第一話 ファミリー・オブ・ガンダーラパイレーツ
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◇
月が昇る
太陽が空に昇らないうちに起きだした。兄たちが錨を下す準備をする間、私はそれぞれのベッドを回り、布団を回収する。港に降りたら、これも清水で洗うのだそうだ。
「降ろせ!」
大きな声にびくりと肩が跳ねる。褐色の肌を持つ兄の声だ。同時に船が大きく揺れた。片足の重心を残したまま地面が前方に揺れ、私は布団を抱えたまま後ろにひっくり返った。抱えた布団が私を覆うように広がった。足を取られて動けずにいると、シーツがひとりでに動き出し、明るい声が聞こえた。
「ヒメ、僕だよ。びっくりしたよね?」
まぶしいほどの夕焼け色と、顔中に広がる笑顔が宥めるように私の体を揺らした。彼は布団を私から取り上げると、「おいで」と言って階段を上っていく。陽の光が眩しい。この船に乗っている人数より多くの声が聞こえる。何かを売る声、私たちと同じように船の錨を降ろす掛け声。船には乗っていない音に首を傾げる。そんな私の姿を見て、夕焼け色の瞳が面白いものを見るときみたいに輝いた。
「見て。港だ」
*
「あの塔に月がかかったら出航だ。各自それまでに戻るように」
それと喧嘩もしないようにと私たちを集めた長兄が、優しい瞳で私たちをぐるりと見渡した。そんなことしないよ、と笑い声が漏れる。最後方にいる私には長兄の顔が見えない。でもそれでいい。
「それじゃあ、行こうか」
「行ってきまーす!」
長兄の言葉が終わるやいなや、桃色の髪の兄が空色の髪の兄を連れて騒がしく出て行
くのが見えた。名前は確か、ユウタとケント。空色の兄が前髪を気にしながらも仕方ないという風についていく。きょろきょろと回りと見渡しては、何かを探しているようだ。
「僕たちも行きましょうか」
「あぁ」
「久しぶりだなー!」
「おい、あまりはしゃぐと転ぶぞ」
五人の兄たちも、連れだって出て行った。あの五人は仲がいい。長兄が「あの五人は月だ」と言っているのを耳にした。トラブルが起きても音もなく現れて、いつの間にか片がついている。「リーダー」と呼ばれる青い瞳の兄の耳に、耳飾りが光った。
「ヒメ、一緒に来る?」
後ろを振り返った兄が、私に向かって大きな手を差し出した。青い瞳は眼帯に隠れてひとつしか見えないけれど、その瞳が優しい。
「アカネは、リュウジとトモヒサと一緒に補給に行くんだ。ゴウシは船に残るって言うし、ひとりになっちゃう」
差し出された手に触れてもいいものか、一瞬迷った。指先で少し触れてみると、そのまま手を掴まれて一緒に甲板を降りた。揺れない地面が不思議だった。
何をするでもなくただ町を闊歩する五人の兄たちは、常に笑っていた。時々私の方に目を向け、次はどんな港に行きたいか、弟妹は欲しくないか、いろいろ話しかけた。青い瞳の兄に握られた手が汗ばんで、何度も手をほどこうとしたけれど、一度も叶わなかった。
「ヒメ」
青い瞳の兄が、私の手をぐいと引いた。「兄ちゃん、ありがとな!」という声と共に荷台が私たちの横を通っていく。「危ないからヒメはこっちね」と反対側の手を握られて、何だか溜息をつきたくなった。……逃げる算段なんて、ないのに。
「あんまりアカネを困らせちゃだめだぞ」
途中で立ち寄った商店で買った飲み物を私に手渡しながら、二色の瞳を持つ兄は微笑んだ。低い声に身構えたが、怒ってはいないみたいだ。
「アカネは、お前のことを凄く可愛がっているから」
「えぇ、お兄ちゃんになったのがよっぽど嬉しいんですね」
眼鏡をした茶髪の兄が私の頭の上にぽんと手を置いた。背の高いこの眼鏡の向こう、翡翠の瞳が嬉しそうに細くなる。
