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11.FLOWER ON THE PRECIPICE
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阿散井副隊長が旅禍に倒されたという話は、またたく間に瀞霊廷中に広まった。
それに伴い、上位席官の瀞霊廷内での斬魄刀の常時帯刀および戦時全面解放の許可が山本総隊長により下された。黒崎さんたちがそれほどの脅威として護廷十三隊側に認知されたわけだ。
すっかり日も落ちたのに、戦時特令によって隊舎内はいまだ慌ただしい。
旅禍が侵入しているのだから当然だが、その落ち着きのなさが余計に不安を煽っているようにも感じる。できることなら、彼らはそこまで危険な存在ではないと声高に叫んで回りたいところだ。
今日一日、僕はほとんど隊舎から出なかった。夜明け前に黒崎さんたちが空から降ってきたのを目にしたときくらいだ。
各地でみんな、それぞれ必死に戦っていただろう。なのに僕は安全圏でのんびり過ごしていたなんて、それなりに罪悪感は募る。
結局は力がないからと言い訳して逃げているだけではないのかと、自己嫌悪が一周回って据わってきたところだった。
「橙亜ちゃん、ごめんね……上官のあたしがしっかりしなくちゃいけないのに……不安そうにばっかりしてちゃダメだよね……!」
副隊長業務を終えて部屋に戻ってきた雛森さんは、頬を押さえて笑った。ここは彼女の部屋で、二人きりだというのに、虚勢を張っているのが僕にすらありありとわかる始末だ。
いやまあ、弱みを見せるほど親しくなったわけではないのだが、彼女は僕の呼び方を変える程度には親しくなろうと踏み込んできてくれている。
そうまでしてくれている人の虚勢を無視できるほど、僕の心は冷徹ではなかった。
「……そんなことは、ないですけれど……」
しかし、だからといって彼女の気持ちを尊重しつつも「無理をしないで」と器用に伝えられる技術などは持ち合わせていない。
結果として、彼女の内心を理解しながらも不安の解消に何も手を打たず、素知らぬ顔で彼女の気遣いを踏みにじるという、藍染さんと特段変わらない悪行に及んでいた。
戦時特令に帯刀許可、そして同期である阿散井さんの負傷。一日で目まぐるしく変化した情勢に、平和を望む彼女の優しい心がついていけるはずもない。
それをわかっているのに慰めの言葉一つもまともに口にできない。そんなに我が身が大事かと呆れ返ってしまう。
正確には、大事なのは《この世界の未来》であるのだが、それを理由に掲げるのはあまりに卑怯だ。そうするくらいなら、自己保身に走る浅ましい人間だと己を規定するほうがいい。
その心理こそが一番浅ましく卑怯なのでは? うむ、まったくもって勇気の欠片もない、黒崎さんの行いとは真逆を行くものだ。
くどくどと言い訳を並べて自分ばかりを慰めることを、僕はもっと恥じるべきである。
「さ! 今日はもう寝ちゃおう! 大丈夫、あたしがついてるから、橙亜ちゃんは安心して眠ってね!」
そう言って、雛森さんは布団を敷き始めた。
さて、僕は頭を悩ませる。僕がいるせいで虚勢を張り続ける彼女を、このまま何も言わずに自室で就寝させるべきかと。
藍染さんと変わらぬ悪行に勤しみながらも、さらに彼女を絶望の底へと突き落とすべくその背中を押すのか、と。
「…………」
悩むくらいなら、そもそもこんな状況に陥るなという話だ。
最初の記憶に立ち返ろう。僕が初めに定めた目標は何だ。
──誰も、死なせたくない。
そのためには、《僕たちの知る未来》から逸れてはいけない。それでは目標に注力できなくなってしまうから、命を拾い上げる以外の事象に手を出すべきではない。
で、あるならば。僕は彼女を絶望のどん底に突き落とさなければならないのだ。結果として、彼女の《
命のために彼女の心を犠牲にする。それこそが正義だと信じるのならば、この程度の悪行くらいはこなしてみせろよ、鐘威橙亜。
「…………あの」
「ん? なぁに?」
硬い笑顔が振り返る。僕は一瞬だけ畳に視線を落としたが、意を決して口を開いた。
「不安があるのなら……隊長に話してみたらいかがですか?」
「え? でも……」
