仕事のない歌騎士
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翌日、月の刻。お嬢さまの部屋を尋ねたおれは(そもそも護衛なのにおそばについていないのがまずおかしいのだけれど)、空っぽの部屋を見て絶句していた。慌てて奥の間まで覗いてみるものの、どこにもいない。
何かに巻き込まれたんじゃないか、おれは慌てて部屋を飛び出そうと床を蹴る。そのときだ。
「レオ!」
「え?」
探していたお嬢さまの声がして、おれは扉に激突した。大きな扉に突き飛ばされて、床に転がる。顔をあげたおれが見たのは、春風に揺れる真っ白なカーテンの向こう側、窓枠に足を掛けるお嬢さまの姿だった。
「お、お、お嬢さま」
「何をしているの? 早くしないとイズミに見つかるでしょう?」
「ええ?」
「さあ、早く立って」
窓枠から飛び降りたお嬢さまは、いつものような重たいドレスは着ていなくて、髪もまとめていなかった。おれの手をぐいぐいと引っ張り、窓枠に近づいていく。おれはそこではじめて、窓枠からは見えないところに古びた梯子が取り付けられているのを知った。
「行くわよ」
慣れたように足を降ろし、部屋を飛び出していくお嬢さまは一瞬おれを見上げてにやりと笑って見せた。廊下の向こうから聞こえてくる足音を聞いて、おれは慌てて窓枠の向こうに飛びだした。視界から部屋が消えるのと、扉が開け放される音が聞こえたのは同時だった。
手入れされていない庭を抜けて、お嬢さまは屋敷の最果て、古びた塀の前に立って、何やらレンガをずらしていた。きちんとやらないと崩れるのよ、と言うお嬢さまに肝が冷える。お嬢さまの白い手がレンガを掴んでいるのを見るのもなんだか夢みたいだ。おれは耐えきれなくなって、「手順を教えて頂けますか」とお嬢さまの手を止めた。
「……ありがとう、実はイズミなしでいるのははじめてなのよ」
お嬢さまは小さな声で、照れくさそうに笑った。
レンガの隙間を抜け、お嬢さまは迷いなく道を進んでいった。およそ季節一つ分は屋敷から出ていなかったおれは、無限に広がるようにも見える街を見てなんだか懐かしい気持ちにさえなった。
「あら、お嬢さまではありませんか。ひさしぶりですね」
「ええ、お元気でしたか」
足を止めたのは、広い畑を持つ家の前だった。野菜の世話をしていた老夫婦がお嬢さまの顔を見るなり顔を綻ばせた。
「今日はイズミさまとご一緒ではないのですね?」
「ええ。今日はイズミはお休みなのです」
「そうだ、少し待ってくださいな。いつもの持ってきますから」
「ありがとう。本当に助かります」
女性が持ってきてくれたのは薪だった。どうして、と思いながら中を検める。特に問題のない、普通の薪だった。これがいつもの、というのは何なんだろう。お嬢さまは体に気をつけるように言うと、手を振ってその場をあとにした。
泥で汚れた農民、何㎞も歩いて足を進める旅商人、お嬢さまは様々な人に声をかけられながら市街地へと足を運ぶ。歩みを進めるほどにおれが検める荷物は増えていき、お嬢さまはどんどんと先へと進んでいってしまう。
「驚いた?」
「少し」
「ええ。そうでしょうとも」
おれは正直に答えた。お嬢さまは、外に出たくないのだと思っていた。屋敷の敷地の中で本を読んで、ピアノを弾いて、そうして暮らすのが幸せなのだと思っていた。それなのにどうだ、おれが見てきたどのお嬢さまよりも今日のお嬢さまは楽しそうだ。
しばらく道なりに歩いていくと、街の貧困層の地域に入っているようだった。酸っぱいような、キツい匂いがしておれは思わず顔をしかめる。お嬢さまはそんなおれを見て「もう少しよ」と笑った。
街の外れにある小さな民家の前で、お嬢さまは立ち止まった。ポケットから長い鍵を取り出して、鈍い音を立てる扉を開ける。いつもはおれたち護衛がお嬢さまに扉を開けるのが仕事なのに、お嬢さまはおれに向かって「どうぞ、入って」と言った。
