夢主の名字は固定です。
追想
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
ここは、どこ?
水はない。風はない。草木はない。
火はない。光はない。大地はない。
月はない。星はない。太陽はない。
夜はない。朝はない。黄昏はない。
愛はない。欲はない。受容はない。
時間はない。空間はない。居場所はない。
何もない。何もいない。
わたしは、何?
ここにいる。どこにもいない。
動いている。止まっている。
見えている。聞こえている。
触れている。離れている。
眠っている。起きている。
生きている。死んでいる。
名前はない。自分がない。
私は、誰?
他者。後者。偽者。鏡像。影法師。
秩序を守る者。混沌に委ねる者。
調整者。神に落ちる者。
侵略者。神に至るもの。
革命者。正義を成す者。
干渉者。悪行を貫く者。
何を行う。何を望む。
私は、欲しい。
あたたかい愛が。隣にいてくれる誰かが。
細やかな赦しが。受け入れてくれる心が。
夜空を見る目が。美味しいを感じる舌が。
水音を聞く耳が。春のにおいを嗅ぐ鼻が。
繋ぐための手が。目的の場所へ行く足が。
生きるための体が。いてもいい居場所が。
それだけでいい。それですら足りない。
それでも、私は。
全ては壊れる。私は全てが欲しい。
全ては虚しい。私は全てを満たす。
全ては生け贄。私はこぼさない。
全てはひとり。私は誰でもない。
全ては老いる。私は変わらない。
全ては絶える。私は手に入れる。
だから、私は────。
*
みず、水、水が降っている。
あめ、雨、雨が満ちている。
うみ、海、海が広がっている。
世界が、悲しみであふれている。
どうか泣かないで、私の全て。
全てを水底に、沈めないで。
*
ここにはなにもない。ここにはすべてある。
うえはうえ。したはした。
みぎはひだり。ひだりはみぎ。
うしろはまえ。まえはうしろ。
かこはみらい。みらいはかこ。
わたしはあなた。あなたはわたし。
ここはあなたのせかい。ここはわたしのすべて。
めをあける、めをとじる。くろいせかい、しろいせかい。かがみがある、かがみがない。
ちいさな、あなたがいる。ないている。かなしそうに、しゃがみこんで。
──なかないで──
ちかよって、とおのいて。くちをひらく、くちをとじる。こえがひびく、こえがきえる。
あなたは、したをみたまま、はきだした。
「私、っ私……どうしよ……っ」
──だいじょうぶだよ──
わからないけれど、わかるけれど。てをのばす、てをひっこめる。
でも、あなたにはとどかない。
「どうしよう……どうしよう……どうしようっ!」
──ずっと、そばにいるよ──
「だって……死にたくなかったの……! 苦しかったの……嫌だったの……!」
──みんな、そうだよ──
「でも……もう、どうしよう……! お兄ちゃんもいなくなって……私っ……無理だよ!」
──できるよ、だいじょうぶだよ──
あなたは、みみをふさいだ。
「うるさい……うるさい! 何も知らないくせに!」
あたまがあがる。ぬれたかおがおこっている。
ごめんなさい。ごめんなさい。わからないの。
わたしは、あなたは。こうていした、ひていした。
──なにも、しらないよ──
きらきらしためが、ひらかれる。
また、しずくがながれる。どんどんあふれる。とまらない。とまらない。
「……っ、ごめんね。あなたのほうが……ずっとずっと、つらいのにっ……!」
なかないで。なかないで。
あなたがかなしいと、わたしもかなしいの。
あなたがつらいと、わたしもつらいの。
あなたがいないと、わたしはいたいの。
あなたとわたしは、いっしょなの。
「ぜんぶ……わたしの、せいなの……うっ、わたし、が……しねば……ぜんぶ、ぜんぶ……」
──しにたくないのに?──
「でも……いきるのも──もう、つかれちゃった」
ぼろぼろのまま、あなたは、たちあがる。こちらへ、かなたへ。てをのばす。
はんたいがわの、おなじがわの。てをのばす、てをひっこめる。こんどこそ、せんだって。かがみごしに、ちょくせつ。ふれる。
「だから──わたしのぜんぶを、あなたにあげる」
そういって、ひっぱられる。
はんてんする。いってんする。
みぎがひだりに。くろがしろに。
あんてんする。こうてんする。
うしろがまえに。かこがみらいに。
かいてんする。ぎゃくてんする。
そこがみなもに。あなたがわたしに。
せかいが、まわる。
くさりが、ちぎれる。
うつわに、おしこまれる──。
「どうして、どうして、どうして?」
からだが、おもい。こころが、おもい。たましいが、おもい。
くらいせかい。みずのなかに、おちていく。いきが、できない。まえが、みえない。おとが、ぼやける。かんかくが、とけていく。
それでも、わかる──かのじょが、わらっている。
──私が……
まって。まって。まって。
まだ、はなしたいことがあるの。ききたいことがあるの。いいたいことがあるの。なにも、わからないの。
おいていかないで。ひとりにしないで。
──うん、やっぱり、あたしもおにいちゃんを見習わなきゃな! あたしよりあんたのほうがよっぽどマシなんだから──
まって、まってよ。そんな、ないたままのかおで、ひとりで、かってにきめないで──おねえちゃん。
──過去なんて振り向かないで。あたしの代わりに……どうか人生を楽しく、長生きしてね────橙亜──
さっていく。きえていく。いなくなる。
わたしがかける。あながあく。
それはいやなの。それはとても、かなしいの。
だから、わたしは────。
せいいっぱい、てをのばして──つかんだ。
*
*
目を開くと、白い天井が見える。
口を開けば、空気が気道を通り、肺いっぱいに満たされた。
「────ぁ……あ、あ、あー……」
熱くはない。焦げくさくもない。心地のいい深呼吸を繰り返して、声帯を震わせる。
以前と変わらぬ発声に少しだけ安堵した。覚醒した聴覚が寸分違わぬ音だと判断している。
昔から不思議と、記憶力だけはいいのだ。聞き間違うことなどありはしない。
ゆっくり体を起こすと、ここしばらくともに過ごしていたベッドが軋んだ。
いささか重たい体を布団から引きずり出して、硬い床に素足を乗せる。冷たい。
「よ……と、と」
ベッドを支えに両足に体重をかけた。ぎこちなく足を動かし、窓際へ。
よろけながらもなんとかたどり着き、窓に張りついた。外に植えられた木々の隙間からは日光が輝いている。朝日だった。
「わぁ……眩しい」
きゅっと両目を瞑り、そのままベッドまで後退した。深く腰をかければ、9歳の小さな足は床から離れてしまう。
再びベッドに寝転んだ。聞いて、嗅いで、味わって。触れて、見て、ようやく──。
「これで退院、できるかなぁ」
真っ白な病室を、改めて見渡した。
この「染村総合病院」にやってきて八日目。僕──鐘威橙亜は初めて、体を動かすことができたのだった。
──鐘威橙亜・回生──