「小さな子は久しぶりですね」
「そんなに小さくないだろ」
「そうですか?」
「あぁ」
褐色の肌の兄は私のことをしげしげと眺めた。大きいけれど、怖くはない。腰にすらりと下がる二本の刀が音を立てる。私が見たことのある剣とは違う。刃の先がどこまでも細くて、持ち手付近に綺麗な飾りがついている。
「アカネちん、君のことを家族にしたいって言ってたから」
緑の長髪の兄は私の顔を笑いながら覗き込んで、「これもうひとつ買ってくる!」と店の奥に向かっていった。
まただ、家族。どうしてこの船は、この言葉をよく使うんだ。私に家族はいない、兄や姉はいても、家族なんて。
「妹だから、余計に可愛いのかも知れないね」
「そうかも! 女の子が船にいるのは久しぶりだし!」
長髪の兄が私にまた包みを差し出した。思わず受け取ると、にかと笑う。拙い口調で礼を言うと、
「もー、だめだめ! ちゃんとお兄ちゃんって呼んでもらわなきゃ!」
「お前、俺のことそんな風に呼んだことないだろ」
「いーじゃんタツはタツだし! ほら呼んでみて、ヒカルお兄ちゃんって!」
「ずるいですよ僕だってミカドお兄ちゃんって呼んでください! ねぇモモタス?」
「俺は別に何でもいい」
「まあまあ落ち着いて。ヒメは、俺たちの可愛い妹だからね」
青い瞳の兄は、時折「俺たちの可愛いヒメ」と私のことを呼んだ。眼帯で片目が隠れているのに、私の居場所をいつも知っている。リーダー、と呼ばれて、月の兄たちに慕われている。
風が一筋吹いて、私の耳飾りがくるくると回り出した。何かに気づいたように青い瞳の兄が後ろを振り返る。同時に眼鏡の兄の腕が私の腰に回って、ぎゅうと抱き寄せる。驚いて兄の顔を見上げると、翡翠の目を細めた兄の手が後頭部に回った。ぎゅうと押さえられて、周りが見えなくなる。「いい子で」という言葉を添えて。
「お前ら、ガンダーラとかいう一味の奴らか」
近づいてきたのは、知らない声だった。誰だろう、兄たちの知り合いだろうか。
「俺たちも随分有名になったね?」
「あぁ」
「確かに周りとは少しテイストが違いますからね」
「まあね、弱いもののために戦う海賊だし!」
「自分で言うのかよ」
兄たちの声色は変わらない。さっきまでと全く同じ声色で話している。
緊張で硬くなる体を叱る。船に来た日に与えられ、肌身離さず持っている腰に下げられたあのナイフに触れた。本当はいつも使っていたものがいいけれど、大丈夫だ。ここにあれば、私は戦える。
「お前らの船はついに子どもまで拾うようになったのか。それに、女か」
「女なのは関係ないだろ」
「女は弱い。船に女など邪魔なだけだ」
背筋が冷える感覚が分かった。押さえつけられていた手が外れて、兄たちが履いているものと違う靴が見えた。
このあと、どうするつもりなんだろうか。
「逃げますよ」
小声で呟かれて、こくりと頷く。頷いてからあれ、と思い直す。
私、何で今頷いたんだろう。
ガンダーラの船はアニたちの敵で、私はいわば人質のようなものなのに。つい昨日までここから逃げだそうだなんて考えていたのに。
兄たちはきっと疑っていない。私が自分たちと一緒に来ると。私が、彼らの家族だと。
青い瞳の兄の言葉が、戦いの火蓋を切って落とす。
「家族の侮辱は、許さないよ」
皿が割れる大きな音がして、私は手を引かれて走り出した。きっと広いところに出るんだ。必死に足を動かして兄たちに食らいつく。
「ヒメ、やるじゃねえか!」
「もう少しだ、頑張れ!」
噴水のある大きな広場に出て、兄たちは足を止めた。私もナイフを取り出す。体が覚えている。やり方を知っている。
だって私は、生まれたときから海賊なんだ!
