第二話 ブライド・オブ・ガンダーラパイレーツ
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第二話
ブライド・オブ・ガンダーラパイレーツ
◇
純白の花嫁
◇
優しさ
◇
ブライド・オブ・ガンダーラパイレーツ
◇
ケント兄の受難
*
◇ 純白の花嫁(ブライド)
船に揺られて、西へ東へ。
それが、私たち海賊の生き方。
時々船を降りることはあっても、最後には海と船と運命を共にする、そんな人生。
「つかまえたっ」
「……む」
「もう! 誰に似て逃げ足速いの!? アカネちん!?」
「えっ、僕?」
私を羽交い締めにしたユウタ兄にひょいと担ぎ上げられて、私は船の中心――つまりは船室に戻っていく。つまらない計算の勉強の最中、ユウタ兄が少しうたた寝をしている間に飛び出した次第である。
『ガンダーラ』と呼ばれるこの船は、他の海賊たちとはひと味もふた味も違っていた。略奪をしない、殺生をしない。人助けによって生計を立て、商売によってものを世界中に広げていく。そんな海賊だ。……それは最早ただの商人なのではないかと思うかもしれないが、兄たちが海賊だと名乗っているのだ。
海の王者と評される船長、長兄のトモヒサ兄を筆頭に、他十人の兄と末の私。出自も血筋も違えども“兄弟”として暮らすこの船に来てから、夏と秋の二つの季節が過ぎようとしていた。主に私の世話役のアニことアカネ兄、そして教育係であるユウタ兄とカズナ兄との攻防も、半年を迎えようとしていた。
「ヒメちゃん、戻るよ」
「……つまらないんだもの」
「大丈夫、ケンケンの自慢話の方がつまんないよ!」
「ちょっとユウタ」
空の色をした髪を手で押さえながら甲板を掃除する副長のケント兄は、ユウタ兄の言葉に目くじらを立てた。ユウタ兄曰くケント兄は元々町で有名な美男で、多くの女性と関係を持ったのだという。今でもどこかの港に着くとかつての友人(と兄は言い張っている)である女性が帰りを待っていることがあるのだそうだ。
二人のやりとりを見て、眼帯をした無口なゴウシ兄は砲のことを布で磨きながら「街(シティ)じゃなくて町(タウン)だろ」と鼻で笑った。「何が違うの」と尋ねてみたところ、ゴウシ兄曰く、都会なのは街なのだという。
「あーあ。この寒さじゃ、今年の冬もどこかの港で冬越しだね」
「別によくない? 船にいると寒いし」
「どこかの港に入るってことだろ。どこに誰がいるか分かったもんじゃないよ」
「言っとけ」
「あぁ。好きにするよ」
この三人は栄光を名乗る三人だ。その名の通り、高い戦闘力を誇り、高い志を掲げ、そして低い沸点が玉に瑕の仲良しだ。……低い沸点の下りは、リュウジ兄が言ったことなので、見逃してほしい。
「また逃げたの? 懲りないね」
「もー、リュウちゃん聞いてよ。ケンケンとごうちんてばまた喧嘩して」
「いつものことでしょ」
ユウタ兄の言葉をバッサリと切り捨てるのは、髪の一部が紅に染まったリュウジ兄、長兄に向かって平然と毒を吐く右腕、主計長だ。船の財布を預かるこの兄は、読み書き、計算、政治に関してまで詳しく、船の方向性を決める重要な役割を持っている。元々リュウジ兄は貴族の出で、見たこともないような大きなお屋敷で何不自由ない暮らしをしていたそうだ。何故この船に乗っているか、それは私の知る由もないけれども。
リュウジ兄は、ユウタ兄に担がれている私を見て「オマエも懲りないね」と苦笑いした。「もうちょっとしっかりしなよ」とも。
前の船でも私は末で、大勢の兄や姉たちに囲まれて暮らしてきた。年功序列の強かったあの船は食事も寝るのも何もかもが年の順で、ほとんど何も食べられない日や、徹夜になる日も少なくなかった。いまはそんなことはないけれど、やっぱり末じゃなくなるというのは、変な気分。
「数日で港につくからね。荷物まとめておきなよ」
それだけ、とひらりと手を振ってリュウジ兄は船内に戻っていく。口に加えた甘味は、前の港で手に入れた兄のお気に入りだ。
「もう港につくのか……はぁ」
「やったー! ぬくぬくで冬越しが出来るね!」
「……くだらねェ」
