き飛んだ。
『貰っていくわね』
……ああ、やっぱりおれのいる場所はここではない。仕えるべき主も、あの人ではない。
おれはほとんどほどいていなかった荷物をしっかりとまとめ直した。仮眠室にある私物は……まあ、いいだろう。きっと。
明け方、おれは屋敷をそっと抜け出した。部屋に簡素な書き置きを残して。
北の屋敷があるという街の名前を頼りに歩き出して、二日が経った。そろそろお嬢さまが北の屋敷を出立してしまう日付になる。今日中に次の街に着いてしまったほうがいいだろう。陽の傾きと競争しながら、おれは長い街道を歩いている。
「……ねえ、婚約者が出立したばかりだとか」
「まあ。騎士団が出動なさるの?」
「さあ……。でも、ツカサさまならご自身で助けに向かわれるのではないかしら」
「素敵よねえ。ツカサさまの婚約者の方も、素敵な方なんでしょうね」
井戸端会議が耳に入って、おれは振り返った。騎士団って、あの王族直属の騎士団だろうか。この国の数ある士官学校の生徒の中でも特に優秀なものしか入れないという。その騎士団が出動するものに、スオウ家の当主が関わっている?
「その話、詳しく聞かせてもらえないか」
腰に剣を下げた騎士に突然話しかけられて、彼女たちは大層驚いたらしい。持っていた洗濯物を取り落とす。おれは洗濯物を拾い上げ、彼女たちの腕の中に戻してながら腰に下げた剣を外して降ろした。困った顔をした女性は、
「と言っても、旅商人の方から聞きかじった話なのですが」
彼女の話によると、今朝方出発した馬車が賊に襲われる事件があったらしい。定かではないが、貴族の馬車だったという。
……ううん。その馬車、スオウ家の馬車だってことはあるか?
礼を言ってその場を離れる。日が暮れ始めていたけれど、もう少し歩くことにした。騎士団が出動するなら、もっと騒ぎになっていると思う。ううん、どうするべきか。嫁入り前なのだから北の屋敷から馬車が多く交わされていても何らおかしくない。お嬢さまたちの馬車だという確証がない。どちらかというとその可能性は低い。……お嬢さまは、まだ北の屋敷にいると考えるべきか。
「う~ん。どうしよう」
おれは道中で買った簡素な地図を広げながらぐいと水を煽った。ここはもうスオウ家の治める地だけど、屋敷のある街まではもう少し距離があるはずだ。そもそも、お嬢さまに目通りを願ったところで、おれは何と言うつもりだったんだろう。どうしても貴女を追いかけてきたのだと言えばいいのだろうが、困ったように笑うお嬢さまの顔は出来たら見たくない。あと、セナにめちゃくちゃ怒られそうだ。
「何にも考えてなかったなー……」
衝動で行動してしまったことに少しの後悔と、なるようになるだろうと楽観的な思考。おれはいくら物事を楽しめる性分とはいえ、この状況には少し困った。
まあ、顔が見られるだけでもばんざいか。
おれはもう少しだと痛む足を奮い立たせて、暗くなる中街道を歩き出した。次の街までには陽は沈んでしまうだろうか。
目に見えて忙しくなった。持っていく荷物の選別(これはお嬢さまの荷物が少なくてすぐに終わった)、嫁入り道具の選別(セナがあまりにもこだわるのでとても時間が掛かった)、そして一緒に屋敷に入る次女の選別だ。お嬢さいについていかない侍女は、同じように結婚を控えていたり、地元に戻る者もいるようだ。雪のピークが来たというのに侍女の選別もまかかわっておらず、騎士の選別は、向こうの家との兼ね合いがあると言うことで後回しにされていた。
「お目にかかったことはあるのですか」
「小さい頃、一度だけ。でもはっきりとは覚えていません。屋敷に来たばかりのことですから」
スオウという名前の侯爵家は、数ある侯爵家の中でも一番の領地を持つ最も公爵家に近い家だ。若い当主が近々家督を継ぐのだという。語学に長けた美形なのだと聞く。
「分かっているかもしれないけれど、今日は皆さんの話をします」
雪が溶け始める頃、おれたち従者を集めたお嬢さまが重い口を開いた。
まずお嬢さまは侍女の名前を数人呼び、一緒に来るように打診をした。お命じにならないところが彼女らしい。侍女はうなずき、家族に連絡を入れると言って部屋を出て行った。残される侍女は、それぞれ結婚を控えていたり、勤め先が変わるのだという。お嬢さまは丁寧にお礼を言い、髪飾りなどの装飾品を与えていた。……これが、主従の縁を切るという儀式のような役割を果たしている。
「……さて、護衛のことだけれど」
お嬢さまはおれたちのことを見つめ、しばらく黙り込む。
「イズミ、リツ。一緒に来てください」
