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――名前ちゃんは、両親を吸血鬼に殺されて、仇を討ちたいとは思わないの?
まだお母さんが生きていて、魔術の扱い方を習いにC3の東京支部に通っていた頃、吊戯さんにそう訊かれたことがある。
悪意のないその問いが酷く印象に残って、逆に自分がどんな返答をしたのか覚えていない。
ただし、次の吊戯さんの発言を踏まえると、『仇を討つってどういう意味?』といった類の質問で返したのだろうと推察される。
我ながら、随分と世間知らずな質問をしたものだ。
――えーっと、たとえば、吸血鬼が憎いとか、吸血鬼を恨んでるとか、吸血鬼を殺したいとか、そういうことかな。
吊戯さんが羅列した感情のどれも、当時の私の中に一致するものはなかった。
吸血鬼と言われて思い浮かぶのは、スノウリリイ(当時その名ではなかったが)や少年少女の姿をした色欲の下位吸血鬼達だった。
赤ん坊の頃の経験を伝聞でしか受け取っていない私にとっての“吸血鬼”は、親の仇ではなく家族だったのである。
家族のことを『憎い』『恨んでる』『殺したい』とは考えもつかなかった。
もしも日常の中から負の感情を探すとしたら、ふとした拍子に気づく、自分の心のうちにぽっかりと穴が開いた感覚だろうか。
たとえば、義父 が懐かしそうに親友だった父について語るのを目の当たりにした時。
たとえば、肉親の形見である魔術道具を手にした時。
たとえば、幻術の使い方を記した書物の中に、母らしき女性による書き込みを見つけた時。
たとえば、東京支部内で肉親の名前とともに私が話題にされるのを盗み聞いた時。
そんな時に去来した僅かな切なさを強いて言語化するなら、“寂しさ”だったのだろう。
けれどその空虚は、それ以上何かに進化することも発展することもなかった。
きっと当時もそんな風に心中を白状して、吊戯さんの言葉を否定したのだと思う。
すると、彼は笑ってこう言った。
――……そっか。強いね。君は無垢で強いね。
その台詞の意味は昔も今も分からないままだが、最後の言葉をこう置き換えたらいくらか理解が進むようになる。
『君は無知で強いね』
きっと吊戯さんは、本当はこう言いたかったのではないだろうか。
仇という言葉の意味を知らず、憎悪も怨嗟も敵意も殺意も実感したことのない箱庭育ちのお嬢様は、そのまま箱庭で暮らし続けている限りは確かに最強だっただろう。
愚かしいほど哀れで、憎らしいほど健やかな私が吊戯さんの目にどう映っていたか、今なら多少想像がつく。
そして彼が危惧した通り、私は無垢で無知なままではいられなくなった。
すべての発端はお母さんが亡くなり御国が失踪した日だったが、本当の意味で“箱庭”が崩壊したのはもっと後だ。
二人がいなくなったことで、大切な人が隣にいる日々が当たり前でない事実を最悪の形で知ってしまった私は、当時ひどく不安定な精神状態だった。
幼い私はその残酷な事実に向き合えず、安易な偽りの幸福に逃げたのだった――逃げた先は、御国の幻影だった。
御国は何処かで平穏無事に生きていて、至極幸福に過ごしているという幻想だった。
そして、御国が自分より六歳も年上であることも、そんな身勝手な妄想に拍車をかけた。
彼は昔から自分にできないことを何でもやってのけたから、たった一人で外の世界を生き抜くことも容易だと本気で思い込んでいたのだ。
きっと兄にとって、この箱庭は狭すぎたのだ――今は広い世界を立派に渡り歩いていて、いつか思いがけない時にひょいと帰って来るのだと信じていた。
私は何処までも無知だった上、そのことに無自覚だった。
現実を思い知ったのは、奇しくも私の十三歳の誕生日だった。
御園に半ば強引に外出を勧められたので、自宅近くの駅前をぶらついている時だった。