「おい、女がいるぞ!」
飛びかかってきた少年に向かって大きくナイフを振りかぶりスレスレにひと振り。体が低くなると同時に鳩尾を柄で突く。小柄な体も、こんなときばっかりは役に立つ。これで大抵のことはなんとかしてきた。ひと思いに殺してしまえといつも怒られたが、どうしても出来なかった。敵だとしても、例え仲間を傷つけられたとしても。
「へへ、いい女じゃねえか」
「オマエら、女拾って何するつもりだったんだ?」
「……ヒメ!」
大きく名前を呼ばれて振り返ると、眼帯の兄が私のことを掴んで引き寄せた。一瞬前にいたところにナイフが落ちる。
前なら絶対こんなミスしなかったのに。私は呆然としながら兄の顔を見つめた。戦えなくなっている。そんなことって。
「そんなことしなくていい、ここは俺たちに任せて」
「でも」
「頼む、アカネたちのところに行ってみんなを集めて欲しい。俺たち五人じゃきっと長くは保たない。さっきひとり駆け出していったから、応援を呼んだはずだ」
「……わたし、が」
「出来るね、俺たちの可愛いヒメ?」
「さあ早く!」
私は必死で、見覚えのある景色を走り出した。視界の端で、二色の瞳を持つ兄がひらりと飛ぶのが見えた。何て身軽なんだろう。その美しさに思わず走る足を緩めそうになる。変わらない表情の中、二色の瞳が私のことを捉え、口角が少しだけ上がった。
先ほど兄たちは何をするでもなくただ町を闊歩していたわけではなかったと思い知らされる。きっとこの狭い町を隅々まで周り、とにかくうっすらとでも土地勘をつけていたのだ。先ほどまでいた商店、荷台とすれ違った通り、二色の瞳の兄が立ち止まった怪しげな店。記憶をたどりながら、あの時間がとても楽しかったことに気がついた。いい子だと頭を撫でられ、大事だと言葉に出して伝えられる、そんな時間が。
この船にいるのが苦しいんじゃない、私は、自分が何もないと気づきたくなかっただけなんだ。生まれ育ったあの船を悪だと思えなくて、この船の環境になじめなくて。
あの船は、悪い海賊船だったのか。
ずっと考えていた疑問が外に出てくる。先を行く船を沈め、物資を奪った。それが自分の仕事だと信じて疑ったことなんてなかった。
本当は海賊だって、こんな風に温かくいることが出来るんだろうか。
あの船だって、こんなに温かかったことがあるんだろうか。
この船がどこに行くのか、知りたいと思った、私が見てきた海賊と何が違うのか、見たいと思った。
そのためには、まず兄たちを救わなくてはいけないんだ。
船が見えてくる頃には心臓が痛かった。両手に大きな紙袋を抱えた桃色の兄と空色の兄が船に戻っていくのが見え、足音に気づいた桃色の兄が表情を変えた。何と呼びかけようか迷う私に、状況を察した空色の兄が船の中に駆け込んでいく。きっと中にいるもうひとりの兄を呼びに行ったのだ。私に向かって銃を突きつけた、三白眼で目つきの悪い、海を誰より愛する兄を。
「ヒメちゃん、どうしたの!」
勢い余って体当たりする私を、兄は軽々と受け止め、背中を撫でた。あぁ、息が上がる。この船に来てから、いかに平和な日々だったかも思い知らされる。頻繁に戦いのあった前の船と比べ、この船は略奪をしない。迷子を拾い送り届けた、猫の里親を探した、立ち寄った港の子どもたちに剣を教えた、そんなことばかりだ。こんなに優しい船なのに、家族のことになると、とても怒る。
「兄たちが」
「トラブル? 他の船?」
「にいたちは、悪くないの。私が」
私のせいなの、と言う前に喉の奥から咳が出た。背中を擦ってくれる兄は誰だろう。ねぇ、どうして私に優しくするの。家族って何なの、ねぇ、教えてよ。
「分かった、ヒメ、分かったよ。だから一緒に来てくれる?」
空色の兄が私を軽く抱きしめた。ばくばくと音を立てる心臓の音が兄に伝わったのだろうか。「頑張ったんだね」と優しい言葉が飛んだ。