「喜んで」
「拝命致しました」
セナとリッツが床に膝を着く。おれはあれ、と頭の片隅で思った。おれ、今名前を呼ばれなかったな。
「レオ」
「……はい」
「あなたは私の出発の日より、あの子のところについてください。……よろしくお願いしますね」
「…………」
すぐに返事が出来なかったが、おれはのろのろと膝を着いた。いつも身につけている剣が、今だけは鉛のように重い。
「承知致しました」
……うそだ、承知なんて、出来るわけがない。
宿舎に戻って、セナが慌ただしく荷物をまとめているのをぼんやりと眺めていた。おれも部屋の場所が変わるというのに、荷物をまとめる気になれなかった。
それでも考えてみれば、この人選はあっけないほど妥当なのだ。幼い頃から仕えてきた二人と、季節を一巡り程しか一緒にいないおれ。どちらを選ぶのかなんて、火を見るより明らかだ。
……それでも、結構距離は縮まっていたと思うんだけどな。
異動先が妹君なことにも違和感があった。妹君のところには余るほど騎士がいるのに、これ以上騎士を増やす理由が分からない。
お嬢さまがそっと目を伏せた瞬間が忘れられない。お嬢さまは、おれをお連れになるつもりだったんだろうか。
「……れおくん」
「セナ?」
荷物まとめが一段落ついたのか、セナがおれの部屋の扉に体を預けていた。おれがベッドから体を起こすと「……髪ボサボサ」と苦い顔をする。
「お嬢さまのこと、恨んだりしないでよねぇ」
「恨んだりなんて」
「そう? 居残りだって分かった瞬間、凄い顔してたよぉ」
「……三人の繋がりにはどうしたって勝てない」
「ふうん?」
セナが立ち上がって部屋を出て行く。結局何がしたいのか分からないまま、おれはセナの背中を見つめた。セナは部屋の扉を開け、吐き捨てるように言った。
「アンタ、お嬢さまに対してその程度なんだ」
雪が溶けた。お嬢さまが屋敷を去る日も近い。おれはセナの言葉を胸に抱えたまま、毎日黙々と仕事をしていた。異動先である妹君の騎士と打ち合わせや引き継ぎを受けることも多く、なかなかお嬢さまと会話も出来ない、そんな忙しい日々を送っていた。
「お姉さまが明日出立だなんて、信じられませんわ」
「……そう」
「寂しくなりますわ。私、夏の休暇には必ず遊びに行きますわね」
「ええ、ありがとう」
いつものような淡々とした夕食を終えて、お嬢さまは早めに寝台に入った。明日の朝、お嬢さまは早くに出立をする。今日が、おれにとっての最後の日だ。寝台に向かうお嬢さまに向かって、深々と頭を下げた。お嬢さまはチラリとこちらに目線を寄越し、そのまま奥の部屋へと消えていった。
仕方ないと分かっていても、荷物をまとめて部屋を移動するのは変な気分がした。妹君の護衛たちは新入りだと喜び、何故か哀れまれたりもした。……新しい職場、大丈夫だろうか。
そして翌日の早朝、お嬢さまはこの街を離れ、北の屋敷にお移りになった。実家と嫁ぎ先の間にひとつ屋敷を挟むことによって、実家を出る意味が深まるのだ。
「レオ、待っていましたよ」
妹君は鈴を転がしたような声でおれに声をかけた。恐れ入ります、と返事をしながら仕事のことなどを何点か確認する。
「お姉さまについて、退屈だったでしょう?」
「……いえ、そんなことは」
「実はね、私がレオが良いと言ったのよ。士官学校の卒業生の中で、貴方が一番綺麗だったわ」
「……綺麗?」
「ええ。だからわたくし、お姉さまにお願いしたのです。お姉さまはどのみち屋敷を出られるのだから、後任の騎士はわたくしが選んでも良いでしょうって」
士官学校の卒業の日から一週間のうちに来いと言われたこと、はじめて仕えた主人がおれに仕事はないと言い渡したこと、妹君に最初に会ったときの護衛がおれだったこと、妹君と目が合ったあのとき。……ああ、全てこういうことだったのか。お嬢さまはこれを見越して。
おれは、何かを口にして妹君の前から下がった。先輩の騎士が「仕方ない、お嬢さまはそういう方だから」と慰めるように言ってくれたが、おれは迷わず宿舎へ帰った。そして、荷ほどきをはじめたばかりの荷物を、もう一度まとめはじめた。
*
「お嬢、これでよかったの」
「リツ、そういうこと言わないでちょうだい。気が滅入るわ」
同じ馬車に乗ったリツが、早口でやせ我慢を言う顔を見て溜息をついた。昨晩、禄に眠っていないのだろう。これから長旅だというのに、これでは先が思いやられる。
