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「はぁ……」
どうしようもない息苦しさに顔を上げた。
空は高い。抜けるような青空にどこまでも落ちていってしまいそう。
まだまだ真上には程遠いのに、日陰にいるのに、それでも十二分に太陽が眩しくて、たまらず目を伏せた。春の冷たい空気が肺を満たしていく。
そんな孤独な空気を、賑やかな足音がかき消した。
「お~い、橙亜~! 早く来なよ~!」
「占い、橙亜からだからねー!」
人通りのない薄暗い路地を二人の少女が駆けていく。声が反響して、後ろの僕──
とっくに人間の活動時間ではあるが、それにしたって騒がしい。近所迷惑とか、もうちょっと考慮してもいいと思う。あとで怒られたらどうするつもりなのだろう。
僕がついてこないことを不思議に思ったのか、前方の二人は怪訝な顔で振り返った。
「ため息ついてどうしたの?」
「あなたこそ、今の状況に疑問とか、憂慮とかはないんですか?」
「ん? ないよ!」
そう言って笑ったのは
小柄なのに運動神経が抜群で、勉強や世間には疎いが、優しく善良な子なのは間違いない。
「溜め息つくと幸せが逃げていくぞぉ~? ただでさえロボットみたいな無表情で会う人会う人になかなか好かれないのにぃ~」
「誰のせいだと……」
「あぁっとぉ~! オレは橙亜のことだぁ~い好きだよ? クールな無表情美少女、たまんないねぇ~!」
「相変わらず人の話を聞きませんね」
わざとらしく人を小馬鹿にしたような表情で覗き込んでくるのは
文句を言ったところでまったく聞きもせず、逆に喜ぶ変態である。この女のせいで今の状況があると言っても過言ではないのに、反省する様子は少しも見られない。
こちらの内心を見透かすように目を細め、唯和はパン! と手を叩いた。
「ともかく~、こんな無愛想かわいい橙亜ちゃんにもこれからの高校生活で素敵な出会いがあるのか、ばっちり占ってもらおうぜ~?」
心底呆れた気持ちで唯和を睨みつけたが、きっと僕の顔にはみじんも出ていないのだろう。
本日、僕たちが住む地区では高校の入学式が行われる。そして、僕たちは今年で16歳、今日から高校生になるのだ。現在の格好もピッカピカで少し大きい新品の制服である。
入学式はあと一時間ほどで始まる。にもかかわらず、僕たちは学校の外にいた。唯和に「暇つぶし~」と連れ出されたせいだ。教室で大人しく待つことすらままならないのか。
ただでさえ厄介者の三人だと認識されているだろうに、これでは完全に不良集団だと勘繰られてしまう。純粋に素行が悪いのは唯和だけなのだ、巻き込まないでほしい。
──まあ、これ以上下がる評判など、僕にはないのだけれど。
ともかく、さっさと唯和を満足させて教室に戻るのが最短ルートだろう。璃鎖は外聞などを気にする性分ではないので、僕がしっかりせねば。
「お、あれじゃな~い?」
しばらく歩いていると、唯和が路地の奥を指し示した。暗闇にひっそりと溶け込むように置かれた簡素なテーブルと、腰かける占い師らしき人影が見える。
あれが最近この辺りに現れたと噂の占い師のようだ。よく当たると評判で、しかも料金は取らないとか。
──あまりにも胡散くさい。慈善事業でやることではないだろう。
それでなくとも占いなんて根拠が不確かなものに、唯和たちもなぜここまで入れ込めるのかがわからない。
足を止め、僕は二人の腕を引いた。
「やはり怪しいですよ。詐欺や犯罪に巻き込まれたらどうするんです?」
「大丈夫だよ。悪い人の
「オレんち、金持ちだからどうとでもなるし~?」
しかし、璃鎖と唯和はかまうことなく笑った。何なの? どこから来るのその自信は。
反対に、困惑する僕の両腕を二人が引いた。
「悪い結果に勝手にビビってねーでさっさと行け~!」
唯和に押され、抵抗も空しく占い師の前に飛び出した。
「よ、よろしく……お願いします」
少しだけ頭を下げ、対面した占い師をまじまじと見た。ローブのようなフードをかぶり、俯いているので顔はよく見えないが、若い男性だろう。
ここは湿気を感じる路地裏だが、彼の周りの空気はどこか澄んでいる気がする。淀みがなくて居心地がいい。悪いものをまったく寄せつけないような──ん……なんか、この人……。
──どこかで、会ったことがあるような……?
