君とありふれた話をしよう
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今日は、小さな嫌なことが重なった日だった
そももそ、苦手な先輩と勤務が被っていたし、メンバーが少ないのに病棟の稼働率が上がっている時期で忙しくなることは前日から分かりきっていた
連勤続きで、睡眠もろくに取れていない日が続いていたのに、勉強しなければいけないことも多くて、気分的に沈んだまま出勤
認知症のおばあちゃんに好き勝手言われるし、暴れられて噛みつかれるし引っかかれるし(殴られそうになるのは避けたけど)
そしたらルートの自抜もあるし、こんな日に限って部屋割りが下手なのかケアが重なるし
緊急入院が来るから受け持ちを転棟させて、入院もとって
その日はとかくまぁ、一日バタバタと走り回っていた
昼休憩もご飯食べたらそれで終わり、すぐに出て対応しなきゃ業務が間に合わない
それだけ頑張ったのに、苦手な先輩には嫌味を言われて、それを笑って受け流して
唯一の救いは同期が2人とも出勤していたから仕事を手伝ってくれたし、慰めてもくれたと言う事くらいで
あぁ、あと明日から連休と言うことくらいかな
まぁ、そんなこんなで自分の仕事を全て片付けて帰宅出来るようになったのは就業時間の2時間半後で(きっかり残業代が出るわけでも無いのに)
連日溜まった疲れのせいで帰って即寝したい気持ちもあったが、アドレナリンが出てるのか眠れる気もしなくて
こう言う時はやっぱり飲みに行くに限る
誰かと行ったら愚痴しか出なさそうだし、そんなのは流石に気が引けるから、今日は1人飲みだ
萩原さんからメッセージ来ていたような気もするけど、ちょっと構っている元気が無いくらい今日の私は疲れ切っている
一度家に帰ってしまうと出掛ける気力は無くなるだろうから、このままの足で行こう
通勤には電車を使っているので、身なりはまぁまぁだろう
すっぴんではあるが、そんなのはいつもの事だ
誰かと顔を合わせる事など無いのだし
そう決めて、帰路に着く方向とは別に足を向ける
向かうは行きつけのバーだ
あそこは干渉してこないから、気が楽で良い
あの半個室のような空間は気が抜ける
もし眠っていたとしても、バーテンさんに依頼しておけば起こしに来てくれる
それくらいの関係は築けている
食欲はあまりないため軽食と、お任せで甘めのカクテル、強いの、とだけ頼んで早々に引っ込む
誰かと話すと、この心の内をぶちまけてしまいそうだ
もし、万が一萩原さんが来たのなら通しても良い、とだけ伝え、オーダーしたものを受け取る
連絡を無視してしまっている罪悪感だろう
空きっ腹にアルコールはよくないと分かっていながらも、一杯目を一気に煽る
同じものを再度オーダーして、後はもそもそと軽食を貪って
あぁ、疲れたなぁ…
3年目と言うのは、ほぼ独り立ちしたと言える経験年数
後輩指導も始まるし、終わり頃からはリーダー業務も始まる
仕事にも慣れ、出来ることも増えたこの時期は、ベテランに振るのは申し訳ない、けど新人には荷が重い、そんな面倒臭い、と言ってはいけないがそんな患者を割り振られる
そして自分達で言うのも何だが、私の世代はそれなりに仕事が出来る、というグループに割り振られがちだ
私も要領を掴んでしまえば、効率よく仕事に取組めるタイプだという自覚はある
だから余計、負担が増える
それを申し訳ない、と思って手伝ってくれたり、気に掛けてくれたりする先輩メンバーがいるのならば、こちらも仕方ない事です、と笑って受け入れるがそう言う人間ばかりで無い、と言うのが社会というもので
嫌いじゃ無い、楽しくないわけじゃない、けどこの仕事が大好きで、やりがい感じてます、と言う様な意識高い系女子でも無い
使いやすい、ちょうど良い立ち位置に自分達の代が居る事は分かっているし受け入れている
けど、思うところが何も無いのか、と言われたなら、そういうわけでも無くて
要はストレスフルな状態に今陥っている、と言う事
立て続けに体内に取り込んだそれなりの濃度のアルコールの影響で、少しずつ瞼が重くなってくる
身体的にも精神的にも疲労は溜まっているこの状況では、その睡魔に逆らう気力なんてものは起きなくて
頼んでいるし大丈夫だろう
なにも今日が初めてのことじゃない
と、自分に言い聞かせて
ソファーに体を横たえさせ、重くなった瞼を閉じたのだった
