中学一年生

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あだ名(紫原用)

 “黒子のバスケ”の漫画全30巻は、帝光編を含めると黒子テツヤの中学時代から高校一年生までの軌跡を中心に描かれている。
 物語はこの四年間がメインであるが、あくまでそれは読者側の視点であることを忘れてはならない。
 登場人物の彼らにとっては、生まれてから死ぬまでの一生すべてが“物語”なのである。
 たとえば、中学入学以前の幼少時代。
 たとえば、高校卒業後の遠い未来。
 たとえば、隣町のバスケコートの情景。
 私達読者が妄想するしかないサイドストーリーも、この世界では登場人物達の人生の一部として確立している。
 当然の話だが、彼らにとっては漫画で描写されているか否かの境界線はない。
 誰にも平等に過去があり、未来が訪れる。
 それは前世では一読者でしかなかった私も例外ではない――例外ではなくなってしまった。
 まだこの世界が“黒子のバスケ”だと知らなかった頃の、思い出したくもない苦々しい過去があったように。
 これから先、漫画のあらすじをなぞる生活が終わり、読者わたしの知らない未来が必ず訪れる。
 読者として有しているアドバンテージが失われ、これまでのように人の役に立てなくなる時が、世界から必要とされなくなる時が、必ずやって来るのだ。
 本来選ばれた者しか足を踏み入れることのできないこの世界で、何の役にも立てなくなった人間が、一体どうやって生きていけるというのか。
 今が中一の夏なので、その未来が訪れるまで、少なくともあと三年半の猶予がある――たったの三年半だ。
 あと三年半で、そんな残酷な結末が訪れるのだ。
 『いつか』、なんて。
 私にとっては、想像したくもない未来だ。

「実はオレもバスケ部でさ。普段は別のルートをジョギングしてるから気づかなかったんだけど、藍良ちゃんはいつもあそこで練習してんの?」

 バスケコートで高尾和成君と邂逅した後、私達はそのまま近くの公園まで移動し、自動販売機でそれぞれ飲み物を購入してから適当なベンチに座った。
 なんと信じがたいことに、高尾君の方から「今ちょっと時間ある? そこら辺で座って話せねー?」と誘ってくれたのだ。
 正直に言うと、本当なら既にバスケコートを出発し学校に向かうべき時間なのだが、高尾君のお誘いの前では私の都合など些末なことだ。
 遅刻は論外だが、全力で走れば朝練には間に合うだろう――実際にそう目算したのは二つ返事で了承した後だったのだが。
 早朝の閑散とした公園を、時折ジョギングや犬の散歩で人が通り過ぎていくのを目の端で追いつつ、先ほどの高尾君の質問に返答した。

「いつもではないよ。週に三、四日くらいだ。高尾君は毎日練習しているのか?」
「まーそうだな。でも藍良ちゃんこそもっとストイックに練習してそうなのに、ちょっと意外な感じだな。ちらっと見ただけだけどめっちゃ上手かったから、毎日バスケ漬けかと思ったぜ」
「バスケ部のマネージャーだから、毎日バスケ漬けというのは間違っていないがな。最近は放課後に部員とよくワンオンワンもしているし」

 バスケ漫画の世界なのだからバスケの練習を優先したいのだが、朝はとにかく忙しいのだ。
 いつも辺りが暗くなる時刻まで学校に縛られるので、自分の鍛錬のために自由に使える時間は早朝しか残っていない。
 その時間は、今日のようにジョギングがてら隣町に行ってバスケをすることもあれば、バスケとは無関係に身体を鍛えたり近くの山に篭ったりもする。
 あらゆる事態を想定して人助けができるように極めるため、バスケばかりに傾注するわけにもいかないのだ。
 そのような事情と定期的に行う町のパトロールを差し引いた結果、バスケ練習が現在の頻度に落ち着いたという経緯がある。
 そんな話を絶妙な相槌を打ちながら傾聴していた高尾君だが、聞き終えてから首を傾げた。

「人助け? パトロール? ……あれ? え、もしかして……」
「どうかしたのか?」
「……藍良ちゃんって、確か帝光中って言ったよな。帝光バスケ部のマネージャーなんだよな?」
「そうだよ」

 肯定したと同時に、高尾君は深く息を吐きながら項垂れて両手で頭を覆った。
 ぎくりとしてその姿を凝視する。
 こんな高尾君、漫画でも見たことがない。
 思わず手に持っていたスポーツドリンクのペットボトルを取り落としそうになった。
 耳を澄ませると、両腕の隙間から「そっか……。じゃあ、このが噂の……」などといった独り言が聞こえる。
 途端に底知れない不安に襲われた。

「……えっと、何かまずかったか?」
「いーや。むしろ納得した。どうりで只者じゃねー感じがしたと思ったんだよな」

 想像していたより声は明るい。
 彼が顔を上げた時、何処か晴れ晴れとした表情――というか、笑いを堪えたように口の端を歪めているのが見えた。
 ああ、これは、よく知っている顔だ。
 私の存在が少なくとも高尾君の機嫌を損ねたわけではないらしい。
 困惑が顔に出ていたのか、彼はすぐに片手をひらひらと振って弁解した。

「オレの学校で今話題になってんだよ、藍良ちゃんのこと。人間離れした中学生が人助けしてるって」
「……話題? 私が? 馬鹿を言うな。一介のマネージャーがどうして話題に挙がるんだ」

 帝光中ではそれなりに目立っている自覚があるものの、さすがに隣町の他校にまで存在が知れ渡るほどの奇行をしでかした記憶はない。
 それに、素人の慈善活動がそこまで拡散するとも思えない。
 それとも。
 私のように元々この世界の人間でない者は、存在するだけで周囲から浮いてしまうのだろうか。

「あんま自覚ねーの? ま、話題になってるって言っても、帝光に友達のいる奴から噂が回って来た程度なんだけどさ。バスケ部のマネージャーだって聞いて、一度会ってみたかったんだよなー」

 名前までは知らなかったから最初分かんなかったぜ、と照れた笑みを浮かべてそう語る様子を見て、罪悪感で押し潰されそうになった。

「なら、期待を裏切ってしまって申し訳ないな。どんな噂か知らないが、本人は何処にでもいるような凡人だよ」
「んなわけねーじゃん。むしろ期待以上だったっつの。まさか初対面のオレをそこまで気遣ってくれるとは思わなかったぜ」
「……?」

 終始相手を気遣っていたのは、私ではなく高尾君の方だろう。
 今も、公園の時計に目をやると慌ててベンチから立ち上がってこう言った。

「やべっ! 結構長い時間付き合わせちまったな。帝光なら、そろそろ学校に向かわないとやばいよな? それとも一旦家に帰るの?」
「いや、荷物や着替えは持って来ているから、このまま学校に行くよ」
「そっか。オレのために時間割いてくれてありがとな」
「こちらこそ楽しかった。高尾君こそ、学校には間に合うのか?」
「帝光より全然近いから大丈夫だって――それよりさ、藍良ちゃんは週に何度かあのコートにいるんだよな?」

 立ち上がって荷物をまとめている時にそう確認されたので、手を止めて振り向いた。

「……ん、ああ。そうだよ」
「なら、今度会った時にワンオンワンしねーか? オレも地元じゃ結構強えーのよ?」
「それはいいな。是非お願いする」

 やはり二つ返事で快諾してから、こっそりと目を伏せた。
 『いつか』の次は、『今度』か。
 未来のことを、笑顔で話す人だと思った。
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