夜が明ける前に
痛みに喘ぐような呻き声を上げて崩れ落ちたその体を、俺は咄嗟に手を伸ばして受け止めていた。黒い制服では出血の様子もわからない。ただ触れた掌に伝う液体の感触が、俺を現実に引き戻した。深々の獣の爪が突き刺さった背中が、浅い呼吸に合わせて僅かに上下する。だらりと力なく地面に落ちた手はもう刀を握っていない。そのまま視線を下げた俺の目に、膝上あたりまでが大きく抉れた班長の左脚と、太ももの中程から先が失われた右脚が写る。
それを認識した瞬間、情け無く開いた俺の口から意味の無い声が漏れた。
「あ、あ――ああああああああああ!!」
「お前のせいじゃない」
連絡を聞きつけてやってきたのだろう蛍守さんは、息を切らせながら開口1番そう言った。緊急搬送された軍病院の、手術室前。「手術中」の赤いランプだけが煌々と輝いている薄暗い廊下で、俺はうなだれていた頭を起こす。先ほどまでここに集まっていた他の班員は既に自室待機を言い渡され撤収していた。だから残っているのは、班長の血に染まった軍服もそのままに命令に背きベンチに留まっていた、俺1人だ。
よっぽど酷い顔をしていたのだろうか。
蛍守さんは溜め息を吐いて、近くの自販機に小銭を入れた。金属の擦れる音と、排出口に物が落ちる音が2つ分。ぼんやりとそれを眺めていた俺に、彼は取り出した冷たいお茶の缶を片方差し出した。思わず受け取った俺の隣に座り、プルタブを引いて缶を開け。彼はもう一度、「お前のせいじゃない」と言った。
「あいつが勝手にでしゃばって、勝手に怪我しただけだ。自分の行動には自分で責任を持つ。あの馬鹿も一応大人なんだからわかってるだろう。そもそも軍人なんて怪我の多い仕事をしてるんだ。気にするなとは言わないが、気に病む必要はない」
「そんなこと、」
「そんなこと、無理です」
貴方だって、重傷を負ったって聞いて慌てて駆けつけてくるくらいにはあの人を大事にしてるんでしょう。
そう言いかけて、俺は口を噤む。
やつあたりだ。
ただ、それだけ多くの人から大切に思われている人を、俺の弱さが傷つけたのだ。異国民で、親からも見捨てられるような役立たずの俺の存在が、あの人を。
思わず缶を握る手に力が篭る。それをちらりと見下ろして、蛍守さんはぽつりぽつりと話し始めた。
「――俺は、いつかこうなると思っていた」
「え、」
「あの馬鹿の特攻癖は士官学校時代からだ。少なくとも俺が知っている限りで数回以上、死んでもおかしくないような目に遭っている。それでも懲りないあたり、筋金入りの馬鹿だとしか言いようがないが。きっといつか手足の1、2本は無くすだろうなと、思っていた。それが偶々今日で、偶々お前を庇った結果だったというだけだ。遅かれ早かれ似たような事にはなっていたと思う」
「"死ぬのが怖くない"から、ですか」
「あぁ。有り体に言えば、どうしても生きたい理由がないんだ。だからそんな馬鹿げたことを平気で口にするし実行する。それを見ているこちら側の感情なんて考えもしないで」
「、……」
「子どもでもわかるような世の中の摂理に気付いていないんだ。あいつは。それをなんとか教えてやらなきゃと思っていたんだが、……やり方を間違えた。対等になろうとし過ぎた結果だ」
だからお前には期待しているんだ。
そう言って、蛍守さんはまっすぐ俺を見た。
期待、なんて。
俺に何ができるというのだ。
貴方のように強くもなく、班長のように特別でもない俺に。
俺がそう零すと、彼は突然小さく笑った。
怪訝そうにそちらを伺うと、蛍守さんは悪戯っぽく言う。
「半年前のお前の人事。あれは茜の指名だった。あいつが、"柊空乃がうちに欲しい"と言ったんだ。驚いたよ――そんなことは、初めてだったから」
「……は、?」
「一度、応援で教官代理に行ったことがあってな。そこでお前を見つけた。覚えてないだろうけれど」
俺は息を呑む。
初耳だった。いや、そういえばいつだったか教官がギックリ腰で入院した時に、現役の隊員が代理で来ていたことはあったか。しかしそこにこの人たちがいたなんてことは聞いてない。他の班員は勿論、班長自身さえ、一度だって口にはしなかったのだ。
