第一話 ファミリー・オブ・ガンダーラパイレーツ
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「僕の家族になってよ」
甲板で船に揺られながら、満天の星を見上げて。
今にも星が溢れて降ってきそうな空を見上げて、私の兄は言った。
*
第一話
ファミリー・オブ・ガンダーラパイレーツ
◇
なくした家族
◇
月が昇る
◇
栄光の果て
◇
末っ子は風邪っぴき
*
◇ なくした家族
私は、ここの船の育ちじゃない。
私に家族はいない。それはいつだって分かりきっていたことだった。物心ついたときにはもう船の上にいて、文字も数字も理解する間もなく銃や剣の使い方を学んだ。船の仲間は共に育った兄弟だけれど、家族ではなかった。両親の存在など知る由もなかった。必要があれば兄弟でさえ切り捨てるような、そんな船に育った私は、仲間たちに嫌われないよう切り捨てられないよう必死になって生きてきた。兄姉たちの背中を追いかけていればそれでよかった。……なのに、数ヶ月前。この船との戦いで兄姉たちがみんないなくなってしまったときになってはじめて、一人じゃ何も出来ないことに気づいたのだ。
船を揺らす衝撃は大きく、私の心臓は痛いほどに鼓動を打っていた。「お前はここにいろ」と兄弟に押し込められた部屋の隅で、ボロボロになった壁の隙間から見えた相手の船は、この船よりも大きいように見えた。それなのに、乗っている船員はとても少ない。赤の衣装を纏って、とても裕福なように見えた。
「ガンダーラの奴らの船だ。坊ちゃんがたくさん乗ってる商人の集まりだ」
腰に下げたナイフに触れる。商人の集まりなら、きっと大して強くはないはずだ。
この船は強い。いつだって兄たちはそう言っていた。この船は、世界中の船の中で一番強いのだと。私たちはその歯車を回す一員なのだと。役割と果たせば、きっといつか、お腹いっぱいにご飯が食べられるのだと。
そう、言っていたのに。
赤のマントは、いつの間にか船の内部にまで侵入していた。隙間という隙間を覗き、残っている船員を外に引きずり出していた。捕まったらどうなるかなんて、簡単に想像出来た。だってここは海の上、ひとたび海に落ちてしまえば。
「お前はここにいろ」
「アニは?」
「俺が行くから、お前はここでじっとしてろ」
そういったアニも、二度と戻ってこなかったのだ。
どのくらいの時間が経ったのか分からないけれど、空が赤く染まり、そして暗くなった。残っている船員はいないかと探す声が近づいてくる。私は壁に背中をつけ、膝を抱える。息を殺して目を瞑り、その瞬間が来ないようにと願った。
「……キミ、この船の子?」
細い光が私のことを照らして、緑の髪色に陽の光を溶かした瞳が覗き込んだ。だんまりを決め込む私に呆れたのか、「おーい」と仲間を呼ぶ声が聞こえる。何人かの仲間が集まってくる。腰に下げたナイフに触れる。大丈夫、ここにある。
「まだいたんだね?」
「知らないけど。トモのとこ連れてった方がいいんじゃない?」
「みんな、言葉には気をつけて」
「立てる?」と傷だらけの指が差し出されて、私はその手を思い切り払った。なんなんだ、私のことをどうするつもりなんだ。誰でもいい、目の前にいる夕焼け色の髪に向かってナイフをまっすぐに突き付けた。すぐに後ろに下げられる夕焼け色はきっとそんなに強くないんだろう。金属の音を立てながら代わりに突き付けられた二丁の銃。引き金を引かれたら私はひとたまりもない。
ぴりりと空気が張り詰めた。誰が最初に動く。細く吸っていた息を吐き出す。
私は強い、商人のお坊ちゃんたちになんか負けない。
コツコツと足音がして、目の前の男たちが一斉に振り返った。深紅のマントを翻し、上品な出で立ちの銀髪の男が歩いてきていた。手には傷のひとつもない。その後ろを着いてくる空色の髪と茶髪で眼鏡の男は、私の姿を見て顔を見合わせた。
「……誘拐になりませんかね、こんな男所帯に」
「誘拐もクソもないだろ。ここは海の上だぞ」
「ナイフが使えるみたいだね、ゴウシ?」
「どうだかな」
「……いもうと、ってこと?」
「よかったな。アカネ、末っ子卒業だぞ」
「欲しがってたもんな、兄弟」
銀髪の男は私に銃を突き付けている黒髪の男に銃を下げさせた。大きな舌打ちが聞こえる。私の突き付けたナイフにも臆せず近づいてくる。……人殺しは、趣味じゃないのだ。苦し紛れに心で呟いた言葉が虚しく散っていく。今から殺されるのは、きっと私の方なのに。
銀髪の男は、私の前で立ち止まるとにこにこと笑みを浮かべた。さほど年が離れているとは思えない、若い男だ。背が高くて、痩せていない。
「俺たちの船に来ないか」
「いかない」
「お腹すいてるんだろう?」
「アニを返して」
「彼らはもういないんだ。この船も、じきに沈む」
……船が沈む?
