仕事のない歌騎士
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お嬢さまの側で過ごすようになってから、少し時間が経った。おれは毎日のように楽譜を書きだめし、お嬢さまは読書の時間を放り投げてピアノに向かうようになった。家族に手紙を書きながら、おれは自分の境遇に笑いが溢れるときがある。やっぱり、騎士の士官学校を卒業してから楽師のような仕事をしているのはおかしい。仕事があるだけ、有り難いけれど。
ある日、おれはいつものように朝からお嬢さまの部屋でピアノを聞いていた。お嬢さまはなめらかに指を滑らせながらおれの楽譜を一生懸命に練習する。このリズムは苦手なんだな、この和音がお好きらしい。おれは頭の中のメモに刻みながら次の曲を考えた。ゆったりした曲はあまりお好みじゃないらしい、でも楽譜を渡せば弾いてくださるはずだ。
「お嬢さま、失礼致します」
「どうしました」
慌てた様子の侍女がお嬢さまに何かを耳打ちした。お嬢さまはわずかに眉をひそめ、まだ途中のはずのピアノの蓋を閉じた。傍で控えていたセナとリッツが顔を見合わせた。部屋の扉の向こうですらざわつき始めた。
「お嬢?」
「あの子が帰ってきたそうです」
会話が短く交わされて、セナは部屋を飛び出していきリッツも立ち上がってピアノの片付けを始めた。侍女が数人部屋に飛び込んできて、この部屋の奥にあるお嬢さまの寝室でお嬢さまを待っている。
「みんな」
「はい」
「妹が帰って来ました。顔を見に行くわ。護衛はレオとイズミ。レオ、イズミを探して連れ帰ってきてください」
護衛?
おれはお召し替えに向かわれるお嬢さまの背中を見送りながらかろうじて返事をした。侍女を捕まえて準備にかかる時間を聞き出すと、セナを探しにお嬢さまの部屋を飛び出した。
*
「セナ!」
「れおくん?」
屋敷中を探し回ってようやく見つけたセナは、おれから護衛の話を聞くと黙っておれの来た道を駆けだした。「まったくいつも突然なんだから」と呟かれた言葉は、誰に向けられたものなんだろうか。
「れおくん、先に言っとくけど」
「え?」
「妹君の前で、絶対喋っちゃ駄目だからね」
お嬢さまがおれたちの姿を見つけると同時に歩き始める。なんだか屋敷中が緊迫しているような気がする。急な帰還だというし、準備が間に合わないというのもあるのだろうけれど。
親子の関係は上下のものだが、横の繋がりである兄弟姉妹の力関係が年功序列とは限らない。産みの母親の身分、能力、容姿、様々な要素が噛み合って決まるのが力関係だ。帰ってきた妹君に、姉であるお嬢さまが挨拶に出向くと言うことは、きっとそういうことなのだろう。
妹君の部屋は、お嬢さまの部屋から真逆のところにあった。近づくにつれ、慌ただしく準備や片付けをしている使用人たちの姿が目についた。……どうやら妹君は、姉君より遥かに大人数を召し抱えているらしい。
「私よ。通してくださる?」
お嬢さまが部屋の前に控えていた護衛騎士に声をかけると、騎士は少し目を見開いて「暫しお待ちを」と言って中に入っていった。少しだけ見えた部屋の中には物があふれかえっていて、お嬢さまの部屋とどうしても比べてしまう。あの部屋は少し殺風景すぎる。
「お入りくださいませ」
「ありがとう」
ふわりと笑ったお嬢さまは、すぐに表情を引き締めて部屋に入っていった。乱雑に物が置かれたその部屋の奥に、部屋の主はちょこんと座っていた。
「お姉さま!」
「お帰りなさい」
お嬢さまより幾分か幼い妹君は、まるで人形のような容姿だった。年は確か6歳離れている。旅行や出がけが好きで、よく屋敷を留守にしているのだという。幼いからか、何事も思いつきのまま行動するようなところがあるらしい。おれはこの屋敷に来る前に手渡された分厚い資料のことをぼんやりと思い出した。
「私、今度は海を見てきたのです。船に乗って、それは優雅な時間でしたわ」
「そう。楽しかったのね」
「お姉さまはお変わりありませんでした?」