誰だったっけ、思い出せない。
記憶力にはそれなりの自信があるのだが、心当たりがまるでない。気のせいだったのだろうか。
璃鎖も唯和も彼について特に言及がないので、知り合いでないのは間違いない。僕だけが知っている人物の可能性もあるが、僕の知人など両手で足りるほどである。
記憶違いの可能性に頭を悩ませていると、フードの下から見える占い師の口元がにこりと笑った。
「じゃあ、始めますね」
そう言って、占い師は緩慢な動きで両手を前に伸ばした。次の瞬間──。
「わっ!?」
「ぎゃっ!?」
「──っ! 何……!?」
突如として、地面が光り出した。僕たち三人を中心として円形の紋章が浮かび上がっている。
逃げ出そうにも足が動かない。眩しくて目も開けていられない。光はどんどん強くなり、目を閉じていてもわかるほどに真っ白な光に包まれた。
地面が歪む。体がゆっくりと沈んでいく。最後に見えたのは建物を見下ろす青空だった。
「────じゃあな、橙亜」
そうして光に呑まれる直前、あの占い師が何かを言ったような気がして、僕は無意識に手を伸ばした。
*
一瞬のような、永遠のような浮遊感を感じたのち、急に固い地面の感覚が足の裏に戻ってきた。
「うわっ」
「ふぎゃっ!」
「ぐえぇ」
たまらず尻もちをつく。先ほどまでのまばゆすぎる光と浮遊感の影響か、軽い船酔いのような気持ち悪さがあった。
しかし、聞こえた通り、璃鎖も唯和もひとまずは無事なようだ。何が起きたのかはさっぱりわからないが、一番の心配事が解消されたことに安堵の息を吐く。
ゆっくりと瞼を開け、まばたきを繰り返して眩んだ視界を取り戻そうとした。が──。
「…………ここ、は……?」
薄暗い路地ではない。空からは温かな太陽の光が降りそそいでいる。
辺りを見回し、どこかの家の庭らしき場所にいるのはわかった。璃鎖と唯和も僕と同じように座り込んで周りの様子を窺っている。
庭とそれに連なる建物の周囲は、不釣り合いなほど高いビルに三方を囲まれていた。庭を囲む塀の向こう、背後には道路が見える。
しかし、僕たちの地元にこのような場所はない。地方の小さな田舎町には高層ビルなんてないのである。
そんな見慣れない高層ビルに囲まれた目の前の建物は、日本家屋と洋館を足し合わせた不思議なデザインをしていた。
──いや……待て。見覚えはある……かも。
見覚えは、あった。確かにあった。
しかし僕の町、ひいては
モデルになった場所か、はたまた再現した場所だろうか。だとしても、先ほどまでいた路地から移動している理由はわからない。
いやでも、本当にここが僕の知る「あのミセ」だったのなら────。
「──来たわね」
建物から、女性の声が聞こえた。僕は驚きを隠せず、体が硬直する。
ゆっくりと庭に出てきた女性は、長い黒髪に真っ黒でタイトなドレス、そして綺麗な赤い目を持ち、どこか浮世離れした風貌だった。
僕は彼女を知っている。彼女は『xxxHOLiC』という《作品》に登場する「次元の魔女」こと──壱原侑子だ。
「……………………え?」
だとして、だとしてである。
絶句。意味がわからない。あまりの衝撃に言葉も出ない。
──さすがにコスプレ……いや、場所が変わっているから夢か。夢だな。夢だよね? 夢であってくれ。
目の前の情報を処理しきれずに安易な現実逃避に乗り出したわけだが、さらに両側からガクガクと引っ張られた。
「橙亜! この人誰!?」
「あれだよな! 『ツバサ』とかに出てくる美女だよな!?」
混乱気味の璃鎖と唯和に揺さぶられる。夢にしてはリアルな感覚だ。やめてくれ、そんなことで現実を直視させようとしないで。
こんなものは現実じゃない。あり得ない。あまりにもファンタジーだ。同じ理不尽でも、科学的根拠がない占いや幽霊のほうがまだマシだ。
「…………」
侑子さんらしき人は何も言わない。今のところ、僕らが勝手に彼女を「侑子さん」だと思って動揺しているだけ。何も、根拠なんてないのだ。
──でも、この人……すごく強い
それだけは、何も理解できない今の僕でもわかった。今まで出会った誰よりも
もし、万が一、億が一、彼女が本当に、本当に僕の知る《侑子さん》なのだとしたら、この一連の意味不明な状況も現象も、全て説明がつけられてしまうことは、確かなのだ。