驚きのあまり言葉の出ない俺に、蛍守さんはなおもまっすぐ視線を合わせたまま続ける。
「狙撃訓練の時、お前1人だけ外れの狙撃位置使ってたからな。目に付いたんだろう。俺は個別に指導していたし、極端な成績でもなかったから特に気にしてなかったけどな。終わった後、あの馬鹿に言われたんだよ。背中を任せるならああいう奴が良い、と」
「なん、で」
「自分の点数に固執せず状況を見て支援に移れる視野の広さと、不測の事態でもパフォーマンスを落とさない度胸の良さ。精密射撃のトップを目指せる資質がある、だったか。なんだかんだ理由をつけちゃあいたが、つまり一目惚れだったんだろう。お前に」
何を言っていいかわからず無意味に視線を揺らしながら、俺は口元に手をやった。ずっと缶に触れていたせいで指先は冷たくなっているが、気にならない。
なにせ、そんなにも。そんなにも褒められたのは、人生で初めての経験だった。それも太陽と呼ばれるあの人に、だ。
蛍守さんはくつくつと喉を鳴らして笑い、赤いランプを見上げた。未だ手術中を示すその文字を見つめたまま、思いを馳せるように彼は目を細める。
「あいつが特定の誰かを必要と言うところを初めて見たし、誰かの未来を語る声を初めて聞いた。だからそんなに欲しいなら指名してみたらどうだと俺が勧めたんだ。お前にとってはいい迷惑だったかもしれないが、チャンスだと思ってな。自分勝手な理屈だけれど、お前の存在があいつの生きる意味になるかもしれないと期待した。自分の見出した原石の成長を見届けたくない奴なんていないだろうと。これが、副官としてあの馬鹿の友人として、身勝手にもお前に期待した理由だ」
さて。お前はどうだ?
半年の間あいつの部下になってみて、何を思った。
急に狙撃訓練の成績が上がったのは、結局異動願いを出さなかった理由は、俺が予想している通りの解釈でいいのか?
別に答える必要はない。
ただ、これは俺の我儘だけれど、あいつにだけは伝えてやってくれないか。
あいつに庇われたお前の言葉なら、きっとあの馬鹿にも届くだろうから。
彼がそう言い終えた途端、図ったように、点灯していたランプが消えて。
重々しい手術室への扉が開いた。
それを認識した瞬間、情け無く開いた俺の口から意味の無い声が漏れた。
「あ、あ――ああああああああああ!!」
「お前のせいじゃない」
連絡を聞きつけてやってきたのだろう蛍守さんは、息を切らせながら開口1番そう言った。緊急搬送された軍病院の、手術室前。「手術中」の赤いランプだけが煌々と輝いている薄暗い廊下で、俺はうなだれていた頭を起こす。先ほどまでここに集まっていた他の班員は既に自室待機を言い渡され撤収していた。だから残っているのは、班長の血に染まった軍服もそのままに命令に背きベンチに留まっていた、俺1人だ。
よっぽど酷い顔をしていたのだろうか。
蛍守さんは溜め息を吐いて、近くの自販機に小銭を入れた。金属の擦れる音と、排出口に物が落ちる音が2つ分。ぼんやりとそれを眺めていた俺に、彼は取り出した冷たいお茶の缶を片方差し出した。思わず受け取った俺の隣に座り、プルタブを引いて缶を開け。彼はもう一度、「お前のせいじゃない」と言った。
「あいつが勝手にでしゃばって、勝手に怪我しただけだ。自分の行動には自分で責任を持つ。あの馬鹿も一応大人なんだからわかってるだろう。そもそも軍人なんて怪我の多い仕事をしてるんだ。気にするなとは言わないが、気に病む必要はない」
「そんなこと、」
「そんなこと、無理です」
貴方だって、重傷を負ったって聞いて慌てて駆けつけてくるくらいにはあの人を大事にしてるんでしょう。
そう言いかけて、俺は口を噤む。
やつあたりだ。
ただ、それだけ多くの人から大切に思われている人を、俺の弱さが傷つけたのだ。異国民で、親からも見捨てられるような役立たずの俺の存在が、あの人を。
思わず缶を握る手に力が篭る。それをちらりと見下ろして、蛍守さんはぽつりぽつりと話し始めた。