「行くぞ」
三白眼の兄は二挺の銃を腰に下げ、歩き出した。頭上を大きな鳥が飛んでいた。兄が腕を差し出すと大きな羽をはためかせて降りてくる。黒い羽を持った鳥に向かって何度か頷いた兄は「噴水か」と私に問うた。何故それを? と私が思う間もなく鳥がまた飛び立っていく。あの子が、教えてくれたのだろうか。
「アイツらがいるなら大丈夫な気がするが……お前、この道をまっすぐ行け。マロ眉たちがいる」
まろ、まゆ。何のことだか分からずに瞬きを繰り返す私に、空色の兄が「リュウジのこと」と耳打ちした。『アカネは、リュウジとトモヒサと一緒に補給に行くんだ』という青い瞳の兄の言葉が思い返された。髪の一房が紅に染まったあの兄のところに行くなら、長兄も一緒にいるということだ。長兄に事態を知らせる、それが話の本質だと言うことに気づいて私は大きく頷いた。
「あーあ。せっかくヒメに俺のカッコいいところ見せようと思ってたのに」
「だめだめ、こんなちっちゃい子を戦闘になんか連れて行けないよ!」
「……うるせェ。行くぞ」
この三人は、栄光の名を名乗っているという。こちらをちらりと振り返り、「大丈夫か」と一言。こくん、と頷くと声を出さずに息だけで笑う。この兄ですら、私のことを受け入れているのか。……もしかして私は、盛大な勘違いをしていたんじゃないか。私のことを受け入れてくれないと思っていたのは私だけで、実はみんなとっくの昔に私の生い立ちなんか、気にしていないんじゃないか。私は石畳の道を走り出しながら、こっそり涙を流した。どうして泣いているのかは、分からなかった。
*
「ヒメ!」
立派な建物の前、そわそわした様子の夕焼け色は、膝をついて私の体を受け止めた。心臓が血を流す音が聞こえる。自分のものと、兄のもの。二つの音が同時に聞こえるこの感覚が嫌じゃない。「怪我は?」「ここまでひとりで来たの?」……繰り返される質問が、少しだけ煩わしい。
「あの、兄たちが」
「怪我してない?」
「アカネ、その辺にしときなよ」
「う……ごめん」
呆れたような顔をした紅の兄が、甘味を咥えて腕を組んだ。その様子を見た長兄が、口角を上げる。その肩に、三白眼の兄が連れていたのとは違う真っ白な鳥がいることに気づいて思わず口を噤む。
「アカネが船にきたときのリュウジも、こんな感じだったけどね」
「ちょっとトモ!」
この二人の兄は、落ち着きがありすぎるのではなかろうか。眼帯の兄があの大きな鳥を飛ばし、仲間のピンチだと伝えたはずだ。何の心配もないとでも言いたげに計算機を弾き、何かを計算している。
「リュウジ、ヒメの文字の練習はどんな感じ? ヒメもそろそろ計算を始めないとね」
「文字の上達は早かったよ。基礎文字はちゃんと書けるし、知らない単語がたくさんあることが気になるくらい」
「そうか。本当はもう少し本を買ってあげたいところだけど……本は高価だからね」
髪の一部が紅に染まった兄は、アカネと同じ時期に船に来たのだという。身なりを綺麗にしていて、時折私の字の練習を何も言わずに見ている。
「新しいナイフの使い心地はどう?」
私から視線を逸らしたまま問いかけられた言葉に、ナイフを使ったことまで見抜かれていることを悟る。この長兄は、どれほど私のことを分かっているんだろうか。私はナイフを取りだし、軽く振る。いままで使っていたものとは、やっぱり違うみたいだ。手に馴染まない。
「少し、軽い。刃渡りはもう少し欲しい」
「そうか、やっぱり前のものがいいね。リュウジ、さっきの店に行って急ぐように伝えて。明日には船を出そう」
「いーけど、トモは?」
「そろそろ片がつく頃だからね、そっちに向かうよ。アカネは一緒に来て」
「うん!」
「はーい」
兄たちがそれぞれの方向に颯爽と動き出す。片がつくって、もしかして彼らのことだろうか。だって、三人の兄だって到着したかどうか分からないのに。