「……特にないわ」
ふわりと微笑んだ妹君は「それはようございました」と言った。幼いのに、さすがの立ち居振る舞いだ。そのとき、おれは妹君とばちりと目が合った。どうするのが正解か曖昧だったので、軽く頭を下げておく。
「お嬢さま、そろそろ先生がいらっしゃいます」
「ええ。……それでは、わたしはこれで」
侍女の言葉にお嬢さまはいつになく素早く動き出した。侍女が扉を開け、護衛であるセナがお嬢さまを誘導する。
「あら、お姉さま」
鈴を転がすような笑い声が聞こえた。幼い少女の笑い声のはずなのに、なぜだかとても恐ろしいように聞こえるのは気のせいか。
「新しい騎士をお入れになったのですね? 秋のあと、お姉さまがなかなか新しい騎士をお入れにならないので私、とても心配していたのです」
「そう。ありがとう」
「これで私も安心ですわ」
「そう」
お嬢さまは足早に部屋を出て行く。長い廊下の端から端、妹君の使用人たちがやっぱり慌ただしく荷物を片付けていた。
*
「なあ、セナ」
「なあに? 妹君のこと?」
「分かってるなら教えてくれたって良いだろ」
「知ってどうするの。お嬢さまに聞くわけ? 何で姉である貴女が挨拶に出向くのかって?」
「……それもそうか」
お嬢さまは妹君に挨拶に出向くだけの理由があるのだ。それが、どんなに理不尽なものだとしても。背筋を伸ばして、口元に笑みをたたえて、屈辱に耐えるのだ。貴族としては、それがきっと正しい。
士官学校で騎士見習いを教えていた元伯爵家の先生は、貴族の重圧に耐えかねて騎士になったのだと言っていた。貴族でも騎士になることはあれど、伯爵家からは珍しいので礼儀作法の授業の担当だった。その人が言っていた。出自や母親、そんなどうしようもないもので上下がつけられるのが嫌だったのだと。自分にとっては大事な母なのに、それを理由にされるのに耐えかねたのだと。
主の出自は、もちろん知っている。
……これも仕方がないのか。貴族的には。
部屋に戻ると、お嬢さまは先生と勉強だ。護衛はセナ。おれは一度宿舎に戻り、ペンと楽譜を目の前に並べた。お嬢さまがくださった五線譜は、おれがいつも使っているものより遙かに白い。
はじめての護衛の仕事は、何だがモヤモヤしたものをおれに残した。霊感が湧かない日は、この屋敷に来てからはじめてだった。
妹君は、大層お嬢さまに懐いているようだった。毎日部屋に訪れてはお茶をして帰って行く。一緒に出がけをしようと誘ったり、同じ舞踊の先生に習わないかと勧めたりしていた。それをお嬢さまは毎日やんわりと断り、おれたち仕えの間にはぴりぴりした空気が漂っていた。
「……レオ。そんな悲しそうな顔をしなくて良いのですよ」
「え」
ある日の夕方、屋敷の庭で本を読んでいたお嬢さまはおれの顔を見て困ったように笑った。おれの隣にいたセナが変な顔をする。慌てて表情を引き締めてみると、お嬢さまがくすくすと笑った。
「優しいのですね」
「れおくん、毎日沈んだ顔してるんだから」
セナもお嬢さまから本を受け取りながら苦笑いした。お嬢さまには侍女が少ない。セナは護衛でありながら侍女のような役割もこなしている。どうしても女性でなければならない仕事くらいだ、女性が侍女として出てくるのは。
「私が好き勝手出来るのもあとちょっとですもの。好きにします」
「そうそう。この家にいるときは好きにしとけば良いんだよ」
「ちょっとくまくん、勝手なこと言わないでよ。聞かれたらどうするの。今日は侯爵家の方がいらっしゃるんだから」
「まあ。イズミったら」
三人の笑い声が中庭に響いて、おれは曖昧に笑った。小さな頃からこの家にいる彼らと違って、おれにはまだ受け入れられそうにない。そんなおれの顔を見たお嬢さまが、また困ったように笑う。
「じゃあ、レオ。明日、私に付き合ってくださる?」
「……もちろんでございます」
「ええ、お願いします。月の刻よ」
お嬢さまが手習いを終えられる時間を指定されて、おれは首を傾げた。セナは分厚い溜息をつき、リッツは笑い出した。何だ、おれは一体何に誘われたんだろう。
