case1:面白くない女
name input
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
片手で本を開いて、慣れた手つきで下駄箱から上履きを取り出し履き替える。いつものことだ。もう文字から目を離すことも無い。二年も通えば昇降口から教室までなんて寝ぼけていても行けるものだ。流石に階段があるから目を瞑ったまま行けるとは言えないけれど。
そんな私だから、勿論前を見ているわけもない。時折、視線を本より下の、手元に移し、身体と本の隙間から他人の足が見えないか確認する程度だ。今も同じように、ちらりと猫の額ほどの視界で進行方向を確認して足を踏み出す。どん、と誰かにぶつかって、僅かに身体が後方へ飛ばされた。一、二歩程度の物だけれど。
手に持っていた本もとさりと落ちてしまった。あーあ、買ったばかりなのに。そうは言っても、悪いのはこちらなのだから仕方ない。屈んで本を拾い上げた。
「ごめんなさい。前を見ていなくて。」
「歩き読みとは感心しねぇな。」
「……え?」
頭一つ分くらいだろうか。上の方から聞こえた声に呆然とする。
普通ここは向こうも謝罪するところだろう。どうして私の読書事情まで踏み込まれないといけないんだ、と大人げなく不満の色を隠さず相手の顔を確認して、あぁこれは怒るだけ無駄だ、と両肩を下げた。それをどう捉えたのかは知らないが、跡部が得意げに眉と口角を上げる。
「おい、俺様の事を知らねぇのか。」
「いや、ごめん。普通に生徒会長の顔くらい知ってる。」
ついでに言うと、彼がテニス部の部長で、成績優秀、才色兼備、文武両道、実家は金持ちの御曹司だという事まで知っている。というか、この学校で彼の事を微塵も知らない人間などいやしないのではなかろうか。
彼は不満気に眉を顰めた。
「……その反応は可笑しくない?知っといて欲しかったんじゃないの?」
何なら誕生日まで申し上げましょうか?とわざとらしく鼻にかけて笑って見せた。あれだけ毎年秋になると女子が騒ぐのだ。調べずとも跡部の誕生日なんて予想くらいは付く。
「てめぇ、つまらねぇな。」
他の女となんら変わんねぇじゃねぇの、と。知るか。
アンタが勝手に期待して、勝手に失望したのだ。私の知ったこっちゃない。溜息を吐かれた処で知っていることを知らないとも言えず、そもそも跡部の問い方だって知っているのが当たり前だというような問い方だったではないか。空気の読める日本人といえど、あの状況から知らないと答えるのが正解だなんてどうして気づけようか。
「おい、汐原。」
「どうして私の名前知ってるんですか。」
「全校生徒の名前くらい覚えてて当然だろうが。あーん?」
待って、それは普通じゃない。当然じゃない。うちの学校どれだけ生徒いると思ってるんだ。思わず、じりっと一歩距離をとる。このまま逃げよう。幸いつまらない女認定されたから、向こうからわざわざ寄ってくることも無いだろう。私からも生徒会長に用があるなんて状況も絶対ない。早く立ち去って、全部忘れてしまえばいい。
「……勉強熱心なのは結構だが、前は見て歩きやがれ。」
「ぅえ?!」
唐突にぽんと頭を軽く叩き、跡部は私の背後に続く廊下へ消えて行った。私も目の前に続く道を早歩きで進む。手にした本は開かれていない。
(なんだあれ、なんだあれ……!)
ばくばくと煩い心臓は、跡部に引いたからだ。絶対そうだ。
つまんねぇと評したくせに優しい言葉をかけるなんて。そんなのにときめく程、私は安い女じゃない。絶対に、断じて、そんなことはあり得ない!
頬の熱は引かないけれど。
1/1ページ