アカネ兄が私の手を取る。長兄は不意に私の顔を見て微笑んだ。びっくりした私をよそに、髪と同じ色をした夕焼け色の瞳が輝いた。
「一緒に行こう、ヒメ!」
「え?」
長兄のマントが海風に煽られてばさばさと音を立てた。重そうなマントを羽織って、彼は軽々と足を運ぶ。いつも船では奥の部屋で紙を広げているだけの彼のどこに、こんな力があるのだろう。どうして彼は、船になんて乗っているのだろう。
「俺たちの家族を迎えに行こう!」
月が昇る
太陽が空に昇らないうちに起きだした。兄たちが錨を下す準備をする間、私はそれぞれのベッドを回り、布団を回収する。港に降りたら、これも清水で洗うのだそうだ。
「降ろせ!」
大きな声にびくりと肩が跳ねる。褐色の肌を持つ兄の声だ。同時に船が大きく揺れた。片足の重心を残したまま地面が前方に揺れ、私は布団を抱えたまま後ろにひっくり返った。抱えた布団が私を覆うように広がった。足を取られて動けずにいると、シーツがひとりでに動き出し、明るい声が聞こえた。
「ヒメ、僕だよ。びっくりしたよね?」
まぶしいほどの夕焼け色と、顔中に広がる笑顔が宥めるように私の体を揺らした。彼は布団を私から取り上げると、「おいで」と言って階段を上っていく。陽の光が眩しい。この船に乗っている人数より多くの声が聞こえる。何かを売る声、私たちと同じように船の錨を降ろす掛け声。船には乗っていない音に首を傾げる。そんな私の姿を見て、夕焼け色の瞳が面白いものを見るときみたいに輝いた。
「見て。港だ」
*
「あの塔に月がかかったら出航だ。各自それまでに戻るように」
それと喧嘩もしないようにと私たちを集めた長兄が、優しい瞳で私たちをぐるりと見渡した。そんなことしないよ、と笑い声が漏れる。最後方にいる私には長兄の顔が見えない。でもそれでいい。
「それじゃあ、行こうか」
「行ってきまーす!」
長兄の言葉が終わるやいなや、桃色の髪の兄が空色の髪の兄を連れて騒がしく出て行
くのが見えた。名前は確か、ユウタとケント。空色の兄が前髪を気にしながらも仕方ないという風についていく。きょろきょろと回りと見渡しては、何かを探しているようだ。
「僕たちも行きましょうか」
「あぁ」
「久しぶりだなー!」
「おい、あまりはしゃぐと転ぶぞ」
五人の兄たちも、連れだって出て行った。あの五人は仲がいい。長兄が「あの五人は月だ」と言っているのを耳にした。トラブルが起きても音もなく現れて、いつの間にか片がついている。「リーダー」と呼ばれる青い瞳の兄の耳に、耳飾りが光った。
「ヒメ、一緒に来る?」
後ろを振り返った兄が、私に向かって大きな手を差し出した。青い瞳は眼帯に隠れてひとつしか見えないけれど、その瞳が優しい。
「アカネは、リュウジとトモヒサと一緒に補給に行くんだ。ゴウシは船に残るって言うし、ひとりになっちゃう」
差し出された手に触れてもいいものか、一瞬迷った。指先で少し触れてみると、そのまま手を掴まれて一緒に甲板を降りた。揺れない地面が不思議だった。
何をするでもなくただ町を闊歩する五人の兄たちは、常に笑っていた。時々私の方に目を向け、次はどんな港に行きたいか、弟妹は欲しくないか、いろいろ話しかけた。青い瞳の兄に握られた手が汗ばんで、何度も手をほどこうとしたけれど、一度も叶わなかった。
「ヒメ」
青い瞳の兄が、私の手をぐいと引いた。「兄ちゃん、ありがとな!」という声と共に荷台が私たちの横を通っていく。「危ないからヒメはこっちね」と反対側の手を握られて、何だか溜息をつきたくなった。……逃げる算段なんて、ないのに。
「あんまりアカネを困らせちゃだめだぞ」
途中で立ち寄った商店で買った飲み物を私に手渡しながら、二色の瞳を持つ兄は微笑んだ。低い声に身構えたが、怒ってはいないみたいだ。
「アカネは、お前のことを凄く可愛がっているから」
