幼少期のプロポーズを後生大事にした話
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婚姻届の現物を生まれて初めて見た。
私にはもう縁遠いものだと思っていたが、こんな形で関わる機会もあるのだと静かに悟った。
見慣れない紙に見慣れた筆跡が並んでいるのを、夢の中のもののようにぼんやりと眺める。
婚姻届の『夫になる人』の項目には、凪誠士郎の名前が彼自身の筆跡で埋まっている。
『妻になる人』は、空欄。
なるほど、自分の名前と証人欄を埋めた状態の婚姻届を結婚相手に渡す予定なのか。
なんて理想的で素敵なプロポーズだろう。
凪のことを浮世離れしていると思っていたが、凪の方がこういう感性は発達しているのかもしれない。
それに引き換え私は、なんて短絡的で幼稚なプロポーズだったんだろう。
私はあの日、凪に掛ける言葉を間違えたのだ。
「名前?」
「……あ、うん、ごめん」
現実に引き戻され、慌てて紙面の右半分に視線を走らせる。
そして、完全に思考が止まった。
度重なる精神的ショックで遂にキャパオーバーになったのではない。
『証人』欄には、すでに二人分の名前が記載されているのだ。
一人は御影玲王、もう一人も青い監獄で見覚えがある。
青い監獄の戦友なら確かに私よりも相応しい人選だ。
じゃあ、私は?
二人分しかない証人が記入済みとなると、もうこの婚姻届に私の名前を書くスペースはない。
「えっと……、私の書く欄は何処?」
「は? ここにあるでしょ」
凪の手が伸びてきて、空欄の『妻になる人』を人差し指で叩いた――え?
「そこだと私と結婚することになっちゃうけど」
「だからそうじゃん」
「は?」
「は?」
顔を上げたら、凪が呆けた表情でこっちを見ていた。
互いに沈黙していると、みるみる凪の顔が険しくなっていく。
「……ねえ、まさかとは思うけど、あの約束忘れてないよね?」
「約束?」
「……マジかよ」
考えなしに凪の言葉を反復したら、唸るような低い声で吐き捨てられた。
椅子の背もたれに乱雑に体重をかける仕草は一見だらけている雰囲気だが、射抜くような鋭い眼光は真っすぐ私に向けられている。
凪にそんな目で見られたのは、初めてだ。
「マジで信じらんないんだけど。名前が言ったんじゃん――大人になったら結婚しようって」
「えっ」
どうして、凪が、そのことを知ってる。
それは、私だけが大事にしていた初恋で、私だけが覚えている過ちだ。
今頃になって凪の口から出てくるはずがない。
「……ほんとに約束忘れたの? 俺ずっとあの言葉を信じてたよ。成人したからようやく結婚できると思って、指輪はこれから一緒に選ぶつもりで玲王に良い店聞いてきたのに」
怒気を抑え、代わりに寂しそうに眉を下げて凪は言った。
どれもこれも、私には身に覚えがない。
だって、『凪と結婚する』という子供じみた将来の夢は、とっくの昔に終わったはずなのだ。
他でもない、凪が終わらせたはずなのだ。
「約束を忘れたのは誠士郎の方でしょ」
「なんで。俺忘れてないよ」
「忘れたよ。だって、衣食住は私が保証するって話だったのに、誠士郎は自分で稼ぐって言ったじゃん」
凪と結婚するためには、彼にとってのメリットを提示しなければならない――幼い私が精一杯考えたのがあの付帯条件だった。
けれど、いい会社どころかプロサッカー選手の道を歩んでいる凪に、私が金銭面で優位に立てる日はきっと来ない。
あの約束を凪が覚えていようがいまいが、今の私には凪と結婚できる資格はないのだ。
「別に矛盾してなくない? 俺がたくさん稼げば名前も楽できるし、早くリタイアすれば名前とゆっくり過ごす時間が増えるじゃん」
私の説明を聞き終えた凪は、まるでピンと来ていない様子で首を傾げながら言い放った。
「衣食住を保証してくれるって、名前が俺の着る服を選んでくれて、俺の食事を作って一緒に食べてくれて、俺と同じ家に住んでくれるってことでしょ」
「――……なに、それ」
そんな常識は知らない。
少なくとも、私は当時そんなつもりで提案していなかった。
「まさか、俺のことヒモとして養うって意味だったの? 七歳でその発想はヤバいっしょ」
ぐうの音も出ないが、凪に言われるのは釈然としない。
私は本気で、私のすべてを捧げないと凪に釣り合わないと思っていたし、私のすべてを捧げても凪に釣り合わないと思っている。
きっと私と凪の価値観が交わる日は来ないだろう。
けれど、もしかしたら、子供じみたプロポーズで止まっていたのは私の方で、凪の方がよっぽど私との未来を真剣に考えてくれていたのかもしれない。
「なんかよく分かんないけど、考えるのめんどくさいしもういいや」
凪はそう言い捨てて、椅子を引いて身を乗り出した。
私の頬に手を添え、目線を合わせるように顔の位置を変えさせられる。
凪の大きな瞳が私を捉えている。
あの日と同じ、宝石のように美しい瞳に私が映っている。
「ずっと好きでした。俺と結婚してください」
凪の唇が触れるのを視界に留めながら、私は凪に一度も好きだと伝えていなかったことを思い出した。
私はプロポーズの言葉を間違えたのだと、ようやく気づいた。
幼少期のプロポーズを後生大事にした話
私にはもう縁遠いものだと思っていたが、こんな形で関わる機会もあるのだと静かに悟った。
見慣れない紙に見慣れた筆跡が並んでいるのを、夢の中のもののようにぼんやりと眺める。
婚姻届の『夫になる人』の項目には、凪誠士郎の名前が彼自身の筆跡で埋まっている。
『妻になる人』は、空欄。
なるほど、自分の名前と証人欄を埋めた状態の婚姻届を結婚相手に渡す予定なのか。
なんて理想的で素敵なプロポーズだろう。
凪のことを浮世離れしていると思っていたが、凪の方がこういう感性は発達しているのかもしれない。
それに引き換え私は、なんて短絡的で幼稚なプロポーズだったんだろう。
私はあの日、凪に掛ける言葉を間違えたのだ。
「名前?」
「……あ、うん、ごめん」
現実に引き戻され、慌てて紙面の右半分に視線を走らせる。
そして、完全に思考が止まった。
度重なる精神的ショックで遂にキャパオーバーになったのではない。
『証人』欄には、すでに二人分の名前が記載されているのだ。
一人は御影玲王、もう一人も青い監獄で見覚えがある。
青い監獄の戦友なら確かに私よりも相応しい人選だ。
じゃあ、私は?
