赤木と恋が始まらない
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日本のバスケは決して、世界の中でレベルが高いとは言えない。まず、プロのリーグが存在しないので、高校や大学でトップを争った選手の多くは実業団で可能な限りプレーを続け、引退後は一般就職するものも少なくない。俺はというと大学4年の年に声をかけてくれた横浜に本社のある自動車メーカーのチームに所属することになった。
草野は地元に戻ってきて、うちから歩いて10分くらい、中学校の校区内の小さな動物病院で働きはじめたらしい。俺は自動車メーカーの社員ということになっているので、事務や経理を手伝いながら練習や試合をこなしている。なかなか忙しいので、物理的に近くなったとはいえ顔を会わせることはなかった。月に一度の手紙は続いていたので、10年近く会ってないとは思いもしなかった。子供の頃よりも時の流れを速く感じる。ちょうど良い大きさの菓子箱に仕舞い始めた草野からの手紙は、100通をゆうに越えているだろう。
久しぶりに帰ってきたら、珍しく晴子が食卓にいない。仕事の帰りに友達と飯を食ってくるらしく、帰りは遅くなるという。
タケ、と父親に進められ、ビールに口をつける。両親が目配せしあっているのでなにかと思ったら徐に、お前、付き合ってる人はいるのかと聞かれて思い切り噎せる。
「なんだよ突然」
「いや、だって、お前いくつだよ」
「今年で29…いや30になるなあ」
「剛憲は真面目すぎるところもあるしね、まあそれがあなたのいいところなんだけど。親戚とか、父さんの職場とか、いくつかツテは思い当たるから、いい人がいないなら一度お見合いでもしてみたらどうかって話してたのよ」
「…見合い、俺がか……」
「父さんがあなたの歳の時にはもう晴子がいたわよ」
「まあ早ければいいってもんでもないけどな、お前はその分脇目もふらずにバスケをやってきたわけだし、そこは俺たちは誇りに思ってるんだ。まあすぐにとは言わないけど、考えてみてくれ」
「まあ、ああ…」
「晴子もぼーっとしてるしねぇ、元気なうちに孫の顔が見たかったけどな」
「そんなこと言うなよ母さん。全日本で活躍する息子が見れただけで俺は正直余りあるくらい幸せだったんだよ。でもまあ、引退してからも人生は続くから、自分の家族をもつことは悪くはないと思うよ」
「ありがとう、心配かけてすまないな」
あのインターハイから、今日まで、あっという間で、年齢というものを意識したことはなかった。部屋に戻ってふと、余裕のなくなってきた菓子箱を開く。手紙の束をまとめて取り出すと、大きなゴリラの写真の絵葉書がおちた。これは髄分初めの頃に送ってくれたやつだ。普段はあれくらいで酔ったりはしないのに、なんだか頭がぼうっとする。
散歩してくる、と家をでた。連休明けとはいえ、夜はまだ涼しい。遠くの光を見ながら歩いていると、平田動物病院という看板が照らされている。まだやっているのかと近づいていくとドアがあいて、猫の入ったケージを抱えたおっさんが出てきて、中からまた来週~と聞き覚えのある明るい声が聞こえる。思いきって中をのぞくと、作業着の上に白衣を羽織った草野と目が合う。
「すみません、ゴリラの診察はしてないんですが」
「貴様、情緒とかないのか」
「わはは、でかいね!2メートルある?」
「ある」
「いよいよゴリラじゃん」
「まだかかるのか」
「や、もうレジ閉めたから、このまま戸締まりして帰るよ。時間あるなら話そうよ」
「ああ」
本当に奥から鍵を確認して、電気を全部消して、白衣を脱いで丸めてつっこんだリュックを背負うと、表の鍵も閉めてしまった。
「赤木、ごはんは?」
「済んだ」
「コンビニでご飯買いたいんだけど、うちでいい?お腹すいちゃって!ほら、食べて帰れたらいいんだけど、今日牛舎行ったし臭うと思うんだよね」