「えぇ、お兄ちゃんになったのがよっぽど嬉しいんですね」
眼鏡をした茶髪の兄が私の頭の上にぽんと手を置いた。背の高いこの眼鏡の向こう、翡翠の瞳が嬉しそうに細くなる。
「小さな子は久しぶりですね」
「そんなに小さくないだろ」
「そうですか?」
「あぁ」
褐色の肌の兄は私のことをしげしげと眺めた。大きいけれど、怖くはない。腰にすらりと下がる二本の刀が音を立てる。私が見たことのある剣とは違う。刃の先がどこまでも細くて、持ち手付近に綺麗な飾りがついている。
「アカネちん、君のことを家族にしたいって言ってたから」
緑の長髪の兄は私の顔を笑いながら覗き込んで、「これもうひとつ買ってくる!」と店の奥に向かっていった。
まただ、家族。どうしてこの船は、この言葉をよく使うんだ。私に家族はいない、兄や姉はいても、家族なんて。
「妹だから、余計に可愛いのかも知れないね」
「そうかも! 女の子が船にいるのは久しぶりだし!」
長髪の兄が私にまた包みを差し出した。思わず受け取ると、にかと笑う。拙い口調で礼を言うと、
「もー、だめだめ! ちゃんとお兄ちゃんって呼んでもらわなきゃ!」
「お前、俺のことそんな風に呼んだことないだろ」
「いーじゃんタツはタツだし! ほら呼んでみて、ヒカルお兄ちゃんって!」
「ずるいですよ僕だってミカドお兄ちゃんって呼んでください! ねぇモモタス?」
「俺は別に何でもいい」
「まあまあ落ち着いて。ヒメは、俺たちの可愛い妹だからね」
青い瞳の兄は、時折「俺たちの可愛いヒメ」と私のことを呼んだ。眼帯で片目が隠れているのに、私の居場所をいつも知っている。リーダー、と呼ばれて、月の兄たちに慕われている。
風が一筋吹いて、私の耳飾りがくるくると回り出した。何かに気づいたように青い瞳の兄が後ろを振り返る。同時に眼鏡の兄の腕が私の腰に回って、ぎゅうと抱き寄せる。驚いて兄の顔を見上げると、翡翠の目を細めた兄の手が後頭部に回った。ぎゅうと押さえられて、周りが見えなくなる。「いい子で」という言葉を添えて。
「お前ら、ガンダーラとかいう一味の奴らか」
近づいてきたのは、知らない声だった。誰だろう、兄たちの知り合いだろうか。
「俺たちも随分有名になったね?」
「あぁ」
「確かに周りとは少しテイストが違いますからね」
「まあね、弱いもののために戦う海賊だし!」
「自分で言うのかよ」
兄たちの声色は変わらない。さっきまでと全く同じ声色で話している。
緊張で硬くなる体を叱る。船に来た日に与えられ、肌身離さず持っている腰に下げられたあのナイフに触れた。本当はいつも使っていたものがいいけれど、大丈夫だ。ここにあれば、私は戦える。
「お前らの船はついに子どもまで拾うようになったのか。それに、女か」
「女なのは関係ないだろ」
「女は弱い。船に女など邪魔なだけだ」
背筋が冷える感覚が分かった。押さえつけられていた手が外れて、兄たちが履いているものと違う靴が見えた。
このあと、どうするつもりなんだろうか。
「逃げますよ」
小声で呟かれて、こくりと頷く。頷いてからあれ、と思い直す。
私、何で今頷いたんだろう。
ガンダーラの船はアニたちの敵で、私はいわば人質のようなものなのに。つい昨日までここから逃げだそうだなんて考えていたのに。
兄たちはきっと疑っていない。私が自分たちと一緒に来ると。私が、彼らの家族だと。
青い瞳の兄の言葉が、戦いの火蓋を切って落とす。
「家族の侮辱は、許さないよ」
皿が割れる大きな音がして、私は手を引かれて走り出した。きっと広いところに出るんだ。必死に足を動かして兄たちに食らいつく。
「ヒメ、やるじゃねえか!」
「もう少しだ、頑張れ!」
噴水のある大きな広場に出て、兄たちは足を止めた。私もナイフを取り出す。体が覚えている。やり方を知っている。
だって私は、生まれたときから海賊なんだ!
