夢主の名字は固定です。
追想
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
はしる。走る。僕は、走る。
わけもわからず、ただ走る。
黒い影が後ろをついてくる。ずっとずっと、ついてくる。
追いつかれてはいけない。追いつかれれば、僕の世界は崩れ落ちる。何もわからないけれど、それだけはわかっていた。
暗い世界が、赤く染まっていく。すぐ後ろまで、迫っている。
逃げる。逃げる。ひたすら逃げる。
僕は、それを、見たくないのだ。
──鐘威橙亜・凶夢──
5月29日、晴れ。
生家が燃えた。それはもう盛大に。
家族が死んだ。それはもう明快に。
聞いたところによれば、燃える家屋から助け出されたのは僕一人だけだったらしい。染村総合病院に搬送され、火傷などの治療をしたそうだ。
*
5月30日。
ちょうど日付が変わった真夜中に気がついた。
誰かに呼ばれた気がしたのだが、真っ暗な部屋には僕以外に人間はいなかった。
体はしばらく動きそうになかったので、再び寝ることにした。しかし、知らない人の声がずっと聞こえていて、あまりよく眠れなかった。
*
5月31日、雨。
水の音がして目が覚めた。外は雨が降っていたらしい。
病室にやってきた看護師さんがたくさん話しかけてくれたが、口が上手く動かなくてちゃんと返事ができなかった。こういうとき、人見知りは苦労する。
*
6月1日。
甘いにおいで目が覚めた。どうやら開けられた窓の外から漂ってきた花の香りのようだ。
あとで聞いたところ、クチナシという花らしい。お正月の栗きんとんにも使われるやつだ。
*
6月2日。
看護師さんが食べさせてくれた食事がとても美味しかった。
食べ物の好き嫌いがないことを初めて褒められた。嬉しかったけれど、実はもっと味の濃い食事のほうが好きだったりする。口にしたら怒られるだろうか。
*
6月3日。
看護師さんがまた窓を開けてくれていたので、風が心地よかった。
梅雨だから少し湿気も感じるけれど、看護師さんがいつも体を拭いてくれているので不快感はない。
火傷の痛みはほとんど感じなかった。むしろ、寝すぎて体がだるいくらいである。
*
6月4日、曇りのち晴れ。
ようやく看護師さんと目が合わせられるようになった。人見知りの貴い進歩である。
お昼はずっと曇り空だったが、夜にはベッドからでも星空がよく見えた。月明かりが暗い病室を照らして、キラキラと輝いていた。
*
そして本日──6月5日、晴れ。
鐘威橙亜、小学三年生。9歳にして天涯孤独となった僕は、現実を特に悲観することもなく、運ばれてきた病院食を自らの手でもりもりと食べていた。いまだ実感がないせいでもある。
このあとは警察の事情聴取があるらしい。火事の詳しい話を聞きたかったが僕の体調が回復するまでずっと待っていてくれたようだ。
──といっても、僕も
こんな子供の証言など大した信憑性もないだろうに、お仕事は大変だ。
むぐむぐとご飯を咀嚼し、一息つく。部屋の隅で様子を見ていた看護師さんに応援されながら、食事を続けた。
朝食を食べ終えると、警察の人たちがぞろぞろと病室にやってきた。みんな険しい顔をしていて、ちょっとだけ恐ろしい。
前に出てきた男の人をこわごわと見上げると、彼は眉をひそめて顎を引いた。
まるで僕から顔を背けたような動きだった。そんなに見るに堪えない顔だっただろうか。顔にはほとんど怪我をしていないのだけれど。
少しだけ首を傾げると、男の人は咳払いをしてから滔々と話し始めた。
「えー、君は『鐘威橙亜』さんで間違いないかな」
「はい」
おそらく形式上とはいえ、改まって尋ねられると緊張する。嫌でも背筋に力が入った。