兄に担がれて私は船内に戻る。他の兄たちも次々と船内に戻ってきて、荷物の整理を始めている。私は机の前に座らされ「これの続きねっ」と放り出された。……分からないから逃げ出したのに、いまのやりとりの中で分かるようになったわけでもなく。私は何度計算しても同じになる答えに頭をひねりながら、石板の文字をごしごしと消した。
その日、カズナ兄が私の様子を見に来る夕刻まで、計算は終わらなかった。
翌々日の明朝、船はゆっくりと港に停まり、私はおよそ季節一つ分ぶりに陸に降りた。厳密に言えば港にはいくつか寄っていたのだが、私が船を降りる用事がなかったのである。男所帯の状態が長く続いたこの船は良くも悪くも目立つ。私は大抵眼帯のゴウシ兄と一緒に、補給に行くみんなを見送った後、甲板で一緒にいるようないないような、そんな微妙な距離感で見飽きた海をぼんやりと眺めていたのだ。
この地域は、冬が少し厳しいのだそうだ。古い地図を見せられて「俺たちがいるのはこの辺」とカズナ兄が指さしたのは入り組んだ陸の間。地図の上下は寒く、真ん中は暖かいのだ。海が凍るとまではいかないが、大人数で船で移動するには不向きな季節で、毎年冬になると見知った港を頼って陸で冬越しをするのだという。その間、兄たちは新しい商品の情報を集めたり、日用品を買い足したりして静かに過ごす。今年は私もリュウジ兄に倣って冬の手仕事をすることになっている。
「ここは久しぶりだね」
「そうだな。結婚式以来か」
「あー。ヒカルが飲み過ぎて大変なことになったやつな」
「ちょっと! 何でその話が出てくるの!」
「印象に残りすぎてるんですよ」
結婚式?
耳馴染みのない言葉に首を傾げると、青い瞳を片方眼帯で隠したカズナ兄は、私の頭に大きな手をぽん、と置くと「気をつけて」と微笑んだ。先を行くヒカル兄とタツ兄が笑う。
月の名を冠したこの五人は、まるで物語に出てくる魔法使いのようだった。眠れない夜は厨房に行って、明日の料理の仕込みをしているモモ兄にお話をねだる。石に囲まれた鍋をかけている火に当たりながら二色の瞳を持つモモ兄がしてくれるお話は、決まって月の踊り子たちの物語で、消えそうになるところを魔法使いが現れて助けてくれる。きっとこの五人も魔法使いなのだ、と私は思った。「リーダー」と呼ばれているカズナ兄、船の調理場を守るモモ兄、航海士見習いのヒカル兄、その師であり船の舵を預かるタツ兄、そして医務官のミカ兄。困っているところに音もなく現れて、いとも簡単に物事を解決してしまう。
「けっこんしきって?」
モモ兄に手を引かれて歩き出しながら尋ねると、兄は二色の瞳をふと細めた。まるで懐かしいものを思い出すかのように。
「お前が来る前、うちには姉がいたんだ」
「うん。今は結婚して船を降りたんだけど、今からそこに泊まりに行くんだよ。数年に一回はここの港に来るんだ」
「ふうん」
「……あんまり興味なさそうだな」
「びっくりしたのかも。ツバサちゃんのことは、誰も教えてなかったんだね?」
「まあ、普段船で生活する分には、知らなくてもいいことですからね」
「でも、せっかくの女の子同士だ。仲良くするんだよ、俺たちの可愛いヒメ」
カズナ兄はしばしば私のことを『俺たちの可愛いヒメ』と呼んだ。なんだかとてもくすぐったい。私がカズナ兄のことを見上げて頷いた瞬間、石畳に躓いて転んだ。慣れた手つきで私のこと受け止めるモモ兄を見て、眼鏡をしたミカド兄が「領主様みたいですね」と笑う。
*
たどり着いたのは、立派な建物だった。吹く風に、植物の香りが混ざっている。屋敷の回りをぐるりと大きな庭が囲っている。船から見た三角屋根が見えないほど高い。
姉だというその人は、貴族さまのところに嫁に行ったのだろうか。
「皆さん!」
「今年はお世話になるよ、ツバサ」
「お世話になりまーっす!」
「ユウタ、ちゃんと挨拶しなよ」
見知った顔ぶれなのか、建物から出てきた茶髪の女性は長兄の言葉に顔をほころばせた。兄たちの背中に隠れていた私の姿を見つけると、またも嬉しそうに声を上げる。
「この子が手紙で言っていた子ですか?」
「あぁ、半年前からね」
名前を呼ばれて、私はおずおずと前に出る。ウマの尻尾のように束ねられた茶毛が揺れた。
「よろしくお願いしますね、私はツバサ」
「お願い、します」