「おい、女がいるぞ!」
飛びかかってきた少年に向かって大きくナイフを振りかぶりスレスレにひと振り。体が低くなると同時に鳩尾を柄で突く。小柄な体も、こんなときばっかりは役に立つ。これで大抵のことはなんとかしてきた。ひと思いに殺してしまえといつも怒られたが、どうしても出来なかった。敵だとしても、例え仲間を傷つけられたとしても。
「へへ、いい女じゃねえか」
「オマエら、女拾って何するつもりだったんだ?」
「……ヒメ!」
大きく名前を呼ばれて振り返ると、眼帯の兄が私のことを掴んで引き寄せた。一瞬前にいたところにナイフが落ちる。
前なら絶対こんなミスしなかったのに。私は呆然としながら兄の顔を見つめた。戦えなくなっている。そんなことって。
「そんなことしなくていい、ここは俺たちに任せて」
「でも」
「頼む、アカネたちのところに行ってみんなを集めて欲しい。俺たち五人じゃきっと長くは保たない。さっきひとり駆け出していったから、応援を呼んだはずだ」
「……わたし、が」
「出来るね、俺たちの可愛いヒメ?」
「さあ早く!」
私は必死で、見覚えのある景色を走り出した。視界の端で、二色の瞳を持つ兄がひらりと飛ぶのが見えた。何て身軽なんだろう。その美しさに思わず走る足を緩めそうになる。変わらない表情の中、二色の瞳が私のことを捉え、口角が少しだけ上がった。
先ほど兄たちは何をするでもなくただ町を闊歩していたわけではなかったと思い知らされる。きっとこの狭い町を隅々まで周り、とにかくうっすらとでも土地勘をつけていたのだ。先ほどまでいた商店、荷台とすれ違った通り、二色の瞳の兄が立ち止まった怪しげな店。記憶をたどりながら、あの時間がとても楽しかったことに気がついた。いい子だと頭を撫でられ、大事だと言葉に出して伝えられる、そんな時間が。
この船にいるのが苦しいんじゃない、私は、自分が何もないと気づきたくなかっただけなんだ。生まれ育ったあの船を悪だと思えなくて、この船の環境になじめなくて。
あの船は、悪い海賊船だったのか。
ずっと考えていた疑問が外に出てくる。先を行く船を沈め、物資を奪った。それが自分の仕事だと信じて疑ったことなんてなかった。
本当は海賊だって、こんな風に温かくいることが出来るんだろうか。
あの船だって、こんなに温かかったことがあるんだろうか。
この船がどこに行くのか、知りたいと思った、私が見てきた海賊と何が違うのか、見たいと思った。
そのためには、まず兄たちを救わなくてはいけないんだ。
船が見えてくる頃には心臓が痛かった。両手に大きな紙袋を抱えた桃色の兄と空色の兄が船に戻っていくのが見え、足音に気づいた桃色の兄が表情を変えた。何と呼びかけようか迷う私に、状況を察した空色の兄が船の中に駆け込んでいく。きっと中にいるもうひとりの兄を呼びに行ったのだ。私に向かって銃を突きつけた、三白眼で目つきの悪い、海を誰より愛する兄を。
「ヒメちゃん、どうしたの!」
勢い余って体当たりする私を、兄は軽々と受け止め、背中を撫でた。あぁ、息が上がる。この船に来てから、いかに平和な日々だったかも思い知らされる。頻繁に戦いのあった前の船と比べ、この船は略奪をしない。迷子を拾い送り届けた、猫の里親を探した、立ち寄った港の子どもたちに剣を教えた、そんなことばかりだ。こんなに優しい船なのに、家族のことになると、とても怒る。
「兄たちが」
「トラブル? 他の船?」
「にいたちは、悪くないの。私が」
私のせいなの、と言う前に喉の奥から咳が出た。背中を擦ってくれる兄は誰だろう。ねぇ、どうして私に優しくするの。家族って何なの、ねぇ、教えてよ。
「分かった、ヒメ、分かったよ。だから一緒に来てくれる?」
空色の兄が私を軽く抱きしめた。ばくばくと音を立てる心臓の音が兄に伝わったのだろうか。「頑張ったんだね」と優しい言葉が飛んだ。
「行くぞ」
三白眼の兄は二挺の銃を腰に下げ、歩き出した。頭上を大きな鳥が飛んでいた。兄が腕を差し出すと大きな羽をはためかせて降りてくる。黒い羽を持った鳥に向かって何度か頷いた兄は「噴水か」と私に問うた。何故それを? と私が思う間もなく鳥がまた飛び立っていく。あの子が、教えてくれたのだろうか。