簡単な確認事項を済ませ、次に尋ねられたのは家庭環境についてだ。
普段は家のどこで、誰と過ごしていたか。そんなことを聞いてどうするのか不思議だったが、きっと僕にはわからない考えがあるのだろう。
だから、僕は淀みなく答えた。
「僕はいつも、みんなが住む本家とは少し離れた地下の自室に一人でいました」
かすかに空気がざわついた。
そんなに大げさに受け取らなくてもいいのに、とばつが悪くなる。別にひどいことはされていない。生きていく上で特別困ったこともなかったし。
鐘威家はこの町に代々続く由緒正しい神社だ。いや、もう全部燃えたから「だった」か。
広い敷地に作られた大きな屋敷の中で、僕は隅っこの離れに住んでいた。理由は「悪霊に取り憑かれやすい」から。生まれたときからそういう体質だったらしい。
僕は昔から幽霊が見えた。今も、病室にうようよと浮いている霊がいくつか見える。その内の一つが看護師さんの体を通り抜けた。病院は特に霊の多い場所だから、ずっと気を張り続けていなければいけないのは、ちょっとだけ疲れる。
鐘威家は巫女の家系で、退魔を専門にしていた。そんな家に僕みたいな「出来損ない」が生まれてしまえば、結界を張って地下牢に隔離するのは当然だろう。
だって、僕のせいで周りの人間が危険な目に遭うのはよくないもの。
「外に出たこと? 家の人と一緒ならたぶん……何度か……? 小学校にはテストがある日だけ行ってて、それ以外はずっと自室で過ごしてました」
記憶を振り返るが、大した記憶は残っていない。外に出た記憶は数えるほどだ。
記憶の景色には誰もいないけれど、家族が僕一人で行動させるわけがない(そもそも僕では牢の鍵を開けられない)ので、誰かと一緒だったはずだが……よく覚えていない。
──記憶力だけはいいと思っていたけど……やっぱり駄目だな。
ここへ来てまた出来損ないポイントが加算されてしまった。しかしながら、自室に関する記憶は間違いないと自負できる。一体何年あそこで過ごしてきたと思っているのだ。
敷地内にひっそりと作られた離れの地下牢は六畳ほどの広さだった。私物はほとんどなかったし、僕は子供なので、特に狭いと思った記憶はない。鉄格子で区切られた部屋の向こうには通路があり、通路の先には階段があって、それを上ると外へ繋がる鉄の扉があった。
薄暗い地下室には電球がなく、小さな窓が一つあった。夜にはその窓の鉄格子越しに星空を見上げるのが日課だった。
食事は朝と夜に二回。お風呂は週に一回。日中は部屋の隅に積まれた本を、辞書を片手に読んでいた。
そんな生活を九年間、ずっと続けてきた。
「だから、事件当日に本家で何があったのかはよく……え、お母さん、ですか? ……お母さんにはずっと無視されていたので、ちゃんとお話ししたことがなくて……」
稀に敷地内ですれ違うことがあっても、お母さんは決して僕を視界に入れなかった。厳しい人だったと思う。
僕を生んでから、他の家族にもだいぶやっかまれていたらしい。しかし、鐘威家の当主はお母さんだ。お母さんが言うことに他の家族は口出しできない。
お父さんは顔も知らない。僕が生まれる前に家を出て行ったそうだ。
「本家には他の家族も住んでいて、お母さんとの仲はあんまりよくなかったらしいです。僕が生かされていたのは当主だったお母さんの情けだとか……おばあちゃんたちは『さっさと殺せ』とうるさかったみたいで……」
鐘威橙亜は、みんなから嫌われていた。誰にも存在を望まれていなかった。生きているだけで迷惑だった。それが鐘威家にとっての事実で、日常だった。
──それでも、僕は……。
悲観的な気持ちだけでは、なかったはずなのだ。
確か、誰かが、一緒に──、──■■?
