無自覚症状
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「惇兄」
と、隻眼の大将軍を呼んだ人物は酷く険しい顔をしていた。やけに目立つ白銀の鎧を身につけた女だ。顔立ちはどこか幼いが、額から右目の下にかけて刀傷がある。
夏侯惇と話をしていた張遼は少し首を傾げて、足早に歩いてくる女と彼とを見比べた。
――夏侯惇将軍に武人の妹がいたという話は聞かないが?
夏侯惇は彼女の姿に気付くや、渋面を作ってその名を呼んだ。
「……………………紅蓮」
と、いうらしい。
(どこかで聞いたことがあったか)
聞き覚えのある名ではある。
紅蓮と呼ばれた女は返事もせずに夏侯惇に詰め寄ると、彼を激しく責めた。
「自分ばかり挨拶とは酷いではないか。わたしとて張遼殿に挨拶をしたくて城内を探し回っていたというのに。本当に酷い。わたしが此度の戦でどれだけ我慢をしたか、惇兄は知っているだろう!」
と。
夏侯惇は頭の痛そうな顔をして、紅蓮の顔の前でひらひらと手を振った。いかにも彼女のあしらいは慣れているという様子だ。
「分かっている。分かっているからそう聞き分けのないことを言うな。人前だ」
そうして、ぽかんとそのやりとりを眺めていた張遼に向き直った。
「従妹の紅蓮だ。遅くに生まれたせいか、両親がいたくこれのことを溺愛してな。この通り分別の付かない箱入り娘だが、仲良くしてやってくれ」
当然だが、その紹介が気に入らなかったのだろう。女は顔を真っ赤にして、ぷるぷると肩を震わせている。が、こちらの視線に気付くとぐっと怒りを呑み込んで唇を無理やり笑みの形に歪めたのだった。
「ま、まあいい。大方は惇兄――夏侯惇将軍の紹介した通りだ。人としても武人としても貴殿らに大きく及ばぬゆえ、いろいろと学ばせてもらえるとありがたい」
「おお、お前にしてはまともな挨拶をしたな」
日頃は顔をしかめきっているような夏侯惇が、従妹相手には心を許したものである。あるいは溺愛しているのは彼ではないかと、張遼は思ったのだが。
「元譲!」
やはり気に入らなかったのだろう。紅蓮は今度こそ笑みを崩壊させ、キッと夏侯惇を睨んだ。そうして怒ると夏侯一族の人、あるいは彼女の従甥にあたるであろう曹丕の面影が見えないこともない。そこでようやく、張遼はひとつの噂話を思い出した。
「ああ、耳にしたことがある」
――曹軍には女武将がいる。夏侯一族の娘で、鬼神呂布のような方天戟を自在に扱う。性格は至って残酷で返り血の目立つ白銀の鎧を身に纏い、まるで窮奇のように笑うのだ。
とは噂にしても、随分と盛られたものである。それを聞いたときには、
「恐ろしい女もいるものだ」
と、思ったものだが。
目の前で従兄と口論をする彼女がどうして残酷な人に見えようか。返り血の目立つ白銀の鎧が、そんな噂を呼んだのか。確かに額から右目にかけて走る傷は確かに痛々しいが、その顔立ちは伝説上の化け物に比するほどでもない。
いつの間に喧嘩は収まっていたらしい。
気付けば目の前では紅蓮がこちらに手を差し出していた。
「そういうわけで、よろしく頼む」
――そういうわけ、とは。
戸惑いつつも、張遼は愛想笑いとともに女武将の手を握り返した。女にしては固い、けれど男に比べれば華奢すぎるほどの手が張遼の手を握り返してくる。紅蓮はそうやって握った手をしげしげと眺めながら、
「わたしは貴殿にずっと会いたかったのだ」
そんなことを言った。
(は――?)