何度も反芻した挨拶の言葉を口に出すと、彼女は私の手を取り、「さあ、皆さん」と中へ入るように促した。慣れない手の柔らかさに戸惑う私は、助けを求めようと兄たちの顔を見上げた。
「よかったね、ヒメ」
「ツバサ、余ってる本とかない? ヒメが読むと思うんだけど」
「どうでしょう? 探してみますね」
私の知らないところで交わされていく会話が不安で、一歩後ずさる。ゴウシ兄にぶつかり、「何やってんだ」と怪訝そうな顔をされた。
「ツバサちゃん、ヒメが緊張してるみたい」
「ごめんなさい、驚かせちゃいましたね?」
「ううん。ほらヒメ」
私に助け船を出したのはアニだった。アニの後ろに逃げると「ごめんね、ツバサちゃん。人見知りなんだ」と、頭上からアニの声がした。
「お部屋を用意してあります、いつも通りですよ」
「ありがとう、ツバサさん」
「ツバサさん、ご飯はいつですか?」
「すぐ用意が出来ますよ」
「やった!」
アニは私の手を引いて「行こう」とこの屋敷を見知ったように歩いて行く。私がツバサさんと同じ部屋だと知ったのはその直後のことで、慣れないふかふかの布団に顔を埋めているうちに、眠りへと落ちて行ってしまった。
目覚めたときには、真夜中だった。がばりと起き上がった私にツバサさんは「起きましたか?」と優しく声をかける。思いの外熟睡していたみたいだ。
「お腹空いていませんか」
こういうとき、なんて言うんだっけ。拙い言葉で礼を口にすると、ツバサさんはまたふわりと笑った。
「きちんとお礼が言えるんですね、偉いです」
パンとスープを持ってきてくれたツバサさんは、自分がいた頃の船のことを少しずつ話してくれた。アニたちが船に来たときのこと、自分が船を降りることになったときのこと。あの頃から船はひとつも変わっていないこと、今でもあの頃が支えになっていること。この人は随分と長い間船にいたみたいだ。船のことを、何でも知っている。
「あの」
「ん?」
「けっこんしきって、何?」
唐突な言葉が口から出たにも関わらず、ツバサさんは微笑みながら引き出しの中から一枚の写真を撮りだした。真っ黒なドレスに身を包んだツバサさんが映っていた。
「これが、けっこんしき?」
「うん。大事な人と、ずっと一緒にいるって約束するんです」
「アニたちも、結婚式するのかな。大きくなったら?」
「そうですね、するかも」
「ふうん」
「もしかしたら貴女も」
「私も?」
結婚して船を降りる。船に乗っていない自分が想像出来なくて、私は首を傾げた。
生まれたときから船に乗っているのに、想像出来るわけもなかった。
*
朝日が昇る頃、屋敷の中をどたばた動き回る兄たちの音で目覚めた。ふかふかの布団が慣れなくて、結局いつものように隅に蹲って眠った。今日はリュウジ兄と手仕事を始める日だ。一度は目覚めたものの再びぼうっとしていると、部屋の扉が勢いよく開き、そして閉じた。息を切らして飛び込んできたユウタ兄は、私の姿を見るなり飛び上がった。
「わあっ! ヒメちゃん!」
「おはよ、ユウタ兄」
「ちょっと静かにしててね、いまアカネちんたちとかくれんぼしてるんだ」
「アニがおに?」
「そういうこと」
「一緒に隠れる?」
「そう! さすがだねぇ」
兄たち曰く、私はあまり嘘が得意ではないらしい。隠し場所に私がいると顔を見て分かると、兄たちはよく笑う。ユウタ兄とベッドの下に潜り込んで、私はわくわくしながらアニが来るのを待っていた。なかなか現れないアニを待つことも飽きた頃、私はうとうとと首を揺らしはじめ、ユウタ兄に体を預けて再び寝息を立てていた。
「ツバサちゃん! ユウタ見なかった?」
アニの声がして、私はもぞりと起き上がった。ベッドの板に頭をぶつけて蹲る。せっかく勝負のことを気にして私が声を抑えているのに、ユウタ兄はお腹を抱えて笑い出した。耐えきれずに漏れた笑い声が思いの外大きい。
「待って、今ユウタの声しなかった?」
「そこはヒメとツバサの部屋だよ」
「ヒメと隠れてるのかな……。ツバサちゃん! ちょっと入ってもいい?」
「えぇ」
アニの足音が近づいてくる。私とユウタ兄は息を潜めた。アニの足が目の前に来て、アニがそっと布団を捲る音がする。
「まだあったかい。でも、ナイフがここにある」
