Nameless
それは名前の無い村の外れ。
幸せな一家が暮らしていた。
優しい母と、穏やかな父。賢い息子の、ありふれた家族。
村の中でもその一家は、仲が良いと有名だった。
事実、彼らは幸せだったのだ。
父親が事故で死んだあの夜までは。
男は、山の麓の洞窟で、落石に遭って亡くなった。
かつての恋人と裸で抱き合ったまま、死んでいた。
それを聞いた男の妻は発狂し、
絵に描いたような幸せな家族はいとも簡単に崩壊した。
気狂いの母は、夫によく似た息子を忌み嫌った。
お前が不幸をもたらしたのだと罵った。
全部お前のせいだと殴りつけ
死んでしまえと蹴り飛ばし
地下の倉庫に閉じ込めて
食事の1つも与えなかった。
そうして彼女は自分を守ったのだ。
村の人々は女に同情し、
主の教えに背く女の罪に目を瞑る。
いずれ子供は死ぬだろうと
誰もが本当はわかっていた。
わかっていて、知らぬふりをした。
そうして世界は続いていた。
ある日、村の図書館から
神話が根こそぎ消え失せた。
村人総出で探したが
一冊だって見つからない。
次の季節、今度は村の地主の蔵書庫から
ありとあらゆる歴史書がなくなった。
これには村中大騒ぎ。
全ての家を探したが
やはりどこにもありはしない。
そのうち、1人が言い出した。
まだ探していない場所がある。
まさかまさか、と村人たちは
村の外れの一軒家。
気狂いの女が住む家を訪れた。
女は骨と皮だけのやつれた体で、
促されるまま地下室の扉を開ける。
とうに死んでいるだろう少年のいる部屋を。
地下へと続く階段を下りて
彼らが目にしたのは薄暗い地下室
そこに散らばった夥しい数の古書と
部屋いっぱいに血で描かれた図形と古代文字
それから、あざだらけで血まみれの少年の姿。
怒り狂った母親は
制止を振り切って部屋へと踏み込んだ。
彼女は知らなかった。
足元の図形はかつて失われた奇跡の象徴
長い時間の中で欠落した部分まで少年の手で補われた
魔法そのものであったこと。
誰もがいなかったことにした少年の
生きたまま殺された幼い子供が育み続けた
憤怒と憎悪の大きさを。
女が自らの子に触れた途端
その指先は腐り落ちた。
悲鳴を上げた母親を少年が見下ろせば
その胴体がばらりと散らばった。
呆然とする村人たちに向き直り、
怪物になった少年は言う。
血の滲む喉で、枯れ果てた声で
それでも彼は力の限り吠えた。
誰も助けてはくれなかった。
誰も手をのべてくれなかった。
誰も許してはくれなかった。
他人事だと知らぬふりをした。
それが主の教えに背くと知っていたくせに。
間違っていると知っていたくせに。
無かったことになんかさせるものか。
お前らの罪を、あの人の罪を、
おれの怒りを、おれの悪を。
みせてやる。
教えてやる。
おまえらのしたことは罪悪なのだと
この悪をもって証明してやる
誰もが忘れた少年の執念を
怨嗟という名の祈りを
魔法は決して裏切らない。
そうして原初の魔術は産声を上げる。
歪んだ奇跡が形になって
[Erbsünde]を語る
「盲目ノ聖女」が掲げた怠惰を
或いは、「希望ノパレード」が謳う傲慢を
また「黒キ女王」を侵した傲慢を
かつて「冥王」が手にした暴食を
そして「災厄ノ獣」の果て無き憤怒を
いつの日か「時計塔ノ魔女」を灼いた色欲を
人知れず「死セル少年」の抱いた嫉妬を
「瓦礫ノ勇者」の腐った正義を
伸ばし続けた少年の腕は
それらを束ねて魔術と成す。
その夜、名も無き村は死に絶えた。
ついに彼らの罪は裁かれたのだ。
私はかつて、その村にいた。
踏み外す前の少年の姿を
私はよく覚えている。
頭の良い子供だった。
しかしそれを鼻にかけることもない、
両親に似て優しく穏やかな子供だった。
悲劇の幕開け、その前夜
王国へと越したことで彼の絶叫を聞かぬまま
堕ちゆく彼を見ずに生きられたことを
私は幸福と思うべきなのだろうか。
ただその後、彼の歩んだ地獄を
原初の魔術師としての一生を思えば
しかし。
いったい誰が彼の終わらぬ旅を終わらせてやれるのだろう。
あぁ、そういえば彼の家名は
皮肉にも[旅する狼]を意味する言葉だった。
ミハエル・D・アーノルドの手記