「……ぅっ」
頭の奥が痛む。思い出そうとして、バチンと思考が弾け飛んだ。目の前が真っ白に──。
■
ぱちぱちと、まばたきを繰り返す。
数分……数秒? 意識が飛んでいたような、そうではないような。
正面には、怪訝な顔の人たちがいた。警察の人たちだ。
──何の、話をしていたっけ……。
あぁ、確か、火事の話。そう、そうだ。だから、あの日の話を──。
「火事の……数日前、にも、久しぶりに外出……して、トラックに轢かれかけて……そのときも『お前が死ねばよかったのに』と言われて、それで……あの日は…………」
記憶を遡ろうとして、呼吸が止まった。
あの日の記憶が、手のひらに感覚が、真っ赤な光景が、断片的に蘇る。時系列も、映像も、バラバラのごちゃ混ぜだった。
焼けるような熱、口に広がる鉄の味、焦げくさいにおい、劈く耳鳴り──どうしようもない、息苦しさ。
「──ハァ、ッ! ハッ……ハァ……ッ!」
息ができなくて、喉を押さえてベッドに倒れ込んだ。心臓が大きく音を立てている。
事情聴取は一時中断となり、駆け寄ってきた看護師さんの手が僕の背中をさすった。
*
──外が燃えている。
小さな鉄格子の窓の向こうに、赤い空が見える。遠くで家族の悲鳴が聞こえた。
「──……けて、たすけて!」
誰もいない地下牢で、私は喉が張り裂けるほどに叫んだ。鉄格子を叩く手には血が滲んでいる。
「誰か、たすけて! 誰かっ……!」
何分も、何十分も叫び続けた。口の中は血の味がした。
そうして息も絶え絶えになった頃、外からの足音が耳に届く。
重い扉が開いて、焦げくさいにおいが増した。そして、むせ返るような鉄のにおいが、私の鼻を突き刺した──。
*
目を覚ますと次の日になっていた。どうやらあのまま気を失って、ぐっすり眠ったらしい。
朝ご飯の前にお医者さんや看護師さんが病室まで来て「もう少しここにいてね」と説明していった。退院はまだ先のようである。
食事を終えて、静かな病室のベッドに大人しく寝転んだ。しかし、無駄な寝返りを必要以上に繰り返してしまう。
体の怪我はよくなったので、ずっと寝ているのは退屈だった。窓の外を見上げて流れる雲を眺めるのはとっくの昔に飽きてしまったし……。
──いつまで、ここにいるのかな……。
外の世界は明るくて、そわそわする。この病室の窓は地下牢にあったものとは比べ物にならないくらいに大きい。だから、日の光もたくさん入ってくる。
ベッドの真横まで迫る窓ガラスの影を眺めて、枕に頭を預けた。
しばらく注視していると、遠くから何か物音が聞こえてくる。
誰かの走る足音のようだった。音は徐々に大きくなり、そして僕の病室の扉の前まで来て。
「橙亜~! いつまで寝てんの~!?」
バタン! と、すごい音を立てて病室の扉が開いた。遅れて、看護師さんたちの怒声が聞こえてくる。
風圧が前髪を揺らした。驚いた僕は、声の主をまじまじと見やる。
勢いよく扉を開けた少女は、体を起こした僕を見て、大きく目を見開いた。
「起きてんじゃん! 言えよさっさと!」
「うるさいですよ、唯和……」
ずかずかと病室に入ってきたのは同級生の蜜江唯和だ。空気を読まない上に面倒くさい、大人にも平気で食ってかかるような性格の女の子である。
唯和はしかめっ面で僕の頭から足先までをじろじろと見回し、整った顔をさらに歪めて語気を強めた。
「元気なら早く退院しろよ! うちに橙亜の部屋、用意してあるんだから!」
「え?」
きょとんと見上げれば、唯和はそっぽを向く。
唯和の家は、この辺りでは有名なお金持ちの家だ。広いお屋敷に彼女は一人で住んでいて、そういえば以前から「うちに来い」と冗談めかして言っていた記憶がある。本気だったようだ。
唯和の優しさに、僕は視線を落とした。
「……そっか。僕の家、なくなっちゃったんですもんね」
「あんなの家じゃねーだろ。つか、せっかくオレ様と住めるってのにそんな辛気くさい顔しないでくれる? あと何その一人称」
「生まれ持った顔にひどい言い様……」
別に辛気くさいつもりはなかったのに……と、頬に手を添える。唯和は仁王立ちで鼻を鳴らした。
「フン、大人たちが『精神状態が心配で~』とか言ってたけど、ふてぶてしさとか全然変わってないじゃん! 少しはしおらしくなったかと思ったのに……」
「……僕、どこか変ですか?」
そう言うと、唯和はむすっとしたまま僕のおでこを弾いた。
「アンタが変なのは昔から! ムダに腰が低くて何考えてるかわからなくて、バカみたいに頑固なのが橙亜だろ!」
「失礼では?」
──なるほど。唯和には腰が低くて考えが表に出ず、頑固なのが「鐘威橙亜」だと映っているのか。
今まで自分をそういう風に客観視したことはなかった。今後の身の振り方の参考にさせてもらおう。
──節穴め──
「……?」
何かが聞こえた気がして、振り返る。
しかし、病室にいるのは僕と唯和だけだ。病室の前には看護師さんたちがいるようだから、そちらの声かな。
周囲を見回していると、僕の鼻先に唯和の人差し指が突きつけられた。
「だから、周りの言うことなんて気にしなくていいぜ。オレが全部殴っといてやるから!」