実感を伴って現実を受け入れてしまった僕に対し、「侑子さん」は口元を緩めた。
「あなたたちがここに来たのもまた必然。あなたたちの願いは、何?」
右隣の璃鎖が助けを求めて僕を見る。しかし、僕だって困っている。何を答えるのが正解なのだろう。
僕の《知識》の中での侑子さんは、どんな願いでも叶えてくれる魔女だ。とても強大な魔力を持っていて、「世界の壁」を超えることすら可能である。ようは異世界に人や物を自由に送れるのだ。
だからおそらく、たった今僕たちに起きた現象も異世界移動によるものだろう。そういえば、地面に浮かんでいた紋章は魔方陣のように見えた。
何も言えない僕たちに、侑子さんは溜め息をつく。
「……まあ、いいわ。願いがあっても、必ずしもあたしに願う必要はないもの」
見透かすような赤い目に、背筋が震えた。
侑子さんはどんな願いも叶えてくれる魔女。ただし、それには願いに見合うだけの対価を払う必要がある。
何か大切なものを差し出すほどの大層な願いは思い浮かばないし、そもそも僕には何もない。
しいて言うなら「元の世界に戻りたい」だろうか? いやしかし、対価を払ってまで帰りたいかと言われると首を傾げてしまう。
あそこに未練はない。というか、どこに行こうが僕は異物だ。居心地のいい場所なんて、どこにもないだろう。
そうやって自分を納得させていると、侑子さんは笑みを浮かべて手を伸ばした。
「では、行きなさい。あたしは、あなたたちをここに
「え?」
耳を疑った。「僕たちを送った人」とは……つまりあの占い師のことか?
──いや、でも……そうか。
そうだ。侑子さんはミセを訪れた人の願いを叶えるだけで、わざわざ自分で呼び寄せて願いを叶えるなんて押し売りのようなことはしない。そもそも僕たちはここに来る対価を払っていないし、混乱していて根本を見落としていた。
まず最初にあの占い師が侑子さんに「何かを願って」、次に僕たちを侑子さんの元へ送った。そういうことなのか。
そして、侑子さんは占い師の願いを叶えるために、僕たちをさらにどこかへ送ろうとしている──?
「さぁ、見つけに行きなさい。橙亜」
「えっ?」
侑子さんが手をかざすと、先ほどと同じように地面に魔方陣が浮かび上がった。
僕だけが名指しされたことに焦るも、璃鎖と唯和の足元まで魔方陣は広がっている。よくわからない状況で離ればなれになることは避けられそうだが、もう少しくらい説明をしてくれてもいいと思うなぁ僕は!
ぐらりと地面の感覚がなくなり、僕たちは再び光に包まれた。
「彼女たちの旅路に、幸多からんことを」
お決まりの台詞とともに侑子さんに送り出され、視界は真っ白になる。
こうして、僕たちの異世界旅行はわけもわからぬままに始まったのだった。
*
奇妙な浮遊感にさらされ、再び地に足をつけた僕たちを待ち構えていたのは、おそろしいまでの現実だった。
「……ここは…………」
二度目の世界移動となれば慣れたもの、と侮るなかれ。くらくらする頭を押さえながら周囲を見回せば、血の気がどんどん引いていく。
開けた土地は、先ほどまでと同じように三方を建物に囲まれている。違うのは侑子さんのところよりも周りの高さが低いことか。
目の前には昭和ながらの商店のような建物が建っている。ガラス戸は閉まっていて、上に掲げられた看板には────。
「どうしたの~? 橙亜~?」
左隣にいた唯和は、僕より先に起き上がってニヤニヤと笑った。
一方、怒涛の情報量に若干のキャパオーバーを起こしていた僕は、ギギギと首を傾げ、唯和を睨みつけた。
「あの文字、読めてます?」
「えぇ~? わかるよぉ~? あれだろ~、『浦原商店』」
──僕たちの世界では《作品》として存在する「侑子さんの世界」に渡ったのだから、送られる世界もまた《別の作品》であることは自明である。
いいやバカな。そんなバカな。本気で言ってる? さすがにおかしいよ。待ってよ。駄目だって、こんなのは。
僕が今まで積み重ねてきた常識というものが崩れ落ちる音がする。世界が揺らぐ。このわけのわからない状況で、一体何を頼りに立てばいい?