信じられない言葉をかみ砕いている間に、彼は私の手からあっさりとナイフを奪い取ってしまった。慌てて抵抗した隙に私とナイフを繋ぎ止めていた鎖が頼りない音を立ててちぎれていく。私のことを今まで守っていたナイフがなくなって、私はひどく動揺した。あれは、はじめて戦闘に出たときの褒美にもらったナイフなのだ。彼は驚いた顔をして私のナイフをしげしげと見つめた。
「決まりだ。オレはトモヒサ。ガンダーラの船の主で、ここの兄弟の長男だ」
「……行くなんて」
「みんな、船に戻るよ」
「はーい!」
「タツヒロ、最寄りの港までどのくらい?」
「デカい港か? なら、二週間もあれば」
「頼むよ。カズナ、ミカド、彼女と一緒に来て。リュウジ、少し相談しよう」
「……あぁ」
「おっけー」
銀髪の男は深紅のマントを翻し、私たちの船を荒らすだけ荒して出て行く。兄弟を失い、帰る船も失った私は、ただ呆然とその後ろ姿を眺めていることしか出来なかった。この船を降りたことなんてない私は、船の降り方だって分からない。突然放り出された喪失感に体が震えた。この時間はいつもそうなのに、海風が寒くて仕方がない。そろそろ見張り台に立たないといけない時間なのに、見張り台がない。
私、これからどうするんだろう。
俺の船に来いって言った? なんのために?
「小さな海賊さん、歩けますか?」
眼鏡をかけた人が私に手を差し伸べる。勝手に手首を握られて、顔を覗き込まれて、勝手に溜息を吐かれた。首を振って、後ろにいる眼帯の人に何か言っている。
これからどうなるのかも分からないのに、抵抗する気力もない。私はされるがままに、生まれてはじめて慣れ親しんだ船を降りた。
*
すぐに売られると思っていたのにそんな素振りは全くなかった。湧かしたお湯で体を洗った。伸び放題だった髪を切られた。新しい服と短刀を与えられた。何がどうなっているのか、分からなかった。
与えられたスペースの一角で、怯える毎日を過ごした。いつ売られるのか、それとも妾にでもされるのか。この船に女は私一人のようだった。それなのに、女物の洋服が乗せてある。つまりそれは、私の知らないところに妾が何人かいるのではないだろうか。船を調べたわけじゃないので、分からないけれど。容易に出歩く勇気も湧かないまま、限界が来ると細い睡眠を取る、そんな毎日を過ごした。
髪がひと房紅色に染まった船員が私を無理やりに連れ出したのは、船に乗ってからそれなりに時間が経った頃だった。「これ以上あそこに置いておいたらカビが生える」という理由で甲板に連れ出された私は、久しぶりに日の光を浴びたような気がして思わず大きく息を吸った。深紅のマントを脱いだ船員たちが、剣の稽古をしたりして気ままに過ごしていた。
「これ、あげるね。ヒメ」
「……ひめ」
「あ……ごめん。みんなそう呼んでるから。嫌?」
青い瞳をひとつ眼帯で隠した人は私の目の前に跪き、手に黒い板を握らせた。それから白い棒のようなものも数本、長いものと短いものだ。そのうちの一本を手に取り、黒い板に線を書いて見せる。その上から線をなぞると、線がぼやけて消えていく。
「これで文字の練習をするといい。いつか絶対役に立つから」
驚く私に向かって、また黒い板に何かを書く。
「これが君の名前。まずはこれを練習しよう」
「……名前?」
「そう。君の名前だ。……俺はカズナ。君の兄だよ」
その日から、文字の練習が始まった。朝起きると紅色の船員が私を引きずり出し、夕陽が沈みかける時間まで文字の練習。最初はひとりでやっていた文字の練習は、ある日を境に二人になった。
「アカネだよ。アカネ、この子が君の妹だ」
「うん、僕頑張るよ!」
アカネと名乗ったその“兄”は、少し年上だと思われる少年だった。くるりと頭上で留められた夕焼け色の髪が海風に揺れて、同じ色の瞳が私を興味深そうに捕らえていた。差し出された両の手をどうしたらいいのか分からずにいる私を見て、「よろしく」と笑った。