そう言い捨てると、唯和は病室を出て行った。その背中に「暴力はよくないですよ」と投げかけたが、はたして届いたのかどうか。
「…………はぁ」
看護師さんたちのお叱りの声とともに木枯らしのような唯和がいなくなり、病室内はがらんと静かになる。
再びベッドに寝転んだ僕は、天井を見上げて息を吐いた。
「なんで、みんな……優しいんでしょう」
胸の辺りが温かくなる。あまり他人に優しくされることがなかったから、慣れない。変な感じだ。
しかし、優しくされる理由がわからない。
僕に恩を売ったところで、返せるものなど何もないのに。その優しさをもっと他に、有意義に振り撒けばいいのに。
そうして頭を悩ませながら、僕は午後まで時間を潰すのだった。
*
走る。走る。ひたすら、走る。
相変わらず影はついてくる。追いつかれないように、ただ走る。
影の中に、誰かがいる。同じように走っている。
追いつかれれば、壊れてしまう。
だから逃げる。ひたすら逃げる。
だけど、そろそろ足が疲れてきた。
だって、こんなに走るのも、こんなに体を動かすのも、生まれて初めてなんだもの。
後ろを見る。影を見る。
まもなく迫るそれに、息を呑む。
ねぇ、あなたは、どうして──。
*
──扉を開けたのは、今までただの一度も、ここを訪れてこなかった人だった。
「お……かあ、さん……」
認めて、かすれた声が小さくこぼれる。熱い空気が流れ込んでくる階段の上を、呆然と見上げた。
お母さんが、私を見下ろしている。
後ろに倒れ込んだ。反射的に何かを怒られると思って身を屈めるけれど、でも、そんなことは決してない。
だって、お母さんは私に怒気すらも向けてくれなかった。私のことなど、一度も目に映したことがない。この期に及んでまだ「叱ってもらえる」なんて期待は、持つべきではないのだ。
「…………」
私は変わらず、お母さんを見上げる。いまだ状況が呑み込めなくて、体は動かない。
ずっと遠くから眺めるだけだったお母さんの綺麗な顔はやつれていた。ひどい隈がある。頬はこけている。
いつも身につけていた白い巫女服は、全身が真っ赤に染まっていた。よく見れば服だけではない。顔も、髪も、真っ赤だ。
そして、お母さんの右手には、同じように真っ赤な──長い刃物が握られている。
「────」
状況が理解できなかった。部屋の外は火事で、先ほどまで聞こえていた家族の声は一つも聞こえなくて、血だらけのお母さんが、私の前に立っている。
硬直した私に対し、お母さんは手に持っていた刃物を落とした。あれ、確か、うちの神社に奉納されていた日本刀じゃなかったっけ。
お母さんは裸足のまま階段を下り、牢の鍵を開けた。中に入り、ゆっくりと距離を詰めてくる。見下ろされて、初めてちゃんと、目が合った。
「…………橙亜……」
お母さんの両手が伸びてきて、頬に触れる。また、初めて、名前を呼ばれた。
冷たい手が、こわごわと頬から耳までの肌をなぞった。付着していた血液の音が、耳元で聞こえた。
お母さんの顔が目の前まで迫っていた。そうして、ひび割れた唇がゆっくりと開く。
「……お前、さえ……いなければ────」
呪うようにかすれた声が聞こえ、次の瞬間。私の首に、お母さんの両手が──。
*
「……つまり、母が他の家族みんなを殺したということですか?」
午後になって再びやってきた警察の人たちが、火事の真相を教えてくれた。てっきりみんなは火事に巻き込まれたのかと思っていたが、どうやら燃える前に死んでいたらしい。
ベッドに腰かけたまま問いかけると、警察の後ろにいた看護師さんが眉をひそめた。警察の人はとても濁して遠回しに概要を伝えてくれたけれど、しかし要約するとそういうことである。
お母さんが殺した。日中、たびたび僕を庭の木に吊るしたおじいちゃんを。「どうしてさっさとそれを殺さないの!?」と包丁を手に叫んだおばあちゃんを。煙草の吸殻をいつも僕の部屋に投げ捨てていた叔父さんを。僕を水風呂に沈めた叔母さんを。近所の犬に僕を襲わせようとした従兄を。僕の部屋に忍び込んで私物をズタズタに引き裂いた従姉を。
他にも、僕を避けていた人。無視していた人。からかってきた人。物をぶつけてきた人。お酒を飲ませようとしてきた人。悪霊退治の囮に使った人。ごみ袋に入れた人。雪の中に放り出した人。僕の服を全部駄目にした人。腐ったご飯を食べさせてきた人……。
大きな家だったから、たくさんの家族がいた。あんなに賑やかな家だったのに。あんなにみんな、楽しそうに笑ってたのに。
「皆さん、かわいそうですね。死んでしまって、悲しいですね」
きっとみんな、まだまだ生きていたかっただろうに。
そう思って溜め息をついた。すると、警察の人が聞き返してくる。「ひどい扱いをされていたんじゃないのかい?」と。
おかしなことを聞く。
「人が死ぬのは、悲しいことでしょう?」
確かに僕としてはあまり悲しい気持ちは湧いてこないけれど、それはそれとして、世間一般の感覚として、人が死ぬのは悲しいものだ。僕個人の感情など関係ない。そういうものだろう?