埃の舞うその家は、誰かが住んでいたような形跡があった。赤ん坊が眠るベッド、少ない食器が棚に並んでいる。長い間放置されていたのか、どれもこれも白く埃を被っている。
お嬢さまは慣れたように外の井戸から水をくんでくる。慈しむようにテーブルの埃を払うお嬢さまに、おれはここがどこなのか嫌でも察した。
「レオ」
「は、はい」
「少し手伝ってくれる? ……こんなに埃が被ってしまうまで放置するつもりじゃなかったのよ」
二人で黙々と掃除をして、お茶を淹れた。さっき街道で出会った老夫婦が薪をくれた意味をおれはようやく理解する。お嬢さまがここに来るのを知っていたに違いない。
おれに椅子に座らせて、お嬢さまはずっと掃除をしていた。手伝うと申し出てもやんわりと断られる。いつもと完全に立場が逆転して、おれはお茶の味の一つも分からなかった。
「どうかしら」
「美味しゅうございます」
「よかった。屋敷ではお茶も淹れさせてもらえないでしょう? だんだん入れ方を忘れてしまうのよ」
砕けた口調のお嬢さまにも驚かせられる。身につけた服はきっとこの街の誰よりも高価なものだけれど、だんだんとそれがくるくると立ち回る平民のように見えてくる。
一通り家の中を探索したあと、お嬢さまはおれの前に椅子を引きずってきてすとんと座り込んだ。道中もらってきた菓子を広げ、自分で自分のお茶を注ぐ。
「どこから話せば良いかしら」
「……出来れば、最初から」
空になったカップにお茶を注いでくれる。お嬢さまは甘味に手を伸ばして口に放り込むと、軟らかく微笑んだ。背筋を伸ばし、表情を引き締める。……ああ、おれが知っているお嬢さまだ。
「護衛ですもの、私が愛妾の子なのは、知っているでしょう?」
「はい」
「私、屋敷に入る前はこの町で育ったのです。何もなければ、糸紡ぎの工房で見習いをする予定でした」
あそこよ、と指さした先には小さな工房があるようだった。粗末な服を着た子供たちが駆けていく。もしかしてお嬢さまも、ああして街を駆けていたのだろうか。
「お父さまはかあさまを酷く気に入っていて、かあさまを後妻として迎えたかったのです。けれど、お母さまが反対なさって。そうしたらお父さまは、私だけでもと。私、母さまにとても似ているのですよ」
愛妾の子というのは、不吉な子だ。本来は出来るはずのない、家にもめ事をもたらす存在。本家の子なら分家に養子にやったり、はじめからなかったことにされる。けれど、女の子なら話が別な場合もある。例えば、どこかの家に嫁ぎに出すとか。家督を継ぐことのない女の子は、トラブルになることも少ない。
お嬢さまは紅茶をもう一口飲んだ。倣うようにおれもカップに口をつける。さっきと違って、酷く苦い。
「イズミとリツは、そのときに遊び相手として使わされた貴族の子なのです」
「それで、あのように親しいのですね」
「ええ。妹は物心がつかない年齢だったけれど、お母さまに教えられて知っています。驚いたでしょう? 私が妹に挨拶に行ったこと」
「……生母さまのご関係かと」
「間違ってはいないわ」
風が吹いて、窓ががたがたと揺れた。隙間風も吹いているようだ。貧しいけれど、幸せな暮らし。小説で出てくるようなフレーズが、ここには似合っていたのだろう。
「かあさまは今はここではなくて、少し離れたところに済んでいらっしゃいます。会いに来てはいけないと釘を刺されているのです」
「……寂しくはないのですか」
「寂しいですよ。本当は今すぐ駆けていって、かあさまに叱られてしまいたいくらい」