途方もない絶望に襲われる僕だったが、しかし両側の二人はまったく気にした様子もないようで。
「とりあえず、ここの人に話聞いてみる?」
「賛成~! もしかしたら本物の浦原さんがいるかも~!」
頭を抱えてうずくまる僕の肩を璃鎖が叩き、唯和がそれに便乗する。頭がさらに痛くなった。
いやいや、もっとよく状況を把握して情報を集めるのが先決──。
「アタシがどうかしましたか?」
「うわぁっ!!」
背後から突然声をかけられ、普段ではあまり出さないような悲鳴が出た。
音を立てる心臓を押さえつつ振り返れば、男の人が立っている。男は下駄に甚平、そして緑と白の縦縞模様が入った帽子を身につけていた。
「え……あの…………え……?」
なぜかたくさんの袋を抱えているこの男こそ、店主の「浦原喜助」だった。彼は不思議そうな顔で僕たちを見下ろしている。
まさか、本当に本物なのか? まとまらない思考の横では璃鎖が「気づかなかった……」と小さく呟いた。本当に、急に背後に現れたようだった。
呆気に取られる僕と璃鎖。それを押しのけたのは、まったく怯む様子の見えない唯和だ。
「オレ、蜜江唯和で~す。あなたは浦原喜助さんでらっしゃいますか~?」
「そうっスけど……」
仁王立ちで対面した笑顔の唯和に、彼は頬をかきながら肯定した。それ以外の返答が来るほうが困るが、しかし認められても僕の感情は落ち着かない。
怪訝な様子の浦原さんの視線が唯和から僕たちへ移動した。唯和が璃鎖に「自己紹介」と口パクをする。
「あっ、はい! 私は白坂璃鎖です!」
挙手とともに元気よく言い放たれた。上手くできたとばかりに笑顔を浮かべた#璃鎖の顔がこちらを向く。
そうだね。初対面の人に会ったらまずは自己紹介だね。なんでこの状況でいつも通りの行動ができるの君たちは?
浦原さんの視線もこちらに向けられたので、引きつる喉に力を入れてなんとか声を絞り出した。
「か、鐘威橙亜……です」
「あなたたちはここで何をしてたんスか?」
「いえ、決して怪しい者ではなく……! これはいきなり侑子さんが……」
──あぁ、焦りのあまり余計なことを……!
帽子の影がかかった浦原さんの目元があまりにも暗いものだから、こちらの緊張も最高潮である。
現状ですでに不審者なのに、これ以上怪しまれることを喋っては自らの首を絞めるだけだ。冷静に、冷静になれ鐘威橙亜。彼がその気になれば僕たちなど赤子も同然、生殺与奪権を握られているのは誰の目にも明らかなんだぞ……!
「嗚呼、ユーコさんのとこから来たんスか」
あっけらかんと浦原さんが言うので、むせて舌を噛んだ。
わかるのか? まさかの知り合い? そんなことがあるのか? あっていいのか?
「いやー、ついさっきこっちに人を寄越すと言われたものでして、ちょっと夕食の材料を買い足そうかと……」
「だからそんなにたくさんの袋を持ってるんだ!」
「その通りっス! 璃鎖サン」
おだてられた璃鎖は嬉しそうに頭をかいた。ブンブンと見えない尻尾が見えるようである。
いやしかし、本当に侑子さんと知り合いであるなら多少は安心してよさそうだ。何もわからない未成年たちを知らない土地に放り出すほど冷たい人ではなかったということである。
それにしても、二人はどうやって出会ったのだろう。浦原さんも侑子さんに願いを叶えてもらったことがあるのだろうか。
──でも、彼はあまり他人に頼るタイプではないような……。
「立ち話はこの辺にして、詳しいことは中で聞きましょうか」
すっかり警戒している様子も消え失せた浦原さんの笑顔に毒気を抜かれる。騒がしかった僕の心臓も落ち着いていた。
璃鎖と唯和は素直に浦原さんの後ろをついていく。僕も、おそるおそる店の中へ足を踏み入れた。
薄暗い店内を進み、店の奥にある広い和室に通される。中央のちゃぶ台を囲んで座るとお茶が出された。
さて、一度は冷静になったわけだが、改めて現状を認識し直すと緊張がぶり返してきた。
──僕たち、今、あの浦原商店で浦原さんに会ってるんですか……!?