アカネは文字の練習の時間以外も私と行動を共にするように命じられているようだった。彼にとっても何せここは海の上、飽き飽きした暮らしの中に見つけた楽しみだったんだろう。私のことを船の至るところに連れ回し、海を眺めながらとにかくたくさんのことを私に話した。私が来るまで自分が末の弟であったこと、生まれの家族はいないこと、でもこの船のことが大好きなこと。
食事は多くないながらも毎食出た。それも、全員分。船の後方にある台所で、時折赤い髪の船員が鍋をかき回しているのが見えた。賑やかな食事にあの銀髪の男は現れなかった。
食事を取りながら、私はどうしてこの船に乗せられているのかを考えた。何度考えたって答えがあの長兄しか持っていないと分かっているのに。彼は一体何の目的で自分を船に乗せているのか。陸がないからここにいるだけで、もしかしたらどこかの港に着いたらそっと出ていくのもいいかもしれない、私なんて。
私は寝付けないとひっそり甲板に出て星空を眺めた。長兄以外が一緒くたになって眠る船の地下、連なったベッドの一番下の段から抜け出して甲板に出る。オレンジ髪の兄がいつもひっそりと私のことを眺めて、時々ふわりと欠伸をしているのを知っていた。アカネの欠伸が十回を超えると、私は何も知らないふりをして部屋に戻る。私の上の段に眠る優しい兄は、「また星見てたの?」と知らないふりをして私に尋ねるのだった。
その日もいつも通り星を眺めていた。……いつもと違うのは、水平線の向こうに街の灯りが徐々に見えつつあることだった。あの街は、今夜は祭りなのだという。祭りに間に合わないことに他の兄たちは唇を尖らせていたが、私は胸をときめかせた。陸だ。
(もし、もしこの船を降りることが出来たら)
もし陸に降りて行方を眩ませてしまえば、この痛む胸から開放されるんだろうか。
きっと私のことなど探しはしないだろう。大丈夫、何か仕事を見つけて、細くとも生きてはいけるだろう。文字を練習しておいてよかった、新しいナイフもある。
私には温かすぎるこの船が、嫌いだ。どんどん離れ難くなる。私はこの船の仇で、この船は私の仇なのだ。どうしようもない胸の痛みが日に日に大きくなって、泣いてしまいそうになる。
(明日、この船を降りて、それで)
「ヒメ」
不意に呼ばれた名前に、私は急いで振り返った。兄がふわりと欠伸を零しながら私の隣に座り込み、そのまま体を甲板に倒した。毎日交代でデッキブラシで掃除するこの甲板。空色の髪を持つ次兄は、「前髪が乱れる」といってよく行方を眩ませてしまうことを私は知っていた。はじめて足を踏み入れたときから、私を受け入れていたこの木の感触。
「今日も見てるの?」
「……別に」
「最近、ずっとだよね。何か悩み?」
「……兄が夜、私のことを覗き見してる」
「え、え、もしかして知ってた?」
がばりと起き上がり慌てる彼の姿に私は頬が緩むのを感じた。だめだ、この船にいてそんなことまで覚えてしまった。本当に、どうかしてしまってる。
まあ、それは、さ。と兄は言い訳にもならない言い訳をして、私の頭をくしゃりと撫でた。名前を呼ばれる。この船に来て初めてもらったもの、名前。長兄は同じように私の頭を撫で、どこか南の異国の言葉だと言った。
「明日、港に着くから。楽しみにしてて」
何か買ってあげようか、と兄は笑う。髪飾り、着物、何がいいかなと話を進める兄を見ながら、私は体を甲板にぱたりと倒した。寝落ちてしまうと思ってしなかったけれど、本当はこれが、してみたかったんだ。
「ヒメ」
もう一度名前を呼ばれ、私は生返事をした。最近思う、兄と話すのは苦手だ。全部全部、読まれている気がする。
「明日、必ず出航までに戻ること」
……バレている。私の考えていることは、恐らくは全てバレている。兄にバレているということは、恐らく長兄にも。
「戻らなかったら、見つかるまで探すからね。僕たちみんなで」
長兄も、次兄も、その他の兄たちも、みんなで?