「アイツらがいるなら大丈夫な気がするが……お前、この道をまっすぐ行け。マロ眉たちがいる」
まろ、まゆ。何のことだか分からずに瞬きを繰り返す私に、空色の兄が「リュウジのこと」と耳打ちした。『アカネは、リュウジとトモヒサと一緒に補給に行くんだ』という青い瞳の兄の言葉が思い返された。髪の一房が紅に染まったあの兄のところに行くなら、長兄も一緒にいるということだ。長兄に事態を知らせる、それが話の本質だと言うことに気づいて私は大きく頷いた。
「あーあ。せっかくヒメに俺のカッコいいところ見せようと思ってたのに」
「だめだめ、こんなちっちゃい子を戦闘になんか連れて行けないよ!」
「……うるせェ。行くぞ」
この三人は、栄光の名を名乗っているという。こちらをちらりと振り返り、「大丈夫か」と一言。こくん、と頷くと声を出さずに息だけで笑う。この兄ですら、私のことを受け入れているのか。……もしかして私は、盛大な勘違いをしていたんじゃないか。私のことを受け入れてくれないと思っていたのは私だけで、実はみんなとっくの昔に私の生い立ちなんか、気にしていないんじゃないか。私は石畳の道を走り出しながら、こっそり涙を流した。どうして泣いているのかは、分からなかった。
*
「ヒメ!」
立派な建物の前、そわそわした様子の夕焼け色は、膝をついて私の体を受け止めた。心臓が血を流す音が聞こえる。自分のものと、兄のもの。二つの音が同時に聞こえるこの感覚が嫌じゃない。「怪我は?」「ここまでひとりで来たの?」……繰り返される質問が、少しだけ煩わしい。
「あの、兄たちが」
「怪我してない?」
「アカネ、その辺にしときなよ」
「う……ごめん」
呆れたような顔をした紅の兄が、甘味を咥えて腕を組んだ。その様子を見た長兄が、口角を上げる。その肩に、三白眼の兄が連れていたのとは違う真っ白な鳥がいることに気づいて思わず口を噤む。
「アカネが船にきたときのリュウジも、こんな感じだったけどね」
「ちょっとトモ!」
この二人の兄は、落ち着きがありすぎるのではなかろうか。眼帯の兄があの大きな鳥を飛ばし、仲間のピンチだと伝えたはずだ。何の心配もないとでも言いたげに計算機を弾き、何かを計算している。
「リュウジ、ヒメの文字の練習はどんな感じ? ヒメもそろそろ計算を始めないとね」
「文字の上達は早かったよ。基礎文字はちゃんと書けるし、知らない単語がたくさんあることが気になるくらい」
「そうか。本当はもう少し本を買ってあげたいところだけど……本は高価だからね」
髪の一部が紅に染まった兄は、アカネと同じ時期に船に来たのだという。身なりを綺麗にしていて、時折私の字の練習を何も言わずに見ている。
「新しいナイフの使い心地はどう?」
私から視線を逸らしたまま問いかけられた言葉に、ナイフを使ったことまで見抜かれていることを悟る。この長兄は、どれほど私のことを分かっているんだろうか。私はナイフを取りだし、軽く振る。いままで使っていたものとは、やっぱり違うみたいだ。手に馴染まない。
「少し、軽い。刃渡りはもう少し欲しい」
「そうか、やっぱり前のものがいいね。リュウジ、さっきの店に行って急ぐように伝えて。明日には船を出そう」
「いーけど、トモは?」
「そろそろ片がつく頃だからね、そっちに向かうよ。アカネは一緒に来て」
「うん!」
「はーい」
兄たちがそれぞれの方向に颯爽と動き出す。片がつくって、もしかして彼らのことだろうか。だって、三人の兄だって到着したかどうか分からないのに。
アカネ兄が私の手を取る。長兄は不意に私の顔を見て微笑んだ。びっくりした私をよそに、髪と同じ色をした夕焼け色の瞳が輝いた。
「一緒に行こう、ヒメ!」
「え?」
長兄のマントが海風に煽られてばさばさと音を立てた。重そうなマントを羽織って、彼は軽々と足を運ぶ。いつも船では奥の部屋で紙を広げているだけの彼のどこに、こんな力があるのだろう。どうして彼は、船になんて乗っているのだろう。
「俺たちの家族を迎えに行こう!」