*****
不意に人の気配を感じて、意識が浮上する
もう起きなければいけないような時間になっただろうか
それほど深く眠ったような感覚は無いのだが
そんなことをまだ薄もやが掛かった頭で考える
疲れたこの体は瞼を押し上げることを拒んでいるが、ここは自宅では無い
あまり熟睡しすぎるものでもないか、と割り切って、睡眠を欲しがるこの体に鞭打って瞼を押し上げる
真っ先に視界に飛び込んできたのは対面のソファー
そこには腰掛ける、スーツ姿の人が居て
バーテンさんなら座ることなどせず、私に声を掛ける
と言う事は、万が一と考えていた可能性が現実となったということか
少しだけ苦笑をして、横たえていた体を起こすと、肩から滑り落ちていくスーツのジャケット
ホント、この人は気遣いの塊のような人だなぁ…
「おはよう、岸辺ちゃん」
『…こんばんは、の時間ですけどね』
「起き抜けの挨拶はおはようでしょ?」
『…確かにそうなのかもしれないですね』
いつもと変わらない様子でにこにこ、と笑う萩原さんに苦笑
着いたばっかりなのか、あまり中身の減っていないカクテルのグラスは、汗もかいていない
携帯を取り出して時間を見たけれど、眠りについた時間など確認して居らず、どれくらい眠っていたのかは分からずじまい
零れる欠伸を噛み殺して、居住まいを整えて座り直す
「お疲れ?」
『そうですね、連勤続きだったもので』
「それはお疲れ様だね」
『ありがとうございます』
にこにこ、といつも通り人好きする笑みを浮かべた彼は、少しだけ眉を寄せたがすぐにいつもの笑顔に戻る
なにか言いたそうな雰囲気は感じ取れるが、気を遣うほどの元気が、今の私には無くて流させて貰う
何となく来そうとは思っていても、実際に来られると、来ちゃったか、と思ってしまう自分勝手な思考には気付かれないようにしないと
「珍しく既読にもならなかったから、何か合ったのかと思って」
『疲れていたのでメッセージ見る気力も無かったもので』
「よっぽどだね」
『そうなんです』
そのまま口をついて出そうになる愚痴は、僅かばかりに残っている理性で飲み込んで
疲れで思考能力が低下している自覚はあるものの、その辺りの分別はまだ付く
「岸辺ちゃん」
『はい』
「大丈夫?」
随分と優しい響きの音だった
なんだか自分の感情を見透かされている気がして、少しだけ怖い
けど、そのまなざしも、声も、どうしようも無く優しくて
あぁ、そう言えば甘やかすのが上手い、と自分で言っていたか
確かに気を抜けば甘えてしまいそうな、そんな雰囲気は彼にはあるかもしれない
甘え方なんてもう、覚えてないけど
「岸辺ちゃん」
『はい』
「忘れたかもしれないけど、俺ってお兄ちゃんなんだ」
『?そうですね?』
「だから、俺の前ではお姉ちゃんにならなくても良いんだよ
良い子で居なくてもいいんだよ」
それはそれは、甘い言葉だった
疲れ切っている私を見抜いた上で、私がどんな言葉ならすんなりと受け入れられるか分かった上で
まだそんな深い付き合いはしてきていないはずなのに、こうもバレてしまうモノなのか
そう言えばさゆにも、慣れてしまえば分かりやすい、と言われたことがあったかもしれない
彼はもう私に慣れたのか
私は、私の扱いに迷うことがあると言うのに
何か凄く嫌なことがあった訳じゃない
特別な何かがあったわけでは無かった、ただの日常の延長線
酷く疲れたその日常に、一区切りがついた今は、気が抜けていた
そもそもアルコールと疲労で思考は纏まらない
ぽつり、と
たった一言疲れた、その言葉が口から零れ落ちて
うん、と一言
あの甘さを称えた音のまま、優しい笑顔のまま、目の前の彼が頷くから
堰き止めていたモノがゆっくり溶かされて、ダムが決壊したかのようにポロポロと次から次へと言葉が洩れていく
これが嫌だから今日は1人になろうと思ったのに
通してもいい、なんて伝言を残していた時点で、この展開を期待していた狡い自分が居たのも分かっていた
気付かないフリをしていた
来なかったならそれでいい、でももし来たのなら
甘えてもいいよ、とそう言われているかのようなこの甘い雰囲気は、疲れたこの体には毒の様だ
でも、酷く心地いい
「凄いね、岸辺ちゃん
それだけのこと愚痴らず頑張ってるの、俺は無理」
一頻り、要領の得ない話し方ではあっただろうが遮らず話を聞いていてくれた彼は、開口一番そんなことを言う
そうだろうか?