今頃サプライズパーティの準備に奔走しているだろう弟を想って頬を緩めたその瞬間、唐突に“あの日”の真実を思い出したのだ。
当時は、実母の遺した資料とスノウリリイの助言をもとに独学で習得した幻術がようやく使い物になり始めた頃でもあった。
幻術の腕と共に、幻術への耐性も磨かれたんだろうね――日記を読みながら、椿はそんな風に分析した。
だとしても、あの日あのタイミングで、リリイが私にかけた記憶操作が綻んだことは、何か天命のようなものを感じざるを得ない。
とはいえ、私が思い出したのは、ほんの断片に過ぎなかった。
血だまりに倒れる母と、それを見つめる御国、傍に佇む長身の男。
私の背後から覗き込んだ御園が「お兄ちゃん」と声を掛け、御国が振り向いた。
真実というにはあまりにか細い、たったそれだけの光景だった。
しかし、ある事実に気づくことはできた。
無敵だと崇めていた兄は、自分とたった六歳しか違わない、ただの子供だったこと。
私が家族から祝福される温かい誕生日を迎えている頃、御国は知らない場所で一人きりでいること。
有栖院家の人達のおかげで知らずにいた負の感情を、御国がたった独りで耐え続けていること。
――本当はそれらの事実にいつでも気づくことができたのに、見て見ぬ振りをしてきたこと。
自分の罪を自覚した途端、急に息が苦しくなり、目眩で立っていられなくなった。
あれだけ居心地良かった箱庭が、冷たい水底のように感じた。
私を祝うために用意してくれた空間が、ただただ苦しかった。
――気がつけば、弾かれたように走り出していた。
その時の私は、確固たる意思もまとまった思考もなく、ただ“兄を捜す”という目的に取り憑かれていた。
捜すあても、家に残した弟のことも、何もかも考えなしだった。
頭にあったのは、あの日の御国のことだった――御園に呼ばれて振り向いた時の、御国のつらそうな顔だけだった。
呼吸を求めるように、あるいは救いを求めるように。
御国が帰ってくることのないあの家を、二年越しに飛び出した。
まだお母さんが生きていて、魔術の扱い方を習いにC3の東京支部に通っていた頃、吊戯さんにそう訊かれたことがある。
悪意のないその問いが酷く印象に残って、逆に自分がどんな返答をしたのか覚えていない。
ただし、次の吊戯さんの発言を踏まえると、『仇を討つってどういう意味?』といった類の質問で返したのだろうと推察される。
我ながら、随分と世間知らずな質問をしたものだ。
――えーっと、たとえば、吸血鬼が憎いとか、吸血鬼を恨んでるとか、吸血鬼を殺したいとか、そういうことかな。
吊戯さんが羅列した感情のどれも、当時の私の中に一致するものはなかった。
吸血鬼と言われて思い浮かぶのは、スノウリリイ(当時その名ではなかったが)や少年少女の姿をした色欲の下位吸血鬼達だった。
赤ん坊の頃の経験を伝聞でしか受け取っていない私にとっての“吸血鬼”は、親の仇ではなく家族だったのである。
家族のことを『憎い』『恨んでる』『殺したい』とは考えもつかなかった。
もしも日常の中から負の感情を探すとしたら、ふとした拍子に気づく、自分の心のうちにぽっかりと穴が開いた感覚だろうか。
たとえば、
たとえば、肉親の形見である魔術道具を手にした時。
たとえば、幻術の使い方を記した書物の中に、母らしき女性による書き込みを見つけた時。
たとえば、東京支部内で肉親の名前とともに私が話題にされるのを盗み聞いた時。
そんな時に去来した僅かな切なさを強いて言語化するなら、“寂しさ”だったのだろう。
けれどその空虚は、それ以上何かに進化することも発展することもなかった。
きっと当時もそんな風に心中を白状して、吊戯さんの言葉を否定したのだと思う。
すると、彼は笑ってこう言った。
――……そっか。強いね。君は無垢で強いね。