「人が死ぬのは駄目なことです。ましてや殺人なんて、許されることではありません。いくら嫌いな家族だったとしても、殺した母が全面的に悪いです。死んで当然ですね」
そう言いきって、「あぁ、お母さんも死んだのか」という事実に思い至った。
僕だけが生き残ったのだから当然、母も死んでいる。僕を殺そうと地下牢までやってきて、僕の首を絞め、そして────。
「………………僕は、どうして生きているんですか?」
──感覚が、まだ残っている。
喉を絞められ、抵抗した。お母さんを押しのけようとした。
しかし、そこから先の記憶が、思い出せない。
「あれ?」
頭痛がする。警鐘のように、鼓動が速くなる。
警察の人たちも、看護師さんたちも、何を言えばいいのかわからないような困った顔だ。もしかして、このたどり着けない記憶の先に答えがあるの?
──やめろ──
「うっ──」
体の奥から何かがせり上がってくる感覚があって、口を塞ぐ。吐き出したい。だけど、それは駄目な気が、する。
喉が苦しい。あまりの苦しさに胸を押さえる。息ができない。頭が痛い。
──やめろ──
思い出せない。思い出したい。
だって、記憶は、「鐘威橙亜」を構成するために必要なものなのだ。
思い出さなきゃ。でなければ、僕は「鐘威橙亜」では──いられない。
──やめろ──
「──誰!? 邪魔してるのは!」
耳を塞いで叫んだ。大人たちの困惑が伝わってくる。けれど、今はそれどころではない。
誰だ。僕の記憶に「鍵」をかけたのは。邪魔をしないで。僕をもう、閉じ込めないで。
知りたい。知りたい。僕はただ、知りたいの。
ずっと知らなかった。何も知らなかった。だから知りたいの。知りたいだけなの。そのために、僕は────。
──お前が知る必要はないんだ!──
バチン、と脳内で弾けたような音がこだました。
ひどい頭痛に襲われ、視界がブラックアウトする。
そして、背後の暗闇に──引きずり込まれた。
*
──ノイズが走る。
「はぁ……はぁ……っ、はぁ……ごほっ、ごほ……!」
咳き込んで、酸素を求めて吸い込んで、煙を吸ってまた咳き込んだ。
「はぁ……はぁ…………お母、さん……?」
──ノイズが走る。
霞む視界の中、床に倒れたお母さんを発見する。
重い体を引きずって顔を覗き込むと、お母さんはピクリとも動いていなかった。
そして、お母さんの喉には、小さくて真っ赤な、手の跡があった。
──ノイズが走る。
「あ……ぇ……私、わた────」
思わず、自分の両手を見た。震えていた。
ジンジンとして、何かを思いきり握り潰したような、実感だけが残っていた。
「あ、あ、あぁ……あぁあああああ!!」
──ノイズが走る。
声が枯れるほど叫んで、涙が枯れるほど泣いて。
遠くに消防車のサイレンが聞こえた頃、プツンと意識が途切れた──。
*
雨の音が聞こえて、目が覚めた。
カレンダーを見ると、日付が変わっている。警察の人たちが来たのは昨日のことだった。
昨日、火事の日のことを聞かれて、それで、あの日のことを──お母さんのことを、思い出そうとして、そして──。
「──────殺した」
記憶はない。なぜか、途切れている。欠落している。
でも、途切れる直前の記憶と、欠落した直後の記憶を合わせれば、結論なんて一つしかなくて。
「──僕が、殺した」
頭が痛む。ひどく痛む。
薄暗い病室で、ベッドの上でうずくまって、頭皮に爪を立てる。
「僕が殺した。僕が殺した。僕が殺した。僕が殺した。僕が殺した。僕が殺した。僕が殺した。僕が殺した。僕が殺した。僕が殺した……」
──僕が、お母さんを殺した。
冷静に考えればわかる簡単な事実である。あの状況で、僕が助かるにはそれ以外の方法はなかった。
でも、助かるために他の命を犠牲にしていいのか? そこまでして生きる価値が、僕にあるのか?
