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Nameless

スコープ越しに見た標的の顔は、一点を見つめてわかりやすく青ざめていた。

その方向には茜さんが配置されてたはずだ。あの人が戦っているのなら、目を奪われるのも無理はない。きっといつも以上に、派手に蹴散らしているのだろう。――陽動として。
俺の横に控えた元軍用犬が、注意深く周囲を警戒しているのを横目に、俺は小さく息を吐いた。

一度目を伏せて、再びスコープを覗き込む。引き金に指をかけ、静かに息を止めた。酸欠で視界が眩む前に狙いを定めて、撃つ。
サイレンサーを通していてもわずかに響いた銃声と共に、茜さんへ銃口を向けていた標的の頭部が弾け飛んだ。



ちりん、と指先で回した鍵束が音を立てる。
遠出の任務だからと一応ホテルを取っておいて良かった。予定では夕方には終わることになっていたけれど、後始末に手間取ったせいでもう既にてっぺんを回っている。今夜はここに一泊して明日の昼にでも帰ろうと指示した時の、あいつらの喜び様といったら見事なものだった。この時間だと汽車もない。流石に一仕事終えてから徹夜で本都まで帰るのは、あいつらも体力的にキツいのだろう。かくいう俺も同意見だ。
貸し切ったフロアの部屋の鍵を適当に班員達へ割り振って、鍵束に残った鍵は後1つ。先に向かわせた空乃が待っている部屋の、1つだけだった。

それを鍵穴に突っ込んで、かちりと回す。ドアを引き開けたところで、ふと違和感に気がついた。空乃はスナイパーだけあって感覚が鋭い。隠す気もない足音に、気付かないということはないだろう。しかし部屋の中で誰かが動くような気配はない。いや、空乃だけではなく。つい少し前に諸々の事情で軍用犬の専門部署から引き取ったあの犬が、同じ部屋にいる筈だ。律儀で忠誠心の厚いあいつが無反応というのも、少し気にかかる。

俺は静かに部屋へと入り、胸ポケットの拳銃に手を伸ばす。部屋の大きさから考えて太刀を振り回すのは難しいだろう。これ1つで足りるかどうか。
そんなことを頭の隅で考えながら、俺はリビングを覗き込んだ。

ソファの影でぱたりと、黒い尻尾が揺れている。
それを見て、俺は振り返り部屋の内鍵をかけた。



ソファの上には、空乃が横たわっている。といっても怪我をしているとか気を失っているとかではなく、ただぐっすりと眠り込んでいる。そしてその腕の中には、こちらを見上げてぱたぱたと尻尾を動かしながらも空乃を起こさないよう大人しくしている黒毛の大型犬、"グロウ"の姿がある。
その頭を片手で軽く撫で回して、俺は思わず頬を緩めた。
なんともまぁ、和んでしまう光景だ。
とはいえ、空乃はまだ外套を脱いだだけのワイシャツ姿で、このまま朝まで眠らせてしまえば悲惨なことになる。きっとうたた寝しているうちに深く寝入ってしまったのだろう。せめて着替えさせてやらなければならないし、なによりソファの上では体を痛めてしまう。折角気持ちよさそうに眠っているのだからと、見逃してやりたい気もするけれど。
俺は少し悩んで、結局空乃を起こすことに決めた。
その頬に流れた柔い黒髪を指で払って顔を寄せる。片手を突いたソファの背もたれが、ぎしりと鈍い音を立てて。
無防備に晒された白い耳に、キスを1つ落とす。

そこからは早かった。
展開を見計らったグロウが腕から抜け出すのとほとんど同時に、飛び起きた勢いで空乃がソファから転げ落ちる。
ぺたんと床に座り込み、首までを赤く染めた空乃が混乱しながら俺を見上げている。ぱくぱくと開いたり閉じたりを繰り返すその口が意味のある言葉を並べることはなくて、俺は思わず声を出して笑った。

「おはよ、そら。寝るんなら着替えてベッド行けよ?」
「や、あの、はい。――じゃなくてっ!何するんですか急に!」
「これが一番効くかなと」
「そうですけど、そうかもしれませんけどっ」
「今更キスくらいで照れるような仲じゃないだろーが」
「――……あぁもう、もう、あんたって人は」


精一杯呆れたような表情を作って額を押さえるその頬は、未だ赤い。なんだか妙に満足してタイを解いていると、じとりとこちらを見据えた空乃が言った。

「茜さん、今夜は覚悟してくださいね」
「……別にいいけど、それ俺のセリフじゃないのか?」
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