あっ。私は声を上げそうになってまた頭を打った。私がナイフを肌身離さず持っていることを知っているアニを誤魔化せるわけがなく、その数秒後にはアニのにっとした笑顔がベッドの下を覗き込んだ。
「こんなところにいた」
「アニ!」
「ユウタは? 一緒でしょ?」
「うん。……あれ?」
ユウタ兄の姿はすっかり消えていて、代わりに長兄とツバサさんのくすくす笑う声が私の耳元を揺らす。
「ユウタならもう出て行ったよ。アカネ、してやられたね」
「ええっ! そんな!」
アニは気にしていないのか、私をベッドの下から引っ張り出して埃を払うと「よく眠れた?」と笑う。
「ユウタ兄、どこいったんだろうね」
「うーん。庭かなあ」
「じゃあ行こ」
「分かった、分かったから先に身支度しよう。ね?」
アニに宥められた私がむっとした顔で部屋に戻ると、またもツバサさんがくすくすと笑う。アニと揃って首を傾げると、ツバサさんは上品に口元に手を当てて
「ユウタくんはユウタ兄なのに、アカネくんのことはアニなんですね?」
「そうなんだよー。最初はみんなそうなのかと思ってたらモモタローのことをモモ兄って呼んでて僕びっくりしたんだよ」
「モモ兄は、モモ兄。アニは、アニ」
ふふん、とアニの自慢をして笑う私は、長兄が難しい顔をしていることに気づいてそっとアニの服を掴んだ。長兄はいつも難しいことを考えている。船の奥にある「兄の部屋」には、たくさんの書物があるのだ。私が表情を硬くしたのを知ってか知らずか、長兄は私と目線を合わせるように腰をかがめた。
「ヒメの言うアニは、本当にアカネのこと?」
なんで、そのこと。
何で長兄がそのことを知っているのか。混乱した私は一目散にその場を駆け出した。名前を呼ぶアニやツバサさんの声を振り切って、大きな屋敷の中を闇雲に走った。
私の中にいる、二人のアニ。
二人が二人ともアニで、兄なのだ。
「トモ、何を言ってるの?」
アニが戸惑ったように私と長兄の顔を交互に見る。でも、長兄がそのことを知っているのも無理もないはずだ。襲撃する前にハイエッジの船のことは調べつくされていたに違いないし、交渉のために会話を交わしたりしていてもおかしくない。
もしかしたらアニは、自ら海に飛び込んだのかもしれないな。それを確かめるすべは、もうないけれど。
「あ! こんなところにいた。ぴーちゃんが呼んでるよ? ご飯だって」
空気を一変させたヒカル兄は、どこかで手合わせでもしてきたのか大きな剣を肩に担いで笑った。その後ろで苦い顔をするタツ兄は、きっとこの状況をなんとなく分かっている。直前までヒカル兄のことを止めていたに違いない。
「ああ。今日はモモがご飯を作ってるんだね。今行くよ」
「私もすぐに行きますね」
長兄とツバサさんが連れ立って部屋を出ていく。取り残された私とアニは、気まずい気持ちで互いの顔を見合わせた。元々持ち合わせていない信頼を失った視線が、私のことを射抜いた。
「ヒメのその飾り、綺麗だね」
「……へ?」
突拍子もない言葉が聞こえて顔を上げた。アニは落ち着かないのか、手のやり場がないのか、私の耳飾りに手を伸ばして揺らした。耳たぶが引っ張られる感覚がくすぐったくて身を捩る。いつからつけているのか分からないこの飾り、一体何なんだろう。
「金属じゃないよね。潮風に吹かれても傷んでないし。じゃあ石かな。でも真っ黒なんだ? ヒメにはもっと、明るい色も似合いそうだけど」
次々に飛び出してくる言葉の先に、焦りが見えた。この気まずい沈黙に耐えられなかったのかも。自分が誰かと重ねられてたってこと、アニは分かってる? 私は、アニを裏切ってたんだよ。
「あの、アニ」
「なあに?」
「もっと、いろんな色の飾りがあるの?」
「ある、あるよ。屋敷の向こうに小さい商店街があるんだ。装飾の店もあったはずだから一緒に行こう。……そうだ、あの店がいいね。今から早速」
「ちょ、ちょっと、ご飯は?」
「……そっか。そうだね? あ、僕仕事も残してるんだった! うぅ、リュウジに怒られちゃうなあ」
「あわてんぼだ」
「ヒメもでしょ。籠は編めるようになったの?」
交わす言葉はいつもと代わらないのに、空気が違う。言葉を口から吐いたときの感触が違う。返ってくる反応が違う。
