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原初の魔術師とあくまのこ

この国おいて黒は悪魔の象徴で。
だから黒髪の子どもは国に不幸をもたらす悪魔の子とされる。

その話を聞いた時から少年は何度か自分の髪を毟ってみたけれど、生えてくる髪はいつまで経っても黒い色で。
つまり自分は悪魔の子であり、ずっと地下牢に繋がれているのはそのせいだったとのだと、少年はようやく気がついた。


少年は昔からこの地下牢にいた。
いつから、というならば、少なくとも物心ついた頃にはもう。
晴れた日の空が青い色をしていることも、花に匂いがあることも少年は知らない。ただ、血を流し過ぎると寒くなることと、骨が折れると痛くて熱いことは知っていた。それが少年の日常だった。
今日も朝早くに訪れた男が、ボロ雑巾のように横たわる少年の腹を蹴り飛ばした。寝覚めると同時に吐き気に呻いた少年の前髪を掴み上げ、男は彼の頬を殴る。塞がりかけていた口の中の傷が開いて流れだした血液が、少年の唇を伝って床に落ちる。それを気持ち悪そうに見下ろして、男は伏せた少年の頭を踏みつけた。しばらく靴底を拭うようにぐりぐりと足を動かして、飽きた頃にもう一度少年を蹴って仰向けにする。濁った瞳がぼんやりと天井を見て、ゆるりと傍らに佇む男へと視線を移す。男は黙って少年の首に嵌められた首輪が緩んでいないことを確かめると、すぐに檻の外へと出て行った。
男が少年に声をかけることはない。少年もまた、悲鳴すら上げずに理不尽な暴力を受け入れた。しかし両者がそうした理由ははっきりと異なっている。男の沈黙は悪魔の子である少年への嫌悪であった。対して少年の沈黙は、ただ単に声を出し方を忘れてしまっているというだけである。神罰として少年を痛めつける役割についている人物の中には少年に語りかけるようにその罪を知らしめ、罵声を浴びせる者もあったが、彼らは一様に少年が発声するのを嫌った。
泣き叫べば泣き叫ぶほどに暴力は加速し、ひどく寒い日に冷水を頭から浴びさせられることもあればロウソクの火で炙られたことも、息ができなくなるまで集団で殴られ続けたこともあった。そんな日々が繰り返されるうちに少年は知っている言葉を増やしていく一方で、声帯を震わせる方法を忘れていったのだった。

少年はなにをするでもなくぼんやりと、転がされたままの体勢で石造りの天井を眺めている。立ち上がろうにもその足首は鎖に繋がれ、鉄格子には決して近づけないようにされている。いくら錆びついているとはいえ子どもの力で鉄格子が破れるはずもないが、ここに来たばかりの頃世話役の男に泣いて縋った時からそのようにされた。もはや意味もないそれが、少年から立ち上がる気力すらも奪っている。
しばらくすれば別の人間がこの牢に朝飯を投げ入れるだろう。本当はそれを口にするのも億劫だが、一度手をつけなかった際に酷く殴りつけられたために少年が食事とも呼べないその行為を欠かすことはなかった。這いずって残飯を拾い、口に運ぶ。その後は疲れ果てて眠りにつき、再び暴力で起こされる時を待つ。繰り返し繰り返し、少年は日々を送る。

そうして少年は生きていた。
不思議と、死にはしなかった。

しかしそんな少年の意思に反して、既に歯車は廻り始めていた。
少年の絶望すら無視して、秒針は物語の始まりを知らせている。

それは奇跡に似た偶然であり、あるいはありふれた必然だった。少年が濁った両目を伏せようとした瞬間、その視界の端で何かが輝いた。

「……?」

それは少年の世界に存在しなかったものだった。
牢の奥に積まれたガラクタの山の中で何かが確かに輝いている。とはいえ白く眩しい光ではなく、昏くて黒い不可思議な光である。
少し迷って、少年は鉄格子の方を振り返った。
近くに人影はなく、日に何度か訪れる「神罰」も先ほど受けたばかりだ。
少年は四つん這いになって、光の元へと近づいた。それはガラクタの山の奥の方で、いまだ輝き続けている。少年は手を伸ばす。飛び出した釘や木片が粗雑に包帯が巻かれた幼い腕を傷付けたが、その程度の痛みを受け止める感覚は少年から失われている。
指先に触れた皮の感触に首を傾げながら、少年はそれを引きずり出す。

それは、一冊の本だった。

黒にも蒼にも見える革の表紙。分厚い羊皮紙は古いもののようだが、しかし劣化している様子はない。
少年は文字を読めない。誰からも教わることはなかったのだから当然だろう。否、もし少年が年相応に読み書きができたとしてもその本は古代の文字で記されているのだから、結局意味を理解することはできなかっただろうけれども。しかし少年は気落ちすることなく、普通の人が見知らぬ書物を手にした時と同じように本を開いた。元々少年はここから出る方法を探していたわけではない。故に、どうしても鍵にはならなそうなそれにも今更絶望することはなかった。少年は表紙に記された「Erbsünde」の意味も知らずに、羊皮紙を捲る。
ややおいて、最後のページ。その文字列を見た途端、少年は手を止めた。勿論少年がその言葉の意味を理解していることはなく読む方すらも知らなかったのだが、しかし不思議とそれから目を離せずにいる。
少年は無意識のうちに、その文字列を指で辿った。

[O s w a l d]

それが全ての始まりだった。
あるいは、日常の終焉だった。
少年の狭く暗い世界が、がらがらと端から崩れ落ちていく。

気がつけば少年の前に、1人の青年が立っていた。
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