【番外編】幕間
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下校時刻、黄瀬は昇降口で見慣れた藍色の髪の人物が立っているのを視認するなり、声を張り上げて呼び掛けた。
「莉乃っち!!」
すると、莉乃は靴箱の扉に伸ばした手を止め、駆け寄ってきた黄瀬に優しい笑みを向けた。
「黄瀬君か。偶然だな」
小学生の頃から莉乃を知っている黄瀬は、彼女があだ名での呼び掛けにこうしてにこやかに答えてくれるのは奇跡に近い出来事だと理解している。
この幸運な邂逅と相まって、彼の気分は自然と高揚した。
「今帰りっスか? 珍しいっスね、こんな時間に一緒になるなんて。今日は部活ないんスか?」
「ああ。定期テスト前だからな」
黄瀬の方から話を振ったものの、彼の認識は『莉乃がバスケ部のマネージャーをしているらしい』という程度で、まだバスケ部自体に興味があるわけではない。
なるべく関心を持たれないよう、莉乃の側が会話の内容や語調、態度に至るまで常日頃から気遣っているからだ。
とある事情により、現時点で黄瀬をあまりバスケ部と関わらせたくないと考えている彼女は、期せずして部活の話題に発展し内心焦燥したが、その心配は杞憂に終わった。
開けっ放しになった莉乃の靴箱からひらりと零れ落ちた一枚の手紙が、黄瀬の意識を完全に奪ったためだ。
「あ」
「えっ!?」
莉乃と黄瀬の視線が、床に落ちた手紙に集中する。
白い横書きの封筒に、ハートのシールで封がしてある。
差出人の名前は、見当たらない。
黄瀬は自身の経験と照らし合わせ、一見しただけで“それ”の正体を容易に突き止めた。
――あれって、もしかしなくてもラブレターっスよね!?
異性から絶大な人気を誇る彼も、時折貰うことがある。
言うまでもない注釈だが、ラブレターとは意中の相手に愛を告白し、交際を申し込む文言が書かれた手紙のことだ。
愛を告白。
藍良莉乃に。
ショックで固まる黄瀬をよそに、莉乃は平然とした様子で“それ”を拾い上げた。
「今日も入っていたのか」
「……『今日も』って……こういうことってよくあるんスか?」
黄瀬が振り絞るようにそう訊くと、やけにあっさりとした答えが返ってきた。
「こういう手紙か? そうだな。最近特に増えたよ」
莉乃の何気ない一言で、黄瀬は更に打ちひしがれる。
彼が驚いたのは、頻繁にラブレターを貰っている事実の方ではない。
黄瀬が言えたことではないが、まず彼女の容姿は異性の気を引くに充分な水準である。
青春を学校に捧げ、人生を他人に尽くすような女性に需要があるかどうかはさておき、彼女の博愛と献身は、誰もが心から尊敬する代物だ。
その尊敬の念が、思春期特有の恋愛感情に発展してもさほど不思議ではない。
少なくとも、そうなった人間を黄瀬は一人知っている。
そういう奇特な人物が勢いあまって莉乃に告白したとしても、別段驚くに値しない。
だから、黄瀬が驚いたのは、ラブレターの方ではなく――
「受け取るんスか?」
「当然だ」
「……いいんスか?」
黄瀬の剣幕に莉乃は暫し目を見張ったが、やがて、ああ、と確かに肯定した。
黄瀬が驚いたのは、莉乃が誰かの恋愛感情を当然のように受け入れたことだ。
――青春はこの学校に捧げている。
――だから恋人は必要ない。
以前、莉乃がそう宣言した場に、黄瀬も居合わせたことがある。
その時、彼女の言葉の中に僅かな嘘を感じ取ったのだった。
その発言の裏にあるのは、多くの人を救うという大義を達成するため、重荷となり枷となりそうな特定の人物は作らない――という類の想像の容易い意図ではない。
もっと複雑で、もっと異様で、もっと救いようのない理由があるような気がするのだ。
その詳細は不明だが、とにかく、藍良莉乃は自分が恋することはおろか、誰かに想いを寄せられることすら病的に禁じているようだった。
それなのに、どういう訳か、今突如靴箱から現れた告白の代名詞とも言えるラブレターを、彼女はまるでそこにあるのが当然の如き自然な対応で受け取った。
この想像と現実のギャップが、黄瀬の心にとある隙を作った。
ラブレターに限らず、自分の恋心を相手に伝える意図として、ひとつは相手と結ばれたいという下心が挙げられる。
相手が少しでも自分のことを意識してくれればいい。
その後の相手の未来に、少しでも自分がいる可能性があるのならそれに賭けたい――その程度の機微は黄瀬にも経験則で分かる。