カップにお茶のおかわりを注いで、お嬢さまは淡々と告げた。きっとセナもリッツもそれを知っていて、この密かな(潜んでいるかは別として)息抜きを許容しているんだろう。もしかしたらはじめに言い出したのはリッツで、セナも文句を言いながら準備を整えたりしたのかもしれない。普段は屋敷に閉じ込められているお嬢さまの心が壊れてしまわないように。
「だから、私は家の為になることをします」
「家の、ですか」
「ええ、侯爵さまに嫁いで子を成す。そうすれば、お父さまは生まれた子の祖父として力を握れるでしょう」
「そうです」
「ええ、そうなの」
お嬢さまはふいに口元に手を当てて内緒話のように声を潜めた。おれは思わず顔を寄せて次の言葉を待った。
「……あなたも、幸せになってね」
少し埃の残る家を出て、おれとお嬢さまは再び市街地へと戻った。お嬢さまは糸紡ぎの工房を見て目を細めた。……生母さまはあそこに勤めているのかもしれない。
屋敷へ続く長い道を歩き出したとき、慌ただしく屋敷の紋章の馬車が目の前を通って、そして止まった。中からセナが物凄い形相でこちらを見ている。おれは肝を冷やしたが、お嬢さまは気にも留めずに馬車に乗り込んだ。
「……で、何か言い訳は?」
「少しお話が盛り上がってしまったのよ」
冷ややかにこちらを見ているセナに大して、向かいに座るお嬢さまはしれっと言い訳をした。驚いたのはセナの隣に座るおれだ。お嬢さまが少し不満そうな顔をしてセナに言い返したのだ。
「暁の刻には帰るって言ってたよねぇ」
「そうだったかしら? 碧の刻ではなくて?」
「それも過ぎたよ! もう」
お嬢さまの膝に頭を乗せて欠伸をしているリッツは、おれの大荷物を見て笑う。セナの説教を聞き流して、お嬢さまは楽しそうに街の話をはじめた、おれを家に連れて行ったことも、家が変わらずに埃を被っていたことも。
「で、新入りとあの家でどんな話をしていたの?」
「……私が屋敷に来た頃、イズミにしょっちゅう泣かされていた話よ」
そんな話は聞いていない、おれは思わず腰を浮かせてお嬢さまの顔を見つめた。いたずらっぽく笑うお嬢さまと、セナが眉間に皺を寄せるのはほぼ同時だった。
「れおくん、今日晩御飯抜きね」
「ええ、おれが!」
「……次はおれを連れて行ってね」
「ええ、必ず」
何かに巻き込まれたんじゃないか、おれは慌てて部屋を飛び出そうと床を蹴る。そのときだ。
「レオ!」
「え?」
探していたお嬢さまの声がして、おれは扉に激突した。大きな扉に突き飛ばされて、床に転がる。顔をあげたおれが見たのは、春風に揺れる真っ白なカーテンの向こう側、窓枠に足を掛けるお嬢さまの姿だった。
「お、お、お嬢さま」
「何をしているの? 早くしないとイズミに見つかるでしょう?」
「ええ?」
「さあ、早く立って」
窓枠から飛び降りたお嬢さまは、いつものような重たいドレスは着ていなくて、髪もまとめていなかった。おれの手をぐいぐいと引っ張り、窓枠に近づいていく。おれはそこではじめて、窓枠からは見えないところに古びた梯子が取り付けられているのを知った。
「行くわよ」
慣れたように足を降ろし、部屋を飛び出していくお嬢さまは一瞬おれを見上げてにやりと笑って見せた。廊下の向こうから聞こえてくる足音を聞いて、おれは慌てて窓枠の向こうに飛びだした。視界から部屋が消えるのと、扉が開け放される音が聞こえたのは同時だった。
手入れされていない庭を抜けて、お嬢さまは屋敷の最果て、古びた塀の前に立って、何やらレンガをずらしていた。きちんとやらないと崩れるのよ、と言うお嬢さまに肝が冷える。お嬢さまの白い手がレンガを掴んでいるのを見るのもなんだか夢みたいだ。おれは耐えきれなくなって、「手順を教えて頂けますか」とお嬢さまの手を止めた。
「……ありがとう、実はイズミなしでいるのははじめてなのよ」
お嬢さまは小さな声で、照れくさそうに笑った。
レンガの隙間を抜け、お嬢さまは迷いなく道を進んでいった。およそ季節一つ分は屋敷から出ていなかったおれは、無限に広がるようにも見える街を見てなんだか懐かしい気持ちにさえなった。
