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α:境界を越えて、あなたと二人で
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「誕生日、おめでとうございます」
毎年の、決まりきった文言が藍染惣右介の耳朶を通り過ぎていく。
今となっては誰に言われようと感慨のない、無味乾燥な言葉だ。子供の時分ならまだしも、そうではなくなった者たちで形成された人間関係では社交辞令として使われるのがせいぜいだろう。
何十と、何百と聞いたそれにもはや辟易の感情すら湧かなくなっていた。今年も朝から会う隊士会う隊士に幾度となく言われていたその言葉を、改めて彼女の口から聞いてもその感情に変化はない。
「それがめでたい日を祝う表情か」
「すみませんね、面白みのない無表情で」
そう言って、鐘威橙亜は拗ねるように視線を横に落とした。
ちょうど、周囲に他の死神がいないタイミングのことだった。五番隊隊舎の廊下でばったり顔を合わせた橙亜が、藍染に声をかけてきたのだ。
周りに隊士たちがいれば藍染も「わざわざありがとう」とにこやかに返していたが、二人きりなら装う必要もない。
藍染は冷ややかに橙亜を見下ろした。
「私が生まれてきたことを、君は心から祝えるのか?」
「当たり前じゃないですか。《この世全ての悪》を煮詰めたような極悪人であっても、生まれてきたことは言祝がれるべきです」
「ひどい言われようだね」
「別にあなたがそうだとは言ってませんよ」
じっ、と橙亜は藍染を見上げる。その表情はどこか不満げだ。
橙亜が嘘をついているとは、藍染自身も思っていない。ドがつくほどの馬鹿正直だと軽蔑すらしている。
藍染の目的を、本性を知りながらも、相も変わらずひたむきにまっすぐ藍染を見据えて、軽口さえ口にする。その度胸に感心しつつ──あるいは不愉快に思いつつ、藍染は一歩、橙亜との距離を詰めた。
「それで、わざわざ私を呼び止めたんだ。さぞ素晴らしい祝いの品を用意しているのだろうね?」
「えっ、いりますか……? 他の隊士の皆さんからいろいろと貰っているのでは?」
橙亜はわずかに後ずさった。視線を泳がせた様子から、どうやら本当に何も用意していないことを悟り、藍染は目を細める。
「他の隊士たちのときは用意していたように記憶していたが、上官である私には何も用意がないのはどういうことだい?」
「いや、あの、その……いらないものを贈ってもしょうがないですし、給与が高い上官さんに平隊士が贈れる高価なものはたかが知れていますし……何より、あなたが欲しいものがわからなくてですね……」
その分析は的外れではなかった。わざわざ橙亜から貰いたいものは何もなかったし、橙亜に用意できるものはおおむね自らの能力で手に入れられるものだった。
それはそれとして、「何も祝いの品を用意しない」で妥協した橙亜が気に入らなかったのだ。
「たとえどんなに粗悪で安価で不要であっても、君が贈ってくれたものを私が粗末にするとでも?」
「まあ……はい」
「断言されると、少し傷つくな」
「そう言われましても…………僕で用意できるもので本当に欲しいものがあるなら、努力はしますけど」
「あるんですか?」と、橙亜は藍染を見上げた。
藍染の返答は決まっていた。「そんなものはない」一択だった。しかし、そのまま口にするのも橙亜の思い通りのようで癪だ。
どうせなら、橙亜自身から得るのがいい。とはいえ、彼女が有益なものを持ち合わせているわけもなく。藍染は「どうでもいい」という態度を隠さずに答えた。
「じゃあ……君の誕生日を教えてくれ」
橙亜も、藍染が本気でそれを知りたいと思っているわけではないことを理解していた。しかしその上で、彼女は目を見開き、あからさまに顔を逸らした。
その反応は少しばかり予想外で、藍染は悠々とした態度で彼女の顔を覗き込む。
「いや……別に、よくないですか? どうでも」
「確かに興味はなかったが、嫌がる君の口から直接聞きたくなったよ」
「嫌がってはいませんけど……少しばかり、失念、していたと言いますか……」
「面白い冗談だな、君が
藍染は体を起こし、橙亜の顎を掴んで上を向かせた。視線を固定された橙亜は、しばし逡巡したあと、観念したように息を吐く。
「…………5月、29日です……」
「君の誕生日が?」
「はい……僕の誕生日が」
自分の誕生日が藍染と同じだったから、よりによって本人に尋ねられて狼狽した。たったそれだけのことで何をうろたえる必要があるのか、藍染には理解できなかった。
橙亜から手を離し、藍染は小さく溜め息をつく。
「たかだか366分の1がかぶった程度で何を気にすることがある」
「そうなんですけど……もしかしたら気分がよくないかなぁと、思いまして……」
「君がわざわざ失念していた理由を、私になすりつけないでくれ」
橙亜はギクリと肩を震わせた。自覚はあったようだ。
藍染は橙亜の頭を撫で、髪の毛に指を通して遊ぶ。
「嘘をつくなんて、いけない子だね」