「僕のことは気にしないでください。一人で眠れないほど、子供でもないので。先に寝ておきますから」
軽く頭を下げてから、僕も自分の布団を敷き始めた。
僕が作業している横で、雛森さんは困ったように両頬を押さえている。僕にかまわず好きにしてほしいのだが、やはり気になってしまうだろうか。僕に関しては本当に一人でも大丈夫なのだが……。
すると、雛森さんはスススと僕の背後に寄ってきた。そして、耳打ちするようにこそりと。
「橙亜ちゃんも……一緒に行かない?」
「え゛っ」
想定外の提案に普段はなかなか出ない類いの声が出た。
冷や汗があふれ出した僕には気づかず、雛森さんは頬を赤らめる。
「一人で行くのはちょっと恥ずかしくて……あ! もちろん! もし怒られたらあたしが無理やり連れてきたって説明するから……!」
「いや……でも……二人きりのほうが気兼ねしなくてよいのでは……?」
「橙亜ちゃんを置いて、あたし一人だけ藍染隊長に話を聞いてもらうなんて……それなら橙亜ちゃんも一緒に不安な気持ちを聞いてもらおう?」
雛森さんは心から、僕のために提案している。それはわかる。とても理解できる。
いや、しかし。
──い、行きたくない……。
昨日、あんなに偉そうに啖呵を切ってしまった手前、どんな顔をすればいい? 無表情だとかそういう話はいいのだ。気まずいって話なのだ。
ぶっちゃけ、事が起こればもう顔を合わせずに済むと楽観していたところはある。だって忙しくなるはずではないか、彼は。実際、昨日今日とあちこち飛び回っていたはずだ。
それなのに今夜、よりにもよって殺人事件が起こる前夜に会うなんて、勘弁してほしい。このまま逃げきらせてほしい。藍染さんももしかしたら雛森さんが会いに来ることは予想していたかもしれないが、僕までついてきたらさすがに驚いてしまうのではないだろうか。あまりの場違いさで。
考え直してもらえないかと、僕はどうにか説得を試みた。
しかしながら、案外頑固な雛森さんには僕のささやかな抵抗は受け入れてもらえず。
僕たちは二人で藍染さんの部屋を訪れることになってしまったのだった。
*
人目を避けつつ、僕たちは廊下を進む。
雛森さんの足取りはソワソワしつつも軽やかだ。わざわざ話しに行かなくとも彼のことを考えるだけで不安な気持ちはいくらかマシになるのでは、などと考えてしまう。
藍染さんの人心掌握術はまさしく恐ろしい。溜め息の代わりに、僕はボソリと呟いた。
「副隊長は、本当に隊長が好きなんですね……」
「橙亜ちゃんは違うの?」
こてん、と首を傾げて雛森さんは振り返る。
藍染さんを好ましく思うか。なんとも、複雑で難しい質問だ。
少なくとも、今の雛森さんと同じ感情は抱けない。彼の本性を知らなければ似たような気持ちにはなっていたかもしれないが、今さらこの記憶を手放すことはできないので、たらればだ。
「副隊長のような憧れとは違いますけれど、そうですね……」
まず第一に、他人の命をなんとも思っていないところがよろしくない。
いや、「なんとも思ってないこと」が悪いのではないな……。思いがなくとも大切に扱うことは可能だ。「他人の命を粗末にする行為を安易に行うこと」がよろしくないな。うん。
性格の良し悪しについては個性の範疇なのであまり言いたくはないが、まあ世間一般としては、よくはないだろう。
よいほうが好ましいが、別に悪いからと軽蔑はしない。だとしたら僕は真っ先に唯和を軽蔑しなければならなくなる。
ただ、その性格の悪さが他者の命の軽視に繋がっているとしたら、悲しくはある。
だがもちろん、それが彼の全てではなく。
「目標に向かって一歩一歩、努力を積み上げている人だと思います。その後ろ姿を尊敬している……でしょうか」
最大限、好意的に彼を解釈するならこうなるのだろうか。これで手段を選んでくれたら心底、好ましいのだが。
そんな僕の内側にある諦観には気づかず、雛森さんは嬉しそうに笑った。
「これからも藍染隊長の下にいれば、橙亜ちゃんももっともっと藍染隊長のことを好きになれると思う!」
「そ……う、ですかね……」
「そうだよ!」
何を喋っても心が軋むようで、まったく望んでいなかったのに早く藍染さんの自室にたどり着きたくて仕方がなかった。
短いながらも地獄のような道のりだったが、一番の地獄はこれからなのでは?
