漆黒の人魚姫
名前変換
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中島敦が太宰治と出会った二日後のことである。
探偵社の社員寮で目を覚ました敦は、暫くぼんやりと辺りを見渡した。
起き抜けの鈍い頭で、ここは何処だろうかと首を捻った。
壁も床も天井も、部屋の間取りも、孤児院とは異なる。
起床喇叭も早朝点呼も聞こえない。
朝一番におはようと言ってくれる妹分の姿もない。
そこで、無機質な電子音が敦の思考を現実に引き戻した。
慌てて跳ね起き、布団の傍に落ちていた携帯電話を手に取る。
慣れない機械の操作に四苦八苦しつつ、通話ボタンを押して耳に当てた。
「は、はい?」
≪やあ、敦君。新しい下宿寮はどうだい? 善く眠れた?≫
聞き覚えのある声――太宰の声だ。
それを聞いてようやく一連の出来事を思い出した。
生まれ育った孤児院を追い出され、路頭に迷っていたこと。
異能力集団“武装探偵社”と出会い、人食い虎の捜索に協力したこと。
しかし実は、その人食い虎の正体は中島敦本人で、虎に変身する異能力者だと判明したこと。
虎の暴走を止めてくれた太宰の厚意で、今は探偵社の社員寮に住まわせてもらっていること。
「お陰様で、こんな大層な寮を紹介いただいて」
孤児院を追い出されてから二週間、食べるものも寝るところもなかった境遇から一転、ここはまるで天国のようだ。
ただまあ、孤児院も決して居心地の良い場所ではなかったのだが。
≪それは好かった。ところで頼みが有るのだが≫
「?」
≪助けて。死にそう≫
唐突なSOSに、頭上に疑問符が浮かんだ。
しかも、続いて太宰の口から告げられた現在位置は、ちょうど今いる寮の目の前である。
ますます状況が掴めないものの、通話を切った後、言われるままに素早く身支度を済ませ、自室を出た。
寮の廊下に出た時、ちょうど右隣の部屋の扉が開く気配がした。
「あっ、おはようございます!」
反射的に挨拶を口にして、そちらへ向き直った。
隣室から出てきた人物が視界に入り、頭を下げようとした敦の動きが不自然に止まった。
敦の目の前には、息を呑むほど美しい少女が立っていたのだ。
腰まで伸びる艶やかな黒髪、透明感のある白い肌、人形のような端正な目鼻立ち――どれをとっても神の寵愛を受けた完成度である。
歳は敦より下に見えるものの、全体的に大人びた雰囲気のお陰でブラックスーツを見事に着こなしている。
敦の声に反応して、少女は目線を動かした。
深く透き通った青色の瞳に敦の姿が映る。
「おはよう」
形の良い唇から、鈴を転がすような声がした。
唖然と凝視していた敦だったが、それを契機にようやく声帯を機能させることができた。
「な、なっ……なん……」
今の敦の様子を第三者が評価するなら、少女の神秘的な美しさに呑まれてまともに会話できない状態に見えるだろう。
次に発せられるのは無難な自己紹介か、あるいは彼女の美しさへの賛美かと思われたが、実際に敦の口から飛び出た台詞は全く異なるものだった。
「なんで……なんで名前が此処にいるんだ!?」
敦は少女の名前を周知しており、しかもやや乱雑な口調で質疑したのである。
それに対して少女は僅かに目を伏せたものの、敦の言動を訝しむような素振りはない。
少女の名前は苗字名前、歳は十四。
今でこそ立派なスーツを身に纏っているが、敦と同じ孤児院の出身である。
敦にとって、孤児院は決して居心地の良い場所ではなく、職員や子供達の多くは敦に対して好意的ではなかった。
しかし、そんな中で名前だけは敦を冷遇せず、敦も名前のことを妹のように可愛がっていた。
だから、孤児院を追い出されてから二週間、残してきた名前のことが気がかりだったし、自分のいない孤児院でうまくやっているだろうかとずっと案じていたのだ。
そんな彼女が、横浜の、しかも武装探偵社の寮にいるという事実は、敦の理解の範疇を完全に超えるものだった。
「おーい、敦君。早く助けてくれ」
階下で太宰の声がした。
名前は敦に背を向けると、廊下を歩き始めた。
えっ、という敦の当惑した声に対して、名前は一度だけ振り返った。
「仕事があるの。またあとでね、敦」
そう言い残して、今度こそ去っていった。