「お嬢、気をつけてね」
「ええ。留守は頼みます」
「留守?」
「れおくん」
悪魔のような形相をしたセナが、おれの肩を掴んで揺さぶった。
「……絶対に、目を離しちゃだめだからね」
「はあ?」
ある日、おれはいつものように朝からお嬢さまの部屋でピアノを聞いていた。お嬢さまはなめらかに指を滑らせながらおれの楽譜を一生懸命に練習する。このリズムは苦手なんだな、この和音がお好きらしい。おれは頭の中のメモに刻みながら次の曲を考えた。ゆったりした曲はあまりお好みじゃないらしい、でも楽譜を渡せば弾いてくださるはずだ。
「お嬢さま、失礼致します」
「どうしました」
慌てた様子の侍女がお嬢さまに何かを耳打ちした。お嬢さまはわずかに眉をひそめ、まだ途中のはずのピアノの蓋を閉じた。傍で控えていたセナとリッツが顔を見合わせた。部屋の扉の向こうですらざわつき始めた。
「お嬢?」
「あの子が帰ってきたそうです」
会話が短く交わされて、セナは部屋を飛び出していきリッツも立ち上がってピアノの片付けを始めた。侍女が数人部屋に飛び込んできて、この部屋の奥にあるお嬢さまの寝室でお嬢さまを待っている。
「みんな」
「はい」
「妹が帰って来ました。顔を見に行くわ。護衛はレオとイズミ。レオ、イズミを探して連れ帰ってきてください」
護衛?
おれはお召し替えに向かわれるお嬢さまの背中を見送りながらかろうじて返事をした。侍女を捕まえて準備にかかる時間を聞き出すと、セナを探しにお嬢さまの部屋を飛び出した。
*
「セナ!」
「れおくん?」
屋敷中を探し回ってようやく見つけたセナは、おれから護衛の話を聞くと黙っておれの来た道を駆けだした。「まったくいつも突然なんだから」と呟かれた言葉は、誰に向けられたものなんだろうか。
「れおくん、先に言っとくけど」
「え?」
「妹君の前で、絶対喋っちゃ駄目だからね」
お嬢さまがおれたちの姿を見つけると同時に歩き始める。なんだか屋敷中が緊迫しているような気がする。急な帰還だというし、準備が間に合わないというのもあるのだろうけれど。
親子の関係は上下のものだが、横の繋がりである兄弟姉妹の力関係が年功序列とは限らない。産みの母親の身分、能力、容姿、様々な要素が噛み合って決まるのが力関係だ。帰ってきた妹君に、姉であるお嬢さまが挨拶に出向くと言うことは、きっとそういうことなのだろう。
妹君の部屋は、お嬢さまの部屋から真逆のところにあった。近づくにつれ、慌ただしく準備や片付けをしている使用人たちの姿が目についた。……どうやら妹君は、姉君より遥かに大人数を召し抱えているらしい。
「私よ。通してくださる?」
お嬢さまが部屋の前に控えていた護衛騎士に声をかけると、騎士は少し目を見開いて「暫しお待ちを」と言って中に入っていった。少しだけ見えた部屋の中には物があふれかえっていて、お嬢さまの部屋とどうしても比べてしまう。あの部屋は少し殺風景すぎる。
「お入りくださいませ」
「ありがとう」
ふわりと笑ったお嬢さまは、すぐに表情を引き締めて部屋に入っていった。乱雑に物が置かれたその部屋の奥に、部屋の主はちょこんと座っていた。
「お姉さま!」
「お帰りなさい」
お嬢さまより幾分か幼い妹君は、まるで人形のような容姿だった。年は確か6歳離れている。旅行や出がけが好きで、よく屋敷を留守にしているのだという。幼いからか、何事も思いつきのまま行動するようなところがあるらしい。おれはこの屋敷に来る前に手渡された分厚い資料のことをぼんやりと思い出した。
「私、今度は海を見てきたのです。船に乗って、それは優雅な時間でしたわ」
「そう。楽しかったのね」
「お姉さまはお変わりありませんでした?」
「……特にないわ」
ふわりと微笑んだ妹君は「それはようございました」と言った。幼いのに、さすがの立ち居振る舞いだ。そのとき、おれは妹君とばちりと目が合った。どうするのが正解か曖昧だったので、軽く頭を下げておく。
