Nameless
蛍守流剣術は、他流派に比べ制約の多い流派である。
例えば、"みだりに剣を他者へ晒さぬこと"等。
既に破門された身である灯真にも、その教えは自身の価値観として根差している。特に"蛍の秘剣は常に万全の状態で振るわれること"という制約を、彼は無意識のうちに戦闘時でなくとも己に強いていた。一瞬の迷いが命取りになる刹那のやり取りにおいて"万全の状態"を維持するためには、常日頃から月をも映す水鏡のように静かな心を持たなければならない。激情に駆られるなどはもってのほかである。
故に、彼は耐えていた。
気になって気になって仕方がないそれを無理やりに注意の外に置き、目の前の書類へ万年筆を走らせる。
耐えて、耐えて、耐えて。
それでも一向に消えない"それ"へ痺れを切らした彼は、しかし刀を抜きたい衝動を押し殺し、低い声で「……おい」とだけ声をかけた。
そんな彼の努力も虚しく、"それ"は何の反応も示さなかった。
「…………」
彼は、さらに耐えた。
万年筆を握る右手が小さく震えるが、それでも耐えた。
耐えて。耐えて。耐えて。耐えて。耐えて。
耐えた。耐えた。耐えた。耐えた。耐えた。
耐え忍び。
耐え凌ぎ。
沈黙し。
自制し。
また、耐えて。
「……、……」
ついに左手が握りこぶしを作り、机の上に叩きつけられた。
常に伏し目がちな灯真の目が苛立ちに見開かれ、"それ"を見る。
「なんっ、っなんださっきからお前は!」
明鏡止水の教えを受けたとはいえ、元来そう気の長い方ではない灯真の我慢はとっくに限界だった。なにせ彼は既に小一時間、"それ"――左斜め前から向けられる視線に耐え続けていたのだ。殴打の勢いで書類のいくつかがふわりと舞い上がるが、彼にはもうそれを気に留める余裕はない。
他の部下なら肩を跳ねさせそうな灯真の怒りを向けられて、しかし視線の出所である遥は「おお、」と小さく声を上げるに留まった。それがさらに、灯真の苛立ちを誘う。
「さっきから人の顔をじろじろと……!何か言いたいことがあるならさっさと言え気が散るっ!」
「うん?うん、じゃあはっきりいう」
明らかに不機嫌という顔をした灯真に、椅子から立ち上がった遥はてこてこと近寄った。言葉を待つ灯真の、いまだ握りこぶしを解かずにいる左手を掬い上げて、遥はいたって真剣に言う。
「灯真サン、おれとやらしいことしよう」
「死ね」
「じゃあ、せっくすしよう」
「殺すぞ」
「子作り?同衾?夜伽?まぐわい?イイコト?めいくらぶ?姫始め?」
「言い方の問題じゃねぇし昼間っから何を言い出してんだ。あと姫始めは意味が違う」
おおそうか、なんて気の抜けた返事をする遥から左手を奪い返し、灯真はその手で自らのこめかみを押さえた。遥にこういった誘いをかけられるのは今に始まった事ではない。何をどう間違えたのかこの部下は、女性に対して口にすればセクハラでお縄になりそうな冗談を平気で灯真に言うようになった。遥からすれば至って真摯な愛の告白なのだが、灯真はたちの悪い冗談だと信じて疑わない。
彼の一風変わった求愛は変態発言に留まらない。
隙あらば尻を揉み、抱きつき、手を握り。
彼の育った環境から考えれば随分とのどかなものであるだけに、力づくで拒否することもできずそのうえ単なる冗談(灯真にとっては、だが)に本気になるのも馬鹿らしく、灯真は頭を抱えていた。まぁ、その真面目な性格が空回りした結果ともいえるのだが。
「……欲求を持て余してるなら風俗にでもいけばいいだろ」
「、――灯真サンは行ったことあるのか?」
「俺の話はどうでもいいだろ」
「良くない」
「はぁ?……昔、上の付き合いで1度。個人的にはああいうのは好かないが」
「ふうん。そっかそっか、おれと会う前のハナシか」
「そりゃあそうだがそれがなんだっていうんだ……」
ため息を吐きつつ、灯真は書類に向き直った。ここはなにも2人の部屋というわけではなく不知火班の作戦室であるため、いつ誰が入ってきてもおかしくはないのだがこういう時に限って来客はなく、他の班員も留守にしている。セナなり空乃なりがいれば遥の言動にツッコミを入れてくれたのかもしれない、と思うと自分の間の悪さが心底嫌になった。こういったジョークに上手く返せるようなユーモアが欠けていることを、灯真はきちんと自覚していた。それだけに、解せないのである。この部下があからさまに自身へ好意を示すことに。
男が趣味なら茜あたりにしておけといささか投げやりなことを考えながら、万年筆の先を紙に触れさせた、途端。
「おれは灯真サンとじゃないとそういうことしたくないぞ」
――突如投げかけられた言葉に、鋭い先端が紙を突き破った。
「できれば突っ込む方がいいけど、灯真サンがやだっていうなら」