目を見開いた私を見て、兄はにししと笑う。してやったり、という顔だ。
「どうして」
「当たり前、家族だから」
「……」
「君の名前、カズナがつけたんだ。あの船、名前なんてないって聞いてたから」
この船の参謀である青い瞳の兄は、私が船に少しばかりある本を捲っているとどこからともなく現れては、「ここ、分かる?」「ここより暑い国だと、海がなくなる季節があるんだって。俺も、本でしか読んだことないんだけど」など、いろいろ話してくれるのだった。きっと私は兄の話の半分しか理解していないけれど。
「僕も良く分からないんだけど、異国の言葉なんだよね? 家族って意味なんだって」
「え?」
私の名前が、家族。
家族なんていない私が?
空が白んできて、兄は私の顔を再び見ると「少しだけでも寝ないと」と部屋に戻っていった。私はそれに、倣うしかなかった。
甲板で船に揺られながら、満天の星を見上げて。
今にも星が溢れて降ってきそうな空を見上げて、私の兄は言った。
*
第一話
ファミリー・オブ・ガンダーラパイレーツ
◇
なくした家族
◇
月が昇る
◇
栄光の果て
◇
末っ子は風邪っぴき
*
◇ なくした家族
私は、ここの船の育ちじゃない。
私に家族はいない。それはいつだって分かりきっていたことだった。物心ついたときにはもう船の上にいて、文字も数字も理解する間もなく銃や剣の使い方を学んだ。船の仲間は共に育った兄弟だけれど、家族ではなかった。両親の存在など知る由もなかった。必要があれば兄弟でさえ切り捨てるような、そんな船に育った私は、仲間たちに嫌われないよう切り捨てられないよう必死になって生きてきた。兄姉たちの背中を追いかけていればそれでよかった。……なのに、数ヶ月前。この船との戦いで兄姉たちがみんないなくなってしまったときになってはじめて、一人じゃ何も出来ないことに気づいたのだ。
船を揺らす衝撃は大きく、私の心臓は痛いほどに鼓動を打っていた。「お前はここにいろ」と兄弟に押し込められた部屋の隅で、ボロボロになった壁の隙間から見えた相手の船は、この船よりも大きいように見えた。それなのに、乗っている船員はとても少ない。赤の衣装を纏って、とても裕福なように見えた。
「ガンダーラの奴らの船だ。坊ちゃんがたくさん乗ってる商人の集まりだ」
腰に下げたナイフに触れる。商人の集まりなら、きっと大して強くはないはずだ。
この船は強い。いつだって兄たちはそう言っていた。この船は、世界中の船の中で一番強いのだと。私たちはその歯車を回す一員なのだと。役割と果たせば、きっといつか、お腹いっぱいにご飯が食べられるのだと。
そう、言っていたのに。
赤のマントは、いつの間にか船の内部にまで侵入していた。隙間という隙間を覗き、残っている船員を外に引きずり出していた。捕まったらどうなるかなんて、簡単に想像出来た。だってここは海の上、ひとたび海に落ちてしまえば。
「お前はここにいろ」
「アニは?」
「俺が行くから、お前はここでじっとしてろ」
そういったアニも、二度と戻ってこなかったのだ。
どのくらいの時間が経ったのか分からないけれど、空が赤く染まり、そして暗くなった。残っている船員はいないかと探す声が近づいてくる。私は壁に背中をつけ、膝を抱える。息を殺して目を瞑り、その瞬間が来ないようにと願った。
「……キミ、この船の子?」