「いつもこんなに遅いのか」
「いや、今日は特別。いつもは6時には帰るよ」
「それならよかった」
「でも残っててよかった、赤木に会えたし。卒業してから会ってないもんね、10年以上か」
「そう、なるな」
コンビニにつくと、草野は手早く飯を選んで、それからビールを何本かかごにいれ始めた。
「そんなに飲むのか」
「半分は赤木の分!今日昼間暑くて疲れたんだよねー!ね。大人なんだし付き合ってよ」
「仕方ない奴だな」
コンビニから30メートルほど裏側の、アパートの2階の部屋にあがると、草野はリビングに俺を座らせ、テレビの電源をいれた。
「獣臭いからシャワー浴びてくるね!適当にみてて!先飲んでても良いから!」
「は、おお、」
リュックから出した白衣や何枚かの洋服、帰りに着ていた作業着をどんどん脱いで乱暴に洗濯機に放り込み始めた草野は、あからさまに背中を向けた俺の存在を思い出してあっごめん!と大きな声で言って脱衣所のドアを閉めた。洗濯機の音や、シャワーの水音といっしょに、柔らかい薫りが漏れてくる。しばらくするとバタバタ音がして、濡れた髪を下ろしたまま、パジャマ姿で戻ってきた。
「みてこれ、中学のジャージ」
「懐かしい。よく入るな」
「あんたとはちがうのよ」
わはは、と笑いながら、コンビニで温めてもらったカツ丼をそっとひらいた。スーパードライのロング缶を手渡されて、乾杯すると草野は、うまそうにごくごく音をたてて飲み始めた。
「で?どしたの?」
「は?」
「大学うかったときと同じ顔してる。なんか言えなくて困ってる顔」
「…そうだな」
「うん、ごめん食べながらで」
「いい、適当に聞いてくれて」
「ん」
「親に見合いをすすめられた」
ゴフ、とカツを喉につまらせた草野が、落ち着いて、ビールを飲んで、はあ!?と声をあげた。
「まーでも、そんな歳か。私の場合は兄と姉が結婚してて子供もいるし、私は勝手にしなってかんじだけどまあ、あんた長男だしね」
「驚いて…考えもしなかったし…落ち着こうと思って散歩にでたらこの様だ」
「ごめん、つかまえちゃって」
「いや、助かる」
「一回やってみたらいいんじゃない?あーでもあれだね、バスケの全日本って言われてさ、キラキラさわやか系を想像してるとこにあんたが現れたら相手倒れちゃうかもね」
「まあ、否定はできないな」
「どうすんの?断るの?」
「…さっきお前の手紙をみてな。100通は越えてるな」
「そうだねえ、あっという間だったね」
「…仮に、見合い結婚をしたとしたら、今のようにお前とやりとりするのは不誠実だと思う」
「まーね、奥さんの気持ちを考えると」
「お前の手紙を楽しみにしてきたから、想像つかない」
「…赤木、わたしのこと好きってこと?」
「は?そうなるのか?」
「どうなんだろ、酔ってんのかな。私はしんどいとき、赤木が叩いてくれた背中のあの、すごい痛さ思い出してやってこれたよ。どうなんだろ、わたし赤木のこと好きなのかな」
「正直考えたこともなくて、驚いてる」
「うん、ほんと、わたしも。今の今まで思いもしなかったな。でもまあ人生長いし、赤木が一緒にいてくれたら心強いな。どう?」
「どうって、」
良いこと思い付いた、みたいにまくしたてて、カツ丼を平らげた草野は、そっとテレビを消してこっちに向き直った。
「一番困ったのは…その…」
「いちばん?」
「母が、孫の顔がみたいって」
「なるほど、あんたの子供」
「そう、だ」
「この流れだと私が産むのか……なるほど、人間の生殖のことは全然考えたことなかったな。今日昼間に牛の妊婦はみたけど」
「なるほど、獣医らしいな」
「まあ、いいよ、挑戦だ挑戦」
「お前、自分が何を言ってるかわかってるのか」
「でもわたしやったことないんだよね、セックス。動物のは散々みたけどさ、赤木は?」