「あら、お嬢さまではありませんか。ひさしぶりですね」
「ええ、お元気でしたか」
足を止めたのは、広い畑を持つ家の前だった。野菜の世話をしていた老夫婦がお嬢さまの顔を見るなり顔を綻ばせた。
「今日はイズミさまとご一緒ではないのですね?」
「ええ。今日はイズミはお休みなのです」
「そうだ、少し待ってくださいな。いつもの持ってきますから」
「ありがとう。本当に助かります」
女性が持ってきてくれたのは薪だった。どうして、と思いながら中を検める。特に問題のない、普通の薪だった。これがいつもの、というのは何なんだろう。お嬢さまは体に気をつけるように言うと、手を振ってその場をあとにした。
泥で汚れた農民、何㎞も歩いて足を進める旅商人、お嬢さまは様々な人に声をかけられながら市街地へと足を運ぶ。歩みを進めるほどにおれが検める荷物は増えていき、お嬢さまはどんどんと先へと進んでいってしまう。
「驚いた?」
「少し」
「ええ。そうでしょうとも」
おれは正直に答えた。お嬢さまは、外に出たくないのだと思っていた。屋敷の敷地の中で本を読んで、ピアノを弾いて、そうして暮らすのが幸せなのだと思っていた。それなのにどうだ、おれが見てきたどのお嬢さまよりも今日のお嬢さまは楽しそうだ。
しばらく道なりに歩いていくと、街の貧困層の地域に入っているようだった。酸っぱいような、キツい匂いがしておれは思わず顔をしかめる。お嬢さまはそんなおれを見て「もう少しよ」と笑った。
街の外れにある小さな民家の前で、お嬢さまは立ち止まった。ポケットから長い鍵を取り出して、鈍い音を立てる扉を開ける。いつもはおれたち護衛がお嬢さまに扉を開けるのが仕事なのに、お嬢さまはおれに向かって「どうぞ、入って」と言った。
埃の舞うその家は、誰かが住んでいたような形跡があった。赤ん坊が眠るベッド、少ない食器が棚に並んでいる。長い間放置されていたのか、どれもこれも白く埃を被っている。
お嬢さまは慣れたように外の井戸から水をくんでくる。慈しむようにテーブルの埃を払うお嬢さまに、おれはここがどこなのか嫌でも察した。
「レオ」
「は、はい」
「少し手伝ってくれる? ……こんなに埃が被ってしまうまで放置するつもりじゃなかったのよ」
二人で黙々と掃除をして、お茶を淹れた。さっき街道で出会った老夫婦が薪をくれた意味をおれはようやく理解する。お嬢さまがここに来るのを知っていたに違いない。
おれに椅子に座らせて、お嬢さまはずっと掃除をしていた。手伝うと申し出てもやんわりと断られる。いつもと完全に立場が逆転して、おれはお茶の味の一つも分からなかった。
「どうかしら」
「美味しゅうございます」
「よかった。屋敷ではお茶も淹れさせてもらえないでしょう? だんだん入れ方を忘れてしまうのよ」
砕けた口調のお嬢さまにも驚かせられる。身につけた服はきっとこの街の誰よりも高価なものだけれど、だんだんとそれがくるくると立ち回る平民のように見えてくる。
一通り家の中を探索したあと、お嬢さまはおれの前に椅子を引きずってきてすとんと座り込んだ。道中もらってきた菓子を広げ、自分で自分のお茶を注ぐ。
「どこから話せば良いかしら」
「……出来れば、最初から」
空になったカップにお茶を注いでくれる。お嬢さまは甘味に手を伸ばして口に放り込むと、軟らかく微笑んだ。背筋を伸ばし、表情を引き締める。……ああ、おれが知っているお嬢さまだ。
「護衛ですもの、私が愛妾の子なのは、知っているでしょう?」
「はい」
「私、屋敷に入る前はこの町で育ったのです。何もなければ、糸紡ぎの工房で見習いをする予定でした」
あそこよ、と指さした先には小さな工房があるようだった。粗末な服を着た子供たちが駆けていく。もしかしてお嬢さまも、ああして街を駆けていたのだろうか。
