幼少期のプロポーズを後生大事にした話
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若年層が好みそうなテイストのカフェだが、表通りから一本外れているせいか程よく落ち着いていて居心地がいい――所謂穴場スポットという奴で、私のお気に入りの店だ。
けれど、私達の席には、穏やかな店内のムードに似つかわしくない異質な空気が流れている。
私の正面に、真剣な表情でこちらの反応を伺う凪がいる。
サッカー以外で彼がそんな顔をしているのを見るのは初めてだ。
無性に泣きたくなって、涙が溢れそうになるのを誤魔化すように俯くと、テーブルの上に置かれた婚姻届が目に飛び込んできた。
――初恋の人 から証人になってほしいと頼まれた、婚姻届があった。
××××××××××
凪誠士郎と初めて出会ったのは、お互いが七歳の頃だった。
彼との初対面をきっと一生忘れないだろう。
綿飴のようにふわふわな白髪、こぼれ落ちそうなほど大きな瞳、透き通る白くて綺麗な肌――誇張表現ではなく天使の生まれ変わりかと思ったものだ。
生まれて初めて、一目惚れをした。
引っ越しの挨拶回りに来た私達家族の前に、両親に引き連れられて退屈そうに佇む姿が誰よりも輝いて見えた。
大人達が世間話をしている間、私と凪は彼らから少し離れたところで一緒にいた。
二人きりになれたのに凪は携帯ゲームから目を離さなくて、私に少しも関心がなかった――そんな超然とした雰囲気にも心を惹かれた。
でも、なんとか彼の気を引きたくて、一瞬でいいからこっちを見てほしくて、私は人生最大の勇気を出して話しかけた。
「ねぇ、大きくなったら私と結婚しない?」
――初対面の挨拶として考え得る限り最低の発言だった。
凡庸な七歳児の頭では、魅力的な口説き文句をアドリブで思いつけるはずがなかった。
パニックになりながら弁明の言葉を必死に選定していると、凪が顔を上げようとしているのが目に入った。
視線を向けられることで彼の瞳に映った感情を間近で察知するのが怖くて、考えるより先に再度口を開いた。
「私と結婚したら、衣食住は保証するよ」
弁明どころか前言よりも血迷った発言をしてしまった。
ヒモでもいいから結婚してくれと初対面で迫る女児が何処にいるのか。
他でもない私だった。
けれど、ものぐさな彼には、なんとその提案が魅力的に聞こえたようだった。
聞こえてしまったようだった。
「いいよ」
凪が頷いてくれた瞬間から、私にとって凪は特別な人になった。
私はこの日のことを、きっと一生忘れない。
××××××××××
私にとって凪は唯一無二の特別で、凪の中でも私はそういう存在なのだと、恥ずかしながら暫くの間は信じて疑っていなかった。
自分の大事にしているものが相手にとってそうではないと気づいた時の失望は、なかなか言葉にできない。
「偏差値の高い高校に入れば、将来いい会社に就職できると思って。そこそこ稼いだら早期リタイアして楽したいんだよね」
中学三年生の時、志望校を白宝高校にした理由を尋ねたら、凪はそう答えた。
何でもないことのように、そう言ったのだ。
当たり前に自分の力で生きる未来を想定したその言葉がどれだけ私の心を抉ったか、彼はきっと知る由もないだろう。
――衣食住は私が保証するって、言ったのに。
そんな台詞が口を突いて出そうになった寸前で我に返った。
よく考えれば――いや、よく考えるまでもなく、子供の頃のお飯事みたいなプロポーズを本気で信じる奴が何処にいるだろうか。
あんな幼少期の口約束を後生大事にしている馬鹿が何処にいるのか。
私だった。
私だけだった。
私が馬鹿なだけだったと、この時にようやく気づいた。
そして、気づくのが遅すぎた。
今更気づいたところで、凪と結婚することを将来の夢としてずっと生きてきた私には、それ以外の未来を夢見る気力は残っていなかった。
××××××××××
夢から覚めても、未来を失っても、私は凪のことが好きだった。
素っ気ない連絡ひとつでも有頂天になり、会いたいと言われればすべての先約を放棄した。
“今日”だって、凪は気に留めるはずがないと知っていても下ろし立ての服と靴で着飾り、相手が遅刻すると分かっているのに約束の十分前には待ち合わせ場所で待機した。
凪にとって私はただの幼馴染に過ぎなくても、あの面倒臭がりの凪が私のために時間を作ってくれたという事実が私の恋心を生かしていた。
凪に恋するささやかな幸せをかみ締めながら、しかし一方で、ずっと考えていたことがあった。
もしも初めて出会った時に、『衣食住は保証する』とさえ言わなければ、凪の興味を引くことはなくそのまま疎遠になったのではないかと。
××××××××××
凪の動きにつられて、彼の色素の薄い髪が柔らかく揺れた。