「待て。ちょっと待て」
「ん?だって灯真サンの方がかわいいと思うし」
「誰もそんなことは聞いてねぇ!なんでそういう話に、」
「っていうか灯真サン眼鏡似合うな。えろい」
「人の!話を!聞け!」
遺伝的に目の悪い灯真は、書類仕事の際には眼鏡が必須だった。ただ必要に迫られて使っているものがそんな風に見えていたとは、違う、そうじゃない。
珍しくぐるぐると混乱している彼は、遥がさらに距離をつめたことに気がつかない。もしかしてこいつ今までの変態発言は本気でぬかしてやがったのかとこの時初めて灯真は予感した。なにせ彼は男であり、遥もまた正しく男である。そのため灯真は、自身が遥の恋愛対象である可能性を無意識に排除していたのだ。彼の上司であり友人の茜の恋人が同性の部下を恋人とした時は、なにも疑問に思うことなく素直に祝福したというのに。
要するに彼は、鈍感だったのだ。
しかし遥はそれを理由に諦める気など毛頭なく。
むしろ灯真が意識していないことを逆手にとってスキンシップを図るくらいには強かだった訳だが。
「やっと冗談なんかじゃないってわかったか、灯真サン」
「……お前が本気で病院に行った方がいいってことは理解できたよ。ついでに、かなりの悪趣味だってことも」
「ひどいなぁ。でもまぁ、今までみたいに子ども扱いされてるよりはマシだよな」
「医務室なら本部棟の一階だぞ。ぶち込んでやろうか」
「な、灯真サン。おれ、ちゃんと本気であんたのこと好きなんだ」
遥の手が、正面から灯真の座る椅子の背もたれを掴む。両腕の中に灯真の体を捉えた遥は、ひどく愉しそうに笑った。
「もう、容赦しないからな」
蛍の秘剣は常に万全の状態で振るわれること。
そのためには明鏡止水の心を持ち、激情に駆られることなどあってはならない。
幼い頃から仕込まれ続けたその教えが、混乱に任せて咄嗟に愛刀へ伸ばした手を一瞬躊躇わせた、が。
その隙をついて頬に落とされたリップ音に、彼はついに刀を抜いた。
数時間後。
作戦室へ帰還したオズヴァルド及びミロクが2人を取り押さえたため、室内の被害は比較的軽度で済み。
普段冷静な灯真が感情をそのままに暴れていたことに班員たちは目を丸くした。
しかし大元の原因である遥は無傷でからからと笑い、また珍しく仏頂面をした灯真の耳が赤かったのを見て、班長である茜が全てを悟るのにそう時間はかからなかった。
例えば、"みだりに剣を他者へ晒さぬこと"等。
既に破門された身である灯真にも、その教えは自身の価値観として根差している。特に"蛍の秘剣は常に万全の状態で振るわれること"という制約を、彼は無意識のうちに戦闘時でなくとも己に強いていた。一瞬の迷いが命取りになる刹那のやり取りにおいて"万全の状態"を維持するためには、常日頃から月をも映す水鏡のように静かな心を持たなければならない。激情に駆られるなどはもってのほかである。
故に、彼は耐えていた。
気になって気になって仕方がないそれを無理やりに注意の外に置き、目の前の書類へ万年筆を走らせる。
耐えて、耐えて、耐えて。
それでも一向に消えない"それ"へ痺れを切らした彼は、しかし刀を抜きたい衝動を押し殺し、低い声で「……おい」とだけ声をかけた。
そんな彼の努力も虚しく、"それ"は何の反応も示さなかった。
「…………」
彼は、さらに耐えた。
万年筆を握る右手が小さく震えるが、それでも耐えた。
耐えて。耐えて。耐えて。耐えて。耐えて。
耐えた。耐えた。耐えた。耐えた。耐えた。
耐え忍び。
耐え凌ぎ。
沈黙し。
自制し。
また、耐えて。
「……、……」
ついに左手が握りこぶしを作り、机の上に叩きつけられた。
常に伏し目がちな灯真の目が苛立ちに見開かれ、"それ"を見る。
「なんっ、っなんださっきからお前は!」
明鏡止水の教えを受けたとはいえ、元来そう気の長い方ではない灯真の我慢はとっくに限界だった。なにせ彼は既に小一時間、"それ"――左斜め前から向けられる視線に耐え続けていたのだ。殴打の勢いで書類のいくつかがふわりと舞い上がるが、彼にはもうそれを気に留める余裕はない。
他の部下なら肩を跳ねさせそうな灯真の怒りを向けられて、しかし視線の出所である遥は「おお、」と小さく声を上げるに留まった。それがさらに、灯真の苛立ちを誘う。
「さっきから人の顔をじろじろと……!何か言いたいことがあるならさっさと言え気が散るっ!」
「うん?うん、じゃあはっきりいう」
明らかに不機嫌という顔をした灯真に、椅子から立ち上がった遥はてこてこと近寄った。言葉を待つ灯真の、いまだ握りこぶしを解かずにいる左手を掬い上げて、遥はいたって真剣に言う。
「灯真サン、おれとやらしいことしよう」
「死ね」