「人が死ぬのは……駄目なこと」
力の入らない足を無理やり動かし、ゆっくりとベッドから立ち上がる。
廊下に出た。病室よりは幾分かは明るいが、それでもまだ薄暗い。
周囲に人間の気配はなかった。指先が冷えるほどに静かで、空気は重苦しい。
「人殺しは……許されない」
ヒタ……ヒタ……と足が勝手に廊下を進む。
院内の地図は頭に入っていないけれど、建物の構造パターンはだいたい同じようなものだろう。そのうち階段が見えてきて、僕の足はそれを上っていった。
「いくら嫌いな家族でも……殺したほうが悪い」
気づけば屋上の扉を開けていた。普段は厳重に鍵がかかっているだろうに、どうしてか今日に限っては
外は雨が降っている。先ほどよりも雨脚が強くなっているようだ。
全身に雫を受けながら、屋上の端まで移動した。どうにかフェンスを乗り越え、一息つく。
「だから僕なんて……死んで当然」
屋上から雨粒が落ちる先を見下ろした。下は真っ暗で地面が見えなくて、でもその手前に何か、黒い何かが浮いている。
朧げに人の形を保ちながら、腕のような部分が手招きをしているように見えた。その表情はたぶん、笑っている。
──悪霊だ。
この病院に憑いている霊だろうか。病院にいる悪霊は特に厄介なのが多いって、誰かが……お■■ちゃん……? ……ともかく、誰かが言っていたような気がする。
絶対に関わるなよ、って注意された気がする。
「でも……僕は死ななきゃ……」
屋上の縁、ギリギリに立った。向かい風の方向が変わったら、簡単に背中を押されるのだろう。
そんなことを思いながら足を一歩、前に──宙に、踏み出して──。
「橙亜っ!!」
声とともに背後から、服を引っ張られた。
体が屋上の上に戻る。そのとき、引っ張られた服が
手は胸の前で空をかく。少しでも楽になろうと頭を上げると、逆さまに唯和の姿が見えた。
「なん……で……」
「こっちのセリフだバカ!」
唯和はフェンスの上からほとんど身を乗り出して、僕の服を掴んでいた。その後ろでは、必死に唯和を抱えている唯和の執事の姿があった。
唯和は執事さんを振り返って叫ぶ。
「早く引っ張り上げろよ!」
「いやちょっとこの体勢では踏ん張りが利かず……!」
「職務怠慢! 主人の危機だろ!」
「執事はボディーガードではないんですよお嬢様!?」
ギャーギャーと騒ぎながらも、僕の体はゆっくりと引き上げられていく。
屋上に戻り、屋根のある入り口のところまで抱えられた。扉が閉じられ、外の音が聞こえなくなる。
僕は床に座り込んだ。向かい合った唯和が、右手を振り上げる。ぼんやりと眺めていると、執事さんがそれを止めた。
「何!? 邪魔すんなよ!」
「お嬢様、それは本当に橙亜様のためですか? 八つ当たりの気持ちがわずかでもあるなら、自分が楽になりたいだけの行為なら、おやめください。感情的な行動は蜜江家の当主に似合いません」
「っ……うるさい! わかってます! テメーはさっさとバスタオルか何か貰ってこい!」
唯和は執事さんの手を振り払い、お尻を蹴飛ばした。執事さんはお尻をさすりながらも、「お嬢様、冷静に。冷静にですよ!」と言って階段を下りていった。
執事さんの足音が聞こえなくなるとまた、唯和がこちらを向いた。
「なに死のうとしてんの? アンタ、バカすぎ」
──「冷静」はどこに行ったのだろう。
あまりに直球の言葉に、思わず面食らってしまった。
驚いて、素直に言葉が出る。先ほどまで頭の中でぐるぐると回っていた考えを口にすれば、唯和は嫌そうに顔をしかめた。
「死んで償うなんてただの自己満足じゃん。それは罪を背負う重さに耐えきれずに逃げてるだけだろ。逃げんなよ」
「……すみません」
「誰への謝罪だよ、それ。謝るならオマエを生かすために頑張ってるこの病院の人たちへだろ」