「お嬢さま、そろそろ先生がいらっしゃいます」
「ええ。……それでは、わたしはこれで」
侍女の言葉にお嬢さまはいつになく素早く動き出した。侍女が扉を開け、護衛であるセナがお嬢さまを誘導する。
「あら、お姉さま」
鈴を転がすような笑い声が聞こえた。幼い少女の笑い声のはずなのに、なぜだかとても恐ろしいように聞こえるのは気のせいか。
「新しい騎士をお入れになったのですね? 秋のあと、お姉さまがなかなか新しい騎士をお入れにならないので私、とても心配していたのです」
「そう。ありがとう」
「これで私も安心ですわ」
「そう」
お嬢さまは足早に部屋を出て行く。長い廊下の端から端、妹君の使用人たちがやっぱり慌ただしく荷物を片付けていた。
*
「なあ、セナ」
「なあに? 妹君のこと?」
「分かってるなら教えてくれたって良いだろ」
「知ってどうするの。お嬢さまに聞くわけ? 何で姉である貴女が挨拶に出向くのかって?」
「……それもそうか」
お嬢さまは妹君に挨拶に出向くだけの理由があるのだ。それが、どんなに理不尽なものだとしても。背筋を伸ばして、口元に笑みをたたえて、屈辱に耐えるのだ。貴族としては、それがきっと正しい。
士官学校で騎士見習いを教えていた元伯爵家の先生は、貴族の重圧に耐えかねて騎士になったのだと言っていた。貴族でも騎士になることはあれど、伯爵家からは珍しいので礼儀作法の授業の担当だった。その人が言っていた。出自や母親、そんなどうしようもないもので上下がつけられるのが嫌だったのだと。自分にとっては大事な母なのに、それを理由にされるのに耐えかねたのだと。
主の出自は、もちろん知っている。
……これも仕方がないのか。貴族的には。
部屋に戻ると、お嬢さまは先生と勉強だ。護衛はセナ。おれは一度宿舎に戻り、ペンと楽譜を目の前に並べた。お嬢さまがくださった五線譜は、おれがいつも使っているものより遙かに白い。
はじめての護衛の仕事は、何だがモヤモヤしたものをおれに残した。霊感が湧かない日は、この屋敷に来てからはじめてだった。
妹君は、大層お嬢さまに懐いているようだった。毎日部屋に訪れてはお茶をして帰って行く。一緒に出がけをしようと誘ったり、同じ舞踊の先生に習わないかと勧めたりしていた。それをお嬢さまは毎日やんわりと断り、おれたち仕えの間にはぴりぴりした空気が漂っていた。
「……レオ。そんな悲しそうな顔をしなくて良いのですよ」
「え」
ある日の夕方、屋敷の庭で本を読んでいたお嬢さまはおれの顔を見て困ったように笑った。おれの隣にいたセナが変な顔をする。慌てて表情を引き締めてみると、お嬢さまがくすくすと笑った。
「優しいのですね」
「れおくん、毎日沈んだ顔してるんだから」
セナもお嬢さまから本を受け取りながら苦笑いした。お嬢さまには侍女が少ない。セナは護衛でありながら侍女のような役割もこなしている。どうしても女性でなければならない仕事くらいだ、女性が侍女として出てくるのは。
「私が好き勝手出来るのもあとちょっとですもの。好きにします」
「そうそう。この家にいるときは好きにしとけば良いんだよ」
「ちょっとくまくん、勝手なこと言わないでよ。聞かれたらどうするの。今日は侯爵家の方がいらっしゃるんだから」
「まあ。イズミったら」
三人の笑い声が中庭に響いて、おれは曖昧に笑った。小さな頃からこの家にいる彼らと違って、おれにはまだ受け入れられそうにない。そんなおれの顔を見たお嬢さまが、また困ったように笑う。
「じゃあ、レオ。明日、私に付き合ってくださる?」
「……もちろんでございます」
「ええ、お願いします。月の刻よ」
お嬢さまが手習いを終えられる時間を指定されて、おれは首を傾げた。セナは分厚い溜息をつき、リッツは笑い出した。何だ、おれは一体何に誘われたんだろう。
「お嬢、気をつけてね」
「ええ。留守は頼みます」
「留守?」
「れおくん」
悪魔のような形相をしたセナが、おれの肩を掴んで揺さぶった。
「……絶対に、目を離しちゃだめだからね」
「はあ?」