だがその相手が重度の恋愛アレルギーで、告白しても拒絶される未来しかないのなら、独善的な告白が苦痛しかもたらさないのなら、黄瀬はこの気持ちを墓場まで持っていく道を選ぶ。
それが憧れのヒーローへの、最大限の敬意でもあった。
けれど、もしも彼女が恋心を受け入れてくれるのなら。
そんな風に、大事に懐に仕舞ってくれるなら。
「……もしかして、黄瀬君も手紙を出したいのか?」
「えっ!?」
血の気が引くほどストレートな台詞が、黄瀬の思考を奪い去った。
普段はどれだけ直接的なアプローチをしようが躱されるのに。
黄瀬の覚悟に迷いが生じた今に限って、何故踏み込んでくるのか。
発言の裏を探ろうとするも、莉乃の何の陰りもない瞳からは裏などないということしか読み取れない。
ラブレターに限らず、自分の恋心を相手に伝える意図として、ひとつは相手と結ばれたいという下心が挙げられるが、もっと純粋で、もっと身勝手で、もっと救いようのない理由もある。
それは、黄瀬にも経験則で分かる。
たとえば、長年拗らせた初恋に悩まされる少年の場合、いっそ気持ちを吐き出して楽になってしまうというのも、ひとつの有効な手段ではないだろうか。
たとえ報われなくても、終わらせることで救われる恋もあるはずだ。
だがそれは、誰かに想いを寄せられることすら拒絶する恋愛アレルギーを相手にする場合、自分の苦痛をそのまま相手に押し付けるだけの愚策に成り下がる。
けれど、もしも彼女が恋心を受け入れてくれるのなら。
こんな風に、選択肢を示してくれるなら。
「あ、いや待て」
「は!?」
唐突に莉乃にそう制され、告げようとした言葉が頓狂な声となって吐き出された。
「すまなかった。手紙は匿名で出せるのが利点なのに、この場で聞いたら意味ないよな。どうぞ黄瀬君の好きにしてくれ」
「………」
膨らませた風船に、針を刺して破裂させられたような緊張感だ。
ばくんばくん、と、尋常じゃない速度で心臓が動いている。
それを無理矢理押し込めるように、ゆっくりと深呼吸してから、黄瀬は言った。
「匿名ならいいんスか?」
たとえ報われなくても、終わらせることで救われる恋もある。
在りし日のヒーローは、恋に焦がれた少年すらも、救ってくれるのだろうか。
「好きにして、いいんスか?」
これは、もはや告白だ。
ラブレターを出すということは、つまり、そういうことなのだから。
向こうもそれに勘付いたのか、莉乃の目が零れ落ちそうなほど見開かれる。
落ち着かない沈黙が数秒ほど続いた後、彼女の口元がゆっくりと弧を描いた。
「勿論いいよ」
「……えっ」
「私で良ければ、いつでも力になろう。何でも相談してくれ」
莉乃の肯定を受けて沸き上がった感情が、その台詞で不自然に静止した。
回転の鈍くなった黄瀬の頭に、ぽつぽつと疑問符が浮かび上がる。
『いつでも力になろう』?
――『相談』?
急速に冷静になっていく。
何だろう。
何か、とんでもない勘違いをしている気がする。
「えっと……、相談ってどういうことっスか?」
「ん? 私に相談の手紙を出したいんだろう? 心配しなくても、相談内容は誰にも言わないよ」
「相談の手紙!?」
嫌な予感が、確信に変わった。
関節が錆びついたかのようなぎこちない動作で、莉乃の持っている手紙を指差す。
「あの、その手紙って……ラブレターとかじゃ……」
「そんなわけがないだろう。つい最近、私に匿名で相談や依頼がある時には、こうして靴箱に手紙を入れる制度を導入したんだ。この手紙もそのひとつだよ」
莉乃の説明を聞き終わるや否や、黄瀬は膝から崩れ落ちた。
両手を地面につき、顔を上げる気力もなくなった黄瀬の頭上から、心配そうな莉乃の声が降って来た。
「黄瀬君!? どうした、大丈夫か?」
「……大丈夫っス。ちょっと気が抜けただけなんで」
そういえば、確かに、藍良莉乃の靴箱は目安箱のような役割があると、風の噂で聞いたことがある。
それを失念していた黄瀬が悪いのだ、決して莉乃は悪くない。
「……莉乃っち」
「うん?」
ラブレターに限らず、自分の恋心を相手に伝える意図として、もっと純粋で、もっと身勝手で、もっと救いようのない理由もある。
いっそ気持ちを吐き出して楽になってしまうというのも、ひとつの有効な手段かもしれない。
「大好きっスよ」
「ありがとう。私も大好きだよ」
けれど、今は。