そんな現実逃避じみたことを考えながら、僕は雛森さんの後ろに並んで藍染さんの部屋の前に立った。障子戸からは室内の明かりが透けている。
すぐに部屋の主が気づいて、戸が開いた。夜更けにもかかわらず、藍染さんは温かく事情を聞き、雛森さんを迎え入れる。
雛森さんに自分が着ていた着物を羽織らせると、藍染さんはこちらにゆるりと視線を向けた。
「鐘威くんもいらっしゃい。さあ、中に入って」
「……失礼します」
頭を下げ、雛森さんに続いておずおずと入室する。
部屋の中は最低限のものしかなく、シンプルだ。窓の前に置かれた文机と行灯、その後ろに敷かれた布団。
この部屋を使い始めてからそれなりの年数が経っているだろうに、使用者の愛着を感じ取れないのはバイアスがかかっているせいだろうか。単にそういうものを読み取る能力を、僕が持ち合わせていないだけなのかもしれないが。
──今夜で去る部屋には、むしろ残っていないほうが当然か。
この一瞬だけを見て、全てがわかるはずもない。
自らの思い上がりを抑えつつ、僕は部屋の隅に寄り、畳の上で正座した。
「鐘威くんも布団の上で楽にしていいよ」
「いえ、こちらのほうが楽なので……」
気持ちがね、と心の中で付け加えた。
藍染さんに促され、素直に布団の上に座った雛森さんが焦ったように僕を見て手招きしている。
が、この部屋までついてきただけでもういっぱいいっぱいなのだ。勘弁してほしい。僕は目を伏せ、ぐっと頭を下げた。
とりあえず、部屋を訪れた目的は雛森さんの精神安定だ。藍染さんもそれを理解しており、まずは阿散井さんの容体について教えてくれる。
隊長と副隊長の会話を、はたして僕のような隊士が聞いていてよいものだろうか。いくら業務時間外といっても、立場が上の二人が話すその内容は必然、機密事項に近いものになると思うのだが。
わかりきっていたことだが、凄まじく針のむしろだ。戻りたい。雛森さんの部屋に、早く。一刻も早く。
それでなくとも普段から、二人のあいだにある雰囲気は耐えがたいのだ。雛森さんは藍染さんしか見ていないし、藍染さんは《将来的に》あれだし。雛森さんのためを思うなら邪魔をしたくないし、藍染さんの所業を思うなら邪魔なほうがいいかもしれない。
あぁ、もう、本当に。これが先ほど決意した悪行の結果か。だとしても応報が早すぎるだろうに。
──まあ……仕方ないか。甘んじて受け入れよう……。
静かに深呼吸をして、心を無にする。
しばらく二人の会話が続いていたが、次第に雛森さんの声が聞こえなくなっていった。藍染さんの話を聞いて、不安を聞いてもらって安心したのだろう。
彼女は藍染さんの布団ですっかり寝入ってしまった。ずっと文机に向かって手紙を書いていた藍染さんもそれに気づいて振り返り、苦笑いを浮かべる。
「じゃあ、次は鐘威くんの話を聞こうか」
「いえ、僕は付き添いでしたので、大丈夫です。隊長のお邪魔になるので、ここで失礼したいのですが……」
「あぁ、雛森くんならここで寝かせておけばいい。部屋まで送ろう」
「いや、それは……」
藍染さんは立ち上がり、こちらに近づいて手を差し伸べてきた。
一瞬迷うも、隊長相手にはおそれ多くて自分で立ち上がる。藍染さんは何も言わず、そのまま戸に手をかけた。
「一人でも大丈夫なのですが……」
「こんな状況だ。警戒しすぎるくらいがちょうどいいよ」
このあとからお忙しくなるのにそんな時間があるのか? と聞けないことが歯痒い。もたもたせずにさっさと戻ろう。
「寒くないかい? 何か羽織るものを出そうか」
「大丈夫です。むしろ、隊長が何か羽織ってください。風邪を引いた隊長は……想像できませんけれども」
「鐘威くんは僕を何だと思ってるんだい?」
「似たような話は先ほど雛森副隊長としたので、興味があるなら彼女に聞いてください」
「へぇ?」
外に出て、障子戸を閉める。空には欠けた月が輝いている。
僕と藍染さんは横並びで歩き出した。
「雛森くんとはずいぶん打ち解けたようだね」
「彼女がこちらに心を開いてくれているので……隊長に頼まれたからというのもあると思いますが」
「君たちは気が合うんじゃないかと前から思っていたんだ。よかったよ」
どういう意味での発言だろう。僕は雛森さんほど善良な人柄ではないのだが。
騙されやすい……みたいに思われていたりするのか? 唯和や結斗にもよく「橙亜は他人を信じすぎ」とか言われているしな……。
「隊長って……副隊長をどう思っているんですか?」
「ん? もちろん、部下として大切に思っているよ」
まったく調子を変えることなく、藍染さんは答えた。
言葉の全てが嘘、というわけでもないのだろう。彼女を殺そうとするのは、彼にとってはきっと優しさだ。何より本人もそう《言っていた》し。
「……もっと、他人に喜ばれる優しさを向けてもいいのでは?」
「なんだい? 急に」
「いえ、すみません。口が過ぎました」
思わずこぼれた言葉に、バフンと右手で口を押さえた。
どうして僕は、こんなにも藍染さんに対して強気な発言が出てしまうのだろう。雛森さんや他の隊長格さんたちにこの物言いはできないはずだ。
そんなに藍染さんを怒らせたいのか? どうせ僕ごときの言葉を真に受けるはずがないからと、どこまで踏み込めるかのチキンレースでもしているのか?