軽やかな毛先が太陽光を透かしてきらきら輝き、あどけない顔を神々しく彩っていた。
私の脈絡のない求婚を受けて、凪の表情が変化したのをはっきりと目撃した。
宝石のような目を丸くしてこちらを凝視する様は、“私”という人間を初めて認識したように思えた。
ほんの数秒の間そうして見つめ合い、凪がいいよと答える直前に、口元に薄く笑みが浮かんだのを確かに認めた。
私はあの時の光景を、きっと一生忘れない。
××××××××××
凪が唐突に連絡を寄越すのも、大した用事なく会う約束を取り付けてくるのも、今に始まったことではなかった。
だから今日も特に疑問を持たず待ち合わせ場所に赴いた。
座って休憩できる場所に行きたいと凪が言うので最寄りのカフェに這入り、各々注文した飲み物を味わいながら近況を報告し合った。
どんな話の流れでそうなったのかもう覚えていないが、きっかけは凪の発言だった。
彼にしては珍しく、僅かに緊張感を孕んだ口調で口火を切った。
「――でさ、俺もこないだ成人したし、年収もそこそこ貰えるようになったし、そろそろいっかなって思うんだけど」
「ん? 何が?」
「だから、その、結婚」
結婚。
けっこん。
凪から初めて聞く単語だった。
私もあの日以来、一度も口にしたことはなかった。
結婚。
それは、子供のお飯事とは比較にならない重みがあった。
凪に結婚願望――というより、結婚したいと思える相手がいたことを、この時に初めて知った。
なんとなく、凪はそういった世間一般の常識から隔絶された存在なんだと思っていた。
けれど、そんな根拠のない盲信こそが、私の過ちの発端ではなかったか。
「けっこん、か」
「うん。したい」
「そっ、か。いいんじゃない?」
「ほんと?」
「うん」
自分でも何を言っているのか判然としなかった。
まるで冷たい水底にいるような息苦しさを紛らわせるために、呼吸の代わりに当たり障りのない返答を吐いた気がする。
しかし、私の心のこもっていない同調に、凪は子供のように目を輝かせた。
その瞬間、初めて凪が私を見てくれた日の光景を想起した。
ずっと考えていたことがある。
もしもあの日、『私と結婚したら衣食住を保証する』と言わなければ、ものぐさな凪は私との関係を続けなかったんじゃないだろうか。
サッカーという新しい世界に羽ばたく凪の背中を見ながら、静かな諦念で恋心を終わらせられたんじゃないだろうか。
「じゃ、これ書いてくれる?」
私が幸せの欠片を手放そうとしていることなど気づきもせず、凪は婚姻届を差し出した。
――そして、冒頭に至る。
けれど、私達の席には、穏やかな店内のムードに似つかわしくない異質な空気が流れている。
私の正面に、真剣な表情でこちらの反応を伺う凪がいる。
サッカー以外で彼がそんな顔をしているのを見るのは初めてだ。
無性に泣きたくなって、涙が溢れそうになるのを誤魔化すように俯くと、テーブルの上に置かれた婚姻届が目に飛び込んできた。
――
××××××××××
凪誠士郎と初めて出会ったのは、お互いが七歳の頃だった。
彼との初対面をきっと一生忘れないだろう。
綿飴のようにふわふわな白髪、こぼれ落ちそうなほど大きな瞳、透き通る白くて綺麗な肌――誇張表現ではなく天使の生まれ変わりかと思ったものだ。
生まれて初めて、一目惚れをした。
引っ越しの挨拶回りに来た私達家族の前に、両親に引き連れられて退屈そうに佇む姿が誰よりも輝いて見えた。
大人達が世間話をしている間、私と凪は彼らから少し離れたところで一緒にいた。
二人きりになれたのに凪は携帯ゲームから目を離さなくて、私に少しも関心がなかった――そんな超然とした雰囲気にも心を惹かれた。
でも、なんとか彼の気を引きたくて、一瞬でいいからこっちを見てほしくて、私は人生最大の勇気を出して話しかけた。
「ねぇ、大きくなったら私と結婚しない?」
――初対面の挨拶として考え得る限り最低の発言だった。
凡庸な七歳児の頭では、魅力的な口説き文句をアドリブで思いつけるはずがなかった。
パニックになりながら弁明の言葉を必死に選定していると、凪が顔を上げようとしているのが目に入った。
視線を向けられることで彼の瞳に映った感情を間近で察知するのが怖くて、考えるより先に再度口を開いた。
「私と結婚したら、衣食住は保証するよ」
弁明どころか前言よりも血迷った発言をしてしまった。
ヒモでもいいから結婚してくれと初対面で迫る女児が何処にいるのか。
他でもない私だった。
けれど、ものぐさな彼には、なんとその提案が魅力的に聞こえたようだった。
聞こえてしまったようだった。
「いいよ」
凪が頷いてくれた瞬間から、私にとって凪は特別な人になった。
私はこの日のことを、きっと一生忘れない。
××××××××××
私にとって凪は唯一無二の特別で、凪の中でも私はそういう存在なのだと、恥ずかしながら暫くの間は信じて疑っていなかった。