どうして、いつもと違うの。
ブライド・オブ・ガンダーラパイレーツ
◇
純白の花嫁
◇
優しさ
◇
ブライド・オブ・ガンダーラパイレーツ
◇
ケント兄の受難
*
◇ 純白の花嫁(ブライド)
船に揺られて、西へ東へ。
それが、私たち海賊の生き方。
時々船を降りることはあっても、最後には海と船と運命を共にする、そんな人生。
「つかまえたっ」
「……む」
「もう! 誰に似て逃げ足速いの!? アカネちん!?」
「えっ、僕?」
私を羽交い締めにしたユウタ兄にひょいと担ぎ上げられて、私は船の中心――つまりは船室に戻っていく。つまらない計算の勉強の最中、ユウタ兄が少しうたた寝をしている間に飛び出した次第である。
『ガンダーラ』と呼ばれるこの船は、他の海賊たちとはひと味もふた味も違っていた。略奪をしない、殺生をしない。人助けによって生計を立て、商売によってものを世界中に広げていく。そんな海賊だ。……それは最早ただの商人なのではないかと思うかもしれないが、兄たちが海賊だと名乗っているのだ。
海の王者と評される船長、長兄のトモヒサ兄を筆頭に、他十人の兄と末の私。出自も血筋も違えども“兄弟”として暮らすこの船に来てから、夏と秋の二つの季節が過ぎようとしていた。主に私の世話役のアニことアカネ兄、そして教育係であるユウタ兄とカズナ兄との攻防も、半年を迎えようとしていた。
「ヒメちゃん、戻るよ」
「……つまらないんだもの」
「大丈夫、ケンケンの自慢話の方がつまんないよ!」
「ちょっとユウタ」
空の色をした髪を手で押さえながら甲板を掃除する副長のケント兄は、ユウタ兄の言葉に目くじらを立てた。ユウタ兄曰くケント兄は元々町で有名な美男で、多くの女性と関係を持ったのだという。今でもどこかの港に着くとかつての友人(と兄は言い張っている)である女性が帰りを待っていることがあるのだそうだ。
二人のやりとりを見て、眼帯をした無口なゴウシ兄は砲のことを布で磨きながら「街(シティ)じゃなくて町(タウン)だろ」と鼻で笑った。「何が違うの」と尋ねてみたところ、ゴウシ兄曰く、都会なのは街なのだという。
「あーあ。この寒さじゃ、今年の冬もどこかの港で冬越しだね」
「別によくない? 船にいると寒いし」
「どこかの港に入るってことだろ。どこに誰がいるか分かったもんじゃないよ」
「言っとけ」
「あぁ。好きにするよ」
この三人は栄光を名乗る三人だ。その名の通り、高い戦闘力を誇り、高い志を掲げ、そして低い沸点が玉に瑕の仲良しだ。……低い沸点の下りは、リュウジ兄が言ったことなので、見逃してほしい。
「また逃げたの? 懲りないね」
「もー、リュウちゃん聞いてよ。ケンケンとごうちんてばまた喧嘩して」
「いつものことでしょ」
ユウタ兄の言葉をバッサリと切り捨てるのは、髪の一部が紅に染まったリュウジ兄、長兄に向かって平然と毒を吐く右腕、主計長だ。船の財布を預かるこの兄は、読み書き、計算、政治に関してまで詳しく、船の方向性を決める重要な役割を持っている。元々リュウジ兄は貴族の出で、見たこともないような大きなお屋敷で何不自由ない暮らしをしていたそうだ。何故この船に乗っているか、それは私の知る由もないけれども。
リュウジ兄は、ユウタ兄に担がれている私を見て「オマエも懲りないね」と苦笑いした。「もうちょっとしっかりしなよ」とも。
前の船でも私は末で、大勢の兄や姉たちに囲まれて暮らしてきた。年功序列の強かったあの船は食事も寝るのも何もかもが年の順で、ほとんど何も食べられない日や、徹夜になる日も少なくなかった。いまはそんなことはないけれど、やっぱり末じゃなくなるというのは、変な気分。
「数日で港につくからね。荷物まとめておきなよ」
それだけ、とひらりと手を振ってリュウジ兄は船内に戻っていく。口に加えた甘味は、前の港で手に入れた兄のお気に入りだ。
「もう港につくのか……はぁ」
「やったー! ぬくぬくで冬越しが出来るね!」
「……くだらねェ」
兄に担がれて私は船内に戻る。他の兄たちも次々と船内に戻ってきて、荷物の整理を始めている。私は机の前に座らされ「これの続きねっ」と放り出された。……分からないから逃げ出したのに、いまのやりとりの中で分かるようになったわけでもなく。私は何度計算しても同じになる答えに頭をひねりながら、石板の文字をごしごしと消した。