自分で自分がわからない。もしかして藍染さんから自白効果のあるフェロモンでも出ている? さすが、完全催眠の能力を持っているだけのことはある。僕はとても混乱していた。
おそるおそる藍染さんを見上げると、彼は眉を下げて笑った。
「鐘威くんにとって、僕は優しくないのかな」
「ど、どうでしょう……出会って間もないので、まだ判断材料が少なく……」
「目が覚めた君を迎えに行って、人見知りの君を気遣って他の隊士との接点は最低限にして、隊長業務の合間に稽古をつけて、始解の特訓にも付き合ったけど、まだまだ足りなかったか……」
「うぐっ……」
そう言われると何も言い返せない。えっ、あれ? これだけいろいろと気遣われていながら「優しくない」と言ってのけるのは、もはや唯和にも勝る天の邪鬼ではないか。
優しくない藍染さんを知っているばかりに、とんでもなく失礼な物言いをしてしまった。チキンレースとか言っている場合ではない。堂々とゴールテープを切って衝突している。
これで僕が藍染さんの本性を知っていると感づかれたら、間抜けどころの話ではない。まずいぞ……!
「君にとってここは、まだ誰を信じていいかもわからない場所だ。ちゃんと警戒心があることにむしろ安心したよ」
「いえ、あの……藍染隊長には大変よくしていただいており……」
「思ってもいない言葉を口にするものではないよ」
「あ、ありがたいとは思ってますよ……!?」
焦って顔を上げた。何より藍染さんにだけは言われたくない言葉だ。
バチリと視線が合った藍染さんは少しだけ目を見開いて、笑みを浮かべる。
「わかってるさ。君は素直で嘘がつけないからね」
「すみません……本当に失礼なことばかり……」
穴があったら引きこもりたい。失礼を働きすぎて、このまま翌朝に僕の死体が発見されたらどうしよう。
……いや待て。このまま僕を殺して死体を手に入れ、それに鏡花水月をかけて藍染さんの死体に見せるという手もあるのではないのか?
しまった。どうしてその可能性に思い至らなかったのだろう。そうでもなければわざわざ僕に関わってこないのでは? うんうん、そうだよ。近くにいれば死体にしやすいもの。それ以外の理由があるわけがない。
「気にしなくていい。君は悪意を持って他人を傷つけるような人間でないからね」
「…………悪気なく他人を傷つけるほうがたちが悪くないですか?」
思わずこぼれた言葉に、藍染さんは笑った。
「そうかもしれない。君は確かに、たちが悪い」
「う……やはり……」
「僕と交わした約束もすっかり忘れてしまっているようだからね」
「……え……?」
藍染さんは、僕にもわかるほどに寂しそうな目でこちらを見ていた。役者だなぁ……と、気持ちを落ち着ける。
今のは「過去の僕」に向けた言葉だろう。内容が気になるところだが、下手につついて僕が別人だとバレてしまっては大変だ。
藍染さんがいなくなる明日までは大人しくしているべきなのに、僕という奴はさっきから悪手ばかりを選びおって。さすがにこれ以上は踏み込まないぞ。絶対だぞ。
そんな僕の決意を嘲笑うように、藍染さんは神妙な顔で口を開いた。
「……僕と鐘威くんが、実は恋仲だったと言ったら信じるかい?」
「趣味が悪いと思います」
ばっさりと言い放ってしまった。弾丸のように言葉が飛んでいった。
目を見開いてあからさまに驚いた藍染さんに対し、僕は廊下に崩れ落ちる。内容を精査する前に反射的に発言するなんて、特大のバカか僕は!