膝の上で握られた拳の中がじんわりと湿ってきた。たぶん、顔色も相当悪いと思う。なのに無表情すぎて周りに伝わらないのだからままならないよ。
璃鎖と唯和の様子を盗み見るが、二人ともまったく緊張している様子がない。美味しそうに出されたお茶を飲んで、なんならお茶請けにまで手を伸ばしているくつろぎっぷりである。あの、本当に分けてくれないかその度胸。僕は一切食べ物が喉を通る気がしないんだぞ。
ガチガチに緊張する僕をよそに、目の前では腰を下ろした浦原さんとの会話が再開される。
主に唯和が率先して僕たちの状況を彼に説明してくれた。こういうとき、適切に距離感を保って円滑に会話を進めてくれる唯和の存在がありがたい。普段からその能力をわざわざ他人をイラつかせる方向に使っていなければ、もっと手放しで褒められるのになぁ。
「そういうわけで~、見ての通り入学式に出るつもりが突然ここに放り出されていたってわけ~」
「ユーコさんが異世界から皆サンを飛ばしてきた、と……」
「ぶっちゃけオレたちもな~んにもわからないんですよね~。異世界移動とかマンガかよ! って話で~」
──まあ、ここも《漫画の世界》だけど。
なんて含みが唯和の言外に聞こえた。しかし、そのことをわざわざ言うつもりはないようだ。
確かに、誰も自分が他人の創作物だと言われていい気分にはならないだろう。彼のことだし全てを知っていてもおかしくはないが、僕たちが言う必要はない。僕たちが「浦原さんを知っていたこと」については、侑子さんから聞いたことにしておいた。
ちなみにだが、璃鎖はここが『BLEACH』の世界だと気づいていないだろう。というか、そもそも作品自体を知らない可能性がある。漫画やアニメを見るよりも外を駆け回っているほうが楽しいタイプなのだ。先ほどから静かに話を聞いているようだが、おそらく半分も頭を通り抜けて理解できていないと思う。まあ、眠っていないだけマシか。
「──なるほど、だいたいわかりました」
一通り話し終えると、浦原さんはお茶を一口飲んだ。
「じゃあとりあえず、これからの生活に必要な物でも買ってきてください」
「え?」
おもむろに封筒を差し出した浦原さんの言葉に、僕は驚きを隠せなかった。
お金が入っているのだろう封筒を前に戸惑っていると、浦原さんは表情を和らげる。
「これでも任されたんですよ? 皆サンの面倒はちゃんとアタシが見ますよ」
頼もしく胸を張る浦原さんに、唯和と璃鎖は身を乗り出した。
「マジで!? オレたちここに住むの!?」
「えっ、そういうこと!?」
「もちろんっス! 安心してください」
いやいやいや、ちょっと、それは待ってよ。
はしゃぐ二人を押しのけ、僕はちゃぶ台に手をついて浦原さんに顔を近づけた。
「あの、ありがたいお話ですけど、いつまでいるのかもわからない上に、こちらは三人もいるんです。ご迷惑をおかけするわけにはいきません」
「皆サンには店のほうも手伝ってもらいますから心配しないでください。いやぁ、人手が増えて助かっちゃいますねー」
人手は十分に足りているだろう。いくら侑子さんと知り合いだと言ったって、彼が僕たちを引き受けるメリットなど一つもないはずだ。
「やめてください。僕……たちは、あなたに迷惑をかけることだけは、したくないんです」
僕たちを何かに利用したいというならまだいい。彼の性格は《知っている》。僕たちにとっては悪い結果が訪れるとしても、それはきっと、世界に益をもたらす行為のはずだから。
しかし、しかしだ。もしもこれが本当に彼の厚意だったとしたら、こんなに恐ろしいことはない。《この世界》の人間ではない僕たちが、よそ者が、世界のために頑張る人に迷惑をかけていいわけがないのだ。
先ほどまでの緊張はどこへやら。もはや睨むような気持ちで浦原さんを見下ろしていた。膝立ちをしている分、今だけは僕のほうが背が高い。
わずかに目を開いた浦原さんは、一拍間を置いて、フッと息を吐いた。
「──大丈夫っスよ。橙亜さんってば、顔に似合わず心配性っスね」
気負わせないような軽い調子で彼は笑う。ぐぬぬ。家主に言い切られてしまうとこちらが言えることもなくなってしまう。あと、顔は関係ないのでは?