その日、カズナ兄が私の様子を見に来る夕刻まで、計算は終わらなかった。
翌々日の明朝、船はゆっくりと港に停まり、私はおよそ季節一つ分ぶりに陸に降りた。厳密に言えば港にはいくつか寄っていたのだが、私が船を降りる用事がなかったのである。男所帯の状態が長く続いたこの船は良くも悪くも目立つ。私は大抵眼帯のゴウシ兄と一緒に、補給に行くみんなを見送った後、甲板で一緒にいるようないないような、そんな微妙な距離感で見飽きた海をぼんやりと眺めていたのだ。
この地域は、冬が少し厳しいのだそうだ。古い地図を見せられて「俺たちがいるのはこの辺」とカズナ兄が指さしたのは入り組んだ陸の間。地図の上下は寒く、真ん中は暖かいのだ。海が凍るとまではいかないが、大人数で船で移動するには不向きな季節で、毎年冬になると見知った港を頼って陸で冬越しをするのだという。その間、兄たちは新しい商品の情報を集めたり、日用品を買い足したりして静かに過ごす。今年は私もリュウジ兄に倣って冬の手仕事をすることになっている。
「ここは久しぶりだね」
「そうだな。結婚式以来か」
「あー。ヒカルが飲み過ぎて大変なことになったやつな」
「ちょっと! 何でその話が出てくるの!」
「印象に残りすぎてるんですよ」
結婚式?
耳馴染みのない言葉に首を傾げると、青い瞳を片方眼帯で隠したカズナ兄は、私の頭に大きな手をぽん、と置くと「気をつけて」と微笑んだ。先を行くヒカル兄とタツ兄が笑う。
月の名を冠したこの五人は、まるで物語に出てくる魔法使いのようだった。眠れない夜は厨房に行って、明日の料理の仕込みをしているモモ兄にお話をねだる。石に囲まれた鍋をかけている火に当たりながら二色の瞳を持つモモ兄がしてくれるお話は、決まって月の踊り子たちの物語で、消えそうになるところを魔法使いが現れて助けてくれる。きっとこの五人も魔法使いなのだ、と私は思った。「リーダー」と呼ばれているカズナ兄、船の調理場を守るモモ兄、航海士見習いのヒカル兄、その師であり船の舵を預かるタツ兄、そして医務官のミカ兄。困っているところに音もなく現れて、いとも簡単に物事を解決してしまう。
「けっこんしきって?」
モモ兄に手を引かれて歩き出しながら尋ねると、兄は二色の瞳をふと細めた。まるで懐かしいものを思い出すかのように。
「お前が来る前、うちには姉がいたんだ」
「うん。今は結婚して船を降りたんだけど、今からそこに泊まりに行くんだよ。数年に一回はここの港に来るんだ」
「ふうん」
「……あんまり興味なさそうだな」
「びっくりしたのかも。ツバサちゃんのことは、誰も教えてなかったんだね?」
「まあ、普段船で生活する分には、知らなくてもいいことですからね」
「でも、せっかくの女の子同士だ。仲良くするんだよ、俺たちの可愛いヒメ」
カズナ兄はしばしば私のことを『俺たちの可愛いヒメ』と呼んだ。なんだかとてもくすぐったい。私がカズナ兄のことを見上げて頷いた瞬間、石畳に躓いて転んだ。慣れた手つきで私のこと受け止めるモモ兄を見て、眼鏡をしたミカド兄が「領主様みたいですね」と笑う。
*
たどり着いたのは、立派な建物だった。吹く風に、植物の香りが混ざっている。屋敷の回りをぐるりと大きな庭が囲っている。船から見た三角屋根が見えないほど高い。
姉だというその人は、貴族さまのところに嫁に行ったのだろうか。
「皆さん!」
「今年はお世話になるよ、ツバサ」
「お世話になりまーっす!」
「ユウタ、ちゃんと挨拶しなよ」
見知った顔ぶれなのか、建物から出てきた茶髪の女性は長兄の言葉に顔をほころばせた。兄たちの背中に隠れていた私の姿を見つけると、またも嬉しそうに声を上げる。
「この子が手紙で言っていた子ですか?」
「あぁ、半年前からね」
名前を呼ばれて、私はおずおずと前に出る。ウマの尻尾のように束ねられた茶毛が揺れた。
「よろしくお願いしますね、私はツバサ」
「お願い、します」
何度も反芻した挨拶の言葉を口に出すと、彼女は私の手を取り、「さあ、皆さん」と中へ入るように促した。慣れない手の柔らかさに戸惑う私は、助けを求めようと兄たちの顔を見上げた。