「――俺は、いつかこうなると思っていた」
「え、」
「あの馬鹿の特攻癖は士官学校時代からだ。少なくとも俺が知っている限りで数回以上、死んでもおかしくないような目に遭っている。それでも懲りないあたり、筋金入りの馬鹿だとしか言いようがないが。きっといつか手足の1、2本は無くすだろうなと、思っていた。それが偶々今日で、偶々お前を庇った結果だったというだけだ。遅かれ早かれ似たような事にはなっていたと思う」
「"死ぬのが怖くない"から、ですか」
「あぁ。有り体に言えば、どうしても生きたい理由がないんだ。だからそんな馬鹿げたことを平気で口にするし実行する。それを見ているこちら側の感情なんて考えもしないで」
「、……」
「子どもでもわかるような世の中の摂理に気付いていないんだ。あいつは。それをなんとか教えてやらなきゃと思っていたんだが、……やり方を間違えた。対等になろうとし過ぎた結果だ」
だからお前には期待しているんだ。
そう言って、蛍守さんはまっすぐ俺を見た。
期待、なんて。
俺に何ができるというのだ。
貴方のように強くもなく、班長のように特別でもない俺に。
俺がそう零すと、彼は突然小さく笑った。
怪訝そうにそちらを伺うと、蛍守さんは悪戯っぽく言う。
「半年前のお前の人事。あれは茜の指名だった。あいつが、"柊空乃がうちに欲しい"と言ったんだ。驚いたよ――そんなことは、初めてだったから」
「……は、?」
「一度、応援で教官代理に行ったことがあってな。そこでお前を見つけた。覚えてないだろうけれど」
俺は息を呑む。
初耳だった。いや、そういえばいつだったか教官がギックリ腰で入院した時に、現役の隊員が代理で来ていたことはあったか。しかしそこにこの人たちがいたなんてことは聞いてない。他の班員は勿論、班長自身さえ、一度だって口にはしなかったのだ。
驚きのあまり言葉の出ない俺に、蛍守さんはなおもまっすぐ視線を合わせたまま続ける。
「狙撃訓練の時、お前1人だけ外れの狙撃位置使ってたからな。目に付いたんだろう。俺は個別に指導していたし、極端な成績でもなかったから特に気にしてなかったけどな。終わった後、あの馬鹿に言われたんだよ。背中を任せるならああいう奴が良い、と」
「なん、で」
「自分の点数に固執せず状況を見て支援に移れる視野の広さと、不測の事態でもパフォーマンスを落とさない度胸の良さ。精密射撃のトップを目指せる資質がある、だったか。なんだかんだ理由をつけちゃあいたが、つまり一目惚れだったんだろう。お前に」
何を言っていいかわからず無意味に視線を揺らしながら、俺は口元に手をやった。ずっと缶に触れていたせいで指先は冷たくなっているが、気にならない。
なにせ、そんなにも。そんなにも褒められたのは、人生で初めての経験だった。それも太陽と呼ばれるあの人に、だ。
蛍守さんはくつくつと喉を鳴らして笑い、赤いランプを見上げた。未だ手術中を示すその文字を見つめたまま、思いを馳せるように彼は目を細める。
「あいつが特定の誰かを必要と言うところを初めて見たし、誰かの未来を語る声を初めて聞いた。だからそんなに欲しいなら指名してみたらどうだと俺が勧めたんだ。お前にとってはいい迷惑だったかもしれないが、チャンスだと思ってな。自分勝手な理屈だけれど、お前の存在があいつの生きる意味になるかもしれないと期待した。自分の見出した原石の成長を見届けたくない奴なんていないだろうと。これが、副官としてあの馬鹿の友人として、身勝手にもお前に期待した理由だ」
さて。お前はどうだ?
半年の間あいつの部下になってみて、何を思った。
急に狙撃訓練の成績が上がったのは、結局異動願いを出さなかった理由は、俺が予想している通りの解釈でいいのか?
別に答える必要はない。
ただ、これは俺の我儘だけれど、あいつにだけは伝えてやってくれないか。
あいつに庇われたお前の言葉なら、きっとあの馬鹿にも届くだろうから。
彼がそう言い終えた途端、図ったように、点灯していたランプが消えて。
重々しい手術室への扉が開いた。