あの日の宣言とその言葉だけで、満たされるのだ。
藍色ラブレター
(了)
「莉乃っち!!」
すると、莉乃は靴箱の扉に伸ばした手を止め、駆け寄ってきた黄瀬に優しい笑みを向けた。
「黄瀬君か。偶然だな」
小学生の頃から莉乃を知っている黄瀬は、彼女があだ名での呼び掛けにこうしてにこやかに答えてくれるのは奇跡に近い出来事だと理解している。
この幸運な邂逅と相まって、彼の気分は自然と高揚した。
「今帰りっスか? 珍しいっスね、こんな時間に一緒になるなんて。今日は部活ないんスか?」
「ああ。定期テスト前だからな」
黄瀬の方から話を振ったものの、彼の認識は『莉乃がバスケ部のマネージャーをしているらしい』という程度で、まだバスケ部自体に興味があるわけではない。
なるべく関心を持たれないよう、莉乃の側が会話の内容や語調、態度に至るまで常日頃から気遣っているからだ。
とある事情により、現時点で黄瀬をあまりバスケ部と関わらせたくないと考えている彼女は、期せずして部活の話題に発展し内心焦燥したが、その心配は杞憂に終わった。
開けっ放しになった莉乃の靴箱からひらりと零れ落ちた一枚の手紙が、黄瀬の意識を完全に奪ったためだ。
「あ」
「えっ!?」
莉乃と黄瀬の視線が、床に落ちた手紙に集中する。
白い横書きの封筒に、ハートのシールで封がしてある。
差出人の名前は、見当たらない。
黄瀬は自身の経験と照らし合わせ、一見しただけで“それ”の正体を容易に突き止めた。
――あれって、もしかしなくてもラブレターっスよね!?
異性から絶大な人気を誇る彼も、時折貰うことがある。
言うまでもない注釈だが、ラブレターとは意中の相手に愛を告白し、交際を申し込む文言が書かれた手紙のことだ。
愛を告白。
藍良莉乃に。
ショックで固まる黄瀬をよそに、莉乃は平然とした様子で“それ”を拾い上げた。
「今日も入っていたのか」
「……『今日も』って……こういうことってよくあるんスか?」
黄瀬が振り絞るようにそう訊くと、やけにあっさりとした答えが返ってきた。
「こういう手紙か? そうだな。最近特に増えたよ」
莉乃の何気ない一言で、黄瀬は更に打ちひしがれる。
彼が驚いたのは、頻繁にラブレターを貰っている事実の方ではない。
黄瀬が言えたことではないが、まず彼女の容姿は異性の気を引くに充分な水準である。
青春を学校に捧げ、人生を他人に尽くすような女性に需要があるかどうかはさておき、彼女の博愛と献身は、誰もが心から尊敬する代物だ。
その尊敬の念が、思春期特有の恋愛感情に発展してもさほど不思議ではない。
少なくとも、そうなった人間を黄瀬は一人知っている。
そういう奇特な人物が勢いあまって莉乃に告白したとしても、別段驚くに値しない。
だから、黄瀬が驚いたのは、ラブレターの方ではなく――
「受け取るんスか?」
「当然だ」
「……いいんスか?」
黄瀬の剣幕に莉乃は暫し目を見張ったが、やがて、ああ、と確かに肯定した。
黄瀬が驚いたのは、莉乃が誰かの恋愛感情を当然のように受け入れたことだ。
――青春はこの学校に捧げている。
――だから恋人は必要ない。
以前、莉乃がそう宣言した場に、黄瀬も居合わせたことがある。
その時、彼女の言葉の中に僅かな嘘を感じ取ったのだった。
その発言の裏にあるのは、多くの人を救うという大義を達成するため、重荷となり枷となりそうな特定の人物は作らない――という類の想像の容易い意図ではない。
もっと複雑で、もっと異様で、もっと救いようのない理由があるような気がするのだ。
その詳細は不明だが、とにかく、藍良莉乃は自分が恋することはおろか、誰かに想いを寄せられることすら病的に禁じているようだった。
それなのに、どういう訳か、今突如靴箱から現れた告白の代名詞とも言えるラブレターを、彼女はまるでそこにあるのが当然の如き自然な対応で受け取った。
この想像と現実のギャップが、黄瀬の心にとある隙を作った。
ラブレターに限らず、自分の恋心を相手に伝える意図として、ひとつは相手と結ばれたいという下心が挙げられる。
相手が少しでも自分のことを意識してくれればいい。
その後の相手の未来に、少しでも自分がいる可能性があるのならそれに賭けたい――その程度の機微は黄瀬にも経験則で分かる。
だがその相手が重度の恋愛アレルギーで、告白しても拒絶される未来しかないのなら、独善的な告白が苦痛しかもたらさないのなら、黄瀬はこの気持ちを墓場まで持っていく道を選ぶ。