「いや、ちが、あの、ちがくて、事実だとしたら藍染さんの人を見る目がなさすぎるしでもそんなはずはないから嘘の発言なんですけど嘘だとしてもそういう相手をおちょくるタイプの嘘は趣味が悪いなっていうあれで別にその、あの──」
「落ち着いて、鐘威くん」
あたふたとぎこちなく、身ぶり手ぶりで弁明を試みていると、スッと藍染さんの両手が伸びてきた。
僕の両脇にそれが差し込まれ、猫のように持ち上げられる。床から足先が離れたのがスイッチのように、同時に口も閉じた。
そんな僕の醜態を、藍染さんは肩を震わせて笑っていた。
「嘘だと判断できたのに、動揺はするんだね」
「あなたの口からそういう類いの冗談が出るとは思っていなくてですね……」
「僕はそんなに堅物に見えるかな」
「鉄のような人というイメージはあります……」
「ふぅん?」
そっと床に下ろされ、自らの足で自立する。詰めていた息を吐き出した。
あぁ、びっくりした。冗談にしてもたちが悪いし、だいたいなんでそんな冗談でからかう必要が
…………というか、びっくりしすぎて余計なことを口走ったような──。
「おや、もう着いてしまったね。君と話していると時間の流れが早く感じるよ」
言われて顔を上げると、副隊首室の前だった。
僕としては地獄のような時間だったわけだが、ようやく解放されると思うと少しだけほっとできる。なんだかどっと疲れてきた。
「もっと君と話していたかったんだけど、明日も早いからね。じゃあ、おやすみ。鐘威くん」
「はい……おやすみなさい、藍染隊長。わざわざありがとうございました」
向かい合って、頭を下げる。
一息ついて顔を上げると、するりと彼の右手が僕の頬に滑り込んできた。
瞠目する。少し冷えた指先が僕の耳たぶを撫でた。反対側の手が、ゆるりと僕の腰に回る。
藍染さんの顔がゆっくりとこちらに近づいてきて、そして──。
「──これから先、もし僕に何かあったら……」
耳元で、静かに囁いた。
「君は僕を助けてくれるのかな?」
ほとんど吐息と変わらない声が、僕の鼓膜を震わせる。その言葉に温度はまったく感じられないのに、触れている体の箇所がじわじわと彼の体温に侵蝕されていた。
月明かりを背にした藍染さんの顔には影がかかっている。ほの暗い逆光の中で、しかし確かに、彼は笑っていた。
「──」
挑発か、嘲笑か。もしくはそれ以外か。
ともかく、その笑みを向けられた僕の心は水を打ったように鎮まった。先ほどまでかき乱されていたのが嘘のようだ。
これは動揺からこぼす言葉ではない。僕が目指す願いについて尋ねられたのだから、こちらも誠実に答えなければならないだろう。
「──僕の力なんて、必要ないでしょう? あなたを殺せる存在や可能性を、僕の平凡な頭では少しも思いつきません」
視線が交わる。横目でお互いに、みじんも目線を揺らさない。
彼の手のひらが少しでも下がれば、僕の細首など簡単に絞められる。それこそ、始解の特訓のときのように。
僕を殺すなら──間違いなく今が好機だ。
それを認めて、僕は彼の手の上に自分の左手を重ねた。大きい手だなと、少々のんきな感想が浮かんだ。
「……そうか。残念だ」
藍染さんは目を伏せた。ゆっくりと体が離れていく。
その際、彼の親指が僕の唇をなぞった。偶然かすったものではなく、意図して触れたような動きだった。
藍染さんは身を翻し、そのまま自室の方向へと歩いていく。表情は窺えない。
窺えたところで、僕に彼の内心は読み取れないだろうが。
──本当に……よくわからない人だ。
離れていくその背中に、僕はもう一度だけ頭を下げた。
「とりあえず……夜更かしはほどほどにして早めにお休みください」
顔を上げると、藍染さんの姿はすでにない。僕は副隊首室に入り、就寝の準備を始めた。
寝て起きれば、情勢は一変している。深呼吸を一つしてから横になり、僕は眠りへと落ちた。
