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Nameless

「空乃頼む!この通りだー!」

両の手の平を顔の前で合わせて、同じ班の先輩である彼は俺に向かって勢いよく頭を下げた。
俺は思わず気圧されながら、一刻も早く立ち去りたいのを堪えてため息を吐く。
ただメンテナンスに出していた愛銃を取りに来ただけなのに一体どうしてこうなってしまったのだろう。周囲からの視線が痛い。

「……何があったんですか」
「いやそれがさぁ、まぁタイミングが悪かったっつーか、運が悪かったっつーか、なぁ?」

何が"なぁ"だ何が。
煮え切らない返事をしつつも逃さんとばかりに距離を詰めてくる先輩に、フードを深々と被り直す。いっそのこと走って逃げ出したい衝動に駆られるが、あくまで射手の俺が近接戦闘のプロから逃げ切れる気がしない。

「こないだの遠征の報告書の締め切りと、決算書の締め切りが被っちまっててさぁ。ただでさえ月末の今日は忙しいってときに緊急会議があって、ついでに昨日うちの連中がちょっとポカしちまった尻拭いと始末書がこう……臨時で増えちまったっていうか」
「具体的に、何枚」
「えっとぉ、4件ほど」

でもその内1件は不慮の事故だしもう1件はうちに責任ないんだけど、なんて言い訳を零して、先輩はポリポリと頬を掻いた。

成る程。道理で朝から姿を見ていないわけだ。
きっと処理に追われて執務室に籠っているのだろう、と"彼"を思って、俺は二度目のため息を吐く。

「でも、あの人が忙しいのなんてそう珍しいことじゃないでしょう。器用な人ですしペース配分くらい分かってますよ」
「それが今日はそんな余裕もなくってなぁ。ついさっき修羅場が終わったとこなんだけど、"班長"朝から休憩なしで仕事してるうえにコーヒー以外何にも口にしてねぇみてぇで」

ひどく言いづらそうに告げられたその言葉に俺は思わず懐中時計を開く。現在時刻、18時21分。
朝は俺より早く部屋を出た筈だから、多分6時頃から今の今までずっと。
へぇ。ふーん。あぁ、そーですか。
すぅっと頭の芯が冷えていくのを感じていると、目の前の先輩が似合いもしない小さな悲鳴を上げた。フードで表情は隠れている筈なのに、態度に出てしまっていたのだろうか。いや、この際そんなことはどうでもいい。

「わかりました」

そう返した声は、自覚できるほどに低く響いた。



ノックを三回。
それから、重苦しい扉に向かって声を上げる。

「柊です。失礼します」

はい、と小さな返事を聞き届けて、俺は両開きの扉の片側を押し開けた。
奥行きのある部屋の正面に、どっしりと構えた執務机。いつもはきちんと整頓されているその机上には数枚の書類が乱雑に積まれていて、更にはこの部屋の主である第13小隊、通称"不知火班"の班長――ついでに俺の恋人が腕を枕に突っ伏していた。
それを見るや否や俺は足早に彼に近付いて、手にしていたトレイを机の端に置きその顔を覗き込む。
疲れて眠っていたのだろうか。
どこか焦点のぼやけた夕焼け色の瞳が、気怠げに俺を見上げて。彼はふにゃりと笑うと、寝起きのような甘ったるい声がいつものように俺の名を呼んだ。

「そら、」

――ああ、もう、これだから。
この人は、茜さんは本当にずるい。
普段はあれだけ隙なく格好いい癖にこういう時だけ子供ぽさを発揮してくるなんて反則だ。物申してやろうとか寝顔の写真撮りたいなぁとかそんな目論見が一気に吹っ飛んでしまう。心臓がきゅう、と音を立てた気がする。俺が心臓発作で死んだらこの人のせいだ。遺書を書いておく必要性を真剣に検討する必要がある。というか、神々しすぎて失明しそう。テロかよ。

俺は咄嗟に俯き、それ以上目に毒な光景を視界に入れないよう両手で顔を覆う。その間に茜さんが身動ぐ気配がして、ようやく自分を落ち着かせて顔を上げた頃には、彼は大きく伸びをしていた。

「……お疲れ様です、班長」
「ん、お疲れ様。何かあったのか?」
「どっかの誰かさんが性懲りもなくオーバーワークしてるって報告がありまして。責任あるお立場ですしお忙しいのはわかりますけど、食事と最低限の休憩はとってください。あと、空腹時にブラックコーヒー流し込むのやめた方がいいですって前も言いましたよね」

書類の束を一旦応接用のテーブルに寄せて、空いたスペースに持参したトレイを置き直す。きょとんと茜さんが見つめたトレイの上には、作ったばかりのサンドウィッチとまだ湯気の立っている蜂蜜レモンのカップが並んでいる。
視線に促されるように、俺は口を開いた。

「……本部の食堂が閉まってたんで、こんなものしか作れなかったんですけど。どうせ今日は残業でしょう?夕飯はちょっと多めに作りますから」

何がいいですか?

そう問うと、茜さんは一瞬間をおいてくすくすと笑いだす。

「班長?」
「あぁ、いや」

彼はカップに手を伸ばすと、一口含んでからこう言った。

「かわいい奥さんがいて幸せだなぁ、と思って」
「か、……奥さっ、!?」

じゃあシチューがいいな。

そんなことを呟いた悪戯っぽく笑う彼から視線を逸らし、ぶわりと熱を持った頬を抑えながら、俺は今夜は定時で帰って少し手の込んだシチューを作ろうと心に決めた。
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