「じゃあ、せっくすしよう」
「殺すぞ」
「子作り?同衾?夜伽?まぐわい?イイコト?めいくらぶ?姫始め?」
「言い方の問題じゃねぇし昼間っから何を言い出してんだ。あと姫始めは意味が違う」
おおそうか、なんて気の抜けた返事をする遥から左手を奪い返し、灯真はその手で自らのこめかみを押さえた。遥にこういった誘いをかけられるのは今に始まった事ではない。何をどう間違えたのかこの部下は、女性に対して口にすればセクハラでお縄になりそうな冗談を平気で灯真に言うようになった。遥からすれば至って真摯な愛の告白なのだが、灯真はたちの悪い冗談だと信じて疑わない。
彼の一風変わった求愛は変態発言に留まらない。
隙あらば尻を揉み、抱きつき、手を握り。
彼の育った環境から考えれば随分とのどかなものであるだけに、力づくで拒否することもできずそのうえ単なる冗談(灯真にとっては、だが)に本気になるのも馬鹿らしく、灯真は頭を抱えていた。まぁ、その真面目な性格が空回りした結果ともいえるのだが。
「……欲求を持て余してるなら風俗にでもいけばいいだろ」
「、――灯真サンは行ったことあるのか?」
「俺の話はどうでもいいだろ」
「良くない」
「はぁ?……昔、上の付き合いで1度。個人的にはああいうのは好かないが」
「ふうん。そっかそっか、おれと会う前のハナシか」
「そりゃあそうだがそれがなんだっていうんだ……」
ため息を吐きつつ、灯真は書類に向き直った。ここはなにも2人の部屋というわけではなく不知火班の作戦室であるため、いつ誰が入ってきてもおかしくはないのだがこういう時に限って来客はなく、他の班員も留守にしている。セナなり空乃なりがいれば遥の言動にツッコミを入れてくれたのかもしれない、と思うと自分の間の悪さが心底嫌になった。こういったジョークに上手く返せるようなユーモアが欠けていることを、灯真はきちんと自覚していた。それだけに、解せないのである。この部下があからさまに自身へ好意を示すことに。
男が趣味なら茜あたりにしておけといささか投げやりなことを考えながら、万年筆の先を紙に触れさせた、途端。
「おれは灯真サンとじゃないとそういうことしたくないぞ」
――突如投げかけられた言葉に、鋭い先端が紙を突き破った。
「できれば突っ込む方がいいけど、灯真サンがやだっていうなら」
「待て。ちょっと待て」
「ん?だって灯真サンの方がかわいいと思うし」
「誰もそんなことは聞いてねぇ!なんでそういう話に、」
「っていうか灯真サン眼鏡似合うな。えろい」
「人の!話を!聞け!」
遺伝的に目の悪い灯真は、書類仕事の際には眼鏡が必須だった。ただ必要に迫られて使っているものがそんな風に見えていたとは、違う、そうじゃない。
珍しくぐるぐると混乱している彼は、遥がさらに距離をつめたことに気がつかない。もしかしてこいつ今までの変態発言は本気でぬかしてやがったのかとこの時初めて灯真は予感した。なにせ彼は男であり、遥もまた正しく男である。そのため灯真は、自身が遥の恋愛対象である可能性を無意識に排除していたのだ。彼の上司であり友人の茜の恋人が同性の部下を恋人とした時は、なにも疑問に思うことなく素直に祝福したというのに。
要するに彼は、鈍感だったのだ。
しかし遥はそれを理由に諦める気など毛頭なく。
むしろ灯真が意識していないことを逆手にとってスキンシップを図るくらいには強かだった訳だが。
「やっと冗談なんかじゃないってわかったか、灯真サン」
「……お前が本気で病院に行った方がいいってことは理解できたよ。ついでに、かなりの悪趣味だってことも」
「ひどいなぁ。でもまぁ、今までみたいに子ども扱いされてるよりはマシだよな」
「医務室なら本部棟の一階だぞ。ぶち込んでやろうか」
「な、灯真サン。おれ、ちゃんと本気であんたのこと好きなんだ」
遥の手が、正面から灯真の座る椅子の背もたれを掴む。両腕の中に灯真の体を捉えた遥は、ひどく愉しそうに笑った。
「もう、容赦しないからな」
蛍の秘剣は常に万全の状態で振るわれること。
そのためには明鏡止水の心を持ち、激情に駆られることなどあってはならない。
幼い頃から仕込まれ続けたその教えが、混乱に任せて咄嗟に愛刀へ伸ばした手を一瞬躊躇わせた、が。
その隙をついて頬に落とされたリップ音に、彼はついに刀を抜いた。
数時間後。
作戦室へ帰還したオズヴァルド及びミロクが2人を取り押さえたため、室内の被害は比較的軽度で済み。
普段冷静な灯真が感情をそのままに暴れていたことに班員たちは目を丸くした。
しかし大元の原因である遥は無傷でからからと笑い、また珍しく仏頂面をした灯真の耳が赤かったのを見て、班長である茜が全てを悟るのにそう時間はかからなかった。