「あなたにだけは言われたくないんですけど……」
「どうしてそんな嘘を?」
「……いい思い出があると思いますか? 僕の誕生日に」
橙亜は自嘲し、藍染の手から逃げるように廊下の壁に寄りかかった。藍染は視線だけで追いかける。
以前に聞いた彼女の昔話を踏まえれば、確かに喜ばしい日ではないのだろう。しかし、やはり藍染にはどうでもよかったので、感傷的な雰囲気は無視した。
「自分が生まれた日を憶えている人間はいない。それは君の驚異的な記憶力を持ってしてもそうなのかな?」
「そうですねぇ……さすがに生まれた日の記憶はありませんね」
そう言うと、橙亜はクスリと笑い、藍染の前に再び相対した。
「すみません、わがままでしたね。『自分の誕生日を知っていることそれ自体が既に幸せ』、ですもんね」
「何の話かな?」
「あなたは意外と優しい人だという話です。その内心はどうであれ、あなたが何気なく発した言葉に救われる人もいるのです」
──彼女はときどき、本当によくわからない話をする。不愉快だ。「何も知らない」と言いながら、まるで見透かすような視線を時折見せる、彼女が。
自らが生まれた日付に固執する必要はない。大事なのは「生まれた」という事実だ。
生まれた日を憶えている人間はいない。必要ではないからだ。
本当かどうかは問題じゃない。必要ではないからだ。
自分の誕生日を知っていることが、人生において一体何の彩りを与えるというのだろう。意味はない。必要はない。
ただ、今ここに、自分が在るという事実だけがあればいいのだ。
「改めて、お誕生日、おめでとうございます。生まれてきてくれて、ありがとうございます。あなたが自分の誕生日を知っていることを……それでいいと思ったことを、嬉しく思います」
そう言って、橙亜は笑った。ぎこちない笑顔は見るに堪えなくて、思わず藍染の口元も歪む。
一年に一度訪れる、誕生日。肉体は日々成長を重ねているから、その日に年齢を重ねるのも数字の上での話だ。他の日と何ら変わらない、ただの日付だ。
これまでも、これからも、その認識が変わることはない。他人のものであってもそれは同じだ。表面上では大事そうに振る舞っていても、やはり変わらない。
変わらない。変わらない、のだが。
「……君は、来年もまったく同じことを、まったく同じ顔で言いそうだね」
「言うでしょうね。あなたの隣にいる限り、毎年言い続けると思います」
「早めに飽きることを勧めるよ」
そう言って、藍染は歩き出した。その後ろを橙亜が足早に追いかけてくる。
このあとの行き先を尋ねてみると、向かう先はどうやら同じらしい。だからといって藍染は歩く速度を変えなかったが、橙亜はかまうことなくその隣に追いついて、並んで歩き始めた。
そんな彼女を一瞥もせず、前を向いたままで藍染は橙亜に尋ねた。
「君にも祝いの品を贈らないとね、何が欲しい?」
「本当にくれるんですか……?」
「上官として部下を労うのは当然だろう」
「無難なものでいいんですけど、あとが怖いので……無理はなさらなくてもいいですよ?」
「私に無理なことがあるとでも?」
「あるでしょうよ。例えば……女装とか?」
「……してほしいのか?」
「ほら、安易に何でもできるとか言わないほうがいいんですよ」
「できるできないと、やるやらないは別の話だ」
「え、なんで張り合おうとするんですか。いや大丈夫ですよ。別に本当にやってほしいわけではないので、やらないでくださいね」
このままでは本当にやりかねないと思ったのか、橙亜は頭をひねらせて、欲しいものを考える。
そんな彼女の態度を白眼視していると、橙亜は「ひらめいた」というように藍染を見上げた。
「じゃあ……悲しみのない世界が欲しいです」
「誕生日の祝いに要求するには、少々厚かましいな」
「でも、できるんですよね?」
その目に映るのは、曇りのない信頼だ。期待に満ちた目を向けられるのは、存外──悪い気分ではない。
「無論だが、すぐには無理だ。あとで私の部屋に来たまえ、手頃なものを贈ろう」
「…………それ、あなたが貰ったものの横流しじゃないですよね? ダメですよ、ちゃんとあなたが使わないと」
「では、そのまま処分すればいいと言うんだね、君は」
「うっ……た、確かに処分されるくらいなら…………いいえ、やっぱりダメです。僕が責任を持ってあなたに消費させます」
「結果は同じだろうに」
「過程が大事なんです!」
「君が言えたことかい? 橙亜」
「ぐ、ぐぬぅ……」
──虚ろな日々に突然現れた彼女が、いつまで共にあるのだろう。
未来のことはわからない。ならば、望む未来を掴み取るのが、力ある者の行いだろう。
藍染は歩みを止めない。振り返らない。
橙亜の言葉を聞き流しながら、二人は歩いていくのだった。
「せっかくだ。君の今日の昼食を、私に寄越したまえ」
「僕のお弁当をですか? ……ゆで卵が入ってますけど……」
「では、私が手ずから食べさせてあげよう」
「好き嫌いはダメですよ?」
一年のうちの、ただの無意味な一日も、彼女がいることで多少は面白くなるのかもしれない。なんて。