二週間振りとは思えないほど淡泊な対応に、敦は呆然とその後ろ姿を見送ることしかできなかった。
探偵社の社員寮で目を覚ました敦は、暫くぼんやりと辺りを見渡した。
起き抜けの鈍い頭で、ここは何処だろうかと首を捻った。
壁も床も天井も、部屋の間取りも、孤児院とは異なる。
起床喇叭も早朝点呼も聞こえない。
朝一番におはようと言ってくれる妹分の姿もない。
そこで、無機質な電子音が敦の思考を現実に引き戻した。
慌てて跳ね起き、布団の傍に落ちていた携帯電話を手に取る。
慣れない機械の操作に四苦八苦しつつ、通話ボタンを押して耳に当てた。
「は、はい?」
≪やあ、敦君。新しい下宿寮はどうだい? 善く眠れた?≫
聞き覚えのある声――太宰の声だ。
それを聞いてようやく一連の出来事を思い出した。
生まれ育った孤児院を追い出され、路頭に迷っていたこと。
異能力集団“武装探偵社”と出会い、人食い虎の捜索に協力したこと。
しかし実は、その人食い虎の正体は中島敦本人で、虎に変身する異能力者だと判明したこと。
虎の暴走を止めてくれた太宰の厚意で、今は探偵社の社員寮に住まわせてもらっていること。
「お陰様で、こんな大層な寮を紹介いただいて」
孤児院を追い出されてから二週間、食べるものも寝るところもなかった境遇から一転、ここはまるで天国のようだ。
ただまあ、孤児院も決して居心地の良い場所ではなかったのだが。
≪それは好かった。ところで頼みが有るのだが≫
「?」
≪助けて。死にそう≫
唐突なSOSに、頭上に疑問符が浮かんだ。
しかも、続いて太宰の口から告げられた現在位置は、ちょうど今いる寮の目の前である。
ますます状況が掴めないものの、通話を切った後、言われるままに素早く身支度を済ませ、自室を出た。
寮の廊下に出た時、ちょうど右隣の部屋の扉が開く気配がした。
「あっ、おはようございます!」
反射的に挨拶を口にして、そちらへ向き直った。
隣室から出てきた人物が視界に入り、頭を下げようとした敦の動きが不自然に止まった。
敦の目の前には、息を呑むほど美しい少女が立っていたのだ。
腰まで伸びる艶やかな黒髪、透明感のある白い肌、人形のような端正な目鼻立ち――どれをとっても神の寵愛を受けた完成度である。
歳は敦より下に見えるものの、全体的に大人びた雰囲気のお陰でブラックスーツを見事に着こなしている。
敦の声に反応して、少女は目線を動かした。
深く透き通った青色の瞳に敦の姿が映る。
「おはよう」
形の良い唇から、鈴を転がすような声がした。
唖然と凝視していた敦だったが、それを契機にようやく声帯を機能させることができた。
「な、なっ……なん……」
今の敦の様子を第三者が評価するなら、少女の神秘的な美しさに呑まれてまともに会話できない状態に見えるだろう。
次に発せられるのは無難な自己紹介か、あるいは彼女の美しさへの賛美かと思われたが、実際に敦の口から飛び出た台詞は全く異なるものだった。
「なんで……なんで名前が此処にいるんだ!?」
敦は少女の名前を周知しており、しかもやや乱雑な口調で質疑したのである。
それに対して少女は僅かに目を伏せたものの、敦の言動を訝しむような素振りはない。
少女の名前は苗字名前、歳は十四。
今でこそ立派なスーツを身に纏っているが、敦と同じ孤児院の出身である。
敦にとって、孤児院は決して居心地の良い場所ではなく、職員や子供達の多くは敦に対して好意的ではなかった。
しかし、そんな中で名前だけは敦を冷遇せず、敦も名前のことを妹のように可愛がっていた。
だから、孤児院を追い出されてから二週間、残してきた名前のことが気がかりだったし、自分のいない孤児院でうまくやっているだろうかとずっと案じていたのだ。
そんな彼女が、横浜の、しかも武装探偵社の寮にいるという事実は、敦の理解の範疇を完全に超えるものだった。
「おーい、敦君。早く助けてくれ」
階下で太宰の声がした。
名前は敦に背を向けると、廊下を歩き始めた。
えっ、という敦の当惑した声に対して、名前は一度だけ振り返った。
「仕事があるの。またあとでね、敦」
そう言い残して、今度こそ去っていった。
二週間振りとは思えないほど淡泊な対応に、敦は呆然とその後ろ姿を見送ることしかできなかった。