レオが本来妹君の護衛であることは、本人以外最初から周知の事実であった。いくら仕事がないと主人が言い渡したとしても護衛は護衛、すぐに主が移るのだからといって仕事をおろそかにされては困る。そんな理由で伏せられた本来の主人のところで、今頃胃を痛めている頃ではないかとリツはぼんやりと思想を巡らせた。
外で馬を走らせているイズミも、時々こちらを覗き込んでいる。顔色の優れない主人の手を握りながら、リツは再び溜息をついた。
*
久しぶりに帰った宿舎のベッドで、おれは目を開けているのもやっとという疲労の中、紙に手を伸ばした。以前とは全く違う日々だけれど、少しだって霊感が湧けばそれを書き留めない理由はない。お嬢さまはおれがいつどこで作曲をはじめようがとがめたことはなかったけれど、妹君のところではそんなわけにはいかなかった。妹君はあまり楽器はお好きではないらしい。おれは呼び慣れない彼女の名前を舌の上で転がした。ご婚約なされたのだから、奥さまとお呼びするのが正しいのだけれど。
異動と共に引っ越してきたこの部屋は、前の部屋よりも随分と広い。広い割には帰ってくることがほとんどなく、おれたちの私物はほとんど仮眠部屋に置いてあるのが事実だった。半日の休みを得て、おれは寝溜めでもしようと久しぶりに部屋に帰ってきたのだ。
ベッドの脇に置いてあるはずの楽譜に手を伸ばすと、手のひらが何度か机を叩いた。
(……あれ)
いつも楽譜を書くときに使っていた万年筆がない。この部屋から出してはいないはずなのに。おれは手を伸ばした先を覗き込んだ。名前さまがくださった真っ白な楽譜が散らばっている。そのど真ん中に綺麗な字で何かが書いてある。それを読んだおれは、眠気が吹き飛んだ。
『貰っていくわね』
……ああ、やっぱりおれのいる場所はここではない。仕えるべき主も、あの人ではない。
おれはほとんどほどいていなかった荷物をしっかりとまとめ直した。仮眠室にある私物は……まあ、いいだろう。きっと。
明け方、おれは屋敷をそっと抜け出した。部屋に簡素な書き置きを残して。
北の屋敷があるという街の名前を頼りに歩き出して、二日が経った。そろそろお嬢さまが北の屋敷を出立してしまう日付になる。今日中に次の街に着いてしまったほうがいいだろう。陽の傾きと競争しながら、おれは長い街道を歩いている。
「……ねえ、婚約者が出立したばかりだとか」
「まあ。騎士団が出動なさるの?」
「さあ……。でも、ツカサさまならご自身で助けに向かわれるのではないかしら」
「素敵よねえ。ツカサさまの婚約者の方も、素敵な方なんでしょうね」
井戸端会議が耳に入って、おれは振り返った。騎士団って、あの王族直属の騎士団だろうか。この国の数ある士官学校の生徒の中でも特に優秀なものしか入れないという。その騎士団が出動するものに、スオウ家の当主が関わっている?
「その話、詳しく聞かせてもらえないか」
腰に剣を下げた騎士に突然話しかけられて、彼女たちは大層驚いたらしい。持っていた洗濯物を取り落とす。おれは洗濯物を拾い上げ、彼女たちの腕の中に戻してながら腰に下げた剣を外して降ろした。困った顔をした女性は、
「と言っても、旅商人の方から聞きかじった話なのですが」
彼女の話によると、今朝方出発した馬車が賊に襲われる事件があったらしい。定かではないが、貴族の馬車だったという。
……ううん。その馬車、スオウ家の馬車だってことはあるか?
礼を言ってその場を離れる。日が暮れ始めていたけれど、もう少し歩くことにした。騎士団が出動するなら、もっと騒ぎになっていると思う。ううん、どうするべきか。嫁入り前なのだから北の屋敷から馬車が多く交わされていても何らおかしくない。お嬢さまたちの馬車だという確証がない。どちらかというとその可能性は低い。……お嬢さまは、まだ北の屋敷にいると考えるべきか。
「う~ん。どうしよう」
おれは道中で買った簡素な地図を広げながらぐいと水を煽った。ここはもうスオウ家の治める地だけど、屋敷のある街まではもう少し距離があるはずだ。そもそも、お嬢さまに目通りを願ったところで、おれは何と言うつもりだったんだろう。どうしても貴女を追いかけてきたのだと言えばいいのだろうが、困ったように笑うお嬢さまの顔は出来たら見たくない。あと、セナにめちゃくちゃ怒られそうだ。
「何にも考えてなかったなー……」
衝動で行動してしまったことに少しの後悔と、なるようになるだろうと楽観的な思考。おれはいくら物事を楽しめる性分とはいえ、この状況には少し困った。
まあ、顔が見られるだけでもばんざいか。
おれはもう少しだと痛む足を奮い立たせて、暗くなる中街道を歩き出した。次の街までには陽は沈んでしまうだろうか。