まったくその通りだった。ただでさえ僕の存在が迷惑をかけているのに、さらに面倒をかけてしまうところだった。
「本気で償いたいなら残りの寿命、全部懸けろよ。死んで償うのは一番最後にできるんだから、楽しようとしてんじゃねーよ」
「唯和……」
「オレだって……楽になれるもんならなりてーわ! バーカ!」
すると、唯和はボロボロと泣き出した。冷静さの欠片もない、まさしく子供の振る舞いである。
慰めなくては。けれど、元凶の僕が何かを言ったところで効果はないのではないか。
そんなことを考えているうちに、僕の口は
「今回のことは悪霊に取り憑かれていたせいだから、自分の意志じゃないよ」
「……本当に?」
「うん。だから、今日の記憶も
すると、急激に瞼が重くなる。抗えない眠気に、体を床に寝かせた。
唯和の声を遠くに聞きながら、意識は深く深く、落ちていった。
*
翌朝、目が覚めると、すでに病室に唯和がいた。
寝起きからいきなり「昨日のことを覚えているか」と尋ねられ、首を傾げる。夢うつつに歩き回った記憶があるような、ないような。
お母さんを殺してしまった事実を受け止めきれず、悪夢でも見たのだろうか。そんなことを口にすれば、唯和は溜め息をついて僕のおでこを弾いた。
「なぜ……?」
「もっと落ち込んでいいんだぞ。ただしオレの目の前でな!」
「落ち込んでいるくらいなら贖罪の方法を考えるほうが有意義ですね」
そう言うと、唯和は鼻を鳴らして「当面はそれで許してやる」と呟いた。よくわからないが、何かが許されたらしい。
ちなみになぜ唯和が病院にいるのかを尋ねたところ、「早くうちに連れ帰りたくて隙を窺っていた」と返ってきた。つまり見張っていたということか? まさかとは思うが、誘拐するつもりだったのではないだろうな?
唯和の後ろでは執事さんが申し訳なさそうに頭を押さえていた。お疲れ様です……。
*
それからさらに数日後、僕はようやく退院することができた。
警察の事情聴取も終わり、体も完全に回復した。まだ少し精神状態を心配されてはいたけれど、病院より友達と一緒に過ごすほうがいいだろうと判断されたらしい。
入院中に世話になったお医者さんや看護師さんに一人ずつ挨拶をして、僕は病院をあとにした。
病院の前には唯和の家の高そうな車が止まっており、唯和に連れられて後ろの席に座った。
車が走り出すと、見たことのない景色がすごいスピードで流れていく。そういえば、車に乗るのも初めてだった。
鐘威家で起きた事件については、全て母の犯行ということで決着となったらしい。
母の死因は、重度の栄養失調で力尽きたのだろうと発表された。僕は警察の人に断片的に思い出した記憶を話したけれど、最終的な発表はそうなっていた。
しかし、どうあれ真実は変わらない。僕が殺したのだ。
僕はこれから一生、この罪を背負い続けていかなければならない。
──どうやって、この先の人生を生きていこう……。
贖罪の方法はわからない。人を殺したのだから、それ以上にたくさんの人を助ければいいのか? もっと苦しまなくちゃいけないのでは? この身を捧げて、あらゆる人を救わねばならないのでは?
考え込んでいるうちに、車は到着した。
車を降り、大きなお屋敷の前に立つ。これが今日からお世話になる唯和の家。新しい、僕の居場所……?
ともかく、玄関の扉を開けて振り返った唯和と執事さんに、僕は深く頭を下げた。
「改めまして、鐘威橙亜です。よろしくお願いします」
僕は橙亜、鐘威橙亜。
僕の人生はここから始まって、そして、どうなるのだろう。どんな結末にたどり着くのか、予想もできない。
──どうか、いつか……許されるときが、来ますように。
叶ってはいけない願いを胸に秘め、僕は一歩を踏み出した。
足元を離れられない、黒い影と一緒に。