細い光が私のことを照らして、緑の髪色に陽の光を溶かした瞳が覗き込んだ。だんまりを決め込む私に呆れたのか、「おーい」と仲間を呼ぶ声が聞こえる。何人かの仲間が集まってくる。腰に下げたナイフに触れる。大丈夫、ここにある。
「まだいたんだね?」
「知らないけど。トモのとこ連れてった方がいいんじゃない?」
「みんな、言葉には気をつけて」
「立てる?」と傷だらけの指が差し出されて、私はその手を思い切り払った。なんなんだ、私のことをどうするつもりなんだ。誰でもいい、目の前にいる夕焼け色の髪に向かってナイフをまっすぐに突き付けた。すぐに後ろに下げられる夕焼け色はきっとそんなに強くないんだろう。金属の音を立てながら代わりに突き付けられた二丁の銃。引き金を引かれたら私はひとたまりもない。
ぴりりと空気が張り詰めた。誰が最初に動く。細く吸っていた息を吐き出す。
私は強い、商人のお坊ちゃんたちになんか負けない。
コツコツと足音がして、目の前の男たちが一斉に振り返った。深紅のマントを翻し、上品な出で立ちの銀髪の男が歩いてきていた。手には傷のひとつもない。その後ろを着いてくる空色の髪と茶髪で眼鏡の男は、私の姿を見て顔を見合わせた。
「……誘拐になりませんかね、こんな男所帯に」
「誘拐もクソもないだろ。ここは海の上だぞ」
「ナイフが使えるみたいだね、ゴウシ?」
「どうだかな」
「……いもうと、ってこと?」
「よかったな。アカネ、末っ子卒業だぞ」
「欲しがってたもんな、兄弟」
銀髪の男は私に銃を突き付けている黒髪の男に銃を下げさせた。大きな舌打ちが聞こえる。私の突き付けたナイフにも臆せず近づいてくる。……人殺しは、趣味じゃないのだ。苦し紛れに心で呟いた言葉が虚しく散っていく。今から殺されるのは、きっと私の方なのに。
銀髪の男は、私の前で立ち止まるとにこにこと笑みを浮かべた。さほど年が離れているとは思えない、若い男だ。背が高くて、痩せていない。
「俺たちの船に来ないか」
「いかない」
「お腹すいてるんだろう?」
「アニを返して」
「彼らはもういないんだ。この船も、じきに沈む」
……船が沈む?
信じられない言葉をかみ砕いている間に、彼は私の手からあっさりとナイフを奪い取ってしまった。慌てて抵抗した隙に私とナイフを繋ぎ止めていた鎖が頼りない音を立ててちぎれていく。私のことを今まで守っていたナイフがなくなって、私はひどく動揺した。あれは、はじめて戦闘に出たときの褒美にもらったナイフなのだ。彼は驚いた顔をして私のナイフをしげしげと見つめた。
「決まりだ。オレはトモヒサ。ガンダーラの船の主で、ここの兄弟の長男だ」
「……行くなんて」
「みんな、船に戻るよ」
「はーい!」
「タツヒロ、最寄りの港までどのくらい?」
「デカい港か? なら、二週間もあれば」
「頼むよ。カズナ、ミカド、彼女と一緒に来て。リュウジ、少し相談しよう」
「……あぁ」
「おっけー」
銀髪の男は深紅のマントを翻し、私たちの船を荒らすだけ荒して出て行く。兄弟を失い、帰る船も失った私は、ただ呆然とその後ろ姿を眺めていることしか出来なかった。この船を降りたことなんてない私は、船の降り方だって分からない。突然放り出された喪失感に体が震えた。この時間はいつもそうなのに、海風が寒くて仕方がない。そろそろ見張り台に立たないといけない時間なのに、見張り台がない。
私、これからどうするんだろう。
俺の船に来いって言った? なんのために?