社会人とはそんなモノだと思って居た
理不尽なことがあっても、給料を貰って働く以上ある程度のことは仕方ないと受け入れてしまわなければいけない
馬の合わない人とだって、仕事で関わるのならそれなりに付き合っていかなければいけない
我慢することは当たり前で
自分が置かれた状況を、そんなモノだ、と飲み込んで受け入れてきた
あぁ、でも
それが当たり前で、仕方ない事だと思って居てもそれでも
頑張っている自分を認めて貰いたいとは、思って居たのかもしれない
飲み込みすぎてそんな感情埋もれていって、いつしか忘れてしまっていた
本当に、優しい人だな
「看護師さんって大変って聞くけど、想像してたより大変だ…」
『その割には給料安いんですよ』
「うん、岸辺ちゃんその意気だ、もっと文句言ってもいいんだぞ」
『大丈夫です、すっきりしました』
今日はよく眠れそうだ
どこかすっきりした気持ちになって、思って居たより不満溜まってたんだな、自分、と内心苦笑する
『何というか…、私の中で頑張っている人の姿って言ったら母なもので』
「女手一つで6人育て上げたお母さん?」
『はい、バリバリのキャリアウーマンで
私が1人である程度のことが出来るようになったら家にも寄りつかない勢いで働いてて
でも、夏休みとかは何とかして遊びに連れて行ってくれてたり
そんな姿を見てたら、自分1人養うくらいで根を上げてられないなー、なんて』
「うん、まぁそうなんだろうけど
確かにお母さんは凄いと思うし尊敬するのはいいことだけど、真似をする必要はないし
職も変われば大変さだって変わるでしょ?」
『大変じゃ無い仕事はないと思ってます』
「うん、そうなんだけど」
萩原さんが言わんとすることは分かる
でも、この程度のことで誰かを頼ってしまうのは何というか、ただの甘えの様な気がして
頑張りすぎているとは思わない
頑張っていないとも思わない
けど、まだ頑張れるとは思う
母さんに比べたら、随分楽なはずだ
女手一つで子供たちを6人も、真っ当に育て上げたのだから
一番上が自由にしていてもそれを止めることはせず応援してくれていた母さんに比べたら
「岸辺ちゃん」
『はい』
「岸辺ちゃんは岸辺ちゃんだからね」
『?はい』
「お母さんとおんなじ様に頑張れなくてもいいし、岸辺ちゃんは十分頑張ってるよ」
とても優しい、甘さを伴ったその声は、私の中にじんわりと広がっていく
甘やかされるのは得意じゃ無い
どうしていいか分からなくなるから
けれど彼の場合何というか、人を駄目にするような甘さではない
疲れた鳥が羽を休ませるための止まり木のような
いってらっしゃい、と送り出してくれることが分かっているから、この甘さに沈むことが無い
溺れることも無い
疲れたときに欲しい言葉をくれるこの人は、本当によく人のことを見ている
『…私、ちゃんと頑張れてますか』
「うん、頑張ってる
誰がなんと言おうと、それは俺が保証するよ」
『…そっか、...そっかぁ』
うん、じゃあいいや
こうやって認めてくれる人が居るなら、多少辛くたって頑張れる気がする
「岸辺ちゃん」
『はい』
「俺でよかったらいつでも話聞くからね」
『…ありがとうございます』
今日、1人じゃ無くてよかった
随分すっきりした気持ちを自覚して、漸く笑えた気がした
お酒のせいよ、きっとそうだわ
(弱い自分になってしまうのも仕方ないでしょう?)