浦原さんは話を切るようにサッと立ち上がり、扉に手をかけた。
「この辺りの道はわからないでしょうから、誰かに同行してもらいますねー」
「ふぅ~、ショッピングの時間よ~!」
「わーい!」
部屋を出て行く浦原さんのあとに唯和と璃鎖が続く。二人には遠慮というものがないようだ。知っていたが。
──まあ……行く当てなんてないから、衣食住を提供してくれるのは本当に助かるけど……。
それでもやっぱり申し訳ない気持ちが強いのだ。
不服な気持ちを抱え、溜め息をつきながら僕も二人を追いかけたのだった。
*
別の部屋で待機していたらしい鉄裁さんとともに買い物に行き、ついでに簡単な案内もしてもらった。おかげで周辺の地図はばっちりと頭の中に入った。
別の世界とはいえ、町並み自体は普通の現代日本なので物珍しさはあまりない。が、それでも璃鎖と唯和は冒険心が疼いたらしく、昼過ぎに店を出たはずが、帰る頃には夕方になっていた。
「おかえりなさい、皆サンの部屋は奥に用意してあります」
店に入ると、奥から浦原さんが顔を出す。通された部屋は三人が充分に寝泊まりできる広さの和室だった。
「いいんですか? こんなに大きな部屋……」
「もちろんっスよー」
もっと狭い部屋でもよかったのに、なんなら廊下で寝泊まりしてもかまわないのに、何から何までお世話になってばかりである。
「あ、なんか制服があるよ!」
璃鎖が壁を指した。見れば新品の制服が三着、壁にかかっている。
「ホントだ~、これ空座高校のヤツじゃん」
「入学式は明後日なんで、準備しといてくださいね」
唯和の言葉に浦原さんがしれっと告げる。ちょっと待ってくれ。今、何と言った?
「えっ、つまりオレら、空座高校に通えるの~!?」
どうやら元の世界とこちらの暦はあまりずれていなさそうだ。《世界》によって時間の流れる早さが異なることは《
いや、じゃなくて。
──まさかこんな形で高校に入学するとは……。
もはや驚くことにすら疲れてきた。浦原さんは僕たちが来ることを今日聞いたと言っていたが、半日やそこらで手続きなんてできるのか? そもそも僕たちの戸籍すらこの世界には存在していないと思うのだが、まあでも、浦原さんだしな……細かいことを気にしてもしょうがないか。
「いろいろあって皆サンお疲れでしょう、今日はゆっくり休んでください」
「本当に、ありがとうございます」
「いいんスよ、好きでやってることなんで」
浦原さんの言葉に甘えてその日はそのまま休むことになった。
とはいえ興奮で眠れるわけもなく。次の日、僕たち三人の目の下に隈ができていたのは言うまでもない。
*
「いや~来ましたなぁ~、空座高校!」
「高校!」
「あの、目立つので黙ってもらえます?」
青い空、暖かな風、桜の香りに深呼吸をする。この世界に来て──浦原商店にお世話になり始めて、三日目の朝。
昨日一昨日をバタバタと過ごし、ようやく落ち着けるかと思った本日は空座第一高等学校の入学式である。
新しい制服を身に纏い、僕たち三人は校門の前に立っていた。希望あふれる同級生たちを横目に、僕は溜め息をつく。
「橙亜、まだ緊張してるの?」
「当たり前でしょう……」
「心配しなくても今日も美少女だぜ~? ま、唯和ちゃんには及ばないけどぉ~」
「そんな心配をしたことは人生で一度もありません」
逆にどうして二人は緊張しないのだ。璃鎖はまあ、知らないせいもあるが、唯和は間違いなく僕と同じくらいの《知識》があるのに。
呆れた目を向ければ、唯和はケラケラと笑った。
「んじゃ、唯和ちゃんはかわい子ちゃんをナンパしてきま~す!」
「え、ちょっと……」
スキップをしながら、唯和は新入生たちの波に消えていった。行方を見失った僕の右手が宙をさ迷う。
隣の璃鎖が苦笑いを浮かべた。
「唯和は相変わらずかわいい子が大好きだね」
「集団行動もできないんですかあのバカは……」
仕方がないので、璃鎖と二人でクラス分けが貼り出されている場所に向かった。
目的の場所には、多少の人だかりができている。人の隙間から貼り出された紙を覗き込んだ。
「見えた?」
「スカートで跳ねないでください」
背の低い璃鎖は隣でピョンピョンと跳ねている。一メートルくらいはゆうに足が浮いていた。周りの人たちが二度見しているのでやめてくれ。
クラスを確認した人たちがすぐにどいてくれたので、僕たちは最前列へと躍り出た。左側から順番に見ていけば、そのうち自分の名前が目に留まる。
僕の名前は「1年3組」にあった。
「………………」
斜め下には「黒崎一護」の名前もある。上には「井上織姫」、斜め上には「石田雨竜」、他にも「茶渡泰虎」、「有沢竜貴」などなど。
つまりみんな同じクラスだ。思わず顔を覆う。
「ここまでくればそんな気はしましたけど……」
「橙亜? もしかして違うクラス?」
「いいえ、璃鎖と唯和も一緒ですよ」
薄々思っていたが、「今」は《物語の開始前》で間違いないらしい。
最悪だ。せめて《全てが終わっていた》ならもっと確実に、平和に過ごせただろうに、よりにもよってこれから《始まる》なんて。
──あの占い師は一体、何の目的で僕たちを《ここ》に送ったんでしょうね……。
侑子さんの発言をヒントとするなら、彼は僕に「何かを見つけてほしい」らしい。
しかし、とんと見当がつかない。大きさも形も指定がなければ、物かどうかもわからない。人かもしれない。形のない曖昧なものかもしれない。
名指しされたのが僕だけだったから璃鎖と唯和は気楽なものだ。「なるようになるだろうし、それまでは楽しもうぜ~」だなんて、悠長が過ぎる。時間制限とかがあったらどうするつもりだろう。これだから刹那主義の自由人は……。
──いや、そもそも黒崎さんと同じクラスになっているのは浦原さんが手回ししたからでは?