二人分しかない証人が記入済みとなると、もうこの婚姻届に私の名前を書くスペースはない。
「えっと……、私の書く欄は何処?」
「は? ここにあるでしょ」
凪の手が伸びてきて、空欄の『妻になる人』を人差し指で叩いた――え?
「そこだと私と結婚することになっちゃうけど」
「だからそうじゃん」
「は?」
「は?」
顔を上げたら、凪が呆けた表情でこっちを見ていた。
互いに沈黙していると、みるみる凪の顔が険しくなっていく。
「……ねえ、まさかとは思うけど、あの約束忘れてないよね?」
「約束?」
「……マジかよ」
考えなしに凪の言葉を反復したら、唸るような低い声で吐き捨てられた。
椅子の背もたれに乱雑に体重をかける仕草は一見だらけている雰囲気だが、射抜くような鋭い眼光は真っすぐ私に向けられている。
凪にそんな目で見られたのは、初めてだ。
「マジで信じらんないんだけど。名前が言ったんじゃん――大人になったら結婚しようって」
「えっ」
どうして、凪が、そのことを知ってる。
それは、私だけが大事にしていた初恋で、私だけが覚えている過ちだ。
今頃になって凪の口から出てくるはずがない。
「……ほんとに約束忘れたの? 俺ずっとあの言葉を信じてたよ。成人したからようやく結婚できると思って、指輪はこれから一緒に選ぶつもりで玲王に良い店聞いてきたのに」
怒気を抑え、代わりに寂しそうに眉を下げて凪は言った。
どれもこれも、私には身に覚えがない。
だって、『凪と結婚する』という子供じみた将来の夢は、とっくの昔に終わったはずなのだ。
他でもない、凪が終わらせたはずなのだ。
「約束を忘れたのは誠士郎の方でしょ」
「なんで。俺忘れてないよ」
「忘れたよ。だって、衣食住は私が保証するって話だったのに、誠士郎は自分で稼ぐって言ったじゃん」
凪と結婚するためには、彼にとってのメリットを提示しなければならない――幼い私が精一杯考えたのがあの付帯条件だった。
けれど、いい会社どころかプロサッカー選手の道を歩んでいる凪に、私が金銭面で優位に立てる日はきっと来ない。
あの約束を凪が覚えていようがいまいが、今の私には凪と結婚できる資格はないのだ。
「別に矛盾してなくない? 俺がたくさん稼げば名前も楽できるし、早くリタイアすれば名前とゆっくり過ごす時間が増えるじゃん」
私の説明を聞き終えた凪は、まるでピンと来ていない様子で首を傾げながら言い放った。
「衣食住を保証してくれるって、名前が俺の着る服を選んでくれて、俺の食事を作って一緒に食べてくれて、俺と同じ家に住んでくれるってことでしょ」
「――……なに、それ」
そんな常識は知らない。
少なくとも、私は当時そんなつもりで提案していなかった。
「まさか、俺のことヒモとして養うって意味だったの? 七歳でその発想はヤバいっしょ」
ぐうの音も出ないが、凪に言われるのは釈然としない。
私は本気で、私のすべてを捧げないと凪に釣り合わないと思っていたし、私のすべてを捧げても凪に釣り合わないと思っている。
きっと私と凪の価値観が交わる日は来ないだろう。
けれど、もしかしたら、子供じみたプロポーズで止まっていたのは私の方で、凪の方がよっぽど私との未来を真剣に考えてくれていたのかもしれない。
「なんかよく分かんないけど、考えるのめんどくさいしもういいや」
凪はそう言い捨てて、椅子を引いて身を乗り出した。
私の頬に手を添え、目線を合わせるように顔の位置を変えさせられる。
凪の大きな瞳が私を捉えている。
あの日と同じ、宝石のように美しい瞳に私が映っている。
「ずっと好きでした。俺と結婚してください」
凪の唇が触れるのを視界に留めながら、私は凪に一度も好きだと伝えていなかったことを思い出した。
私はプロポーズの言葉を間違えたのだと、ようやく気づいた。
幼少期のプロポーズを後生大事にした話