自分の大事にしているものが相手にとってそうではないと気づいた時の失望は、なかなか言葉にできない。
「偏差値の高い高校に入れば、将来いい会社に就職できると思って。そこそこ稼いだら早期リタイアして楽したいんだよね」
中学三年生の時、志望校を白宝高校にした理由を尋ねたら、凪はそう答えた。
何でもないことのように、そう言ったのだ。
当たり前に自分の力で生きる未来を想定したその言葉がどれだけ私の心を抉ったか、彼はきっと知る由もないだろう。
――衣食住は私が保証するって、言ったのに。
そんな台詞が口を突いて出そうになった寸前で我に返った。
よく考えれば――いや、よく考えるまでもなく、子供の頃のお飯事みたいなプロポーズを本気で信じる奴が何処にいるだろうか。
あんな幼少期の口約束を後生大事にしている馬鹿が何処にいるのか。
私だった。
私だけだった。
私が馬鹿なだけだったと、この時にようやく気づいた。
そして、気づくのが遅すぎた。
今更気づいたところで、凪と結婚することを将来の夢としてずっと生きてきた私には、それ以外の未来を夢見る気力は残っていなかった。
××××××××××
夢から覚めても、未来を失っても、私は凪のことが好きだった。
素っ気ない連絡ひとつでも有頂天になり、会いたいと言われればすべての先約を放棄した。
“今日”だって、凪は気に留めるはずがないと知っていても下ろし立ての服と靴で着飾り、相手が遅刻すると分かっているのに約束の十分前には待ち合わせ場所で待機した。
凪にとって私はただの幼馴染に過ぎなくても、あの面倒臭がりの凪が私のために時間を作ってくれたという事実が私の恋心を生かしていた。
凪に恋するささやかな幸せをかみ締めながら、しかし一方で、ずっと考えていたことがあった。
もしも初めて出会った時に、『衣食住は保証する』とさえ言わなければ、凪の興味を引くことはなくそのまま疎遠になったのではないかと。
××××××××××
凪の動きにつられて、彼の色素の薄い髪が柔らかく揺れた。
軽やかな毛先が太陽光を透かしてきらきら輝き、あどけない顔を神々しく彩っていた。
私の脈絡のない求婚を受けて、凪の表情が変化したのをはっきりと目撃した。
宝石のような目を丸くしてこちらを凝視する様は、“私”という人間を初めて認識したように思えた。
ほんの数秒の間そうして見つめ合い、凪がいいよと答える直前に、口元に薄く笑みが浮かんだのを確かに認めた。
私はあの時の光景を、きっと一生忘れない。
××××××××××
凪が唐突に連絡を寄越すのも、大した用事なく会う約束を取り付けてくるのも、今に始まったことではなかった。
だから今日も特に疑問を持たず待ち合わせ場所に赴いた。
座って休憩できる場所に行きたいと凪が言うので最寄りのカフェに這入り、各々注文した飲み物を味わいながら近況を報告し合った。
どんな話の流れでそうなったのかもう覚えていないが、きっかけは凪の発言だった。
彼にしては珍しく、僅かに緊張感を孕んだ口調で口火を切った。
「――でさ、俺もこないだ成人したし、年収もそこそこ貰えるようになったし、そろそろいっかなって思うんだけど」
「ん? 何が?」
「だから、その、結婚」
結婚。
けっこん。
凪から初めて聞く単語だった。
私もあの日以来、一度も口にしたことはなかった。
結婚。
それは、子供のお飯事とは比較にならない重みがあった。
凪に結婚願望――というより、結婚したいと思える相手がいたことを、この時に初めて知った。
なんとなく、凪はそういった世間一般の常識から隔絶された存在なんだと思っていた。
けれど、そんな根拠のない盲信こそが、私の過ちの発端ではなかったか。
「けっこん、か」
「うん。したい」
「そっ、か。いいんじゃない?」
「ほんと?」
「うん」
自分でも何を言っているのか判然としなかった。
まるで冷たい水底にいるような息苦しさを紛らわせるために、呼吸の代わりに当たり障りのない返答を吐いた気がする。
しかし、私の心のこもっていない同調に、凪は子供のように目を輝かせた。
その瞬間、初めて凪が私を見てくれた日の光景を想起した。
ずっと考えていたことがある。
もしもあの日、『私と結婚したら衣食住を保証する』と言わなければ、ものぐさな凪は私との関係を続けなかったんじゃないだろうか。
サッカーという新しい世界に羽ばたく凪の背中を見ながら、静かな諦念で恋心を終わらせられたんじゃないだろうか。
「じゃ、これ書いてくれる?」
私が幸せの欠片を手放そうとしていることなど気づきもせず、凪は婚姻届を差し出した。
――そして、冒頭に至る。
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