偶然、という可能性は全く考えなかった。なぜなら、侑子さんが口癖のように「この世に偶然なんてない。あるのは必然だけ」と《言っている》からである。
侑子さんにそうするように頼まれていたのだろうか。知り合いから預かってくれと言われただけでここまで気を利かせはしないだろう。
というか、僕たちのせいで本来このクラスにいるべき人間も変わってしまっているのではないのか? 今さら考えても仕方ないことだが、いろいろと大丈夫なのか。バタフライエフェクト的なあれは。それとも、同じ学校にいるなら大丈夫だったり? いや、楽観視が過ぎるな。
僕たちが存在しているせいでこの世界がめちゃくちゃになってしまったら、どうする? どうすればいい? いっそ外に出ずに引きこもっているか? それはそれで浦原商店の皆さんに迷惑がかかるな……。
「あ! あそこにいるかわいい女の子二人がオレの連れだよぉ~」
後頭部に投げられた唯和の通る声が思考を中断する。
どうやら本当にナンパしてきたようだ。そのコミュニケーション能力の高さには畏れ入る。
「だってさ、啓吾」
「だとしても馬芝中のチャドと黒崎の存在自体がもう俺らのバラ色の高校生活をこの世の果てまで追いつめるんだよーー!!」
振り返った僕は、崩れ落ちそうになる足に必死に力を入れた。「なんでわざわざ《原作キャラ》をナンパしているんだお前は!」と叫びたくなるのを必死に我慢する。
遠目に唯和を睨みつけるも奴は気にも留めず、「小島水色」と「浅野啓吾」を伴ってこちらに近づいてきた。
「唯和、もう友だち作ってるね」
「どうして僕の心配を平然と踏み荒らしていくんですか……」
「よくわからないけれど、唯和は橙亜の困った顔が大好きだから……」
「無表情なんですけど……」
璃鎖に肩を叩かれる。諦めろということか。
──確かに、唯和の気持ちもわからなくはないですけど……。
知っている《彼ら》と話してみたい気持ちは、もちろんある。
しかし、やっぱりおそれ多いのだ。積極的に関わりたくはない。僕たちが関わって、万が一にも彼らの《未来》が変わってしまったら、取り返しのつかないことになりかねない。
壁を一枚、それこそ《次元の壁》を一枚隔てるくらいの距離感がなければ、安心して眺めることすらできそうにない。わかるだろう? 僕は臆病なのだ。
唯和にだって僕の気持ちは理解できているはずだ。わかっていてなお「自分の楽しさ」を優先している。本当にたちが悪いと思う。
「クラス分け、張り出されてるよ。ぼくら1-3だって」
「あれれ~、オレたちも一緒のクラスだねぇ~、やったね~? 橙亜~」
小島さんにわざとらしく同意した唯和の表情は、なんとも嫌らしい。
一方、クラス分けを見た浅野さんは固まった。彼が今しがた叫んでいた噂のヤンキーである黒崎さんと茶渡さんの名前を同じクラスに発見したからである。
意味合いは違えど、その絶望は僕にも理解できる。浅野さんの絶叫をBGMに空を見上げていると、クラス分けが貼られた掲示板が割れる音が聞こえた。
「あ」
──そういえば《このあと》、浅野さんたちは黒崎さんたちの喧嘩に巻き込まれるんだっけ。
クラス表の向こう側から人が飛んでくる様子が、スローモーションで見えた。
頭で状況を理解できていたとて、体が動かなければ意味がない。目の前には、おそらく黒崎さんの蹴りを顔面に食らった不良さんの背中が迫る。
本来ならば手前にいる浅野さんたちのように、不良さんたちが頭上を通過していったはずなのだが、唯和に関わりたくないと少し距離を取っていたせいで、ちょうど着地点に僕がいた形になってしまった。
受け身も取れぬまま、僕はその衝撃を顔面から受ける。
「むぐっ……!」