そももそ、苦手な先輩と勤務が被っていたし、メンバーが少ないのに病棟の稼働率が上がっている時期で忙しくなることは前日から分かりきっていた
連勤続きで、睡眠もろくに取れていない日が続いていたのに、勉強しなければいけないことも多くて、気分的に沈んだまま出勤
認知症のおばあちゃんに好き勝手言われるし、暴れられて噛みつかれるし引っかかれるし(殴られそうになるのは避けたけど)
そしたらルートの自抜もあるし、こんな日に限って部屋割りが下手なのかケアが重なるし
緊急入院が来るから受け持ちを転棟させて、入院もとって
その日はとかくまぁ、一日バタバタと走り回っていた
昼休憩もご飯食べたらそれで終わり、すぐに出て対応しなきゃ業務が間に合わない
それだけ頑張ったのに、苦手な先輩には嫌味を言われて、それを笑って受け流して
唯一の救いは同期が2人とも出勤していたから仕事を手伝ってくれたし、慰めてもくれたと言う事くらいで
あぁ、あと明日から連休と言うことくらいかな
まぁ、そんなこんなで自分の仕事を全て片付けて帰宅出来るようになったのは就業時間の2時間半後で(きっかり残業代が出るわけでも無いのに)
連日溜まった疲れのせいで帰って即寝したい気持ちもあったが、アドレナリンが出てるのか眠れる気もしなくて
こう言う時はやっぱり飲みに行くに限る
誰かと行ったら愚痴しか出なさそうだし、そんなのは流石に気が引けるから、今日は1人飲みだ
萩原さんからメッセージ来ていたような気もするけど、ちょっと構っている元気が無いくらい今日の私は疲れ切っている
一度家に帰ってしまうと出掛ける気力は無くなるだろうから、このままの足で行こう
通勤には電車を使っているので、身なりはまぁまぁだろう
すっぴんではあるが、そんなのはいつもの事だ
誰かと顔を合わせる事など無いのだし
そう決めて、帰路に着く方向とは別に足を向ける
向かうは行きつけのバーだ
あそこは干渉してこないから、気が楽で良い
あの半個室のような空間は気が抜ける
もし眠っていたとしても、バーテンさんに依頼しておけば起こしに来てくれる
それくらいの関係は築けている
食欲はあまりないため軽食と、お任せで甘めのカクテル、強いの、とだけ頼んで早々に引っ込む
誰かと話すと、この心の内をぶちまけてしまいそうだ
もし、万が一萩原さんが来たのなら通しても良い、とだけ伝え、オーダーしたものを受け取る
連絡を無視してしまっている罪悪感だろう
空きっ腹にアルコールはよくないと分かっていながらも、一杯目を一気に煽る
同じものを再度オーダーして、後はもそもそと軽食を貪って
あぁ、疲れたなぁ…
3年目と言うのは、ほぼ独り立ちしたと言える経験年数
後輩指導も始まるし、終わり頃からはリーダー業務も始まる
仕事にも慣れ、出来ることも増えたこの時期は、ベテランに振るのは申し訳ない、けど新人には荷が重い、そんな面倒臭い、と言ってはいけないがそんな患者を割り振られる
そして自分達で言うのも何だが、私の世代はそれなりに仕事が出来る、というグループに割り振られがちだ
私も要領を掴んでしまえば、効率よく仕事に取組めるタイプだという自覚はある
だから余計、負担が増える
それを申し訳ない、と思って手伝ってくれたり、気に掛けてくれたりする先輩メンバーがいるのならば、こちらも仕方ない事です、と笑って受け入れるがそう言う人間ばかりで無い、と言うのが社会というもので
嫌いじゃ無い、楽しくないわけじゃない、けどこの仕事が大好きで、やりがい感じてます、と言う様な意識高い系女子でも無い
使いやすい、ちょうど良い立ち位置に自分達の代が居る事は分かっているし受け入れている
けど、思うところが何も無いのか、と言われたなら、そういうわけでも無くて
要はストレスフルな状態に今陥っている、と言う事
立て続けに体内に取り込んだそれなりの濃度のアルコールの影響で、少しずつ瞼が重くなってくる
身体的にも精神的にも疲労は溜まっているこの状況では、その睡魔に逆らう気力なんてものは起きなくて
頼んでいるし大丈夫だろう
なにも今日が初めてのことじゃない
と、自分に言い聞かせて
ソファーに体を横たえさせ、重くなった瞼を閉じたのだった
*****
不意に人の気配を感じて、意識が浮上する
もう起きなければいけないような時間になっただろうか