「少年が怪物になった夜」
幸せな一家が暮らしていた。
優しい母と、穏やかな父。賢い息子の、ありふれた家族。
村の中でもその一家は、仲が良いと有名だった。
事実、彼らは幸せだったのだ。
父親が事故で死んだあの夜までは。
男は、山の麓の洞窟で、落石に遭って亡くなった。
かつての恋人と裸で抱き合ったまま、死んでいた。
それを聞いた男の妻は発狂し、
絵に描いたような幸せな家族はいとも簡単に崩壊した。
気狂いの母は、夫によく似た息子を忌み嫌った。
お前が不幸をもたらしたのだと罵った。
全部お前のせいだと殴りつけ
死んでしまえと蹴り飛ばし
地下の倉庫に閉じ込めて
食事の1つも与えなかった。
そうして彼女は自分を守ったのだ。
村の人々は女に同情し、
主の教えに背く女の罪に目を瞑る。
いずれ子供は死ぬだろうと
誰もが本当はわかっていた。
わかっていて、知らぬふりをした。
そうして世界は続いていた。
ある日、村の図書館から
神話が根こそぎ消え失せた。
村人総出で探したが
一冊だって見つからない。
次の季節、今度は村の地主の蔵書庫から
ありとあらゆる歴史書がなくなった。
これには村中大騒ぎ。
全ての家を探したが
やはりどこにもありはしない。
そのうち、1人が言い出した。
まだ探していない場所がある。
まさかまさか、と村人たちは
村の外れの一軒家。
気狂いの女が住む家を訪れた。
女は骨と皮だけのやつれた体で、
促されるまま地下室の扉を開ける。
とうに死んでいるだろう少年のいる部屋を。
地下へと続く階段を下りて
彼らが目にしたのは薄暗い地下室
そこに散らばった夥しい数の古書と
部屋いっぱいに血で描かれた図形と古代文字
それから、あざだらけで血まみれの少年の姿。
怒り狂った母親は
制止を振り切って部屋へと踏み込んだ。
彼女は知らなかった。
足元の図形はかつて失われた奇跡の象徴
長い時間の中で欠落した部分まで少年の手で補われた
魔法そのものであったこと。
誰もがいなかったことにした少年の
生きたまま殺された幼い子供が育み続けた
憤怒と憎悪の大きさを。
女が自らの子に触れた途端
その指先は腐り落ちた。
悲鳴を上げた母親を少年が見下ろせば
その胴体がばらりと散らばった。
呆然とする村人たちに向き直り、
怪物になった少年は言う。
血の滲む喉で、枯れ果てた声で
それでも彼は力の限り吠えた。
誰も助けてはくれなかった。
誰も手をのべてくれなかった。
誰も許してはくれなかった。
他人事だと知らぬふりをした。
それが主の教えに背くと知っていたくせに。
間違っていると知っていたくせに。
無かったことになんかさせるものか。
お前らの罪を、あの人の罪を、
おれの怒りを、おれの悪を。
みせてやる。
教えてやる。
おまえらのしたことは罪悪なのだと
この悪をもって証明してやる
誰もが忘れた少年の執念を
怨嗟という名の祈りを
魔法は決して裏切らない。
そうして原初の魔術は産声を上げる。
歪んだ奇跡が形になって
[Erbsünde]を語る
「盲目ノ聖女」が掲げた怠惰を
或いは、「希望ノパレード」が謳う傲慢を
また「黒キ女王」を侵した傲慢を
かつて「冥王」が手にした暴食を
そして「災厄ノ獣」の果て無き憤怒を
いつの日か「時計塔ノ魔女」を灼いた色欲を
人知れず「死セル少年」の抱いた嫉妬を
「瓦礫ノ勇者」の腐った正義を
伸ばし続けた少年の腕は
それらを束ねて魔術と成す。
その夜、名も無き村は死に絶えた。
ついに彼らの罪は裁かれたのだ。
私はかつて、その村にいた。
踏み外す前の少年の姿を
私はよく覚えている。
頭の良い子供だった。
しかしそれを鼻にかけることもない、
両親に似て優しく穏やかな子供だった。
悲劇の幕開け、その前夜
王国へと越したことで彼の絶叫を聞かぬまま
堕ちゆく彼を見ずに生きられたことを
私は幸福と思うべきなのだろうか。
ただその後、彼の歩んだ地獄を
原初の魔術師としての一生を思えば
しかし。
いったい誰が彼の終わらぬ旅を終わらせてやれるのだろう。
あぁ、そういえば彼の家名は
皮肉にも[旅する狼]を意味する言葉だった。
ミハエル・D・アーノルドの手記
「少年が怪物になった夜」