「よかったね、ヒメ」
「ツバサ、余ってる本とかない? ヒメが読むと思うんだけど」
「どうでしょう? 探してみますね」
私の知らないところで交わされていく会話が不安で、一歩後ずさる。ゴウシ兄にぶつかり、「何やってんだ」と怪訝そうな顔をされた。
「ツバサちゃん、ヒメが緊張してるみたい」
「ごめんなさい、驚かせちゃいましたね?」
「ううん。ほらヒメ」
私に助け船を出したのはアニだった。アニの後ろに逃げると「ごめんね、ツバサちゃん。人見知りなんだ」と、頭上からアニの声がした。
「お部屋を用意してあります、いつも通りですよ」
「ありがとう、ツバサさん」
「ツバサさん、ご飯はいつですか?」
「すぐ用意が出来ますよ」
「やった!」
アニは私の手を引いて「行こう」とこの屋敷を見知ったように歩いて行く。私がツバサさんと同じ部屋だと知ったのはその直後のことで、慣れないふかふかの布団に顔を埋めているうちに、眠りへと落ちて行ってしまった。
目覚めたときには、真夜中だった。がばりと起き上がった私にツバサさんは「起きましたか?」と優しく声をかける。思いの外熟睡していたみたいだ。
「お腹空いていませんか」
こういうとき、なんて言うんだっけ。拙い言葉で礼を口にすると、ツバサさんはまたふわりと笑った。
「きちんとお礼が言えるんですね、偉いです」
パンとスープを持ってきてくれたツバサさんは、自分がいた頃の船のことを少しずつ話してくれた。アニたちが船に来たときのこと、自分が船を降りることになったときのこと。あの頃から船はひとつも変わっていないこと、今でもあの頃が支えになっていること。この人は随分と長い間船にいたみたいだ。船のことを、何でも知っている。
「あの」
「ん?」
「けっこんしきって、何?」
唐突な言葉が口から出たにも関わらず、ツバサさんは微笑みながら引き出しの中から一枚の写真を撮りだした。真っ黒なドレスに身を包んだツバサさんが映っていた。
「これが、けっこんしき?」
「うん。大事な人と、ずっと一緒にいるって約束するんです」
「アニたちも、結婚式するのかな。大きくなったら?」
「そうですね、するかも」
「ふうん」
「もしかしたら貴女も」
「私も?」
結婚して船を降りる。船に乗っていない自分が想像出来なくて、私は首を傾げた。
生まれたときから船に乗っているのに、想像出来るわけもなかった。
*
朝日が昇る頃、屋敷の中をどたばた動き回る兄たちの音で目覚めた。ふかふかの布団が慣れなくて、結局いつものように隅に蹲って眠った。今日はリュウジ兄と手仕事を始める日だ。一度は目覚めたものの再びぼうっとしていると、部屋の扉が勢いよく開き、そして閉じた。息を切らして飛び込んできたユウタ兄は、私の姿を見るなり飛び上がった。
「わあっ! ヒメちゃん!」
「おはよ、ユウタ兄」
「ちょっと静かにしててね、いまアカネちんたちとかくれんぼしてるんだ」
「アニがおに?」
「そういうこと」
「一緒に隠れる?」
「そう! さすがだねぇ」
兄たち曰く、私はあまり嘘が得意ではないらしい。隠し場所に私がいると顔を見て分かると、兄たちはよく笑う。ユウタ兄とベッドの下に潜り込んで、私はわくわくしながらアニが来るのを待っていた。なかなか現れないアニを待つことも飽きた頃、私はうとうとと首を揺らしはじめ、ユウタ兄に体を預けて再び寝息を立てていた。
「ツバサちゃん! ユウタ見なかった?」
アニの声がして、私はもぞりと起き上がった。ベッドの板に頭をぶつけて蹲る。せっかく勝負のことを気にして私が声を抑えているのに、ユウタ兄はお腹を抱えて笑い出した。耐えきれずに漏れた笑い声が思いの外大きい。
「待って、今ユウタの声しなかった?」
「そこはヒメとツバサの部屋だよ」
「ヒメと隠れてるのかな……。ツバサちゃん! ちょっと入ってもいい?」
「えぇ」
アニの足音が近づいてくる。私とユウタ兄は息を潜めた。アニの足が目の前に来て、アニがそっと布団を捲る音がする。
「まだあったかい。でも、ナイフがここにある」
あっ。私は声を上げそうになってまた頭を打った。私がナイフを肌身離さず持っていることを知っているアニを誤魔化せるわけがなく、その数秒後にはアニのにっとした笑顔がベッドの下を覗き込んだ。