それほど深く眠ったような感覚は無いのだが
そんなことをまだ薄もやが掛かった頭で考える
疲れたこの体は瞼を押し上げることを拒んでいるが、ここは自宅では無い
あまり熟睡しすぎるものでもないか、と割り切って、睡眠を欲しがるこの体に鞭打って瞼を押し上げる
真っ先に視界に飛び込んできたのは対面のソファー
そこには腰掛ける、スーツ姿の人が居て
バーテンさんなら座ることなどせず、私に声を掛ける
と言う事は、万が一と考えていた可能性が現実となったということか
少しだけ苦笑をして、横たえていた体を起こすと、肩から滑り落ちていくスーツのジャケット
ホント、この人は気遣いの塊のような人だなぁ…
「おはよう、岸辺ちゃん」
『…こんばんは、の時間ですけどね』
「起き抜けの挨拶はおはようでしょ?」
『…確かにそうなのかもしれないですね』
いつもと変わらない様子でにこにこ、と笑う萩原さんに苦笑
着いたばっかりなのか、あまり中身の減っていないカクテルのグラスは、汗もかいていない
携帯を取り出して時間を見たけれど、眠りについた時間など確認して居らず、どれくらい眠っていたのかは分からずじまい
零れる欠伸を噛み殺して、居住まいを整えて座り直す
「お疲れ?」
『そうですね、連勤続きだったもので』
「それはお疲れ様だね」
『ありがとうございます』
にこにこ、といつも通り人好きする笑みを浮かべた彼は、少しだけ眉を寄せたがすぐにいつもの笑顔に戻る
なにか言いたそうな雰囲気は感じ取れるが、気を遣うほどの元気が、今の私には無くて流させて貰う
何となく来そうとは思っていても、実際に来られると、来ちゃったか、と思ってしまう自分勝手な思考には気付かれないようにしないと
「珍しく既読にもならなかったから、何か合ったのかと思って」
『疲れていたのでメッセージ見る気力も無かったもので』
「よっぽどだね」
『そうなんです』
そのまま口をついて出そうになる愚痴は、僅かばかりに残っている理性で飲み込んで
疲れで思考能力が低下している自覚はあるものの、その辺りの分別はまだ付く
「岸辺ちゃん」
『はい』
「大丈夫?」
随分と優しい響きの音だった
なんだか自分の感情を見透かされている気がして、少しだけ怖い
けど、そのまなざしも、声も、どうしようも無く優しくて
あぁ、そう言えば甘やかすのが上手い、と自分で言っていたか
確かに気を抜けば甘えてしまいそうな、そんな雰囲気は彼にはあるかもしれない
甘え方なんてもう、覚えてないけど
「岸辺ちゃん」
『はい』
「忘れたかもしれないけど、俺ってお兄ちゃんなんだ」
『?そうですね?』
「だから、俺の前ではお姉ちゃんにならなくても良いんだよ
良い子で居なくてもいいんだよ」
それはそれは、甘い言葉だった
疲れ切っている私を見抜いた上で、私がどんな言葉ならすんなりと受け入れられるか分かった上で
まだそんな深い付き合いはしてきていないはずなのに、こうもバレてしまうモノなのか
そう言えばさゆにも、慣れてしまえば分かりやすい、と言われたことがあったかもしれない
彼はもう私に慣れたのか
私は、私の扱いに迷うことがあると言うのに
何か凄く嫌なことがあった訳じゃない
特別な何かがあったわけでは無かった、ただの日常の延長線
酷く疲れたその日常に、一区切りがついた今は、気が抜けていた
そもそもアルコールと疲労で思考は纏まらない
ぽつり、と
たった一言疲れた、その言葉が口から零れ落ちて
うん、と一言
あの甘さを称えた音のまま、優しい笑顔のまま、目の前の彼が頷くから
堰き止めていたモノがゆっくり溶かされて、ダムが決壊したかのようにポロポロと次から次へと言葉が洩れていく
これが嫌だから今日は1人になろうと思ったのに
通してもいい、なんて伝言を残していた時点で、この展開を期待していた狡い自分が居たのも分かっていた
気付かないフリをしていた
来なかったならそれでいい、でももし来たのなら
甘えてもいいよ、とそう言われているかのようなこの甘い雰囲気は、疲れたこの体には毒の様だ
でも、酷く心地いい
「凄いね、岸辺ちゃん
それだけのこと愚痴らず頑張ってるの、俺は無理」
一頻り、要領の得ない話し方ではあっただろうが遮らず話を聞いていてくれた彼は、開口一番そんなことを言う
そうだろうか?