その台詞の意味は昔も今も分からないままだが、最後の言葉をこう置き換えたらいくらか理解が進むようになる。
『君は無知で強いね』
きっと吊戯さんは、本当はこう言いたかったのではないだろうか。
仇という言葉の意味を知らず、憎悪も怨嗟も敵意も殺意も実感したことのない箱庭育ちのお嬢様は、そのまま箱庭で暮らし続けている限りは確かに最強だっただろう。
愚かしいほど哀れで、憎らしいほど健やかな私が吊戯さんの目にどう映っていたか、今なら多少想像がつく。
そして彼が危惧した通り、私は無垢で無知なままではいられなくなった。
すべての発端はお母さんが亡くなり御国が失踪した日だったが、本当の意味で“箱庭”が崩壊したのはもっと後だ。
二人がいなくなったことで、大切な人が隣にいる日々が当たり前でない事実を最悪の形で知ってしまった私は、当時ひどく不安定な精神状態だった。
幼い私はその残酷な事実に向き合えず、安易な偽りの幸福に逃げたのだった――逃げた先は、御国の幻影だった。
御国は何処かで平穏無事に生きていて、至極幸福に過ごしているという幻想だった。
そして、御国が自分より六歳も年上であることも、そんな身勝手な妄想に拍車をかけた。
彼は昔から自分にできないことを何でもやってのけたから、たった一人で外の世界を生き抜くことも容易だと本気で思い込んでいたのだ。
きっと兄にとって、この箱庭は狭すぎたのだ――今は広い世界を立派に渡り歩いていて、いつか思いがけない時にひょいと帰って来るのだと信じていた。
私は何処までも無知だった上、そのことに無自覚だった。
現実を思い知ったのは、奇しくも私の十三歳の誕生日だった。
御園に半ば強引に外出を勧められたので、自宅近くの駅前をぶらついている時だった。
今頃サプライズパーティの準備に奔走しているだろう弟を想って頬を緩めたその瞬間、唐突に“あの日”の真実を思い出したのだ。
当時は、実母の遺した資料とスノウリリイの助言をもとに独学で習得した幻術がようやく使い物になり始めた頃でもあった。
幻術の腕と共に、幻術への耐性も磨かれたんだろうね――日記を読みながら、椿はそんな風に分析した。
だとしても、あの日あのタイミングで、リリイが私にかけた記憶操作が綻んだことは、何か天命のようなものを感じざるを得ない。
とはいえ、私が思い出したのは、ほんの断片に過ぎなかった。
血だまりに倒れる母と、それを見つめる御国、傍に佇む長身の男。
私の背後から覗き込んだ御園が「お兄ちゃん」と声を掛け、御国が振り向いた。
真実というにはあまりにか細い、たったそれだけの光景だった。
しかし、ある事実に気づくことはできた。
無敵だと崇めていた兄は、自分とたった六歳しか違わない、ただの子供だったこと。
私が家族から祝福される温かい誕生日を迎えている頃、御国は知らない場所で一人きりでいること。
有栖院家の人達のおかげで知らずにいた負の感情を、御国がたった独りで耐え続けていること。
――本当はそれらの事実にいつでも気づくことができたのに、見て見ぬ振りをしてきたこと。
自分の罪を自覚した途端、急に息が苦しくなり、目眩で立っていられなくなった。
あれだけ居心地良かった箱庭が、冷たい水底のように感じた。
私を祝うために用意してくれた空間が、ただただ苦しかった。
――気がつけば、弾かれたように走り出していた。
その時の私は、確固たる意思もまとまった思考もなく、ただ“兄を捜す”という目的に取り憑かれていた。
捜すあても、家に残した弟のことも、何もかも考えなしだった。
頭にあったのは、あの日の御国のことだった――御園に呼ばれて振り向いた時の、御国のつらそうな顔だけだった。
呼吸を求めるように、あるいは救いを求めるように。
御国が帰ってくることのないあの家を、二年越しに飛び出した。