飛んできた人間の重さに耐えられるはずもなく、倒れ込んだ背中が地面に打ちつけられた。勢いも止まらず、後頭部と背中が地面の上をスライディングする。
新品の制服をこんな形で汚してしまい、浦原さんには本当に申し訳ない。頭もなんだかズキズキするし、踏んだり蹴ったりだ。
ダメージがひどくてすぐに起き上がれず、とりあえず綺麗な青空を見ながら息を整える。そんな視界に、日の光で鮮やかに輝くオレンジ色が映り込んだ。
「うわ、悪い! 大丈夫か?」
「────」
このときの感情を、一体どう言葉を尽くせば言い表せるだろう。
迷うことなく差し出された手、その指先までもが眩しい。ただまっすぐ、他人を助けるために走り出せる人。僕にはないものを、持ってる人。
──あぁ、《ここ》は本当に……。
今さら疑うようなことはなかった。それでも、「彼」を見れば頭も心も、全身全てが理解する。受け入れてしまう。
──僕たち、『BLEACH』の世界に来てしまったんだな……。
改めて、深呼吸をする。いつまでも寝てはいられない。
差し出された手を取った。温かい。力強くて、エネルギーが流れ込んでくるような錯覚まで感じる。
起き上がり、制服の汚れを払った。大した怪我をしていないことを確認し、彼──黒崎一護に向き直る。
「はい、大丈夫です。僕より、周りを心配されてはいかがですか?」
周囲は複数の不良さんたちに囲まれていた。対するのは黒崎さんと茶渡さんだけ。まあ、戦力的には問題ない二人ではあるのだが。
「落ち着いてるな、お前……」
「これでも動揺していますけど?」
「全然顔に出てねえぞ」
胃がひっくり返りそうなほどにめちゃくちゃ緊張しているのに。直視ができず、黒崎さんの視線から顔を逸らした。
すると、不良さんたちの間隙を縫ってこちらに向かってくる璃鎖たちが見える。二人は僕のようなドジを踏まなかったらしい。
「橙亜、大丈夫?」
「いい巻き込まれっぷりだったぞ~!」
「……ここにいると巻き込まれますよ。どうせなら、終わるまで遠くで見ていればいいのに……」
後頭部をそっと撫でながら溜め息をつくと、唯和はべっと舌を出した。
「こんな面白いこと、関わっていかなきゃもったいないよ~」
「危険なことは避けるべきです」
「なんならケンカに璃鎖を加勢させようか~?」
「やめなさいやめなさい」
交ざろうとする璃鎖を止め、できるだけ黒崎さんたちの邪魔にならないように端に移動した。
不良たちをぶちのめしていく黒崎さんたちの背中を眺めながら、これからの《未来》に思いを馳せる。
こうも見事に巻き込まれてしまうと、騒がしい明日が待っていることは疑いようもなく、僕たちに心穏やかな日常が訪れることは難しいだろう。
──でも、それでも。
多くの不安と、ほんの少しのささやかな期待が入り混じる中、とりあえずはこの世界で頑張ってみようと、僕は腹を括ることにした。
「あ、そうだ」
一人、また一人とダウンしていく光景を見ていて、ふと、二人に尋ねてみたいことが思い浮かぶ。
「二人はどうして、侑子さんに『帰りたい』と言わなかったんですか? 混乱していてタイミングを逃したとか?」
僕の質問に、璃鎖と唯和は顔を見合わせた。そして、大して悩む様子もなく。
「私は橙亜たちと一緒なら別にどこにいても楽しいから」
「オレは純粋に面白そうだったから~。これは別にオレ一人だったとしても変わらないから、アンタが気にするだけ損だぜ~?」
本当に、この二人はぶれない。
楽天的すぎる二人の気質を、僕は怒るべきなのだろう。しかし、それを頼もしく感じてしまっているのも事実なのだった。
「では……三人で頑張りましょう」
「おー!」
「うぇ~い」
三つの拳が合わさったのと、黒崎さんが最後の一人を伸したのは、ちょうど同じタイミングだった。