それが憧れのヒーローへの、最大限の敬意でもあった。
けれど、もしも彼女が恋心を受け入れてくれるのなら。
そんな風に、大事に懐に仕舞ってくれるなら。
「……もしかして、黄瀬君も手紙を出したいのか?」
「えっ!?」
血の気が引くほどストレートな台詞が、黄瀬の思考を奪い去った。
普段はどれだけ直接的なアプローチをしようが躱されるのに。
黄瀬の覚悟に迷いが生じた今に限って、何故踏み込んでくるのか。
発言の裏を探ろうとするも、莉乃の何の陰りもない瞳からは裏などないということしか読み取れない。
ラブレターに限らず、自分の恋心を相手に伝える意図として、ひとつは相手と結ばれたいという下心が挙げられるが、もっと純粋で、もっと身勝手で、もっと救いようのない理由もある。
それは、黄瀬にも経験則で分かる。
たとえば、長年拗らせた初恋に悩まされる少年の場合、いっそ気持ちを吐き出して楽になってしまうというのも、ひとつの有効な手段ではないだろうか。
たとえ報われなくても、終わらせることで救われる恋もあるはずだ。
だがそれは、誰かに想いを寄せられることすら拒絶する恋愛アレルギーを相手にする場合、自分の苦痛をそのまま相手に押し付けるだけの愚策に成り下がる。
けれど、もしも彼女が恋心を受け入れてくれるのなら。
こんな風に、選択肢を示してくれるなら。
「あ、いや待て」
「は!?」
唐突に莉乃にそう制され、告げようとした言葉が頓狂な声となって吐き出された。
「すまなかった。手紙は匿名で出せるのが利点なのに、この場で聞いたら意味ないよな。どうぞ黄瀬君の好きにしてくれ」
「………」
膨らませた風船に、針を刺して破裂させられたような緊張感だ。
ばくんばくん、と、尋常じゃない速度で心臓が動いている。
それを無理矢理押し込めるように、ゆっくりと深呼吸してから、黄瀬は言った。
「匿名ならいいんスか?」
たとえ報われなくても、終わらせることで救われる恋もある。
在りし日のヒーローは、恋に焦がれた少年すらも、救ってくれるのだろうか。
「好きにして、いいんスか?」
これは、もはや告白だ。
ラブレターを出すということは、つまり、そういうことなのだから。
向こうもそれに勘付いたのか、莉乃の目が零れ落ちそうなほど見開かれる。
落ち着かない沈黙が数秒ほど続いた後、彼女の口元がゆっくりと弧を描いた。
「勿論いいよ」
「……えっ」
「私で良ければ、いつでも力になろう。何でも相談してくれ」
莉乃の肯定を受けて沸き上がった感情が、その台詞で不自然に静止した。
回転の鈍くなった黄瀬の頭に、ぽつぽつと疑問符が浮かび上がる。
『いつでも力になろう』?
――『相談』?
急速に冷静になっていく。
何だろう。
何か、とんでもない勘違いをしている気がする。
「えっと……、相談ってどういうことっスか?」
「ん? 私に相談の手紙を出したいんだろう? 心配しなくても、相談内容は誰にも言わないよ」
「相談の手紙!?」
嫌な予感が、確信に変わった。
関節が錆びついたかのようなぎこちない動作で、莉乃の持っている手紙を指差す。
「あの、その手紙って……ラブレターとかじゃ……」
「そんなわけがないだろう。つい最近、私に匿名で相談や依頼がある時には、こうして靴箱に手紙を入れる制度を導入したんだ。この手紙もそのひとつだよ」
莉乃の説明を聞き終わるや否や、黄瀬は膝から崩れ落ちた。
両手を地面につき、顔を上げる気力もなくなった黄瀬の頭上から、心配そうな莉乃の声が降って来た。
「黄瀬君!? どうした、大丈夫か?」
「……大丈夫っス。ちょっと気が抜けただけなんで」
そういえば、確かに、藍良莉乃の靴箱は目安箱のような役割があると、風の噂で聞いたことがある。
それを失念していた黄瀬が悪いのだ、決して莉乃は悪くない。
「……莉乃っち」
「うん?」
ラブレターに限らず、自分の恋心を相手に伝える意図として、もっと純粋で、もっと身勝手で、もっと救いようのない理由もある。
いっそ気持ちを吐き出して楽になってしまうというのも、ひとつの有効な手段かもしれない。
「大好きっスよ」
「ありがとう。私も大好きだよ」
けれど、今は。
あの日の宣言とその言葉だけで、満たされるのだ。
藍色ラブレター
(了)
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