「小さな海賊さん、歩けますか?」
眼鏡をかけた人が私に手を差し伸べる。勝手に手首を握られて、顔を覗き込まれて、勝手に溜息を吐かれた。首を振って、後ろにいる眼帯の人に何か言っている。
これからどうなるのかも分からないのに、抵抗する気力もない。私はされるがままに、生まれてはじめて慣れ親しんだ船を降りた。
*
すぐに売られると思っていたのにそんな素振りは全くなかった。湧かしたお湯で体を洗った。伸び放題だった髪を切られた。新しい服と短刀を与えられた。何がどうなっているのか、分からなかった。
与えられたスペースの一角で、怯える毎日を過ごした。いつ売られるのか、それとも妾にでもされるのか。この船に女は私一人のようだった。それなのに、女物の洋服が乗せてある。つまりそれは、私の知らないところに妾が何人かいるのではないだろうか。船を調べたわけじゃないので、分からないけれど。容易に出歩く勇気も湧かないまま、限界が来ると細い睡眠を取る、そんな毎日を過ごした。
髪がひと房紅色に染まった船員が私を無理やりに連れ出したのは、船に乗ってからそれなりに時間が経った頃だった。「これ以上あそこに置いておいたらカビが生える」という理由で甲板に連れ出された私は、久しぶりに日の光を浴びたような気がして思わず大きく息を吸った。深紅のマントを脱いだ船員たちが、剣の稽古をしたりして気ままに過ごしていた。
「これ、あげるね。ヒメ」
「……ひめ」
「あ……ごめん。みんなそう呼んでるから。嫌?」
青い瞳をひとつ眼帯で隠した人は私の目の前に跪き、手に黒い板を握らせた。それから白い棒のようなものも数本、長いものと短いものだ。そのうちの一本を手に取り、黒い板に線を書いて見せる。その上から線をなぞると、線がぼやけて消えていく。
「これで文字の練習をするといい。いつか絶対役に立つから」
驚く私に向かって、また黒い板に何かを書く。
「これが君の名前。まずはこれを練習しよう」
「……名前?」
「そう。君の名前だ。……俺はカズナ。君の兄だよ」
その日から、文字の練習が始まった。朝起きると紅色の船員が私を引きずり出し、夕陽が沈みかける時間まで文字の練習。最初はひとりでやっていた文字の練習は、ある日を境に二人になった。
「アカネだよ。アカネ、この子が君の妹だ」
「うん、僕頑張るよ!」
アカネと名乗ったその“兄”は、少し年上だと思われる少年だった。くるりと頭上で留められた夕焼け色の髪が海風に揺れて、同じ色の瞳が私を興味深そうに捕らえていた。差し出された両の手をどうしたらいいのか分からずにいる私を見て、「よろしく」と笑った。
アカネは文字の練習の時間以外も私と行動を共にするように命じられているようだった。彼にとっても何せここは海の上、飽き飽きした暮らしの中に見つけた楽しみだったんだろう。私のことを船の至るところに連れ回し、海を眺めながらとにかくたくさんのことを私に話した。私が来るまで自分が末の弟であったこと、生まれの家族はいないこと、でもこの船のことが大好きなこと。
食事は多くないながらも毎食出た。それも、全員分。船の後方にある台所で、時折赤い髪の船員が鍋をかき回しているのが見えた。賑やかな食事にあの銀髪の男は現れなかった。
食事を取りながら、私はどうしてこの船に乗せられているのかを考えた。何度考えたって答えがあの長兄しか持っていないと分かっているのに。彼は一体何の目的で自分を船に乗せているのか。陸がないからここにいるだけで、もしかしたらどこかの港に着いたらそっと出ていくのもいいかもしれない、私なんて。