社会人とはそんなモノだと思って居た
理不尽なことがあっても、給料を貰って働く以上ある程度のことは仕方ないと受け入れてしまわなければいけない
馬の合わない人とだって、仕事で関わるのならそれなりに付き合っていかなければいけない
我慢することは当たり前で
自分が置かれた状況を、そんなモノだ、と飲み込んで受け入れてきた
あぁ、でも
それが当たり前で、仕方ない事だと思って居てもそれでも
頑張っている自分を認めて貰いたいとは、思って居たのかもしれない
飲み込みすぎてそんな感情埋もれていって、いつしか忘れてしまっていた
本当に、優しい人だな
「看護師さんって大変って聞くけど、想像してたより大変だ…」
『その割には給料安いんですよ』
「うん、岸辺ちゃんその意気だ、もっと文句言ってもいいんだぞ」
『大丈夫です、すっきりしました』
今日はよく眠れそうだ
どこかすっきりした気持ちになって、思って居たより不満溜まってたんだな、自分、と内心苦笑する
『何というか…、私の中で頑張っている人の姿って言ったら母なもので』
「女手一つで6人育て上げたお母さん?」
『はい、バリバリのキャリアウーマンで
私が1人である程度のことが出来るようになったら家にも寄りつかない勢いで働いてて
でも、夏休みとかは何とかして遊びに連れて行ってくれてたり
そんな姿を見てたら、自分1人養うくらいで根を上げてられないなー、なんて』
「うん、まぁそうなんだろうけど
確かにお母さんは凄いと思うし尊敬するのはいいことだけど、真似をする必要はないし
職も変われば大変さだって変わるでしょ?」
『大変じゃ無い仕事はないと思ってます』
「うん、そうなんだけど」
萩原さんが言わんとすることは分かる
でも、この程度のことで誰かを頼ってしまうのは何というか、ただの甘えの様な気がして
頑張りすぎているとは思わない
頑張っていないとも思わない
けど、まだ頑張れるとは思う
母さんに比べたら、随分楽なはずだ
女手一つで子供たちを6人も、真っ当に育て上げたのだから
一番上が自由にしていてもそれを止めることはせず応援してくれていた母さんに比べたら
「岸辺ちゃん」
『はい』
「岸辺ちゃんは岸辺ちゃんだからね」
『?はい』
「お母さんとおんなじ様に頑張れなくてもいいし、岸辺ちゃんは十分頑張ってるよ」
とても優しい、甘さを伴ったその声は、私の中にじんわりと広がっていく
甘やかされるのは得意じゃ無い
どうしていいか分からなくなるから
けれど彼の場合何というか、人を駄目にするような甘さではない
疲れた鳥が羽を休ませるための止まり木のような
いってらっしゃい、と送り出してくれることが分かっているから、この甘さに沈むことが無い
溺れることも無い
疲れたときに欲しい言葉をくれるこの人は、本当によく人のことを見ている
『…私、ちゃんと頑張れてますか』
「うん、頑張ってる
誰がなんと言おうと、それは俺が保証するよ」
『…そっか、...そっかぁ』
うん、じゃあいいや
こうやって認めてくれる人が居るなら、多少辛くたって頑張れる気がする
「岸辺ちゃん」
『はい』
「俺でよかったらいつでも話聞くからね」
『…ありがとうございます』
今日、1人じゃ無くてよかった
随分すっきりした気持ちを自覚して、漸く笑えた気がした
お酒のせいよ、きっとそうだわ
(弱い自分になってしまうのも仕方ないでしょう?)