張遼が訝るより早く、夏侯惇がやはり苦い顔で従妹の頭を押さえつけた。
「紅蓮――」
「い、いだっ、惇兄! 何をするのだ!」
「まったく、お前というやつはなんでも一度に伝えなければ気が済まないのか。見てみろ、張遼とて呆れているぞ」
「なにっ」
驚いた様子から察するに、本人には突拍子もないことを言っている自覚はないらしい。
「変なことを言ったか? わたしは」
「いや――」
「ほらみろ。惇兄の気の回しすぎだ」
「馬鹿……」
長嘆して彼女を後ろへ押しやると、彼は気苦労の多そうな顔を張遼に向けた。
「呆れただろう、張遼」
「……話に聞いたのとはまた随分と違う、と」
夏侯惇の問いに、張遼は肯定も否定もしなかった。呆れた――と言うよりは驚いていると言った方が正しい。また目の前の女武将の顔へ浮かぶ分かりやすい憧憬に困惑していたというのも、そんな曖昧な言い回しをした理由であった。
憧憬? 果たしてそれは憧憬であったのか。
いいや。慕情や好意というもう一歩踏み込んだ感情に近いものがある。恐らくは紅蓮の顔に武人らしさが浮かんでいたのなら、それほど戸惑うことはなかったのだろう。武を磨いてゆくその過程で、自分の名が随分と知られるようになったことは張遼も自覚している。
だが、臆面もなく
「会いたかったのだ」
と、見上げてくる彼女の顔のなんと無防備なことか。
「ほう。わたしを噂する者もあるのか! 惇兄、わたしも随分と名が知られるようになったようだぞ。これはますます先の戦で武功を立てることができなかったのが、惜しい」
子供のようにはしゃぐ紅蓮に、夏侯惇は呆れている。
「人前であまりはしゃぐな、紅蓮。曹軍では皆こうかと思われる」
「ははは。しかし、似たようなものだ。惇兄はこれでなかなかに世話好きだし、淵兄は意外に抜けたところがある。殿の人数奇は蒐集家の粋であるし。まあ、付き合ってみれば分かると思うが他もそれぞれ一癖も二癖もある者ばかりだ」
「おい、紅蓮」
「とにかく、わたしは曹軍が大好きだ。張遼殿にも気に入ってもらえたら、これ以上に嬉しいことはない」
そう言ってにっこりと笑う。
夏侯惇はその隣で、
「先まで機嫌を損ねていたくせに、本当に子供のような奴だ」
と、苦い顔をしていた。
「張遼、俺はそろそろ孟徳のところへ顔を出さねばならん。こいつの相手が面倒ならば、一緒に連れて行くが……」
「惇兄! そういう言い方はないだろう」
溜息を吐く夏侯惇と抗議をする紅蓮を眺め少し考えた末に、張遼はかぶりを振った。それには及ばないという意味である。夏侯惇は、そうかと言うともう一度従妹の肩を叩いて、
「張遼を困らせるなよ。勝手がすぎると嫌われるぞ」
そんな忠告を残して去っていったのだった。
その姿が渡りの向こうへ消えると、紅蓮は彼の言葉を気にしたようにやや遠慮がちに告げてきた。
「本当は、下邳の戦が終わった後に貴殿を見ているのだ」
「下邳で? しかし」
「声をかけづらかった。わたしは陣に加えられなかったから」
初めてその瞳を翳らせ、
「戦の後、わたしは下邳の城門へ呂布の姿を見に行った」
まるで秘密を打ち明けるような小声で、言った。どこか物憂げである。一方で言葉には奇妙な熱が感じられないこともない。彼女は、ただひたすら叛に走り、己の武を貫いた男に、なにか特別な想いを抱いている様子だった。
張遼は少しだけ興味を覚えて「それで」と先を促した。
「見た」
と、紅蓮は簡潔に言うのみであった。
「その後、陣へ戻ろうとしたときに貴殿を見かけたのだ。張遼殿。貴殿はわたしと違う場所から、真っ直ぐに城門を眺めていた」
その光景を思い出しているのだろう。その瞳は張遼を通して、過去を見つめていた。
「あのとき躊躇したことを後悔している。誰より早く声をかけたかった。殿が貴殿を斬らなかったことを誰より喜んだのはわたしだと、言いたかったのだ」
「…………」
「殿が呂布を斬ったと聞いたとき、すべてが無になったと感じた。いや、殿の決断を恨んでいるわけではないのだ。戦場でまみえるどころか、その死の瞬間にさえ立ち会えなかった自らの未熟さを恨んだ。我侭を通して武人となったことも、周りに世話を焼かせただけかと思っていた。けれど、貴殿が生きていてくれたことでわたしは救われたのだ。至高の武を再び間近に見ることはできなかったが、まだ貴殿と戦場に立つことはできる」
――それが、理由か。
張遼は初めて紅蓮から向けられた好意の意味を理解した。語る瞳の中には、確かに武への憧れがある。彼女は一息で胸の内を吐き出すと、初めて困ったような顔をした。
「申し訳ない。多分、すごく困らせているのだと思う」
「いや――」
「わたしは貴殿のようになりたい。親しく付き合ってもらえたのなら、これ以上に嬉しいことはない」
紅蓮の顔を見返したとき、張遼はらしくもなく狼狽えてしまった。先までは――武を語っていたときには確かに将の顔をしていた彼女が自分を見る目は、やはりどうしてか武人らしくないのだ。夏侯惇も紅蓮自身も特には気にしていないようだが、張遼にしてみればそれは酷い矛盾のように思われた。胸のあたりに引っかかるものを感じて思わずじっと見つめ返せば、白銀の女武将はパッと赤らめた顔を伏せてしまった。
「――よろしく頼む」
張遼もなんとなくばつの悪い思いをしながら、短く言った。
それが彼女との出会いであった。
END