「こんなところにいた」
「アニ!」
「ユウタは? 一緒でしょ?」
「うん。……あれ?」
ユウタ兄の姿はすっかり消えていて、代わりに長兄とツバサさんのくすくす笑う声が私の耳元を揺らす。
「ユウタならもう出て行ったよ。アカネ、してやられたね」
「ええっ! そんな!」
アニは気にしていないのか、私をベッドの下から引っ張り出して埃を払うと「よく眠れた?」と笑う。
「ユウタ兄、どこいったんだろうね」
「うーん。庭かなあ」
「じゃあ行こ」
「分かった、分かったから先に身支度しよう。ね?」
アニに宥められた私がむっとした顔で部屋に戻ると、またもツバサさんがくすくすと笑う。アニと揃って首を傾げると、ツバサさんは上品に口元に手を当てて
「ユウタくんはユウタ兄なのに、アカネくんのことはアニなんですね?」
「そうなんだよー。最初はみんなそうなのかと思ってたらモモタローのことをモモ兄って呼んでて僕びっくりしたんだよ」
「モモ兄は、モモ兄。アニは、アニ」
ふふん、とアニの自慢をして笑う私は、長兄が難しい顔をしていることに気づいてそっとアニの服を掴んだ。長兄はいつも難しいことを考えている。船の奥にある「兄の部屋」には、たくさんの書物があるのだ。私が表情を硬くしたのを知ってか知らずか、長兄は私と目線を合わせるように腰をかがめた。
「ヒメの言うアニは、本当にアカネのこと?」
なんで、そのこと。
何で長兄がそのことを知っているのか。混乱した私は一目散にその場を駆け出した。名前を呼ぶアニやツバサさんの声を振り切って、大きな屋敷の中を闇雲に走った。
私の中にいる、二人のアニ。
二人が二人ともアニで、兄なのだ。
「トモ、何を言ってるの?」
アニが戸惑ったように私と長兄の顔を交互に見る。でも、長兄がそのことを知っているのも無理もないはずだ。襲撃する前にハイエッジの船のことは調べつくされていたに違いないし、交渉のために会話を交わしたりしていてもおかしくない。
もしかしたらアニは、自ら海に飛び込んだのかもしれないな。それを確かめるすべは、もうないけれど。
「あ! こんなところにいた。ぴーちゃんが呼んでるよ? ご飯だって」
空気を一変させたヒカル兄は、どこかで手合わせでもしてきたのか大きな剣を肩に担いで笑った。その後ろで苦い顔をするタツ兄は、きっとこの状況をなんとなく分かっている。直前までヒカル兄のことを止めていたに違いない。
「ああ。今日はモモがご飯を作ってるんだね。今行くよ」
「私もすぐに行きますね」
長兄とツバサさんが連れ立って部屋を出ていく。取り残された私とアニは、気まずい気持ちで互いの顔を見合わせた。元々持ち合わせていない信頼を失った視線が、私のことを射抜いた。
「ヒメのその飾り、綺麗だね」
「……へ?」
突拍子もない言葉が聞こえて顔を上げた。アニは落ち着かないのか、手のやり場がないのか、私の耳飾りに手を伸ばして揺らした。耳たぶが引っ張られる感覚がくすぐったくて身を捩る。いつからつけているのか分からないこの飾り、一体何なんだろう。
「金属じゃないよね。潮風に吹かれても傷んでないし。じゃあ石かな。でも真っ黒なんだ? ヒメにはもっと、明るい色も似合いそうだけど」
次々に飛び出してくる言葉の先に、焦りが見えた。この気まずい沈黙に耐えられなかったのかも。自分が誰かと重ねられてたってこと、アニは分かってる? 私は、アニを裏切ってたんだよ。
「あの、アニ」
「なあに?」
「もっと、いろんな色の飾りがあるの?」
「ある、あるよ。屋敷の向こうに小さい商店街があるんだ。装飾の店もあったはずだから一緒に行こう。……そうだ、あの店がいいね。今から早速」
「ちょ、ちょっと、ご飯は?」
「……そっか。そうだね? あ、僕仕事も残してるんだった! うぅ、リュウジに怒られちゃうなあ」
「あわてんぼだ」
「ヒメもでしょ。籠は編めるようになったの?」
交わす言葉はいつもと代わらないのに、空気が違う。言葉を口から吐いたときの感触が違う。返ってくる反応が違う。
どうして、いつもと違うの。
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