私は寝付けないとひっそり甲板に出て星空を眺めた。長兄以外が一緒くたになって眠る船の地下、連なったベッドの一番下の段から抜け出して甲板に出る。オレンジ髪の兄がいつもひっそりと私のことを眺めて、時々ふわりと欠伸をしているのを知っていた。アカネの欠伸が十回を超えると、私は何も知らないふりをして部屋に戻る。私の上の段に眠る優しい兄は、「また星見てたの?」と知らないふりをして私に尋ねるのだった。
その日もいつも通り星を眺めていた。……いつもと違うのは、水平線の向こうに街の灯りが徐々に見えつつあることだった。あの街は、今夜は祭りなのだという。祭りに間に合わないことに他の兄たちは唇を尖らせていたが、私は胸をときめかせた。陸だ。
(もし、もしこの船を降りることが出来たら)
もし陸に降りて行方を眩ませてしまえば、この痛む胸から開放されるんだろうか。
きっと私のことなど探しはしないだろう。大丈夫、何か仕事を見つけて、細くとも生きてはいけるだろう。文字を練習しておいてよかった、新しいナイフもある。
私には温かすぎるこの船が、嫌いだ。どんどん離れ難くなる。私はこの船の仇で、この船は私の仇なのだ。どうしようもない胸の痛みが日に日に大きくなって、泣いてしまいそうになる。
(明日、この船を降りて、それで)
「ヒメ」
不意に呼ばれた名前に、私は急いで振り返った。兄がふわりと欠伸を零しながら私の隣に座り込み、そのまま体を甲板に倒した。毎日交代でデッキブラシで掃除するこの甲板。空色の髪を持つ次兄は、「前髪が乱れる」といってよく行方を眩ませてしまうことを私は知っていた。はじめて足を踏み入れたときから、私を受け入れていたこの木の感触。
「今日も見てるの?」
「……別に」
「最近、ずっとだよね。何か悩み?」
「……兄が夜、私のことを覗き見してる」
「え、え、もしかして知ってた?」
がばりと起き上がり慌てる彼の姿に私は頬が緩むのを感じた。だめだ、この船にいてそんなことまで覚えてしまった。本当に、どうかしてしまってる。
まあ、それは、さ。と兄は言い訳にもならない言い訳をして、私の頭をくしゃりと撫でた。名前を呼ばれる。この船に来て初めてもらったもの、名前。長兄は同じように私の頭を撫で、どこか南の異国の言葉だと言った。
「明日、港に着くから。楽しみにしてて」
何か買ってあげようか、と兄は笑う。髪飾り、着物、何がいいかなと話を進める兄を見ながら、私は体を甲板にぱたりと倒した。寝落ちてしまうと思ってしなかったけれど、本当はこれが、してみたかったんだ。
「ヒメ」
もう一度名前を呼ばれ、私は生返事をした。最近思う、兄と話すのは苦手だ。全部全部、読まれている気がする。
「明日、必ず出航までに戻ること」
……バレている。私の考えていることは、恐らくは全てバレている。兄にバレているということは、恐らく長兄にも。
「戻らなかったら、見つかるまで探すからね。僕たちみんなで」
長兄も、次兄も、その他の兄たちも、みんなで?
目を見開いた私を見て、兄はにししと笑う。してやったり、という顔だ。
「どうして」
「当たり前、家族だから」
「……」
「君の名前、カズナがつけたんだ。あの船、名前なんてないって聞いてたから」
この船の参謀である青い瞳の兄は、私が船に少しばかりある本を捲っているとどこからともなく現れては、「ここ、分かる?」「ここより暑い国だと、海がなくなる季節があるんだって。俺も、本でしか読んだことないんだけど」など、いろいろ話してくれるのだった。きっと私は兄の話の半分しか理解していないけれど。
「僕も良く分からないんだけど、異国の言葉なんだよね? 家族って意味なんだって」
「え?」
私の名前が、家族。
家族なんていない私が?
空が白んできて、兄は私の顔を再び見ると「少しだけでも寝ないと」と部屋に戻っていった。私はそれに、倣うしかなかった。
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