「お父さまはかあさまを酷く気に入っていて、かあさまを後妻として迎えたかったのです。けれど、お母さまが反対なさって。そうしたらお父さまは、私だけでもと。私、母さまにとても似ているのですよ」
愛妾の子というのは、不吉な子だ。本来は出来るはずのない、家にもめ事をもたらす存在。本家の子なら分家に養子にやったり、はじめからなかったことにされる。けれど、女の子なら話が別な場合もある。例えば、どこかの家に嫁ぎに出すとか。家督を継ぐことのない女の子は、トラブルになることも少ない。
お嬢さまは紅茶をもう一口飲んだ。倣うようにおれもカップに口をつける。さっきと違って、酷く苦い。
「イズミとリツは、そのときに遊び相手として使わされた貴族の子なのです」
「それで、あのように親しいのですね」
「ええ。妹は物心がつかない年齢だったけれど、お母さまに教えられて知っています。驚いたでしょう? 私が妹に挨拶に行ったこと」
「……生母さまのご関係かと」
「間違ってはいないわ」
風が吹いて、窓ががたがたと揺れた。隙間風も吹いているようだ。貧しいけれど、幸せな暮らし。小説で出てくるようなフレーズが、ここには似合っていたのだろう。
「かあさまは今はここではなくて、少し離れたところに済んでいらっしゃいます。会いに来てはいけないと釘を刺されているのです」
「……寂しくはないのですか」
「寂しいですよ。本当は今すぐ駆けていって、かあさまに叱られてしまいたいくらい」
カップにお茶のおかわりを注いで、お嬢さまは淡々と告げた。きっとセナもリッツもそれを知っていて、この密かな(潜んでいるかは別として)息抜きを許容しているんだろう。もしかしたらはじめに言い出したのはリッツで、セナも文句を言いながら準備を整えたりしたのかもしれない。普段は屋敷に閉じ込められているお嬢さまの心が壊れてしまわないように。
「だから、私は家の為になることをします」
「家の、ですか」
「ええ、侯爵さまに嫁いで子を成す。そうすれば、お父さまは生まれた子の祖父として力を握れるでしょう」
「そうです」
「ええ、そうなの」
お嬢さまはふいに口元に手を当てて内緒話のように声を潜めた。おれは思わず顔を寄せて次の言葉を待った。
「……あなたも、幸せになってね」
少し埃の残る家を出て、おれとお嬢さまは再び市街地へと戻った。お嬢さまは糸紡ぎの工房を見て目を細めた。……生母さまはあそこに勤めているのかもしれない。
屋敷へ続く長い道を歩き出したとき、慌ただしく屋敷の紋章の馬車が目の前を通って、そして止まった。中からセナが物凄い形相でこちらを見ている。おれは肝を冷やしたが、お嬢さまは気にも留めずに馬車に乗り込んだ。
「……で、何か言い訳は?」
「少しお話が盛り上がってしまったのよ」
冷ややかにこちらを見ているセナに大して、向かいに座るお嬢さまはしれっと言い訳をした。驚いたのはセナの隣に座るおれだ。お嬢さまが少し不満そうな顔をしてセナに言い返したのだ。
「暁の刻には帰るって言ってたよねぇ」
「そうだったかしら? 碧の刻ではなくて?」
「それも過ぎたよ! もう」
お嬢さまの膝に頭を乗せて欠伸をしているリッツは、おれの大荷物を見て笑う。セナの説教を聞き流して、お嬢さまは楽しそうに街の話をはじめた、おれを家に連れて行ったことも、家が変わらずに埃を被っていたことも。
「で、新入りとあの家でどんな話をしていたの?」
「……私が屋敷に来た頃、イズミにしょっちゅう泣かされていた話よ」
そんな話は聞いていない、おれは思わず腰を浮かせてお嬢さまの顔を見つめた。いたずらっぽく笑うお嬢さまと、セナが眉間に皺を寄せるのはほぼ同時だった。
「れおくん、今日晩御飯抜きね」
「ええ、おれが!」
「……次はおれを連れて行ってね」
「ええ、必ず」