ここまできて、俺は頭を抱えた。なるほどこいつにとっては人間ももはや、動物の一種になってしまっているのか。ない、とかろうじて答えて、気まずくてビールに口をつけた。
「話が一気に飛びすぎだ」
「そう?ほら、握って、手。わたしたちけっこう、いいコンビになれると思うんだけど。」
「手を、離さなくてもいいか」
「いいよ」
「俺はお前のこと、傷つけるのがこわい」
「うんうん、赤木はやさしいゴリラだからね」
「茶化すな」
「だってそうじゃん。自己表現の場をバスケに全振りしてきたからこんなことになっちゃってるんでしょ。人にやさしくしてきたんだもんね。大丈夫、今更あんたのこと怖くなったり嫌いになったりしないから。」
「お前、強くなったな」
「赤木のお陰じゃん。それにあんたと駆け引きしても無駄じゃない?」
「まあ、無駄だな」
「なんにしても色々人生観のすり合わせは要るね、住むとことか、子供とか仕事とかもろもろ…いつまでこっちいるの?」
「明後日の朝横浜に戻る」
「明日の晩は?」
「あいてる」
「焼き肉行こう、今日行った牛舎の牛使ってる焼き肉やさんが近くにあってね、おいしいから時々一人でも行くんだよ」
「それは、どういう心境なんだ」
「お肉食べれないのは大学一年で乗り越えたね」
「なるほど」
「明日早く帰れるから、6時にさっきのコンビニでいい」
「ああ」
「ねえほんとさ、ごめん、良かった?ほら、いわゆるあれじゃん、結婚を前提におつきあいってやつじゃん。今ならまだやっぱなしって言えるよ」
「いや、このまま」
「うん」
がさがさと空をビニールに詰め込んで、机の上にはキリンの缶が2本残った。じゃあよろしく、と言われて缶を合わせた。
「いやー、疲れた日のビールはうまい」
「お前これ、明日になったら忘れてるとかないだろうな」
「ないない!大学が田舎すぎてさあ、遊ぶとこないからずっと飲んでたのよ」
「とんでもないな」
「赤木ぃ」
「なんだ」
「ぎゅっとしてみていい?」
「ほら」
「わー、でか!胸筋すごいね!かった!すごい!あっごめんつい癖で」
「ゴリラの診察はしないんじゃなかったのか」
「いつ動物園から依頼がくるかわかんないじゃん」
「俺で練習するな」
「赤木、あったかいねえ。ほかほかする」
「そっちこそ風呂上がりじゃないか」
「ほらほら、お願い、折れたりしないからさ。木暮かなんかだと思ってぎゅっとしてみて」
「お前は木暮をなんだと思ってるんだ」
背中に掌をあてると、気持ち良さそうに目を閉じて、俺の胸に頬を寄せている。今なんか、すごいことが起こっている気がする。
「お前はいいのか、いかつい旦那だって死ぬまで言われるぞ」
「仕事は獣医で旦那はゴリラって最高すぎない?鉄板ギャグになるじゃん」
「もう知らん」
お互いたくさん用意した逃げ道をひとつずつふさいで、もう離せないぞ、というかわり、とうとう腕に力を込める。
「ごめん、遅くなったね。家の人心配してるんじゃない」
「そんなわけないだろ、30で2メートルで100キロの男だぞ」
「ブフ、自分もネタにしてんじゃん」
「明日、6時な」
「やば、デートみたい」
「デートだろ」
「焼き肉なんだからおしゃれしてきたらだめだよ」
「わかっとる」
「繁殖の方は、試してみたくなったらコンドームは用意してね」
「貴様よくもそんな、」
「獣医だからね。和牛の精子を採取する話とか聞く?高値で取引されるのよ」
「いい、わかったから」
精一杯茶化した合図を一応受け取って、卓上のメモに「6時にコンビニ、赤木と焼肉」と書き置いて部屋をあとにした。ちょっと今、何が起こっているのかわからない。人生で一番焦ったのは三井が体育館に殴り込みに来たのをどうにかごまかそうとした時だったが、軽く飛び越えてきた。明日、焼肉、6時にコンビニ。